こころの羅針盤

私の人生に待ちうける「意識」の大海原・・・心と身体と魂と、日々の感情生活を語ります。

こころと身体、そして魂と。

2014年04月28日 | 魂と聖霊
この一週間、風邪をこじらせ体調を崩していました。
風邪のひき始めに連日、動き回ったのがよくなかったようです。
数日経ってから、とうとう床に就く羽目に。

お布団の中でつらつら考えるに、
こころが環境によく適応していたので体調の方がおざなりになったのでは?
ちょっとおもしろい解釈が生まれたのでした。
もしも不適応だったら、体調不良をよいことに、
社会活動から退場することもできたでしょうから。

それから、こんなことも考えました。
もしも魂を思い出すことができたなら、どうだったかな?
思い出したなら直感と体に対する配慮がもう少し働いて、
活動を半分ぐらいに留めることを選択できたような気もします。

あらためて行動の選択には、自分が何を信じているかが如実に現れるものだと思いました。
そのときの思考と感情と行動をたどってみると、何に信をおいていたか、
他人からは見えなくても自分にはよく解ります。

環境によく適応して役割遂行できれば、すべてがOKというわけではなく、
適応しすぎて自分を見失うことだってあるわけです。

こころと身体と魂と。一瞬一瞬、自分らしいバランスを見つけたいものです。

さて体調の方は九割方快復したようですが、まだお喋りする気になりません。
声に出して語り合うというのは、けっこうエネルギーが要るものだと、
これも今回、体調を崩してみてよく解りました。
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絵に描いて、安心?

2014年04月18日 | 無意識の世界
願っても叶わなかった願望も、たくさんあったはずです。
はずですとは他人事みたいですが、
叶わなかった願いを抱いていた自分というのが、今はとても遠くに感じるし、
叶わなかったことが残念だとも思わない。今となっては、
叶わない方が自然で当然、宇宙のバランスに適っているというものです。

絵に描いた餅。ひと言で言えばそういうことなのだと思います。
当時は、その願いを絵に描くことで安心を得ていたと思うのです。

そのことを願う自分に安心していたのだとすると、
もしも、そのことに気付くことができていたならば、
それを願わない自分に不安を覚えるのは何故?という、
とても有意義な自問自答がはじまっていたことでしょう。

自問することで、この願望は本望ではないことが意識できたかもしれません。

本望でないことを錯覚することが心の安定に繋がるとすれば、
そのときはそれを生きる他はないのだし、それでよいのだと思いますが、
(それはそれで宇宙のバランスに適っているのでしょうし…)
ただ、いつでも錯覚ばかり繰り返して生涯、本当の願望を生きることがないとしたら、
せっかくこの世に生まれてきたのに、残念です。

本望であれば、“願わない自分に不安を覚える”などという感覚が入り込む隙はなく、
叶ったイメージを楽しみ幸福曲線を味わうことは、ごく当たり前のことでしょう。

実現させるべく行動するかどうかはともかくとしても、
自分の願望がどこからきているものなのか。
真正な願望か、それとも絵に描いた餅なのか(防衛機制なのか)?

人生を残念に終らせないためにも。時々に自問してみるのは有意義なことかと思います。
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叶えば、願う

2014年04月16日 | 無意識の世界
世の中の成功物語からは程遠いにしても、
かつて、こうなればいいなあとイメージしたことは、
すべて実現しているように思います。
もともと私の願望は、ささやかな日常に関することが基本なので、
そういう意味では、願いはすべて叶ったと思うのです。

実現したということは、いくら内容はささやかでも、
願望達成の法則には、きっちり当てはまっていたからでしょう。
法則の要は、幸福曲線の感情をともなっているかどうかだと思っています。
そのことを成している私自身を幸福感でイメージできているかどうか。

ストレス曲線にありながら、これが私の願いなのだと思い込むケースもあるので、
自分の幸福曲線とストレス曲線が知覚できないと見極めは難しく、
過剰な防衛機制が働いているときも誤った願望を持ちやすいようです。

願望の陰に潜む不安感の洗い出しも重要かもしれません。

一方、こうなったらイヤだな。そういう状況だけは避けたいと思ったことも、
見事に現実になっていることに気付くわけですが、
ああイヤだァ、、不安感いっぱいに考えたことは、その通りになりました。

ただし現実になっても、ちっとも不幸になっていない。
避けたかった状況が、かえって力を生み出している。
生きる張合いになっている現実があるので、
あんなに怖れていたなんてね。お疲れ様、、と、当時の私に言う他ないのですが。。。

それでは今、未来に対する心配はないのか?と訊かれれば、もちろんありますが、
以前のように、感情に呑み込まれてコワガルような心配事はありません。

ささやかな願望でも壮大な願望でも、こうなればいいなと考えることが、
願うことが、すでに叶った状態で感情体験できること。
イメージしながらヨロコビを味わえること。
それがそのように成るための必須であるのは確かなことのようです。

叶えば願う、これが深層の真相かもしれないと思うのです。
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感情が生まれて、その先にくるもの

2014年04月04日 | 螺旋状に上昇する意味
共同キッチンの先客に、こんにちはと、声をかけますが応答がありません。
聞こえなかったのか?と思いつつ、言葉を続けますが、やはり応答なし。

ここで、あらっ?と不安になるのは同じでも、
ここから先の反応・行動は人それぞれ、個性によって行動に違いがでてくるようです。
こちらの折々の、気持ちの余裕の度合いでも違ってきますが、
飲み込みがよければ、あらっ?の時点で、相手の心を汲み取る方に心が動くことでしょう。

余裕がないときには、自分のストレス(不安)に捉えられて、
カッと頭に血が上り、相手を想像する余地はありません。

怒っている自覚と共に、どこかで感情を受容すべく(落ち着かせるべく)、
自問自答が始まるわけですが、気づくと最近は“糠床調”になっていて、
NHKの朝の連ドラに登場していた、ヒロインに語りかけている糠床の調子が、
出来事や感情を受容するときの自問自答に心地よくピタリと嵌ります。

ある時から、感情を受容するとは抵抗を止める事だと体感的に理解するようになりましたが、
抵抗を止めると肩の力がぬけて、相手を考える余裕が生まれてくるのですね。
ようやくロジャーズの19の命題の“内部的照合枠”という言葉も思い出され、
挨拶に応答しなかった相手の気持ちを推察してみようという気にもなるわけです。

こんな見方もできそうです。
幸福曲線で行動したのが、ストレス曲線に跳ね除けられたことにより、
幸福曲線がストレス曲線に呑み込まれた途端、世界はストレス曲線一色になりました。
しかし後発のストレス曲線は糠床調の自問自答により幸福曲線に舞い戻り、
ストレス曲線と幸福曲線も当初のバランスに戻すことができました。

戻ったといっても中味が、その色合いが当初とは少し違ってきているようです。
それまで何も無かったところから、相手のストレス曲線を想像するという、
微かな友好感のような無味乾燥でない感情が相手に対して生まれているからです。

無視された不愉快が残っていないわけではないけれど、
以前にはなかった、その人に対して関心をもつという心の動きが始まったことは確かです。

ストレス曲線と幸福曲線。

世界のバランスは、あなたとわたしの関係性は、これまでのような無味乾燥のバランスでなく、
私が関心を持つことで動きのある、淡くても彩りある刺激的なバランスに変化させることもできそうです。




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