こころの羅針盤

私の人生に待ちうける「意識」の大海原・・・心と身体と魂と、日々の感情生活を語ります。

木漏れ日に気付くとき

2013年06月29日 | 未整理
何年経ってもザクロに花が付かないので、
陽ざしが足りないせいかと隣の木立を枝払いした途端、
昨年から一つ二つ花を付け始め、今年はぐんと成長して花数も増えました。

しかし伸びて茂ったザクロの枝が今度はグラジオウラスの陽光を遮断して、
今年はグラジオウラスの花芽が全くないことに気付きます。
即刻堀上げ日あたり良い場所に移動させることにして、今季の開花は諦めました。

陽ざしが足りなければ花は咲かない。実にシンプルです。
陽ざしが足りなければ人も咲かない…でしょうか?たぶん咲きません。
陽ざしが足りなければ生きてゆくのは難しい。

人は既に陽ざしの中にいるのに、それをつい忘れることがあります。
中には常に心に留めている人もいたり、忘れっぱなしという人もます。

生きているということは、それだけで陽ざしの中にいるということ。
それにも関わらず、私には陽ざしを全く感じられない時期がありました。
感じられないにも関わらず、感じていないことすら気付かない時期がありました。

ストレス曲線/暗い感情に留まり続けると陽ざしに対する感受性がどんどん鈍ります。
暗闇のように感じていたところから、小さな木漏れ日の存在に付きだした日々があって、
それから少しずつ少しずつ、陽光に対する感受性を取り戻したように思います。

突破口は本当にそのまま文字通り陽光だったかもしれません。
きっかけは、お日様の温もりに“気持ちがいいなあ”と素直に呟いたことだったかもしれません。
陽ざしの温もりに感じ入ること。そんな単純なコトが暗闇を抜け出す突破口になったのですね。
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庭の花木に、ものおもう

2013年06月26日 | 未整理
市民運動の活動家である知り合いが、珍しく花木の苗を注文したことがあった。
何か心境の変化でもあったかと思った次の瞬間、ピンときたのだけど、
30年近く同居した義母を亡くして間もなくの頃だった。
同じ花を2本というのは、一本は数年前に逝った自身の母のためかと思ったが、
以来、殺風景だった庭にも少し花が植わるようになった。

別の友人のお姑さんの場合は、夫に逝かれてから手当たり次第という感じで庭木を注文した。
中には一本百万円するのもあったそうで、20年以上経った今、
友人は沙羅双樹の大木を眺めては、その頃には思い至らなかった
今は天国の姑の心情に思いを致し、若かった頃の自分を反省したりしている。

誰かを喪って庭木に救いを求める傾向は日本人に共通だろうか?

写真箱をごそごそしていたら、母の庭の写真が出てきた。
撮ったことも忘れていた20年近く前の写真に人影はなく植物のみ。
アマリリス、アカンサス、ギガンジューム、クレマチスと夏椿の白い花・・・
驚いたのは写真がまさに母の逝った初夏の庭で撮られていたことで、
花の咲き方から命日と一週間のずれもないように思えるのだ。
ここのところ植栽に閃くものがあって庭仕事に拍車がかかっている。
久しぶりに種苗会社の通販で球根も注文した。
まったく記憶にないのだけど、初夏の庭のスナップ写真は
移住先の庭造りの参考にするべく撮ったのかもしれない。

身近な自然に安らぎを見出すのは、風土によって培われてきたストレスを和らげる方法で、
日本人の特性の一つかと思うのだけど、この自分にも周囲にも優しい方法を、
日々の感情生活に人はどれほど取り入れているだろう?

              *

この身の内に流れている感性を、祖先から受け継いでいる美しい特性を
ストレス曲線→幸福曲線に活かさないという手はないと思うのですが、どうでしょう?
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心の奥底に流れるもの

2013年06月10日 | 未整理
ずっと以前、人間の本質は不安と知って、ほっとしました。

今、その本質的な不安におかれている我が身とは、
ぽつんと一人佇む心細くて、脆くコワレヤスくて
細心の注意を払って見守るべきもの。。。
具体的に言葉にしてみると、さらにほっとします。

どんな人も、成功しているように見える人も失敗しているように見える人も、
幸福なあの人も、あまり幸福でなさそうなあの人も、
イキイキ生きている人も、ウツウツと生きている人も、
みんなひっくるめて、人間の本質は、ほんとうは、脆くて弱いものだと、
そこを押さえるところから、自己の探求は始めるべきかもしれません。

心の奥底には、共通のものが流れているということ。
嫌いなあの人も、大好きなあの人も、
自分にとって大切な人も、そうでもない人の心にも等しく流れているものがある。

これを思い出すのは、とても大切なことのように思います。

人間の本質が不安で、一人では心もとないものだから、
だから、暖かさと、愛と信頼を求めるものであるということを、
どれくらい心に留めて日々を生きているだろうか。

目の前の大切な人を、真に大切にして生きることは、
この理解なくしては叶わないことなのだと、しみじみ思います。

わたしの本質は脆くてコワレヤスク、
あなたの本質も脆くてコワレヤスイということを意識するときに、
本当の意味で、“あなたの気持ちがわかる=真の共感・理解”も生まれてきます。

人間の本質である、脆くてコワレヤスイものを見ない限り(忘れている限り)
あなたの気持ちが本当の意味で解るはずもないのでした。このことが今はよく解ります。

人を理解するために、思考と感情と行動だけでは不十分です。
人を真に理解するためには、人間の本質である心細さと弱さを知らなければなりません。
このような理解が成るときはじめて、それを愛と呼ぶのでしょう。

ユーミンの“守ってあげたい♪”の歌詞が浮かんできますが、
人の本質である、脆くて弱くて心細いあなたを守ってあげたいと…歌っているのですね。
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草引きしながら、対話の続きを

2013年06月06日 | 未整理
日常生活に戻ると、いつもいた人がいないことが際立って意識されます。
理性で納得していても、ふと空虚感に襲われるのです。

いるはずの人がいない。逝ってしまった。

母の晩年には植物の話をすることが多かったので、
しばらくは対話の続きを草引きと庭仕事に置き換えて、
寂寥感を昇華させることにしましょう(努力して…)。

母が逝って、生きる目的の一つを失ったことは確かです。
人生とは日々の、たくさんの小さな生きる目的の積み重ね。。。

山の日常に戻ったとき、庭の気配の中に新しい母を感じることができました。

生きていた頃よりも、この庭で豊かで満ち足りた対話ができるかどうか。
すべては私の心一つにかかっているのだと思うと、
明日からの草引きが、ちょっと楽しみになりました。

そういえば料理の話も大好きでした。
魂の母と、台所でも対話を続けることにしましょう。
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