こころの羅針盤

私の人生に待ちうける「意識」の大海原・・・心と身体と魂と、日々の感情生活を語ります。

不安感の出所は…?

2008年02月28日 | 未整理
なんとなく胸がざわつく・・・小さな不安感に気付いたので、ソファに横になり、感情の流れを観察してみることにしました。落ち着いて呼吸を調え、ゆっくりと感情に意識を向けてゆくとそれほど強いトーンではないのですが、嫌悪感、焦燥感、遺恨と、後悔の念・・・ありとあらゆる暗い感情が、ふつふつと意識にのぼってきます。過ぎ去った日々、不毛な人間関係を生きてきてしまった後悔を、誰かのせいにして嫌悪感に襲われる・・・そのように他者に向かっていた暗い感情が意識化が進むに連れて、意外にも自分に対する感情に変わってきました。自分に対する苛立ちと焦燥感・・・

胸がざわつく不安感は、どうやら自分に原因があったようです。不安感の出所がはっきりすると、それだけで心は安定し“思い込み”が解かれ、出来事を別の角度から眺める余裕がでてきました。否定的な感情は薄れ、“誰かが私に対して悪意をもっていた訳ではなかった、その人もまた、私と同じように気付きが足りなかっただけなのだ”と、次第に、体験を肯定的に捉えはじめるようにもなっています。不毛な人間関係を繰り返してしまうのではないか、そんな怖れからくる漠然とした不安があることにも気付きました。

生きていると毎日、私たちは様々な感情に襲われますが、いつまでも消えない堂々巡りの感情、根強い不安感に気付いたときは、不安感の後ろに控えている、ありったけの感情を意識化させるように努力してみる。そうすると、悩みが深いほど“湧いてくる感情には全て意味がある”この言葉が実感できます。
               
(テキスト生き甲斐の心理学・第3章を参照)





コメント
この記事をはてなブックマークに追加

考える葦として…!

2008年02月20日 | 螺旋状に上昇する意味
原初感情を大事に生きよう、そう決めた途端に感情に纏わる思い煩いは雲散霧消して、今や心のベクトルは、感情から思考に、すっかり移行しています。“清々しき孤独”の修行の一歩は、ひたすら“考えること”。何を考えているかというと、一言でいえば“真善美”なのですが、数冊の書物を友として、“真善美という言葉をもつようになった人間”について、思い巡らし、ひたすら考えます。

原初感情を頼りに生きのびてきた人間が、いつの頃からか言葉を得て、信頼という絆に啓かれていく過程を「五万年前」という本で読み、わくわくしていますが、人類の進化の過程を知ることは即ち、今ここに在る私を知ることであると感じます。感情の曼荼羅を充分生きる、真に人間らしく生きるとは、“真善美”に深く想いを寄せてはじめて叶うものだということを、多くの人は見逃しますが、この言葉を味わい、言葉の意味を感受すること、そのスケールを身の内にもつ努力ができて、はじめて人間と呼べるのかもしれません。

自己実現に生きている人を観察すれば明らかですが、その人は必ず、豊かな感情生活と共に、“真善美”を意識して、それに啓かれるように誠実に努力、よく“考える人”であることが判ります。

今朝のこと。ホキョッ、、、と頼りなげですが、鶯の初音を聞きました。そろそろ薪ストーブの番をする必要もなくなり、家の内外の作業に最適な季節が始まれば、書物を友としている時間もあと僅かです。次は戸外の空気と土と木々の自然を友として、“身体で考える”時間が増すことでしょう。「五万年前」から現在、そして未来へと、人類の進化の過程に想いを馳せながら、いちばん苦手な体を動かすことへ。いよいよ修行の始まりです。








コメント (2)
この記事をはてなブックマークに追加

清々しき孤独…

2008年02月12日 | 愛とゆるし
“20歳前にできるだけ多く本を読んだほうがいい、ハタチ過ぎると感受性が鈍るから…”遠い昔、20歳を僅かに越えた先輩が、20歳までまだ2,3年ある私に向かって熱く語ってくれたことを思い出します。そんなものかしら。当時は、それほどの切実さもなく聞いていましたが、20歳を境にはともかくとしても、若い頃に読むべき書物、習得すべき学び、触れるべき芸術というものは、確かにあるということが、今はよくわかります。

それでも、遥か昔に学びの旬を逸したにしても、今は今なりに、若い頃には無かった知恵を働かせながら、読書や芸術鑑賞を楽しむことは出来ます。“知る”を楽しむのに、遅すぎるということはありません。

私にとって残念という点では、旬に知識を学び損ねたことよりも、“好き・嫌いを生きる方法を身につけてこなかった”ことの方がずっと大きい。今日の、生き甲斐の心理学のブログ(12/12)には、<自分を欺くとは、好き・嫌いを意識しないで生きること>とあります。20歳の頃は、好き・嫌いを意識して、ある程度それを基準に行動していたのが、いつの頃からか、環境の変化に感情表現が追いつかなくなり、自分で自分の原初感情が、みえなくなってしまったのです。

<自分に正直に生きる>、言葉にすれば平易ですが、この実践はなかなか難しい。それは、かなり勇気がいることで、もし真剣に向かうならば、修行という言葉が相応しい領域かもしれません。それにより、新たな孤独を体験することにもなるでしょう。しかし、やるだけの価値はあります。求めるは、淡々とした正直な人間関係。そこからから流れ出る、一筋の美味しい水、“清々しい孤独の味”を知ったならば、もう後戻りすることなど考えられません。


コメント
この記事をはてなブックマークに追加

まぼろしの鳥

2008年02月06日 | 愛とゆるし
例年、立春の前ごろから、なんとなく小鳥達の動きは活発になるようです。雨の日でも庭の植え込みを盛んに歩き回り、啄ばみ始めるシロハラ。一メートルにも満たないツゲの木に、黒い実を目当てに飛んでくるメジロたち。特別に愛鳥家というわけでなくても、村や山奥に暮らす十数年の間には、小鳥達との印象的な出合いや思い出が、いくつか生まれました。

イカルの朗らかさの対極にあるような、妖気を感じるトラツグミとアオバトの声。真夜中、闇に響くトラツグミの神秘の声音を聞くと、この鳥が、その声ゆえに伝説の動物“鵺”と重ねて連想されてきたことも頷けます。そして神秘の姿というならば、1995,6年ごろの信州でまぼろしと思えるほど、それは珍しい鳥を目撃したことがあります。

ある日、部屋の窓から友人とふたりで、数メートル先の小さな池を眺めていると、池の茂みに、白い鳥が一羽、舞い降りました。これまで見たことのないものが忽然と現れ、“なになに?あれ、なに?”呟く友人と私。しかし、私たちの驚きに気付いたのか、ふわっとした見事な冠を戴く白い鳥は、一瞬にして、目の前から消えてしまいました。

ヤツガシラ。野鳥図鑑には、黄褐色で、縞模様の鶏冠が見事な鳥が載っていますが、私の記憶の中では年月と共に、白く、ふわっとした姿で蘇るようになりました。今でもふと、あの情景、出来事を思い浮かべ不思議な気分になりますが、その度に、友人の閉ざされていた感情生活や、幸福感にあるとはいえない日々が、
当時の私には、全く見えていなかったことに考えが及びます。

あの頃は私の感情生活も硬直気味で、とても人を想う余裕などなかったのでした。まぼろしの鳥を思い出すたびに、あれは何だったのだろう?その出合いの意味を、何かを、見つけ出したがっている私がいるようです・・・。




コメント (2)
この記事をはてなブックマークに追加