こころの羅針盤

私の人生に待ちうける「意識」の大海原・・・心と身体と魂と、日々の感情生活を語ります。

手元にない、不安感

2013年10月23日 | 意識と知覚
久しぶりに本を注文しました。
ここのところ新規購入を控えていたのです。
調べものはインターネットか図書館で。

図書館でたまたま必要な資料が見つからず、
何気に覗いた本棚で見つけた興味深い本は、
アマゾンでチェックまでしたけれど、
最終的には必要箇所をコピーすることにしました。
コピー機を使うのでなくてワープロで打ち込む方法は、
作業しながら必要なコトとそうでもないことが明確になります。

さて注文した本はかなり詳細な内容を公開しているサイトがあって、
思わず読みふけってしまったのですが、もっと知りたい。
自分の目で確かめたい、著者をもっと知りたい衝動にかられます。
幸いアマゾンでユーズドが何冊か出ていました。
しかし即注文でなく自分の要求が本物かどうか?
衝動を疑いつつ注文を翌朝まで延ばすことにします。

とりあえず注文して安心を得る。
手元に確保する安心感のために購入した本もけっこうあったような気がします。

手元に確保する安心感といえば、歳時記付きカレンダーの注文を今年は見合わせました。
来年はないと思うと意識して空を見上げ月の出を確かめメモしたり、
本棚で眠っていた「暦の風景」の本を取り出してきて節季を確認したり。
ちょっと大袈裟にいえば暦との付き合い方の新境地開拓といったところです。

手元にない不安感…その度合いは?これを意識することが、
行動を選択するときの大事なスケールになっています。

思えば食器棚を整理して数種を手放したら、長く忘れられていたモノ達が活躍し始めて、
必要十分を使い切る心地よさで味をしめたのがそもそもの始まりだったかもしれません。
不安感の度合いは?楽しみながら問いかけている今日この頃です。
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置き換えが、解消

2013年10月20日 | 未整理
坊主憎けりゃ袈裟まで憎いとは云わないまでも、
坊主に対するわだかまりが袈裟に対する目を曇らせているなあと、
なんとなく気付いていました。

坊主と袈裟は別物である。
いい加減、袈裟に対する色眼鏡を外してもよいのではないか。
或る朝、そんな気持ちが芽生えているのに気付きます。

親友にそのことを何気なく呟いたら、
「それは袈裟に対して失礼だわア」と笑われました。
云われてみれば確かにそうで「置き換えられた」袈裟にとっては、
いい迷惑で失礼この上なかったなと心から思えたのでした。

先入観なしクリアーな目で袈裟を見つめてみたならば、
目を瞑ってきた袈裟の美しさに開眼して心は揺さぶられるかもしれず、
袈裟を知ることで、坊主へのわだかまりも雲散霧消するような予感さえしてきます。

事の始まり。この軽い興奮状態はどこからくるのかと思うのですが、
そっと垣間見た袈裟の美しさにわくわくしているのか。
それとも置き換えが解消されて心の枠組みが変化していることに興奮しているのか。
たぶんその両方ですが、興奮しながら正直であることの気持ちのよさも感じているのです。
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さあ、どうする?

2013年10月15日 | 未整理
失敗すると、どうしてこうなったのか?すぐ考えます。
原因を考えて、自分の傾向―思考と感情と行動―を考えることが、
ストレス曲線の乱れた心を収める私のいつものやり方でした。

長く採用してきた悩みの対処法。原因を追求するのが私の傾向ですが、
原因追求に加えて、もうひとつの新しい傾向が出てきて、
新しい方法は、これまでの傾向の欠点をカヴァーしてくれます。

失敗した~と知覚するや、原因追求には長居をせずに、
“さあ、どうする?”と、建て直しを考えることに気持ちをシフトさせます。
これからどうすればよいか?幸福曲線へ移行させることに気持ちを切り替えます。
そのときの失敗の内容、強弱によって方法はいろいろですが、
原因追及に長居をしないこと、ここがポイントです。

失敗すると(失敗した~と知覚すると)反射的に、
これは心ををどのように建て直し安定させるか試されているのだ、と浮かび、
失敗を感じつつ、同時に「これから」を考えているようなところがあります。

考えてみれば乱れた心を安定させるために原因追求するのはへんなことなのです。
乱れた心のままあれこれ考える時間は自己否定に傾いている時間ともいえますし。。。

失敗した~と知覚したならば自己否定に長居は禁物。
自己肯定的、平和的なストレス曲線からの脱出を意識するようになると、
結果的にこれまでより「傾向からくる失敗」を知覚することが少なくなってくるようです。
で、この方法はよいと益々新たな傾向に拍車がかかるわけなのですが。

お読みになってピンとくるようならお試しくださいね、きっとよい変化になると思います。
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イジワルにあったなら。。。

2013年10月12日 | 未整理
意地悪されるのはイヤなものです。身に堪えます。
イジワルは相手にダメージを与えるのが目的なので、
いや~な気分になるほどイジワルの思う壺というわけです。

相手に非がなくともダメージを与えることが目的なので、
イジワルの内容は大抵いちゃもん支離滅裂の類で、
その道理の通らない内容に反撃しているとへとへとなります。

口に出すにせよ内心で思うにせよ内容に反撃するのは逆効果で、
イジワルに対しては傾聴を意識するのが賢明かもしれません。

この人はどうしてこういうことを言うのだろう?
どうして私にイジワルしたいんだろう?等などを考えながら、
イジワルの内容に振り回されることなく感情を聴くようにしていると、
不安感と、不安を解消しようと必死になっている心理がみえてきて、
傾聴を意識するほど、こちらはダメージを受け難くなるのですね。

イジワルはこちらの大人気が測られるようなところがあって成熟度が問われます。

相手の大人気によっていつもの効果が得られないとなると、
イジワル癖にも、あれ?っと拍子抜けが起きて、
自分の傾向になんとなく居心地が悪くなって、最終的に、
その人のこれまでの不安解消のパターンに気付くきっかけになるかもしれません。

そう考えると意地悪に遭ったときには話の内容に巻き込まれずに感情を聴く、
傾聴訓練の得がたいチャンスを与えられているともいえそうですね。
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その時を待つこと

2013年10月09日 | 未整理
問題を問題と感じつつ、これが解決すれば心が晴れるだろうと感じつつ、
でも今は向き合うことができない…だからとりあえず保留にして、
問題を意識するともしないともしながら月日が経ちます。

問題はストレスとしてときどき顔を出しますが、おおよその日々が、
それを解決しなくても平穏に流れてゆくとしたら、あえてほじくり返す必要はなく、
時がくれば解決に向かって動き出したくなる日はやってきます。

出会いがあり別れがあり、心の均衡が崩れることを繰り返して人生は進んでゆきます。
一日の中でも人は何かを手放し何かを受け取りながら生きています。

あらゆる要素が絡み合う人生の日々の中で、心の均衡が崩れたときに、
何かを手放し別の新しい何かを取り入れることで安定を取り戻すとしたら、
その別の新しい何かが潜在していた問題と向き合うことだったということもあるでしょう。

その時こそ解決に向かって踏み出す時だと思います。

大きくて根が深そうな問題であればあるほど無理に突き進むのではなく、
いつか時が来ると信じて大らかに時を待つぐらいの心構えがよいのかもしれません。

今は無理をしないで、解決すれば晴れやかになるだろうと心から思えて、
そのように成ったときのことを幸福感の中でイメージできる時まで待つのがよさそうです。
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嫌いのまま放置すると

2013年10月05日 | 未整理
昨日と今日の生き甲斐の心理学のブログは、
昨日~今日にかけての私の体験、心の流れに真にタイムリーな内容です。

気になる人・嫌いな人を、嫌い、嫌いと感情にまかせて放置しておくと、
無意識の世界で、その人に支配されることになるとは本当にそうで、
無意識で支配されないためには、理性的にきっちり思考する必要があります。

そもそも気になる人問題が久々に浮上した昨日、
ブログの、考えてノートに書き出すべき内容を読んだ時点で、
ノートするどころか、考えるのもイヤだと感じ、
これは感情に流されている状態である、ヨクナイ自覚はありましたが、
そのまま感情を整えることをせずに行動を開始したのでした。

そのけっか、一日の終わりにハタと気付くわけですが、
感情の放置が行動の選択を誤らせということに思い至るのです。

興味深いのは、一日のこころの流れを思い返すと、
今ここで気なっている人とは「別の気になる人のこと」がちょくちょく顔を出し、
通奏低音のごとく心の背景に絶え間なく響いていたことでした。
現在の気になる人は、この遠い昔に苦い体験をもたらした気になる人と、
無関係ではないらしい…私の心の世界では繋がっているのかもしれない。。。

この気付きは、けっこうな驚きでしたが、気付いたことで、
感情に流されるモードからは完全に脱しました。
脱したところで、今日は昨日の誤った選択を修復するために行動することにいたします。

感情に流されている自覚は大事、自覚したあとの整え方は更に大事である。。。
こころの世界は自分が思う以上に、すべてが意味深く繋がっているようです。
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些細なことを大切に、天ざるを食せば。。。

2013年10月03日 | 未整理
先月の半ば、一週間ほど東日本へ旅をしてきました。
旅の間の一食一食がいつになく鮮明に記憶されているのは、
出発前から少々体調を崩していたせいで、食欲が体調のバロメータとばかりに、
食に対して、いつもより神経質になっていたからと思われます。

振り返ると、旅の最初の二日間は味わうよりも体力維持のため必死に食した感が強く、
3日目のお昼に仙台名物の牛タンを頂くあたりから、味わう感覚が多少戻ってきました。
タンシチュウとセットの少量ずつ味わえるメニューがちょうどよく、
私の身心のストレス曲線に関わってくれた友人のお昼の提案は正解でした。

さて体調も少しずつ快復して食欲も出てきた旅の最終日のこと。
とある場所のランチで、カツ丼に食指が動かず、
メニューにないエビフライ丼を特別調製してもらったのですが、
このフライがカナシクナルくらいイタダケナイしろものだったのです。

残念なコトでしたと、ここで終わらせなかったのが今回の私なりの良き変化と思うのですが、
翌日、飛行機搭乗前の待ち時間に空港の蕎麦店で天ざるを頂き、車海老の天ぷらに大満足。
プチ贅沢で前日の残念無念を晴らして旅を締めくくったわけですが、
意識的に幸福曲線へ向かって行動するとはこういうことねと、自分の賢い(!)選択にも大満足なのでした。

皆が無言で頂いたエビフライ丼。。。日本人の慎ましやかな在りようと、
共有した少々気詰まりな時間を思い出してはニコニコしてしまう私なのですが、
自分の気持ちの持ち方と行動次第で幸福曲線を生み出すことができるとは、
なんと希望がもてることでしょう。些細なコトなのだけど、けっして些細ではない。

ささやかな行動の積み重ねこそが自分と周囲を幸せにしていく、確かな道ではないかと思います。
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