こころの羅針盤

私の人生に待ちうける「意識」の大海原・・・心と身体と魂と、日々の感情生活を語ります。

愛の原型 2

2020年03月23日 | 自己実現
人の数だけある愛の原型、あれも、これも、無数の愛に包まれてきたからこそ、包まれていればこそ、私がここにいる、私がここに在るという感覚もあって…そんなことを考えていると、もう一つの記憶が浮かび上がってきますが、私は、これを人間的な愛の温もりとは区別して魂の愛の原型として捉えることにしています。

大いなる愛、大いなる自己、大自然、悠久の、宇宙的、二元を超えて一元的な、、、なんとも言葉で言い表しがたいのですが、風景としては生家と庭の間、テラス的な場所で家族と共に過ごしたひと時の記憶で時間の無い静穏な場の記憶とでもいいましょうか。

人間的な温もりの記憶と大いなるもとの静謐な場の記憶と、人生の時々を二つの原型が絡み合って生きてきたのだし、これからも生きてゆくのだなあ。。。今あらためて、しーんと胸に刻むとします。

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テキスト144索引 あ 愛の原型

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愛の原型

2020年03月21日 | 自己実現
あれは愛だった・・・生育史を振り返る中で愛し愛された記憶を意識化しておくと、必要なとき、すぐに取り出せます。低空飛行でちょっとこころが曇っているようなときに思い出して、暗から明へ、ベクトルの向きを変えたいようなときに自分は愛を知っているという確信、自己信頼の回復を担ってくれるのが愛の原型であると感じます。

私の場合、家族とか身近な大人によってもたらされた愛の記憶の中から、こころと身体感覚に連なる、思い出すだけでほっこり暖かくなる場面を一つだけ、これが私の愛の原型と決めています。別に決めなくてもよいのですが、あまり過去を振り返えることに時間を費やしたくないので、直ぐに取り出せるものが一つあれば十分です。

日常生活を共にするパートナーに、私の生育史の温かな記憶/愛の原型をさりげなく、なんとなくでも伝えることができれば、互いの心の世界を理解する手掛かりになるでしょうし、相手を観察しながら、こんなに違うからこそ出会っているのだなあと悟りめいた心境が訪れることだってあるかもしれません。愛の原型が違えば誤解が生じるのも仕様がないねと、ときに相手に対するストレス曲線の感情を、愛の原型のせいにして上手な合理化で流していくことがあってもよいのでしょう。

人それぞれの生育史と人の数だけある愛の原型・・・これを認識するだけでも、なんとなく心が和らぐのを覚えますね。

愛の記憶が埋もれて見えないのであれば、すぐに答えを出そうとせずに、私の愛の原型は?そっと胸に手を当てて問いを感じてみるだけでよいかもしれません。答えを出そうとするよりも問いを静かに感じてみることの方がずっと大事なことのように思います。

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2020/03/21

2020年03月21日 | Weblog

朝陽の林道をてくてくと、村の郵便ポストまで

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2020/03/13

2020年03月13日 | Weblog

春ハ ナノミノ風ノサムサヤ~♪

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愛と意志 2

2020年03月06日 | 自己実現
ヨハネによる福音書4章1~42節、サマリアの女とイエス・キリストの会話の場面を開きますが、言葉を文字で追うのがまどろっこしくてなりません。今のわたしは対話の内容よりも、場面に流れる気配を想像することの方が重要でしっくりきます。場面に流れる両者の意識を全身で聴き取るといえばよいのか。その場の雰囲気を感ずることのみに意識を集中させるといえばよいのか。全身で感じ取りたいのです。

「愛と意志」という言葉に照らしてみるならば、イエスは「愛」、サマリアの女は「意志」を象徴しているように思われてならないのですが、どうでしょう。

存在としての「愛」に触れることで、埋もれていた女の意識に光が届けられ「意志」が息を吹き返した、生き返ったのです。

ひょっとするとイエスとサマリアの女と、両者はわたしの内なる人物を表しているのかもしれません。サマリアの女はすぐにやってきます。様々な風体でいつでもどこでも、わたしの居るところに、すぐ現れる人物です。そうであるならば、わたしが内に宿しているはずのもう一人の人物、存在としての愛にも気づかなくてはなりませんし、気づくべきなのです。

「気づく」という現象に、ねばならない・べきは、これほど遠い言い回しもないと思いつつも、人間が唯一用いてよい、ねばならない、べきがあるとすれば、一人一人のうちに確かに宿している「愛」にこそ気づくべきであると!声を大にして叫んでみたいような気持ちになりますが、どうでしょう。

考えてみればヤコブの井戸の傍らで、あふれ出る愛のエネルギー、両者の交流に感じ入ることは、いつでもどこでもわたしが望めば、すぐに叶えられることでしたね。想像力と感ずる能力をこれほど喚起される場面もないのだと、思いを新たにしたところです。

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愛と意志

2020年03月04日 | 自己実現
ロロ・メイの名著 「愛と意志」は、20年ほど前、確か二泊三日の勉強会に参加した帰りに神保町の古書店で見つけたのだったと思います。何が書かれていたのか、具体的に思い出せませんが、もどかしい気持ちで読み進めながら深く心を動かされた記憶はあります。そのときの自分に必要だった何か、当時の感ずる能力に見合った何かに感動したことは確かでしょう。あのような分厚い本、今はとても読む気がしないので、なおさらそう思います。

そういえば、愛とは何かという問いがぐるぐる駆け巡っていた頃があったはずなのに、いつの頃からか、愛という言葉が私の思考からすっかり影を潜めた感があるなあと、あらためて思います。いったいどうしたことでしょう。人生の季節とは、おもしろいものですね。いつの頃からか、愛とは?の問いを宇宙に投げかけて、考えることを止めていたのかもしれないな、そんなふうにも思いうのですが、自我が頑張って答えを得ようとしていたところから、もっと大きなところから答えを得るべく手放していたのだとすれば、それはなかなか良いことだったかもと思います。

生き甲斐の心理学のテキスト、その索引の真っ先に出てくるのが「愛と意志」ですが、索引に沿って言葉から連想することを書いてみようと、ふと思い立ちました。書きたいことが具体的に浮かばない、でも何か言語化したいことがある、確かにあるのだけど見えてこない、、、というとき、前にも言語化の糸口に、この方法を使ったことがありまして。30年ほど前に英国へ2週間、女性4人旅をしました。最年長の友人は旅の記録を小冊子にするのを常としておりまして、私は書きたいテーマが浮かばず、でも何か書かなくてはというとき思いついたのが「あ・い・う・え・おもしろ感想文」なのでした(やぼったい題ですね)。書き出してみると、ことのほか楽しく愉快に書き上げた記憶があります。

そんなわけで、テキストの索引に沿ってちょっと進めてみようと思いますが、お付き合いいただければ幸いです。
                   *
30年前の旅の冊子を久しぶりに読み返してみました。こんなこと書いていたんだ、、すっかり忘れていましたが、真っ先出てくる<あ>は、アエロフロート:モスクワからは、さまざまな人種が乗り込んできて興味深く観察しました。足をピョコピョコあげてヨガをしているターバンを巻いたインド人。奥さんの取り出した異臭を放つあのビンも、なんともいえない不思議さ。。。モスクワ見物をしてロンドンへ帰るらしきヒッピーの若者たち。ヒースローで荷物を捜して走り回っているときにもすれ違い、ニコッとあいさつを交わしましたっけ。」思えば東西の壁崩壊の頃の旅でした。(もう一度)人生の季節とはおもしろいものですね。


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