あるニヒリストの思考

日々の思いを綴る

女医殺人、警察官襲撃事件の犯行動機は、誰にもわからない。(自我その135)

2019-06-19 22:40:38 | 思想
山形市の女医殺害事件も、大阪府吹田市の警察官襲撃事件も、誰にも、その動機はわからない。本人にさえ、その動機はわからないからだ。しかも、自分の犯行であるという自覚も無い。だから、警察調書の署名にも応じていない。しかし、彼らは嘘を言っているのではない。嘘を言えるほど正常な精神があれば、誰の利益にもならない、こんな事件を犯さないだろう。このことについて、順を追って説明しようと思う。人間は、いついかなる時でも、ある構造体に所属し、あるポジション(ステータス、地位)を得て、その役目(役柄)を担い、それを自我として行動して、暮らしている。例えば、家族という構造体では、父・母・息子・娘などを自我とし、学校という構造体では、校長・教頭・教諭・生徒などを自我とし、会社という構造体では、社長・部長・課長・社員などを自我とし、コンビニという構造体では、店長・店員・客などを自我とし、電車という構造体では、運転手・車掌・乗客などを自我とし、仲間という構造体では、友人を自我とし、カップルという構造体では、恋人を自我として行動して、暮らしている。もちろん、その行動は、考えて行われている。しかし、自ら意識して考えているのではない。表層心理という意志や意識が考えているのではない。深層心理が、無意識の範疇で、考えているのである。深層心理が考えて、感情を生み出し、行動の指針をする。それが、深層心理の欲望である。表層心理は、深層心理の欲望を意識しない場合と意識する場合がある。意識せずに行動する場合、無意識の行動と呼ばれる。例えば、歩くという行動は、たいていの場合、無意識による行動である。しかし、捻挫したり、怪我をした場合、表層心理は、歩き方を意識するのである。また、表層心理は、深層心理の欲望を意識して、その行動を止める場合がある。それが、心理学で、抑圧と言われる現象である。表層心理が、深層心理の指針通り行動すれば、後で、不利益になると判断したからである。例えば、会社で、上司に厳しく叱責された時、深層心理が、怒りの感情と共に殴れという指針を出すが、表層心理は、そうすると、会社にいられなくなることを考慮し、深層心理の欲望を抑圧して、自ら謝罪して、この場を切り抜けようとするのである。しかし、深層心理の欲望が強過ぎると、表層心理の抑圧は功を奏さないことがある。例えば、ストーカーの深層心理が生み出した苦悩と危害を加えろという激しい欲望を、表層心理が抑圧できず、相手女性に危害を加えてしまうのである。さて、深層心理の欲望は、深層心理自らが行う、対自化・対他化・共感化の作用によって生まれてくる。対自化とは、人は、物や動物や他者に対した時、それをどのように利用するか、それをどのように支配するか、彼(彼女)がどのように考え何を目的としているかなどと考えて、対応を考えることである。対他化とは、他者に対した時、自分が好評価・高評価を受けたいという気持ちで、彼(彼女)が自分をどのように思っているか、相手の気持ちを探ることを言う。共感化とは、他者と、敵に当たるためにと協力したり、友情を紡いだり、愛情を育んだりすることを言う。人は、物や動物や他者に対した時、この三化のいずれかの姿勢で当たる。この三化の中で、深層心理の欲望が最も激しく動くのは、対他化である。喜怒哀楽の感情のほとんどは、対他化によって起こっている。精神疾患の原因の全ては、対他化によって起こっている。それほど、他者の評価が、人の気持ちを左右するのである。例えば、会社員が、会社へ行くと、仕事上のことで、毎日のように、上司に叱られる。理不尽なことが理由ならば、誰かに相談できるのだが、自らの力不足が原因だから、誰にも相談できない。自分でいろいろやってみるのだが、一向に向上せず、叱られてばかりいる。そうすると、深層心理は、それの解決法を考える。最も簡単な解決法は会社を辞めることだが、これは一大決心は必要であり、表層心理の抑圧もあり、容易には決断できない。そこで、深層心理は、大きな決断も必要せず、表層心理の抑圧が働かない、解決法を考える。その解決法が、精神疾患に導くことになる。人の気質によって、深層心理は、次の三つの解決法の一つを考える。いずれも精神疾患に繋がる。しかし、現況から逃れるためには、いずれかを解決法として採用せざるを得ない。。一つ目の解決法は、会社に行かないことである。こうすれば、必然的に、上司に叱られることは無い。そこで、深層心理は、自らを鬱病にするのである。鬱病になれば、気分が重すぎて、会社に行けなくなるからである、しかし、一旦、鬱病になると、日常生活の全てが、鉛のような重い気分に支配されて、苦しく、ほとんど、何もできない状態になるのである。二つ目の解決法は、自分の行動を自分でしたという実感がないようにすることである。そうすると、会社に行って、上司に叱られても、責任を感じることが無くなり、自分の力不足を嘆き、苦悩することも無くなるのである。それが、離人症に繋がるのである。離人症になれば、会社に行って、上司に叱られても、誰の仕事上の失敗なのかという風に思うことができ、責任を感じることが無くなり、自分の力不足を嘆き、苦悩することも無くなるのである。しかし、一旦、離人症になると、日常生活の全ての場面において、自分・他者・外部の世界の具体的な存在感・生命感が失われ、それらが見えていながら、それらと自分とのつながりの実感を失い、無味乾燥の精神状態に陥ってしまうのである。この場合、表層心理の意識も意志の働きも、抑圧の働きも無い。自分の深層心理の欲望が動いた結果でも、自分以外の人の深層心理の欲望が動いているように錯覚しているのだから、自分の表層心理が働けないのである。三つ目の解決法は、自分の現実を映画を見ている時のように実感のないようにさせることである。そうすると、会社で、上司に叱られても、映画を見ている気持ちで実感無く受け止めることができ、自分の力不足を嘆き、苦悩することも無くなるのである。それが、統合失調症に繋がるのである。しかし、確かに、統合失調症になると、上司の叱責は、全く実感に響かず、苦悩することは全くなくなるが、日常生活全てにおいて、人格の自律性が障害され、他者との自然な交流はできなくなるのである。そこにおいて、意識や意志という表層心理は、映画のような夢の世界では、存在価値がないから、消滅している。深層心理の欲望は、このような映画の世界では力を発揮できず、力が有り余っているから、時として、幻聴・幻覚として、本人を悩ますことになる。実際は、深層心理の働きに意味があるのだが、表層心理がそれを受け止めて解釈することがないから、幻聴・幻覚として思われるのである。そうして、表層心理が働かないから、抑圧もなく、深層心理の欲望が、向き付けで、強力な形で、幻聴・幻覚として、本人を襲うのである。統合失調症の人が、幻聴・幻覚に襲われて、抗することができず、罪を犯すことがあるのはこのせいである。そして、逮捕された統合失調症の人が、警察官の取り調べで、「誰かに命令されて。」、「夢の中で自分が。」、「別の自分が。」、「自分はやっていません。」と答えるのは、嘘ではなく、彼の正直な気持ちの答えなのである。山形市の女医殺害事件も、大阪府吹田市の警察官襲撃事件も、離人症、統合失調症に罹患している人、若しくは、同種の精神病に罹患している人が、犯したのだと思う。恐らく、誰にも、その動機はわからないと思う。深層心理と表層心理が、正当に機能していないから、本人にさえ、その動機はわからないからだ。しかも、自分の犯行であるという自覚も無い。だから、警察調書の署名にも応じていないのである。しかし、彼らは嘘を言っているのではない。彼らは、嘘を言えるほど健常者に近ければ、初めから、誰の利益にもならない、こんな事件を犯さないだろう。しかし、ますます、この手の事件は増えていくように思われる。なぜならば、現代社会は、自由な社会だと言われ、誰しも、そう思い込んでいるからである。自由な社会は、自分に実力があれば、のし上がっていける社会である。しかし、挫折すれば、誰にも責任転嫁もできず、自分の力不足を嘆き、苦悩することになる。そのような人の中で、深層心理が思いあぐね、この状況から逃れるために、自らを、離人症、統合失調症、若しくは、同種の精神病に罹患させるからである。根本的に、社会そして人間を捉え直さなければ、この手の事件は増えることはあっても、減ることはないだろう。

生きていくことは、汚れ、不正直を重ねることである。(自我その134)

2019-06-18 17:02:42 | 思想
「子供は正直である」と称賛されるのは、大人のように、自分に利益をもたらすために、ごまかしたり、策略を用いたりして、悪事を働くことはないと思われていたからである。たとえ、子供は悪いことをしても、簡単に露見し、注意すれば、素直に従うと思われたからである。しかし、そんなことはない。子供も悪事が露見すれば、友人や他の人のせいにする。正直に白状することがあるのは、言い逃れをするだけの知恵が無いからであり、正直に言えば、許される可能性が高いことを知っているからである。全国各地において、小学校の低学年の頃から、弱者に対して、陰湿ないじめが長期にわたって繰り返されている。確かに、大人に比べて、悪事のレベルは低いから、犯罪に問われないだけで、悪事の件数から言えば、決して、大人に引けは取らない。それは、各人が、自分の子供時代を振り返ってみればわかることである。子供時代には、純真だったが、次第に、心が汚れてきたとと、誰が言えるだろうか。人間は、子供の頃から、汚れており、不正直なのである。それは、人間は、子供時代から、欲望があり、その欲望は、本人の意志にかかわらず、深層心理から上ってくるからである。それでも、大人が、「子供は正直である」と言いたいのは、大人は、「せめて、子供だけでも、純真な心を持ってほしい」と願っているからである。まさに、「人は自己の欲望を他者に投影させる」のである。また、もしも、子供が純真な心の持ち主ならば、少年法は不要だろう。そもそも、正直であることは良いことなのだろうか。正直であるとは、自己の欲望に忠実であるということである。言いたいことを言い、したいことをするということである。人間の欲望の基点は、生命欲、快楽欲、認知欲であるが、それらを思う存分に、発揮するということである。生命欲は、欲求とも言われ、飲みたい、食べたい、眠りたいなどの欲望である。快楽欲とは、文字通り、楽しみたいという欲望であり、アニメを見たい、音楽を聴きたい、ゲームをしたいなどの欲望である。認知欲とは、人に愛されたい、人に認められたいなどの他者から好評価・高評価を受けたいという欲望である。しかし、その欲望がかなえられないとき、自分の欲望を妨害した人に対して、侮辱したい、殴りたい、挙句の果てには、殺したいなどの復讐欲も欲望としてわいてくるのである。正直であるとは、自己の欲望に正直であるということであるから、復讐欲も、忠実に実行するということになる。このように、人間の欲望は、生命欲・快楽欲・認知欲を基点として、深層心理から、いろいろなものが生まれてくる。深層心理から、自分の意志に関わりなく、いろいろな欲望が湧き上がってくる。表層心理は、才覚を発揮して、その欲望の中で、実行すれば、自分に不利益な結果を招来しそうなものは、押さえ込もうとする。所謂、心理学で言う、抑圧である。人間の心理に抑圧がなければ、とんでもない社会になる。犯罪社会になり、短期間で、人類は絶滅する。つまり、人間は、深層心理の欲望に忠実でないから、換言すれば、人間は正直でないから、人間社会が成り立っているのである。表層心理が才覚を発揮するから、換言すれば、人間は汚れているから、人間社会が成り立っているのである。しかし、人間は、どんな欲望であっても、自己の欲望を抑圧すれば、ストレスを感じてしまう。しかし、後に、抑圧したことが正しいと思うことができれば、ストレスも消えてしまう。ストレスが消えないのは、抑圧したことが正しいと思われず、自己の力不足を嘆くことから生まれてくる、心のわだかまりが継続しているからである。現代社会は、自由な社会だと言われていて、誰しもそう思い込んでいるから、どんな欲望でも、自己の欲望を抑圧すれば、後に、その抑圧が正しいと思われなければ、心の中で、自己の力不足を嘆き、ストレスを感じ、それをため込んでしまうのである。職場で、上司からパワハラやセクハラを受け続けた部下が、ストレスをため込み、鬱病に罹患するのは、パワハラやセクハラを受けた時、深層心理から反発や抵抗や反論や反撃などの欲望が起こったが、表層心理が、その欲望を実行すれば、自分に不利益な結果を招来することを考慮して、欲望を抑圧したが、後に、その抑圧を後悔しているからである。上司の意のままになっているというように考え、自己の力不足を嘆き、ストレスをため込み、鬱病になってしまったのである。パワハラやセクハラを行った上司は、その地位や権威を利用した欲望が深層心理から湧き上がり、それを実行しただけなのである。上司は、たとえ、邪なパワハラやセクハラの欲望であっても、自己の欲望を抑圧すれば、今度は、上司が、ストレスを感じてしまうことになるのである。賢明な上司は、欲望を抑圧したことに納得し、ストレスが消えてしまう。しかし、暗愚な上司は、欲望を抑圧したことで、心の中で、自己の力不足を嘆き、ストレスを感じ、それをため込んでしまうので、パワハラやセクハラを行うのである。暗愚な上司の中には、パワハラやセクハラの欲望を抑圧することを全く考えず、そのまま実行する者も存在する。現実には、賢明な上司よりも、暗愚な上司が、断然、多いのである。なぜならば、上司を止める者がいないからである。だから、部下が団結して、若しくは、部下が外部の力を借りて、上司の欲望を阻止しなければいけないのである。権力者とは、常に、そういう者なのである。権力の旨味とは、自己の欲望を、思う存分に発揮できることなのである。しかし、政治家が、地方遊説に行くと、大衆が、喜色満面で、歓声を上げて、彼を取り囲む。それを見ても、ニーチェが「大衆は馬鹿だ。」と言うのは納得できる。マルクスは、政治的・経済的な支配権をめぐって、支配階級に対して、被支配階級が階級闘争を起こすことを提唱したが、現代社会においては、それに加えて、人権をめぐっても、階級闘争を起こす必要があるのである。キリスト教徒は、長年、「全知全能の神が、なぜ、善なる心だけでなく、悪なる心を抱く、人間を創造したのか。」という課題に取り組み、いろいろな解答を出してきた。しかし、人間は、欲望の動物であり、欲望は深層心理から湧き上がってきて、深層心理には、善悪の判断はないから、人間の心に、善悪が同居するのは当然のことなのである。さらに、キリスト教徒は、簡単に、善と悪について述べるが、善とは何か、悪とは何かという思考を深めていないのである。例えば、第二次世界大戦の末期、何度も、ヒートラーの暗殺未遂事件があり、彼らは、皆、処刑されているが、彼らは善なる心を抱いていたか悪なる心を抱いていたか。キリスト教徒はどのように答えるのだろうか。簡単に、善とか悪とか決められないはずであり、決めてはいけないのである。また、キリスト教で、悪事を犯したことや悪なる心を抱いたことがある者が、神の代理とされる司祭に、それ告白し、許しと償いの指定を求める懺悔という儀式があるが、悪なる心を抱いた者まで罪人であり、人間は欲望の動物だから、人間全員が懺悔しなければならないだろう。当然、司祭自身、懺悔しなければならないことになる。このように、人間が生きていくということは、汚れ、不正直を重ねることである。しかし、自分の意志に関わりなく、深層心理から、善悪の区別無く、欲望が湧き上がってくるから、そうならざるを得ないのである。人間は、いついかなる時でも、深層心理から、いろいろな欲望が湧き上がってくるから、表層心理が、それを吟味し、実行すれば、自分に対して、他者に対して、社会に対して、不利益や害悪をもたらす欲望を抑圧する必要があるのである。しかし、どのような欲望でも、抑圧すれば、ストレスを感じる。しかし、抑圧したことが正しいと思うことができれば、ストレスも消えてしまうのである。しかし、ストレスを全く感じること無く、自己の欲望を追求したいというのも、人間の性である。だから、人間は、権力者を目指すのである。しかし、だからこそ、権力者の欲望を阻止しなければいけないのである。

世界内存在としての自己と構造体内存在としての自我(自我その133)

2019-06-17 15:52:06 | 思想
人間を世界内存在として捉えたのは、ハイデッガーの功績である。もっとも、ハイデッガーは、人間とは言わず、現存在と表現し、他の生物と異なった、自己の存在を了解しつつ生きている人間のあり方を強調しているが、現存在という言葉は、一般に知られていず、なじみがないので、ここでは、便宜上、人間という言葉を使うことにする。ハイデッガーは、人間の世界内存在のあり方を、次のように説明している。人間は、世界内存在として、世界に生きている。しかし、その世界は、客観的な空間ではない。自分の視点でとらえた空間である。それ故に、人間は、世界内存在として、自分の世界に生きていると表現した方が、より正確になる。それは、虫や他の動物も同じである。彼らもまた、世界内存在として、世界に生きているのである。しかし、人間は、視点が変化することがあり、それに応じて、世界の認識も評価も変化するが、虫や他の動物は、生来の視点に変化がなく、従って、世界も変化しない。また、人間は、世界に向かって働き掛ける。この、世界に向かって働き掛ける動きを投企(企投)と言う。しかし、虫や他の動物には、投企(企投)の動きは無い。さらに、人間は、自らが認識した世界を、、投企(企投)の対象として状況として捉え、状況の中で、自らの行動を選択したり、選択の迷いの末に決断することがある。つまり、人間は、世界に取り込まれず、常に、世界を解釈して、状況として、投企(企投)する対象として捉え、投企(企投)する方法を選択したり、決断したりして、日々、暮らしている。このように、世界に取り込まれず、世界を解釈し、世界に働きかける人間の在り方が、自由というあり方なのである。しかし、虫や他の動物は、生来の視点で捉えた世界に変化がなく、世界に働き掛けもしない。そういう意味で、彼らには、自由が存在しないと言えるのである。さて、人間は、日々の活動においては、他者が関わり、世界が構造体へと細分化され、自己が自我となる。人間は、常に、ある構造体に所属し、ある自我を持って活動している。構造体とは、人間の組織・集合体であり、例えば、家族、学校、会社、店、電車などであり、仲間、カップルなどの人間の組織・集合体も構造体であ。自我とは、ある役割を担った現実の自分のあり方であり、例えば、家族という構造体では、父・母・息子・娘などの自我があり、学校という構造体では、校長・教諭・生徒などの自我があり、会社という構造体では、社長・課長・社員などの自我があり、店では、店長・店員・客などの自我があり、電車という構造体では、運転手・車掌・客などの自我があり、仲間という構造体では、友人という自我があり、カップルという構造体では恋人という自我があるのである。人間は、孤独であっても、そこに、常に、他者が絡んでいる。人間は、常に、ある一つの構造体に所属し、ある一つの自我に限定されている。人間は、毎日、ある時には、ある構造体に所属し、ある自我を得て活動し、ある時には、ある構造体に所属し、ある自我を得て活動し、常に、他者と関わって生活し、社会生活を営んでいるのである。人間は、世界内存在の生物であるが、このように、実際に生活するうえでは、世界が細分化され、構造体となる。つまり、実際に生活する時には、他者との関わり合いの中で、世界が構造体へと限定され、自己が自我へと限定されるのである。自己が自我へと限定されるのは、自分の役目(ステータス、ポジション)が決まって来るからである。自分の役目を自分として認めたあり方が自我なのである。世界が構造体へと細分化されると、構造体は、世界のように広いものではなく、家族、学校、会社、店、電車、カップル、仲間などへと狭くなり、人間も、その構造体の中で、自分の役目を担って、自我をもち、それぞれの人がその役目に応じて活動をする。自我は、自己のように、自分だけのものではなく、他者との関わりの中で、役目を担わされ、発揮されることになる。自我の働きが認められ、他者から、好評価・高評価を受けると、気持ちが高揚し、自我の働きが認められないと、他者から、悪評価・低評価を受けて、気持ちが沈み込む。当然のごとく、自我は、他者から、好評価・高評価を受けることを目的として、行動するようになる。このようにして見てくるとわかるように、構造体存在としての自我は、世界内存在としての自己と異なり、他者からの評価が、絶対的なものになってくるのである。構造体存在としての自我は、世界内存在としての自己の派生体であるが、人間の日常生活は、構造体存在の自我であるから、他者からの評価によって動かされていると言える。人間の感情形態は、一般的に、喜怒哀楽で表されるが、喜怒哀楽は、他者の評価によって、発生する。そうして、喜怒哀楽が、また、人間を動かしていく。このように、人間の日常生活は、自我であり、自我は、他者の評価に囚われているのである。つまり、人間の日常生活は、他者の評価に囚われていて、自我という人間は、他者から、好評価・高評価を受けることを目標に、それを目指して生きているのである。

存在することの不思議について(自我その132)

2019-06-16 03:40:12 | 思想
アリストテレスは、「哲学は驚異に始まる。」と言っている。確かに、人間は、驚くことがあったら、考える。しかし、それが、必ずしも、哲学に結びつかない。むしろ、哲学に結びつかないほうが多い。なぜならば、驚きは日常生活で起こり、日常生活は世事にまみれた形而下の営みなのに、哲学は、理性を使って抽象的な思考を重ねていく形而上の営みだからである。日常生活という形而下での驚きだから、現実的に対応し、形而下にとどまり、形而上の思考に発展することは稀なのである。それ故に、日常生活での驚きを形而上にまで高める人は、もともと、心の中に、形而上の思考や疑問を抱いていたと思われる。ハイデッガーが、「人間は、心の中にあることしか、発見できない。」と言うのは、この謂いであるように思われる。しかし、ウィトゲンシュタインは、「世界がいかにあるかが神秘ではなくて、世界があるという事実が神秘である。」と言っている。存在しているものやことの現象の不思議さに気づくのではなく、存在していること自体が不思議だと考えなければいけないと言っているのである。それは、ハイデッガーの「なぜ何もないのではなく、何かがあるのか。」という問いかけと同じである。存在することに必然性が見いだせないのである。パスカルの「私はなぜここにいて、あそこにいないのか。」という疑問も、自分の存在することが疑問であり、人間誰しも、自由な選択はありえないということなのである。しかし、パスカルはキリスト教徒であり、神と対話することによって、究極的に、神が求めた運命であると納得できるのである。それは、ドストエフスキーが、「神に保証されない限り、人間の存在はありえない。」と言うのと同じである。つまり、人間は、自分が存在すること・世界が存在することの疑問を解くことも自分の存在の必然性・世界の存在の必然性の意味づけもできないのである。ニーチェは、「真理は存在しない。解釈だけが存在する。」と言っている通りなのである。しかし、だからこそ、人間は、自ら、積極的に、自分が存在すること・世界が存在することの疑問を解き、自分の存在の必然性・世界の存在の必然性の意味づけを行っていき、それを確信にまで高めるべきなのである。確かに、それは、ニーチェが言うように、普遍的な真理ではなく、自分による解釈である。しかし、確信にまで高められた解釈ならば、それが、自分にとっての真理である。堂々と、発表し、批判を仰げばよいのである。それを糧にして、さらに高めていけばよいのである。さて、先に述べたように、人間誰しも、驚くことがあったら、考えるのであるが、多くの人にとって、驚きは、日常生活で起こり、日常生活は世事にまみれた形而下の営みだから、現実的に対応し、形而下にとどまり、形而上の思考に発展することは無いのである。なぜならば、彼らにとって、驚くことは、自我が傷つけられて、自我が衝撃を受けることであり、自我が癒されれば、ことはそれで済むのである。つまり、形而下の生活での驚きは、形而下の思考でとどまり、形而上まで発展することは無いのである。たとえば、自我が傷つけられるのは、高校や大学の入学受験に失敗したり、会社で上司に叱られたこと、学校で教師に叱られたこと、失恋したこと、友人に無視されたことなのである。彼らに誰かが自信をつけれれば、また、時間がたてば、傷ついた自我が癒されていくのである。また、彼らの中には、挫折をきっかけに自分探しをするものも存在するが、その探している自分も誰かに認められている自分であるから、自我にとどまり、自己の存在探求や世界の存在の疑問にまでいかないのである。つまり、形而下の思考にとどまり、形而上の思考にまで高まらないのである。このように、形而上の思考をする者と形而下の思考をする者がいるが、両者はかみ合うことは無い。権力者は、常に、現実に密着した形而下の思考者であるから、形而上の思考者を、役に立たないものと批判し、時には、弾圧し、粛清さえするのである。形而上の思考者の多くは、現実に妥協することが少なく、権力者の言うがままにならないからである。日本の戦前の軍部やドイツのヒットラーやソ連のスターリンや中国の毛沢東などが、多くの哲学者、学者、芸術家、作家などを拷問にかけ、暗殺したのは、権力は常に形而下の思考者であることの宿命である。テレビドラマで、水戸黄門、徳川吉宗、織田信長、豊臣秀吉、徳川家康などの権力者が正義を貫いているが、それは、絶対にあり得ないことである。正義を貫ける人は、形而上の思想の持ち主であり、権力の亡者である形而下の人たちにはできないからである。そのようなドラマができるのは、大衆が正義を貫ける権力者を待望しており、脚本家がそれに迎合したからである。大衆が存在しえない権力者を待望しているから、主体的に政治を見ることはできず、政治の動向や政治家の本性を見誤り、一向に政治が良くならないのである。

自殺について(自我その131)

2019-06-14 21:28:59 | 思想
カミュは、哲学的文学論『シジフォスの神話』の冒頭で、「本当に重大な問題は一つしかない。それは自殺である。人生が生きるに値するか否かを判断すること、これこそ哲学の根本問題に答えることである。」と書いている。また、同作品の中で、「未だ嘗て、私は、存在論的な論証から人が死ぬのに出会ったことがない。」とも書いている。カミュにとって、生きていくにしろ自殺するにしろ、存在論的な論証があって初めてなすべきことなのである。人生の課題とは、生きるに値するかしないかを存在論的に論証することなのである。一般の人は、人生をどのように生きていくかが、人生の課題である。しかし、カミュにとっては、生きるに値するか否かを判断することが、人生の課題なのである。ここで思い出されるのは、明治36年、「人生は、不可解なり。」という遺書を残し、華厳の滝に投身自殺した藤村操のことである。彼は、16歳の旧制一高の学生であったから、世間で、「やはり、一高生は、考えることが違う。」と褒めそやしたものである。しかし、カミュは、藤村操の自殺に納得できなかっただろう。確かに、彼が、人生そのものに対して疑問を抱き、人生の意味について深く思考したのは評価できる。しかし、まだ人生が不可解である段階で自殺するのは、思考を途中で放棄したことになるからである。人生は無意味であるという結論を出してからの自殺ならば、カミュも納得できるだろう。しかし、果たして、人生は不可解であるという理由で、人間は、自殺できるものなのだろうか。藤村操は、本当に、それを理由に自殺したのだろうか。後に、この疑問は氷解することになる。藤村操の手紙が発見されたからである。そこには、自殺直前の失恋の苦悩が綴られていた。つまり、藤村操は、人生の意味を解けないことから来る苦悩から自殺したのではなく、失恋の苦悩を逃れるために自殺したのである。失恋を機に、なぜ失恋したのだろう、なぜ失恋の苦悩から逃れられないのだろう、なぜ人は愛するのだろうか、自分は生きるに値する人間なのかなどの疑問が湧き上がり、苦悩の中で人生の意味を問い直し続け、それでも、人生の意味が見いだせず、苦悩から脱却できなかったから、自殺したことは大いに考えられる。単に、人生の意味とは何か、人生は生きるに値するかという問題を考えるならば、人生は不可解なりという段階はもちろんのこと、たとえ、それが結論だったにせよ、万が一、人生は無意味である、人生は生きるに値しないという結論が出ても、誰一人として、自殺しない。失恋という苦悩の中にいるから、失恋という苦悩から脱却できなかったから、人生は不可解なりという段階で自殺したのである。藤村操にとって、失恋という苦悩から脱却することが第一義であり、人生の意味とは何か、人生は生きるに値するかという問題を解くことは、失恋の苦悩から脱却するための手段だったのである。しかし、それは、誰しも、経験することであり、失恋に限らず、人間は、苦悩から思考が始まるのである。そもそも、人間の日常生活は、ニーチェの言う「永劫回帰」のごとく、同じようなことを繰り返し、無意識のままに坦々と過ぎ、つまり、深層心理が同じことを繰り返させ、時として、坦々と過ごせないことが起こると、つまり、深層心理では処理でぎないことが起こると、人間は、表層心理でそれを意識し、それを意識的な思考で解決しようと図るのである。人生のつまずきが思考を促すのである。人生のつまずきという形而下の出来事が、それを解決するために、ある人は形而下の思考をし、ある人は形而上の思考をするのである。藤村操は、失恋という形而下の出来事が、人生の意味とは何か、人生は生きるに値するかという形而上の課題に逢着したのである。しかし、人生の意味とは何か、人生は生きるに値するかという課題は、形而上的な問いであるから、容易に結論が出せないのである。たいていの人は、人生につまずき、苦悩の中で、自らに課題を課すのであるが、時間が経つにつれ、苦悩が薄れていき、課題の解決法を見出せないままに、事が終わってしまうのである。つまり、時間が苦悩を解決したのである。それは、まさしく、ウィトゲンシュタインがの「自分にとって、その問題がどうでも良くなった時、その問題が解決したということなのだ。」という言葉の通りなのである。そもそも、誰しも、時として、人生の意味とは何か、人生は生きるに値するかと考えることがあるが、既に立ち後れているのである。なぜならば、既に人生は始まっているからである。人生の途上で、人生の意味とは何か、人生は生きるに値するかと考えても、人生の全体像が見えないのであるから、正答できるはずが無いのである。人間は、鏡を駆使すれば、体の全体像を見ることができる。しかし、人生の全体像を見る鏡は存在しないのである。人間は、人生につまずき、苦悩の中で思考によって、それを探るしか無いのである。そこが、人間の限界があり、可能性が潜んでいるのである。