こころの羅針盤

私の人生に待ちうける「意識」の大海原・・・心と身体と魂と、日々の感情生活を語ります。

私が愛と思う方法で・・・

2008年03月27日 | 愛とゆるし
長年の習慣を変えることは、一朝一夕にというわけにはいきません。原初感情といわれているもの、好き・嫌いを意識してこなかったということは、自分以外のものの思惑に、行動を左右されてきたことを意味します。行動の全てという訳ではないにしても、かなりの部分、人生をそのように生きてきてしまった。この性分が人生で直面する大きな問題、悩みの解決のときに、どれほど大きく災いするか、生き甲斐の心理学を学んでいる方には自明でしょう。

それで今、好き・嫌いを意識に上げて、行動の指針にしていこうとしている日々は、その“爽快さ”を人生で初めて体験しているといっても過言ではありません。人間関係の間の取り方や、日常生活のささやかな決定のときも、あれか・これか迷うときは、まず好きか・嫌いかを意識化して、そこから誠実に答えを見つけていくことの、なんと確かで安全な道であることか。自身の本音を知ることが最終的にはいつも、自分のためだけでなく、他者にとっても最良の道であること、その確信は深まるばかりです。

そんな日々にあって、今朝、こんな言葉が浮びました。“私が愛と思う方法で愛する・・・”心理療法では、その人の愛の原型を知り、相手が愛と感じるように愛することを大事にしますが、相手の望む方法ばかりで愛することは、ときに原型を満たす愛への執着を増長させる情況を生みます。言葉は、そのような情況にジレンマを感じている私への回答なのだと思いました。

絶え間ない不安感の温床になりうる“固執”から解放されること。その人が真に安らぎを感じ、愛の多様性に開かれるためには、愛の原型は大事に配慮しながらも、あなたとの関係性の中で流れる私の感情、好き・嫌いを正直に意識に上げることがやはり、何よりも大事なことなのです。各々が自身に正直であること、その影響力は思う以上に大きいものがあるようです。

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バランスが大事…

2008年03月19日 | 第9章:愛
風邪をひいたと思ったのは間違いで、どうもインフルエンザだったようです。結局、発熱をピークに、前後一週間を平素の倍の時間を休息にあてるような日々を過ごしました。体は不調で動けなくとも、考える時間はたっぷりあります。ソファに横になりながら、健康管理とか体力づくり、いちばん元気な頃はいつだったけ?健康であれば決して思わないようなことが、いろいろと浮んできます。

子供時代の元気は別として、大人になってから体力づくりに熱心だったのは20代半ばから30代に入る頃だったように思います。当時は、ひたすら歩くことで体力の維持を図ろうとしていました。自動車の方が便利な場合も、あえて公共交通を使って歩く機会を増やす。傾斜のアップダウンに慣れるために、平素から山歩きを心がける。それほど健脚や体力増進に拘った理由は、夏山登攀に備えてのことでした。毎年4,5日の行程で南アルプスの山を目指すのですが、その訓練としても、マーケットや日用品の買い物をザックに背負うことが好都合でした。“あの山に登りたい!”明確な目的と動機付けがあったから、喜んで努力できた訳です。

中高年では、“元気で長生きしたいから”という理由で、健康管理と体力維持への関心は高そうですが、心の世界にも目を向けて、日々の感情を見つめることも大事でしょう。自身の平安感と不安感を理解すること。感情を見つめることから、更に、魂を思い巡らし思索することが出来たなら、そのとき準備は万全といえるかもしれません。心と体と魂から成る人間は各々の可能性の中で、この3つをバランスよく、イキイキと生きる必要があるようです。さて私の場合ですが、今回の不調で、体に対する配慮と実践が希薄すぎることを自覚、反省しました。心と体と魂は、その持ち主にバランスよく配慮、ケアされることを望んでいます。


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心と体を超えるもの…

2008年03月11日 | 魂と聖霊
なぜ、あんなこと言ったんだろう?意識をすり抜けて、直接、心の奥から飛び出してしまったような言葉を、訝しく思うことがあります。心が病んでいると本音と正反対のことが口をつく、そういう不一致の話ではなくて、無意識より更に深いところから、出てきたように感ずる言葉の話です。自分で発しながら、自分では与り知らぬ場所からでてきたような気がする・・・

大抵は、後になって―数ヶ月後のこともあれば、数年後、十数年経って―から、その言葉の意味を解することになるのは、これまでの経験で分かっているので、とりあえずは“未来の言葉”として分類、保留の棚に載せることにして、そこであれこれと、意味を追究するようなことはしません。

心と体と魂から成る人間。その魂の部分にスポットをあてた長編の散文に、数日前から執りかかっています。気持ちも時間も、結構な量をその作業に注ぎますが、実は今、花粉アレルギーと今頃になってひき込んだ風邪で、なんだかすごい状態です。ところが体は快調とは言いかねる状況でも、作業内容の質に支障はきたしてない。理論に照らしながら思索を纏める作業も充実感があるだけで、苦痛を感じません。更に、今、私の心は愛の孤独を感じているということ、この自覚がありますが、それを超えるほどの充足感を作業が与えてくれるので、感情は安定しています。

いつもと変わらぬ調子で、淡々と見守ってくれる確かな存在、心と体を超える魂の存在を身のうちに感じていることが、作業の推進力になっているようです。

“心は魂に従ったほうが良いと思うのです” 或るワークショップで、突然、私の口をついて出た言葉でした。あれから3年以上経ち、漸く私も、発した言葉の意味を、多少でも生きられるようになったのかもしれない。そんなことを思います。









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淡きこと水のごとし

2008年03月03日 | 第9章:愛
夜明け前、飼猫を外へ出してやるときに、ふと見上げた東南の空。今頃の季節、下弦から新月に向かう細い月を見ると、いつもAさんを思い出します。知り合った頃、“月は満月か細い細い月が好き、中途半端は嫌い”とAさんが語ったのを、親月派(?)の私は、しっかり記憶に留めています。7,8年間で、会った回数は数えるほど話す時間もそう長くないのに、Aさんと語り合った後は、未整理の感情が整理されたような、すっきりとした気分を味わいます。

メールもごくたまに、元気にしているかどうか確認する程度ですが、やりとりの中で、なんとなく精神的に大変そうだと感知したときも、事の仔細を訊ねるようなことはせず、Aさんが苦境を乗りきれることを願い、その想いが届くように遠くから念じるのみです。それから暫らく後、困難な時期を脱したことを伝え聞くと、しみじみと嬉しい。立場が逆でも同じこと、“今の私はちょっと大変な情況にある”、このことだけ知ってもらえば充分、というところがあります。

音信は間遠でも、お互いの大事な領域を理解し、そこを信じて、互いを想い交流できる存在はかけがいのないもの。彼らは私にとって小さな自分を超えたところで、深い繋がりを感じることのできる人たちです。

そうはいっても、時には心の支えや自問自答だけでは解決がつかず、誰かの前で、
悩みの引き出しをすっかり引っくり返して、清清してしまいたいことはあります。そんなときも、誰かにタヨリタイ自分をしっかり意識して、相手の状態を斟酌して、その上で引き出しを引っくり返してもよいかどうか、判断する余裕はあった方がよい。

君子の交わりは淡きこと水のごとし…この諺が意味するような淡々とした交流は、感情生活が混乱しているときは絶対無理、不可能です(経験上そうでした)。淡々とした爽やかな関係がふえるほど、その人の感情生活はより健やかに、精神の柱は、より強固で安定したものになっていくように思われます。

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