こころの羅針盤

私の人生に待ちうける「意識」の大海原・・・心と身体と魂と、日々の感情生活を語ります。

「傾聴」には、宝物が詰まっている

2013年04月19日 | 未整理
人生の先輩の体験談や助言は、聞いたときはピンとこなくても、
後になってから、こういうことだったのかと実感する出来事が巡ってきて、
聞いておいてよかったと思うことが少なくありません。

体験談、助言はありがたい。でもときどき“思い込まれているなあ。。”と、
先入観や自分と同一化している相手の言動に、息が詰まりそうになることがあります。

親しさゆえの自他混合。。。親子、母娘でありがちなことですが、
よくもわるくも同性の親しい人間関係では母娘関係が投影されることがあります。
人間関係に母娘関係の光と影が投影されるのは自然なことで、
それゆえ今ここで自分の成育史の傾向を見直す機会が与えられているのかも…と、
私自身は、そんなふうに捉えているようなところがあるのですが、
では、そのような息が詰まる状況を変えるにはどうすればよいのか。

相手の自他混合発言にイラッとしないための対策、
これから先も必ず来るであろうストレス曲線のために対策を考えようと思ったわけですが、
先入観や思い込みで話しているなあと感ずる状況、親しい親しくないは関係なく、
思い込み発言に息が詰まりそうになるような、そんなすべての状況に役立つ方法があるのですね。

この方法が使いこなせれば人間関係のストレス曲線はかなり減るのではないかと思います。

その方法とは。聞くときに話の内容に焦点を合わせないことです。
話の内容を聞くから、その反応としてイラッとしたり息が詰まりそうになったりするので、
相手の感情に焦点をあてて、内容よりも相手の気持ちを想像する方へシフトさせる。。。
これが最良の方法ではないかと思うのです。

内容よりも感情を聴くとは、カウンセリングの傾聴と同じ姿勢ですが、
相手の親切や誠実な気持ち、あたたかな感情に焦点をあわせることができたなら、
息が詰まりそうな状況など生まれようがないと思われます。

起こりうるストレス曲線の対応策を考えただけで軽やかな気持ちになりますが、
これができれば、穏やかな優しさの内に成育史の母を超えることにもなるかもしれませんね。

傾聴は奥が深い。。。尽きることのない宝がつまっていると、しみじみ思います。
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感受性が変化するとき

2013年04月18日 | 未整理
近頃、加齢現象に不適応起こしているのが自分でよくわかります。
視力低下で以前に比べて風景が鮮明でなくなったり、
pc作業の時間を制限する必要がでてきたり、
過労がこたえるようになって快復に時間がかかるようになったり。。。
いろいろと加齢からくる不安定を自覚しています。

自分だけでなく近親者の加齢現象も心配の要素に入ってきていますが、
何れも時間の経過と共に「慣れる」ことで適応していくのだろうなと、思います。

さてストレス曲線にあるとき、人は感じやすくなって、
周囲の言動や行動や自分を取り巻く現象に対して敏感になることがあります。
これまで、心が病んでいる人が相手のウソや不一致を鋭く見抜くように、
ストレス曲線にあるときに相手の言動や不一致に敏感になるのは、
それはあまりよくないことだと捉えていた節があります。

しかし、それは本当によくないことだろうかと、あらためて考えてみると、
ストレス曲線にあるときの感受性の変化を否定的に捉える理由はどこにもないのですね。

感受性が敏感になるのはわるいことではなく、(わるいからといって止められるものでもなし)
かえって平素には鈍かった領域が、よく見えるようになったと捉えることもできるわけです。

注意すべきことは、ストレス曲線にあるときには人は往々にして、
感じたり湧いて来た感情を解釈するときにネガティヴな解釈に傾きやすくなるということです。

自己否定、他者否定におちいり易い点、これは忘れずに覚えておく方がよい点ですが、
ストレス曲線にあるときの感受性の変化を嫌う必要は少しもないのでした。

敏感さは、大事な心の目が開かれることなのだと捉えてみれば思考に深みが増すのを感じます。
最近は、これまでより深い領域の自他肯定の世界が広がるチャンスがきたのだと思うまでになりました。

ストレス曲線は自分がその気にさえなれば、自己を拡げる機会を与えてくれる。
いつでも与えてくれる…これは本当なのだと思います。
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情動と、どう付き合っている?

2013年04月11日 | 未整理
情動を意識してみると、おもしろいことが起きそう。
感情とひとくくりに捉えていた心の動きから、情動を取り出して意識してみたならば。。。
これまで知らなかった自分の傾向に気付いて、また少し自己理解が進むかもしれません。

情動とは生きるエネルギーそのもので、この取り扱いが人生を決めてゆくのではないか。
そんな思いが強くなり情動にスポットをあててみたくなったのです。

情動が生まれるや抑制的になってしまう領域がないかどうか。
自分にとってコントロールが難しいのは、どんな情動か。
自分はどのような情動を上手に発散(昇華)させているか。

情動には感情にない瞬発力があります。
こころの世界を体感的に捉えようとするなら情動を見過ごすわけにいきません。
好き・嫌い、怖い・怖くないをピュアに知覚するために
(余分な思考を差し挟むスキをつくらないためにも)、
情動を意識してみるのは、感情生活に有効な気がします。

たとえば、この人、好き!という最初の3秒の“正直な”情動を無視して、
抑制的なパターンにはまりこんで(そうとは気付かぬうちに)、うつうつとするより、
最初の情動を大事にして、かつ現実を吟味して、イキイキと生きてゆく方がずっとよいに決まっています。

逆も然りで、これは嫌だ!最初の正直な情動を無視して、
抑制的なパターンにはまりこんだまま(そうとは気付かぬうちに)不一致な行動を拡大させてしまうよりも、
最初の情動に配慮しつつ、理性的にのびのびと生きてゆく方がずっとよいに決まっています。

頭だけでなく体感的に感情を理解することが、自分を信じることに必ず結びついてゆくはずです。

様々な感情の基にある原初感情の“好き嫌い、怖い怖くない”に意識的であるために情動を意識してみようと思ったわけですが、
感情生活に新たな視点が加わる度に、わたしは人生が楽しくなってくるんですね^^)
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余計なコトをくっつけないで。。。

2013年04月09日 | 未整理
“好き・嫌い、怖い・怖くない”の感情が自由に意識化できて、
感情の流れの中をのびのびと生きることができたなら。。。私の憧れの世界ですが、
好き・嫌いを指針に生きることはなかなか難しい。

好き・嫌いを指針に生きるとは感情のままに生きるという意味ではなくて、
好き・嫌いを意識化して、それから先は現実吟味を働かせ、理性を働かせながら、
湧いてくる様々な感情を体験しながら自由に行動を選択してゆく。。。そんな心の世界です。

たとえば長年の抑圧傾向がとれて、好き・嫌いがせっかく意識できるようになっても、
好き・嫌いの感情を認めるときに(いったん受容するときに)、
感情といっしょに余計な思考をくっつけてしまうクセがいけないのではないか。

嫌い、不愉快と意識化しながら、“本当は好きであるのが望ましいのだけど…”と
余計な概念を付け加えているとしたら、自己否定の匂いがプンプン漂ってくるだけでなく、
何よりも感情を信頼していない、自分を信頼していない証拠ではないかと思うのです。

余計な思考をくっつける傾向は、あまりに馴染みすぎて気付きにくいようです。

それは嫌だと感ずる自分を余計な思考を入れずに受容する。
五感と体感で拒否感を覚える自分を、そのまま受け容れてみる。
どんな感情でも湧いてくる感情を信じてみる
すべてはそこから始まるのであって、それが自己肯定的に感情を受け容れるという意味だと思います。

脳は問題を意識化すると、答えを見つけるべく動き出すようにできているそうですが、
純粋な感情を問題提起することが脳に上手く働いてもらうコツのように思われます。
そして自己肯定の心で問題提起することも大事なのでしょう。

余計な思考をくっつけなくても、だいじょうぶです。
“本当は好きであるのが望ましいのだけど…”と付け加えることは、たぶん脳の仕事の邪魔をするだけ。
余計な思考をくっつけるクセに気付いたところで、また一歩、憧れの世界に近づけるでしょうか。。。
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大海の一滴になりたい。

2013年04月05日 | 未整理
あれあれ、そんなことして(言って)だいじょうぶなのかなあ。。。
ふたりのやり取りを傍で見ながら心配がよぎりました。
後になって、ふたりの内の一人が相手に対して面白くないことがあって、
それをそのとき態度で示したらしいことが解りました。

おそらく、そんなことした本人に自覚はなく無意識の行動(言動)だったはずです。

私にも覚えがあって、なぜあのときあんな態度をとってしまったんだろう?と、
自分らしからぬ態度のことを後からつらつら考えて、
相手への不愉快を無意識に発散したことにハッと気付くことがあります。

逆に、なんとなく態度がへんだけどと、いつもと違う相手を訝って、考えて、
あのことで気を悪くしたのかなあと相手の不機嫌の原因に、なるほどと気付くこともあります。

思う以上に人間関係は無意識のやりとりが行き交っているように思います。

他人から受けた不愉快を自分はどのように処理しているか?
無意識に発散してしまうことは世の中に不穏の種を蒔いているに等しいのではとさえ思うのですが、
原因はどうってことない小さなことほど、無意識の行動に陥りやすいかもしれません。
それを不愉快に思う自分を認めたくない、そんな小さい自分ではないと思いたい気持ちが、
不愉快の意識化を妨げてしまうこともあるかもしれません。

小さな不愉快や不安感を意識化して適切に処理することはとても大事なことだと思っています。

適切な処理は、その本人にしか分からないのですが、
このところよく書いている、“こころの可能性を精一杯生きる”とは、私にとって、
不安感を適切に処理してゆくことが大事な要素として含まれます。

ストレス曲線を意識したなら不穏の種を撒き散らすことなく幸福曲線へ移行させる。
こんな小さな事でも平和という大海の一滴になると、固く信じているのです。

適切な処理は穏便なこともあれば、ちょっと激しくなることもあるかもしれません。
小さな不安感を意識したとき、自分はどんな処理をするのか。
ストレス曲線を自分はどのように幸福曲線へ移行させようとするか。
自覚的に生きだしたとき、これまで知らなかった自分の可能性を知るかもしれません。

不安感に向き合う自分を楽しみながら、こころの可能性を生き抜いてみたいものです。
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天に向かって。おめでとう!

2013年04月02日 | 未整理
先に逝った親しかった人を思い巡らす時間。。。最近になって、
“あの人の分まで生きる”という感覚が、少しだけ解ったような気がします。

私が母を見舞う日が姉の誕生日とちょうど重なったので、
母の部屋で姪と3人でお祝いすることにしていました。
おめでとう!と天を仰いで、ほうじ茶で乾杯。
ありがとうの思いを込めて朗らかに笑いあいました。

本当に久しぶりに、晴れやかな気持ちで笑いあうことができました。

手製のちらしずしをお重につめてきて、手際よく
美しく取り分けている一人娘の姿に姉もにっこりしたことでしょう。

逝った人の分まで生きる。

生きているわたしが、こころの可能性を精一杯生きるとき、
先に逝った人がこの世で果たせなかった大事なことを、共に果たしているような気持ちになります。

自分を大切にすること。他人を大切にすること。
生きることを肯定的に、生きること。成育史の宝物に気付くこと。
その人が逝ってしまう前より、こころの可能性を
精一杯生きようとするとき、逝った人の分まで生きている気持ちになるのです。

私は姉が逝ってしまったことで変化したそれぞれとの関係-姪と母との関係を、
天国の姉と一緒に育てているような…そんな気がすることもあるのですが、
これから先も、お誕生日にはそれぞれの場所で、
おめでとうを天に向かって言い続けようと思っているのです。

生きている限り、こころの可能性を精一杯。生きていきましょう。
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