こころの羅針盤

私の人生に待ちうける「意識」の大海原・・・心と身体と魂と、日々の感情生活を語ります。

幸福曲線を大切にしているだろうか。

2013年08月29日 | 未整理
相手を喜ばせたい。
その原型は、母を喜ばせたかった子供時代にありそうです。
(自分を養育、保護してくれる人を喜ばせたかった子供時代…)

母を喜ばせたい、悲しませたくない。
母の望む自分でいたい。。。これらの感情のもとにあるのは、
“母を不快にして見捨てられたくない”不安感です。

これは不幸な母子関係の話というわけではなく、
普通の母子の心の世界に起こっていることですが、
子供から大人へ。成長して人間関係が拡大していく中で、
母に対する感情は大切な人全般に転移されるかもしれません。

自分にとって大切な人を喜ばせたい。
少々無理をしてでも、相手を喜ばせたい…そんな傾向も
無理が利く内はよいのですが、傾向が度を越すと、
相手の幸福曲線を優先して、自分のストレス曲線を無視するようになります。

自分のストレス曲線を無視し続けることほど怖ろしいことはありません。

この傾向が、母子関係では遥か昔に卒業しているとしても、
肝心なのは、今の自分にとって大切で重要と感ずる人に対してどうなのか?です。
相手の喜びを優先させたいがために自分のストレスを無視してはいないか。

自分のストレス曲線を無視することで成立つような関係は、
充足感もなく幸福な関係からは程遠い関係です。

大切な人に対して、自分の幸福曲線を大切に生きているだろうか?
今の私は、まずまずだと…思います。
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地球にて。

2013年08月28日 | 
人生とは劇中の幕間のようなもの。
生まれる前と、この世を去って後にこそ、
長い長い劇の上演があるのだと、
誰かがそのようなことを書いているのを読んで、
なるほど…と思ったことがあります。

あれから十数年…
今は幕間というよりも、人生とは劇中劇のようなもので、
生まれる前から始まって生まれる後も続いてゆく、
果てしない物語の中の物語を生きるているのだと、そう考えるのがしっくりきます。

地球という場面設定の中で、
いかに私という役を演じきるか。役割を生き抜くか。

魂の壮大な旅の途中で、美しい地球という星の舞台に立っている。。。
想像するだけで、なんだか愉快です。

 島根県・大麻山近くの海

追記。おぼろげの記憶を確認すべく本棚を探したところ、
「生はまるで、長い物語の幕あいの劇のようにみえます。」
ある本に引用されているユングの言葉に線が引いてありました。
記憶の方があやふやでしたがユングの言葉はまさにその通りと感じます。
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ストレス曲線に安住するって…?

2013年08月22日 | 未整理
ストレス曲線に安住するって、どういうこと?
疑問に思うかもしれませんが、
ストレス曲線が常態になると、
そこにいることに安定を見出してしまう、
そんな妙なコトも起こるのです。
ストレス曲線から脱したいと願いながら、
無意識では、脱するのがコワくて動けない。。。

これがストレス曲線に安住するという意味です。
でも、そんな自分のパターンも意識化できれば、
幸福曲線(平安感、友好感、健康感、幸福感、統御感)に向けて、
一歩踏み出すことになるでしょう。

ね・む・い・アブラです
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自分を大切にするということは

2013年08月21日 | 未整理
自分を大切にすることは大事だと知っていても、
知っているだけでは大切にしていることにはならないわけで、
どうすることが自分を大切にすることになるのか?

折々に気楽に真面目に、具体的に考えておきたいものです。

大切にする具体的な内容は自分にしかわからないので、
自分しか分からないことに向き合い、誠実に考えることが、
まさに自分を大切にすることといえるのでしょう。

とにかく自分にしかわからないことを、しっかり自分で考えてみることです。

私の場合なら、感情生活を幸福曲線に向かうことを意志することは、
自分を大切にすることになると思っていますが、
考えても仕様のないことを考え出したら注意信号です。

過ぎたことをいちいち照合して自分を判断したがる傾向にはストップをかけます。

ストレス曲線(不安感)に安住してはなりませんと、
にっこり自分に微笑んでみるのも上手くいきます。

自分を大切にするということを大事に生きていると、
人は考えた通りの人間に成るというのは、本当にそうだと、
心の世界が自分を成立たせている現実が見えてきて、
それは歳を重ねることの楽しみの一つでもあるのです。

ストレス曲線に安住しないで、幸福曲線へ。
意志するところから、すべては始まるのですね。

夕顔の花。昨日ようやく咲きました。
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心ここにあらずでなく、

2013年08月17日 | 未整理


台所の窓は東を向いているので、
日陰になるのを待って正午前からガラス拭きをしました。
外は窓際まで植木が迫っているので、まずは踏み台を置く場所の草取りと枝を払います。

これまでは、こういう行程がいちいち面倒くさかった・・・でも今日は様子が違いました。

面倒だなあと思いながら心ここにあらずで作業するのと、
心をガラス拭きに集中させて他のことは考えていない…その違いだったかもしれません。

ごくごく卑近なこと。日常の小さなことに際して、
心をここに留めて成すことの気持ちのよさ、集中することの爽快感を、
常日ごろ体験しているかどうか。これは案外大事だと思われます。

ピラミッド建設に従事した古代人の集中力に想いを致してといっては、あまりに卑小ですが、
心ここにあらずではよい人生は送れない。そのことに思いを致し、
まずガラス拭きから変化が生まれるとは、私の身の丈ではありますね。
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外界の見え方が変わるとき

2013年08月14日 | 未整理
かつて外界を怖がっていた頃、就寝前には、
“どうかイヤなことが起こりませんように”と手を合わせていました。
心のどこかで、こんなのヘンと思いつつも祈らずにいられなかったのです。

ああ怖いと、しょっちゅう口に出しては“怖がるな!”、
ときには“こわがるでない。。と、おどけた調子で家人に諭されたのを思い出します。

一時的に陥った過度のコワガリは、心の仕組みを学ぶ中で消滅していました。

自分の傾向を自覚すると、以前には気にならなかったオソレル微妙な感じに気付きだし、
それはそれで自分の個性として認めつつ、でも、できれば怖れをなくしたいなと、
怖れは世界を狭くする。もっと自由になりたいと感じていました。

そんな経緯があって、ふと思えば、このごろは、
コワガル自分を意識することが殆どないことに気付きます。

何がこのような変化をもたらしたのかといえば、
成育史の心に納まりきれない“私”を自覚したからと思われます。
たぶん成育史の心だけでは説明のつかない“私”の自覚が変化をもたらしたのです。

魂のわたしの自覚は、魂のあなたを意識することでもあります。
成育史の心が感ずる違和感を越えるものが、あなたにもわたしにも存在するということ。
魂を意識するかしないか。それによって世界の見え方が大きく違ってくるのですね。

この自覚の度合いが高まるほどに、自由を感ずる度合いも高まるのだと思います。
意識の持ち方によって、見える世界が一変するのです。
この世で、どれくらい自由を広げられるか。“私”次第ですね。

二匹います♪
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魂としての、私

2013年08月11日 | 
人間の本質は平安である。このごろ、
この捉え方がしっくりくるようになりました。

「魂」としての人間と捉えるならば、
(キリスト教的には人間を永遠の生命として捉えるならば)、
人間の本質は平安である…この方がしっくりきます。
実はこの感覚はかなり前からもっていて、
「心・体<魂」とノートに書き付けたりしていました。

こころの仕組みを学ぶ過程においては、
(成育史の宝物を探す過程においては)、
人間の本質は不安であるところから出発して、
自己探求の旅の途中で魂としての私が意識化されて、
徐々に強まってきた…私の場合、そんな表現もできそうです。

魂の本質は幸福曲線である。
魂の本質は平安感、友好感、健康感、幸福感、統御感である。
そして魂は愛を経験する。。。

成育史の宝物に気付きだした途端に、
不安から平安へ、感受性がひっくりかえる過程を歩みだすわけです。

自身に対するセルフイメージがひっくりかえる過程ともいえます。

魂としての私を意識すると、どんな変化が起こるのか。
何が見えて、何が見えなくなってくるのか。

私の人生のテーマは、これで決まりです…!
お盆に相応しいテーマだニャン。アブラ
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何を気付かせようとしているのだろう…?

2013年08月06日 | 未整理
相手の言葉に反応して、
ああ…私は不安感から行動しようとしている…と気付いていると、
他者否定をできるだけ抑えて、行動しようとします。

自分の不安に気付いていると、相手に伝わる他者否定の匂いは否めないにしても、
感情の鋭さは和らぎ、双方に再出発の機会が与えられることになります。

相手の言葉に反応して、自分の中に生まれた不安感に気付かないまま行動すると、
言葉のオブラートで沸き立つ感情を包んだとしても、
他者否定が強く相手に伝わって、結果、双方がストレスの渦に巻き込まれて、
友好感の修復に、とても時間がかかったりします。

言葉に反応するのは私自身が何か大事な気付くべき問題、
意識に上るべき何かが潜在しているときということは多いようです。
(ほんとうは、すべてそうなのかもしれません)

その言葉にイラットする、妙にむかつくときには、
ああ、不安になっている、、不安な私に気付いてやると、
最終的に考えてもいなかった、重要な気付きに行き当たることは間々あります。

何のことはない、私が怒りで反応した相手は
気付きのきっかけを配達してきてくれたにすぎなかったというわけです。

不安感から生まれる行動と、平安感から生まれる行動、
不安感に気付いて行動するのと、気付かぬまま行動してしまうのと。。。

一呼吸おいて。この不安感は私に何を気付かせようとしているのだろう?
地道に探ってゆく中で知らず知らず平安感、幸福曲線に基づく行動も増えてゆくようです。

この不安は私に何を気付かせようとしているのだろう?
今日も問いかけながら、私に相応しい、私の道を探求していくことにしましょう♪。。
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幸福曲線を、願う

2013年08月03日 | 未整理
自己実現の道について、あれこれ思索してきた中で、
正直、現実味がない理想を掲げたこともあったなと、思います。
おかしな話ですが自己実現の道を無理をして捻り出したこともあったのです。

ストレス曲線上の堂々巡りの思考と感情のなせる業でした。

しかし、どんなに迷いの中にあっても、
いつでも心の奥底に「幸福曲線こそが人生の目標」と、
どんなときも強く持ち続けてきたように思います。

幸福感を生きることは私にとってウソ偽りのない本音の願望です。
他に何もなくてもこの願望さえあれば、それで十分。私は私…。

そんなふうに居直ってから、幸福感に満たされている未来を想いつつ、
“幸福を受けるに相応しい私になれますように”、
願望を、日常の中で意識的に言語化-口に出したり、文字にしたり-してきました。

それで解ってきたことは、一見自己中心的に聞こえるこの願いが、
本気で願うほど、自己受容、他者受容に接近してゆくということです。

これは自分を取り巻く世界を肯定的に解釈できる、つまり幸福曲線で解釈できる、
そのような私に変化してゆくことが他者の幸福にも繋がっていく何よりの証拠かと思うのです。

幸福感を生きられる私になりますように。

このシンプルかつ究極の願いが自分にピッタリくると感じたならば、
どうぞ願望達成に向かって一歩踏み出してみてください。
言語化の次は幸福感に生きている自分を、楽しくイメージすることもお忘れなく。。。

 弟猫のマヤ。奥のロンの耳がちょこっと見えます
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