こころの羅針盤

私の人生に待ちうける「意識」の大海原・・・心と身体と魂と、日々の感情生活を語ります。

不安感は、プレゼント

2012年09月27日 | 未整理
平凡な日々にあって、自分の感情を観察すること。私にしても、
このおもしろさが本当の意味で解るようになったのは最近のことです。

“あらイヤだ…”“ああイヤだ…”という感じは、日に何度もやってきますが、
不安感が根っこにある、このネガティヴな感情の対処法を掴みさえすれば、
不安感こそ宝であるということが、体験的に解ってくるようです。

折々の不安感にしっかり対処してゆく、その積み重ねこそが、
“私”をつくってゆくのだなあということも、実感されてきます。

ネガティヴな感情の基をなしているのは不安感ですが、
更に、なぜ不安なんだろうと感情の根源を辿ってみたならば、
そのほとんどが“怖い”から発していることに気付くのではないでしょうか。

自己分析的な理解だけでは、感情観察の楽しさまではなかなか至れるものでもないのですが、
ああイヤだ…の奥底にあるのが、怖い感覚なんだという認識が確かになるほどに、
幸福曲線への移行が一瞬の内に完了するという具合に、観察が楽しくなるのですね。

“ああイヤだわ…”を意識するやいなや怖がっている私を連想、知覚するようになると、
“怖がる必要なんてないのだわ…”と自分に言ってやることができるわけです。

日常的な“ああイヤだ…”という感情、不安感や違和感の根っこにある怖い感覚が、
成育史によって出来てきた心と身体に深く関係しているとしたら、
“怖がる必要なんてないのだわ”と、囁いてくれるのは、
私の中の魂(または魂としての私…)なのだと思っています。

ああイヤだ…に纏わる感情が、実は“怖い”に繋がっているという感覚は、
学びと人生経験を多少積んできて、ようやく身に付いた、掴んだ感じがしていますが、
日々の不安感は私が私になるために送られてくるプレゼント。本当にそうだと思います。
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天国を生きる植物と、私の統御感

2012年09月24日 | 未整理
盛夏の草取りにふーふー言いながらも、草取りがなくてはつまらない。
誰かに手入れをしてもらって鑑賞するだけの庭は、私にはちょっと考えられません。
しゃがみこんで小さな草を引いていると不思議な感慨に包まれますが、
雑草引きや庭の手入れは心の環境を整えることによく似ている、重なるものがあると感じます。

生き甲斐の心理学を学びだした頃、草引きが苦痛でなりませんでした。
作業を始めるときまって、ネガティヴな感情が止め処なく湧いてきて収拾がつかなくなって、
ストレス曲線をさ迷った挙句、最後は投げやりな気分で作業は中止、庭から逃げ出してしまうのです。
あれから十余年。今では錯乱して草引きを投げ出すようなこともなく、大きく育った木々を見ながら
私の統御感の原型が育った家の庭にあったことを、しみじみと確認しています。

庭と私の間には成育史だけでは納まりきれない何か-魂の領域も深く関係しているような気もします。

感情生活が混乱していた当時、見つめれば見つめ返してくれる月に対する思慕のような愛着は、
グレートマザーへの緩やかな退行ではなかったかと思うのですが、最近の私は月への愛着よりも、
木々を渡ってくる風や身体を吹き抜ける微風に心を動かされることが多くなりました。

植物に意識があるか?人間にとって植物はどのような存在なのか?
無意識で行われているらしい人と植物のコミュニケーションに、とても興味があります。
私たちが植栽した庭の木々たちは果たして居心地よく暮らしているだろうか。
身近な人間の在り様は、植物たちの調和と共生にも何らかの影響を与えているに違いありません。
そんなことを考えながら、いつも庭に面した居間のテーブルで、パソコンやメール、
書物を通して人々と対話をしているわけですが、もし植物が幸せならば、
その気配はきっと心地よいものとして相手にも伝わってゆくと思うのです。

瞑想することは植物に近づくことだと言う人がいますが、なるほどと思います。
もし植物に意識があるとしたら時空を超えた世界、天国を生きていることは確でしょう。
とすると植物と交信しているのは魂としての私ということでしょうか…?たぶんそうなのだと思います。
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わたしの傾向、あなたの傾向…

2012年09月12日 | 未整理
自分の傾向、防衛機制に対する理解は、学びだした頃は、
こんなに感情を抑圧していたなんてと、大いに驚くところから始まって、
年月と共に場面による違い、自分の防衛機制の微妙な使い方の違いにも気付くようになります。

一人の時と、誰かといるとき、相対と大勢の中にいるときでは違ってくるし、
相手のタイプによっても、自分の接し方が違うことに気付きだします。
学びと体験を重ねる中で自分に対する理解が進むと、抑圧と逃避や、
抑圧と感情転移、抑圧と投影、抑圧と退行、抑圧と~がセットになって
私の傾向をつくってきたことにも気付きだしたりします。

落し物のように置き去りにしてきた私の現実。。。
向き合うべき現実に向き合ってこなかったとハタと気付くときには、
新しい傾向で生きる人生が、すでに始まったようなものです。

段階はいくつも巡ってくるので、学びに終わりはなく、
生きている限り、人生は学びと気付きの連続です。
この秋は私自身、段階を一つ巡ったなあと感じ入るようなところがあって、
その一つの表われが、音楽鑑賞の指向/嗜好の変化となって表れたり、
勉強会の流れにも表れてきたように思います。

私の変化は、当然他者にも影響を与えます。
一人の変化は一人に留まらず、よくもわるくも他者に波及していくものですが、最近は、
よき変化として、周囲の人々と手を取り合いながら進んでいるような感じをもっています。

あなたはあなたらしく、私は私らしく。
互いの傾向を尊重しつつ、あなたの傾向と私の傾向、理解をいっそう深めたいと思う秋です。
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ほどよい無防備

2012年09月11日 | 未整理
9月に入って気忙しく過ごしていたのが、今日ようやく人心地つきました。
信州に母を見舞うために数日家を留守にして、戻ってからも用事で連日外出、
心にかかっていたあれこれが、なんとか無事にやりおおせてほっとしています。

10日近く続けて複数の人に会うことなど、私にとってめったにあることではありませんが、
気を入れて一日を送ろう。この間、旅先でも戻ってからも毎朝、意識するようにしていました。

無防備の加減がわかってくると(心と身体でわかってくると、つまり体得できてくると)、
そのときはじめて、“気を入れよう”という気にもなるらしい(!)と、理解したわけですが、
無防備の加減とは、ほどよく防衛機制を働かせている状態で、私が私らしく
思考と感情と行動を生きている体感といったらよいでしょうか。

ほどよい防衛機制のあり方は自分でつかんでゆくほかありませんが、
自己分析的な頭の作業から、たくさん人と交わって楽しいとき、楽しくないとき、
ストレス曲線をいやというほど体験する中で体得するもののようです。

防衛機制の加減がよいとき気力もでてきます。
一日のはじまりに、または何かことにあたって“気を入れて挑もう!”と思えるかどうか。
最近の私の、折々の身心の状態を知るための大事な目安になりました。


*防衛機制:テキスト第8章参照
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