あるニヒリストの思考

日々の思いを綴る

世界内存在としての自己と構造体内存在としての自我(自我その133)

2019-06-17 15:52:06 | 思想
人間を世界内存在として捉えたのは、ハイデッガーの功績である。もっとも、ハイデッガーは、人間とは言わず、現存在と表現し、他の生物と異なった、自己の存在を了解しつつ生きている人間のあり方を強調しているが、現存在という言葉は、一般に知られていず、なじみがないので、ここでは、便宜上、人間という言葉を使うことにする。ハイデッガーは、人間の世界内存在のあり方を、次のように説明している。人間は、世界内存在として、世界に生きている。しかし、その世界は、客観的な空間ではない。自分の視点でとらえた空間である。それ故に、人間は、世界内存在として、自分の世界に生きていると表現した方が、より正確になる。それは、虫や他の動物も同じである。彼らもまた、世界内存在として、世界に生きているのである。しかし、人間は、視点が変化することがあり、それに応じて、世界の認識も評価も変化するが、虫や他の動物は、生来の視点に変化がなく、従って、世界も変化しない。また、人間は、世界に向かって働き掛ける。この、世界に向かって働き掛ける動きを投企(企投)と言う。しかし、虫や他の動物には、投企(企投)の動きは無い。さらに、人間は、自らが認識した世界を、、投企(企投)の対象として状況として捉え、状況の中で、自らの行動を選択したり、選択の迷いの末に決断することがある。つまり、人間は、世界に取り込まれず、常に、世界を解釈して、状況として、投企(企投)する対象として捉え、投企(企投)する方法を選択したり、決断したりして、日々、暮らしている。このように、世界に取り込まれず、世界を解釈し、世界に働きかける人間の在り方が、自由というあり方なのである。しかし、虫や他の動物は、生来の視点で捉えた世界に変化がなく、世界に働き掛けもしない。そういう意味で、彼らには、自由が存在しないと言えるのである。さて、人間は、日々の活動においては、他者が関わり、世界が構造体へと細分化され、自己が自我となる。人間は、常に、ある構造体に所属し、ある自我を持って活動している。構造体とは、人間の組織・集合体であり、例えば、家族、学校、会社、店、電車などであり、仲間、カップルなどの人間の組織・集合体も構造体であ。自我とは、ある役割を担った現実の自分のあり方であり、例えば、家族という構造体では、父・母・息子・娘などの自我があり、学校という構造体では、校長・教諭・生徒などの自我があり、会社という構造体では、社長・課長・社員などの自我があり、店では、店長・店員・客などの自我があり、電車という構造体では、運転手・車掌・客などの自我があり、仲間という構造体では、友人という自我があり、カップルという構造体では恋人という自我があるのである。人間は、孤独であっても、そこに、常に、他者が絡んでいる。人間は、常に、ある一つの構造体に所属し、ある一つの自我に限定されている。人間は、毎日、ある時には、ある構造体に所属し、ある自我を得て活動し、ある時には、ある構造体に所属し、ある自我を得て活動し、常に、他者と関わって生活し、社会生活を営んでいるのである。人間は、世界内存在の生物であるが、このように、実際に生活するうえでは、世界が細分化され、構造体となる。つまり、実際に生活する時には、他者との関わり合いの中で、世界が構造体へと限定され、自己が自我へと限定されるのである。自己が自我へと限定されるのは、自分の役目(ステータス、ポジション)が決まって来るからである。自分の役目を自分として認めたあり方が自我なのである。世界が構造体へと細分化されると、構造体は、世界のように広いものではなく、家族、学校、会社、店、電車、カップル、仲間などへと狭くなり、人間も、その構造体の中で、自分の役目を担って、自我をもち、それぞれの人がその役目に応じて活動をする。自我は、自己のように、自分だけのものではなく、他者との関わりの中で、役目を担わされ、発揮されることになる。自我の働きが認められ、他者から、好評価・高評価を受けると、気持ちが高揚し、自我の働きが認められないと、他者から、悪評価・低評価を受けて、気持ちが沈み込む。当然のごとく、自我は、他者から、好評価・高評価を受けることを目的として、行動するようになる。このようにして見てくるとわかるように、構造体存在としての自我は、世界内存在としての自己と異なり、他者からの評価が、絶対的なものになってくるのである。構造体存在としての自我は、世界内存在としての自己の派生体であるが、人間の日常生活は、構造体存在の自我であるから、他者からの評価によって動かされていると言える。人間の感情形態は、一般的に、喜怒哀楽で表されるが、喜怒哀楽は、他者の評価によって、発生する。そうして、喜怒哀楽が、また、人間を動かしていく。このように、人間の日常生活は、自我であり、自我は、他者の評価に囚われているのである。つまり、人間の日常生活は、他者の評価に囚われていて、自我という人間は、他者から、好評価・高評価を受けることを目標に、それを目指して生きているのである。


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