あるニヒリストの思考

日々の思いを綴る

理性について(自我その130)

2019-06-13 18:52:22 | 思想
理性について、辞書では、「概念的思考の能力。実践的には感性的欲求に左右されず、思慮的に行動する能力。古来、人間と動物とを区別するものとされた。本能や感情に支配されず、道理に基づいて思考し判断する能力。」と説明されている。デカルトは、「方法序説」の冒頭の文で、次のように述べている。「良識はこの世で最も公平に配分されているものである。正しく判断し、真を偽と区別する能力、それはまさしく良識または理性と呼ばれているものであるが、これは生まれつき、全ての人に平等である。」しかし、理性を備えているからと言って喜んではいけない。「良い精神を備えているだけでは不十分である。大切なことはそれを正しく適用することである。」と述べ、適用法の重要性を述べている。そして、「私の企ては、誰もが自分の理性を正しく導くために従うべき方法をここで教えることではなく、ただ、いかなる仕方で私がこれまで自分の理性を導こうと努めてきたかを示すことに過ぎないのだ。」と述べ、各人が、デカルトのやり方を参考にして、自分の理性の使用法を磨いていけば良いと言っている。デカルトの姿勢は良い。「方法序説」だけでなく、「第一哲学ついての考察」、「哲学原理」、「情念論」などのデカルトの著書は、自分の理性を磨こうと努力してきた(「自分の理性を導こうと努めてきた」)具体的な道程を読者に示すことによって、読者の理性的な心情を高めようとする狙いであることがわかる。それは、「我思う、故に我在り」という言葉で、理性が正しく考え、論証したものが真理であると、理性を高らかに歌いあげていることからも、理性を最重要視していることが理解できる。しかし、辞書の説明にしろ、デカルトの深い思いにしろ、理性の重要性を説いてはいるが、理性の志向性や理性を動かすものについて、触れていない。両者とも、理性が自立しているように考えている。そうではなく、理性は、志向性と動かすものがあって、初めて働くのである。それでは、理性の志向性とは何か。それは、方向性である。対象に向かう方向性があって、それに基づいて、理性は対象を捉え、分析し、理解するのである。理性の志向性(方向性)を、クーンはパラダイムと名付けた。パラダイムとは、一時代の支配的なものの見方や時代に共通の枠組みを意味する。理性は、その時代のパラダイムに基づいて、思考するのである。理性もまた、ラカンの言うように、「人は他者の欲望を欲望する」(人間は、いつの間にか、他者のまねをするようになる)という自我の欲望の理論に基づき、その時代の支配的なものの見方やその時代に共通の枠組みの志向性(方向性)から、対象を捉え、分析し、理解するのである。だから、誰しも、独自の志向性(方向性)で、理性を働かせているわけではないのである。また、理性は、ひとりでに動くのではない。対象を支配したいという欲望と他者に認められたいという欲望、この二つの自我の欲望が理性を動かすのである。対象を支配したいという欲望は、「人は自己の欲望を対象に投影させる」(人間は、自分の見方で対象を捉え、支配しようとする)という自我の欲望から発している。他者に認められたいという欲望は、「人は他者の欲望を欲望する」(人間は、常に、他者から愛されたい、認められたい、高評価・好評価を得たいと思っている)という自我の欲望から発している。このように、理性は、決して、それ自体独立した、独自の、純粋な存在のあり方をしていないのである。理性は、対象を支配したい、他者の認められたいという欲望を力にして、パラダイムという、その時代の支配的なものの見方やその時代に共通の枠組みを志向性(方向性)にして、対象を捉え、分析し、理解するのである。アドルノは、「現代の理性は方向を誤り、アウシュビッツの悲劇を生み出した。」と述べ、ヒットラー率いるナチスが600万人ものユダヤ人を大虐殺した原因を理性に求めた。しかし、ユダヤ人の大虐殺は、理性のせいではない。ナチスの理性は、自我の欲望から与えられたパラダイムに従って、粛々と、行動したに過ぎない。そして、自我の欲望は、常に、他者の欲望から生まれる。つまり、ナチスのユダヤ人に対する大虐殺の欲望は、ドイツ人のユダヤ人を攻撃したいという欲望から生まれたのである。ドイツ人の自我の欲望が、ヒットラー率いるナチスの600万人ものユダヤ人の大虐殺を生み出したのである。理性は、常に、自我の欲望に従って粛々と行動し、決して、自我の欲望と対立したり、自我の欲望を抑えたりするものではないのである。

独我論について(自我その129)

2019-06-12 19:26:42 | 思想
独我論について、広辞苑では、「実在するのは我が自我とその所産のみであって、他我や外界などすべては我が自我の観念または意識内容にすぎないとする主観的認識論。」と説明されている。つまり、独我論とは、自分の存在や自分が捉えたことやものは、確かに存在していると言えるが、他者の存在や周囲の様相は自分の視点で捉えた思いにしか過ぎず、普遍的なものではなく、単なる観念であるという主張である。確かに、自分や自分が捉えたことやものについては、自分に密着し、実感があるから、自信を持って、それらについては、確かに存在していると語ることができるだろう。そして、他者の存在や周囲の様相については、自分の外部に存在しているものだから、それらを捉えた意識内容は、絶対的な唯一のものではなく、他の人が別の捉え方をしていても、自分の見方だけが正しいと言えず、いろいろな見方があると妥協するしかないだろう。しかし、自分や自分が捉えたことやものが存在しているように、他者の存在や周囲の様相は自分の視点で捉えた思いも、確かに存在しているのではないだろうか。なぜならば、それらが存在しているからこそ、他者に、それらについて語ることができるからである。また、他者の存在や周囲の様相は自分の視点で捉えた観念や意識内容に過ぎないように、自分の存在や自分が捉えたことやものも自分の視点で捉えた観念や意識内容に過ぎないのではないだろうか。なぜならば、自分の存在や自分が捉えたことやものも、我々は、自分の視点という深層心理で捉えているからである。自分の存在や自分が捉えたことやものに対してだけ、他者の存在や周囲の様相に対する時と異なり、直接的に捉えているというわけではない。そもそも、人間は、何事も、直接的に捉えることはできないのである。全て、深層心理の自分の視点で捉えているのである。自分の存在や自分が捉えたことやものには、実感があり、密着感があるから、直接的に捉えているように錯覚しているだけである。だから、広辞苑の説明文を利用して、人間の現象を説明すれば、次のようになる。「我が自我とその所産も他我や外界も、すべて、観念または意識内容として、実在する。」このように、人間は、全てを、深層心理の自分の視点で捉えるしかないのである。その現象を、ウィトゲンシュタインは、「私の言語の限界が私の世界の限界である。」と言っている。ウィトゲンシュタインにとって、言語とは、人間の視点なのである。それ故に、ウィトゲンシュタインは、「語り得ぬものについては沈黙しなければならない。」とも言うのである。語り得ぬものとは、言語で捉えられないことがら、つまり、自分の視点で捉えられないことがらである。ウィトゲンシュタインは、人間は、言語、つまり、自分の視点で捉えるしかなく、それには、当然、限界があり、その限界内のことがらだけを語り、それ以上のことは沈黙するしかないと言っているのである。同現象を、ハイデッガーは、「現存在は、世界内存在である。」と言っている。現存在とは、人間のことである。世界とは、人間が自分の視点で捉えた、人間や動物を含めた周囲の環境を意味する。つまり、ハイデッガーは、人間は、自分の視点で自らの世界を形成していると言っているのである。

存在が重く感じられることについて(自我その128)

2019-06-11 21:32:22 | 思想
存在の重さには、二つの意味がある。一つは、自分の存在の重要性である。自分の存在をいとおしく思うことである。もう一つは、存在していることの圧迫感である。自分が存在していることが堪えられないように思うことである。まず、前者の意味での存在の重さについて説明することにする。人間の存在の重さ、つまり、存在の重要性は測りようがない。言うまでもなく、自分が存在しているからこそ、生きていけるからである。しかし、皮肉にも、人間は、自分の存在の重さを考えるのは、自分の存在が軽んじられた時なのである。人間は、対他存在として、常に、他者からの好評価・高評価を求めて生きている。しかし、時として、無視されたり、侮辱されたり、馬鹿にされたりする。そんな時、心が深く傷付き、怒りに震えたり、恥ずかしさに堪えられなくなったり、悲しみに暮れたり、居たたまれない気持ちになったりする。その時、初めて、自分が自らの存在の重さにこだわり、それを保証するものとして、他者からの好評価・高評価を求めていることに気付くのである。つまり、人間は、常に、対他存在の生き物であり、社会的な存在者だということである。しかし、その人の存在の重さは、その人自身、そして、その人と家族、仲間、カップル、クラス、クラブ、会社などの構造体を形成している人にしか感じることができない。同じ構造体に生活し、それぞれの人が、父・母・息子・娘、友人、恋人、クラスメート、部員、社長・課長・社員などのステータス(ポジション)を自我として持って活動しているから、人間関係が生まれ、自分の存在を感じ取るとともに他者の存在を感じ取ることができるのである。つまり、存在に重さがあるのは、ある構造体の中で、自分が自我として持っているステータス(ポジション)の働きが、他者から評価され、存在性を認められた時なのである。構造外の人とは、自我を持つことも無く、人間関係も無く、存在性も感じないのである。なぜならば、関わりが無いから、感じようが無いのである。しかし、それは、当然のことである。誰しも、同じ構造体にいる人だけが自分の存在を保証し、同じ構造体の中にいる人との関係を処理することだけで精一杯であり、構造体に属さない人の存在にかかずらう余裕が無いばかりか、関わり方がわからず、また、それ自体が存在しないからである。家族、仲間、カップル、クラス、クラブ、会社などの構造体を共に形成する他者の存在には気を遣うのも、彼らの存在があるからこそ、自らが存在できるのである。しかし、人は、常に、家族、仲間、カップル、クラス、クラブ、会社などの構造体から追放される可能性もある。だから、自分の存在の重さを普遍的に感じるのは、その自身のみである。次に、後者の意味での存在の重さについて説明することにする。人間は、存在が、堪えられないほど、重く感じられる時がある。自分が存在していることが堪えられないように思う時がある。深層心理から、自分の存在している意味を問う、形而上的な問いが圧迫感をもって押し寄せ、それに答えられない限り、存在の重さから解放しないという問いかけが来る。そこに、思考が始まる。しかし、そもそも、人間は、自分で自分を創造したのではない。気が付いた時には、そこに存在していたのである。誰が、何が、何のために、その人を誕生させたのかわからない。母親も、どんな子が生まれてくるのかわからない。母親にとって、どんな子であろうと、生まれてきた子が我が子であるという意味しか持っていない。母親が、子供が無事に生まれて喜ぶのは、自分が母親に成れたという実感である。母親としての役目を果たしたからである。だから、我が子が可愛いのである。しかし、この可愛いという言葉は、「可愛い女の子。」、「可愛い人形。」、「可愛い猫。」などと表現するように、何に対しても使われ、普遍的である。つまり、我が子に対する気持ちだけに使われるのではない。だから、どのようなものに対しても、気持ちが変わることがあるように、可愛いと思っていたものが憎たらしく思うことがあるように、我が子に対する気持ちも変わることがあるのである。心理学に、「人は自己の欲望を他者に投影させる。」という言葉があるように、人は、他者を自分の思い通りに動かし、自分の思うように考えさせ、自分を思うように(自分を好きになるように)させようとする。そして、自分の思い通りになる他者を好み、自分の思い通りにならない他者を嫌う。しかし、賢明な人は、一旦は、自分の思い通りにならない他者を嫌っても、好きになるようにさせる方策を考える。しかし、愚かな人は、自分の思い通りにならない他者を嫌って、嫌がらせをしたり、復讐したりする。母親でも、同じである。自分の思い通りになる子を好み、自分の思い通りにならない子を嫌う。しかし、賢明な母親は、一旦は、自分の思い通りにならない子を嫌っても、好きになるように方策を考える。愚かな母親は、自分の思い通りにならない子を嫌って、嫌がらせをしたり、復讐したりする。それが、現在、頻繁に起こっている、母親による子への虐待、殺人である。愚かな父親も同じである。自分の思い通りにならない子を嫌って、嫌がらせや復讐に向かい、虐待し、殺人にまで及ぶことがあるのである。かてて加えて、そこに、同居する、交際相手の男性が犯罪に絡んでくることが多いのは、当然のことである。交際相手の男性は、母親が好きでも、母親の子が好きとは限らない。赤の他人と同じである。特に、若い男性は、ロリータとして対象になるような少女は好きではあるが、幼児や乳児は世話が面倒な上によく泣くので、いらいらを募らせ、虐待や殺人まで行ってしまうのである。母親は、交際相手の男性が自分の子を虐待しても、それを止めるのではなく、その男性の愛情を引き留めるために、自ら、虐待に加担するのである。母子家庭の母親が、「子供の父親になってもらうために再婚相手を探している。」と言うのは嘘である。そのような偽善を言っているから、安易に交際相手を家に入れたり、子との相性を考えずに再婚したりして、悲劇、惨劇を生み出すのである。交際相手や再婚相手にとって、母親の我が子は我が子ではなく、赤の他人であることを認識して、母親は、交際相手や再婚相手を吟味すべきなのである。そもそも、人間には、母性愛は存在しない。他の動物は、母性愛は存在する。他の動物の母親は、理屈抜きで、子を愛し、守ろうとする。人間の母親は、理屈で、子を愛する。人間の母親は、自分の思い通りになる子を愛する。しかし、それは、母性愛とは言えない。ところで、子にとっての母の存在は、ヤドカリにとってのヤドの存在と同じく、仮の存在にしか過ぎない。仮は借りに通じている。だから、いつか、返さなくてはいけない時がやって来る。それでは、その時とは、いつであろうか。それは、母の全能者としてのイメージが崩れた時である。子は、母親を万能の存在者として信頼して育つ。しかし、ある時、母に落胆し、その能力は、他の人と同じ程度のものだと気付く。その時、子は、母のヤドを返し、自立し、人となる。しかし、人となるということは、自らの存在の重さを、自ら受け止めなくてはいけないということなのである。人間は、人となると、時として、存在の重さに襲われる。存在が重く感じる時があるのだ。それでは、その時とは、どんな時であろうか。それは、ある構造体の中で、自らの自我が傷付けられた時である。先に述べたように、人間は、いついかなる時でも、家族、仲間、カップル、クラス、クラブ、会社などの構造体に属し、父・母・息子・娘、友人、恋人、クラスメート、部員、社長・課長・社員などのステータス(ポジション)を自我として持って、他者から好評価・高評価を得ようとして活動している。しかし、時として、無視されたり、侮辱されたり、馬鹿にされたりする。そんな時、心が深く傷付き、怒りに震えたり、恥ずかしさに堪えられなくなったり、悲しみに暮れたり、居たたまれない気持ちになったりする。その時、「自分とは、何か。」、「自分は、何のために生きているのか。」、「自分に、生きる意味や価値があるのだろうか。」などの自分の存在に対する形而上的な問いに襲われ、それが、「人間とは、何か。」、「人間は、何のために生きているのか。」、「人間に、生きる意味や価値があるのだろうか。」などという普遍的な形而上的な問いにまで辿り着くことがあるのである。それでは、何が何を襲うのだろうか。深層心理が表層心理を襲うのである。深層心理が、表層心理に、意識して、この形而上的な問いを考えろと命令するのである。表層心理は、深い傷心、怒り、恥ずかしさ、悲しみ、居たたまれない気持ちの中で、これらの気持ちから逃れるために、これらの形而上的な重い問いを考え抜こうとするのである。これが、後者の意味での存在の重さを感じ取るということである。自分が存在していることの圧迫感や自分が存在していることが堪えられないような思いの中で、「自分とは、何か。」、「自分は、何のために生きているのか。」、「自分に、生きる意味や価値があるのだろうか。」、「人間とは、何か。」、「人間は、何のために生きているのか。」、「人間に、生きる意味や価値があるのだろうか。」などの形而上的な問いを考え抜こうとするのである。中には、自分探しの旅に出る者もいる。しかし、たいていの場合、思考に入る前に、若しくは、思考の途中で、自我が傷付けられた構造体で、自我を褒められると、存在の重さは雲散霧消し、形而上的な問いを考えることをやめるのである。例えば、家族という構造体で、父親に、息子が叱られ、自我が傷付けられても、母親が慰めてくれたならば、存在の重さは雲散霧消し、形而上的な問いを考えることをやめるのである。会社という構造体で、部長に、社員が叱られ、自我が傷付けられても、課長が慰めてくれたならば、存在の重さは雲散霧消し、形而上的な問いを考えることをやめるのである。なぜならば、存在の重さを感じるようになり、深い形而上的な思いをするようになった原因は、単に、自我に傷付けられたことだからである。しかし、哲学者、心理学者、思想家などは、自我の慰めを受け入れず、重い存在を受け止めつつ、これらの形而上的な問いを考え抜こうとするのである。

人はなぜ罪を犯すのか(自我その127)

2019-06-09 21:56:52 | 思想
植木等が歌っていた「スーダラ節」に、「わかっちゃいるけど、やめられない。」という歌詞の一節がある。この一節の言う通り、この歌は、悪い結果になるとわかっているのに、欲望に負けて行動し、失敗する、人間の性が主題である。失敗例が三例歌われている。最初の例は、これ以上飲むと体に悪いのはわかっているが、止めることはできずに、はしご酒をし、気が付けば、ベンチにごろ寝をしているありさまである。酒をもっと飲みたいという欲望が、体に悪いからこれ以上飲むのはやめようという抑圧に打ち勝つのである。この、酒をもっと飲みたいという欲望が深層心理であり、体に悪いからこれ以上飲むのはやめようという抑圧が表層心理である。はしご酒になってしまったのは、表層心理の抑圧の力が深層心理の欲望の力に負けたからである。深層心理の酒をもっと飲みたいという欲望が強過ぎるから、表層心理の体に悪いからこれ以上飲むのはやめようという抑圧が、押しとどめることができなかったのである。第二の例は、馬券で儲けた人がいないのを知っているが、馬券を買うことをやめることができず、、気が付けば、ボーナスが無くなっているありさまである。一儲けしたいという欲望が、儲けるはずがないから馬券を買うのはやめようという抑圧に打ち勝つのである。この、一儲けしたいという欲望が深層心理であり、儲けるはずが無いから馬券を買うのをやめようという抑圧が表層心理である。ボーナスが無くなってしまったのは、表層心理の抑圧の力が深層心理の欲望の力に負けたからである。一儲けしたいという欲望が強過ぎるから、表層心理の儲けるはずが無いから馬券を買うのをやめようという抑圧が、押しとどめることができなかったのである。第三の例は、上手く行かないのがわかっているが、止めることはできずに、一目惚れした女性に声を掛け、気が付けば、騙されて捨てられているありさまである。一目惚れした女性をものにしたいという欲望が、上手く行くはずがなく騙され捨てられるから声を掛けるのはやめようという抑圧に打ち勝つのである。この、一目惚れした女性をものにしたいという欲望が深層心理であり、上手く行くはずがなく騙され捨てられるから声を掛けるのはやめようという抑圧が表層心理である。騙され捨てられたのは、表層心理の抑圧の力が深層心理の欲望の力に負けたからである。深層心理の一目惚れした女性をものにしたいという欲望が強過ぎるから、表層心理の上手く行くはずがなく騙され捨てられるから声を掛けるのはやめようという抑圧が、押しとどめることができなかったのである。この歌がヒットしたのは、歌詞が、多くの人の日常生活での自らの経験と合致したからである。さて、人間の行動は、深層心理の思考から始まる。それが、ラカンの言う、「無意識(深層心理)は、言語によって、構造化されている。」の意味である。まず、深層心理が思考し、喜怒哀楽の感情とともに行動の指針を生み出す。これが欲望である。深層心理の欲望である。どのような場合でも、必ず、僅かな高まりにしろ、感情が存在し、それに伴う行動の指針がある。これが深層心理の欲望のあり方である。感情の無い行動は存在しない。感情が行動の燃料になるのである。また、この深層心理の思考の動きは、本人に、知られることはない。そういう意味で、深層心理の思考の動きは、無意識である。深層心理と対照的に、表層心理は、感情や行動の指針を生み出すことはできない。表層心理は、深層心理の思考の結果としての感情や行動の指針を意識する。つまり、表層心理は、深層心理の欲望を意識するのである。しかし、人間は、表層心理が、意識して、換言すれば、自らの意志で、感情や行動の指針を生み出すことはできない。表層心理ができることは、深層心理が生み出した感情や行動の指針、換言すれば、深層心理の欲望を意識し、それに賛意したり、抑圧しようとしたりすることだけである。しかし、表層心理は、深層心理が生み出した感情やそれに伴った行動の指針の全て、言い換えれば、深層心理の欲望の全てをを意識するわけではない。表層心理に意識されないで、人間は、行動することがある。これが、一般的に、無意識の行動と言われる現象である。つまり、人間の活動の指針は、人間が意識していないところで、言い換えれば、深層心理で、思考され、感情とともにに生み出され、それが、深層心理の欲望であり、それを、表層心理が意識することも、意識しないこともあるのである。この深層心理の欲望は、スーダラ節で歌われた、飲酒、金銭、愛情という欲望にとどまらず、侮辱したい、殴りたい、挙げ句の果てには、殺したいという欲望まで行くのでのである。深層心理は、人間の無意識下の思考であるから、表層心理の抑圧は利かず、非道徳的なもの、悪事まで呼び起こすのである。なぜならば、深層心理の欲望の基本は支配欲であるからである。飲酒をするのは、日常生活の束縛から解放され、自分の生活を自分で支配しているような気持ちになれるためであり、金銭を求めるのは、他者の束縛を受けず、自分の生活や他者を支配しやすくなるためであり、愛情を求めるのは、相手の恋愛感情を支配するためである。さて、深層心理は、他者に対して、対自化、対他化、共感化の三形態で接する。対自化とは、相手がどのような性格をし、どのような考え方をしているかなどの観点で、相手の特徴を探ることであるが、それは、相手を支配したいがため、そして、その手段を考えるためである。対他化とは、相手から好評価・高評価を得たい気持ちで、相手が自分をどのように思っているかを探ることであるが、それも、相手の気持ちを支配したいがため、そしてその手段を考えるためである。共感化とは、相手と気持ちが通じ合っている状態であるが、それは、第三者と対抗し、第三者に屈服せず、できれば、第三者を支配したいがためである。犯罪も、支配欲から起こる。深層心理の基本にある支配欲が、犯罪を呼び起こすのである。人間は、相手を侮辱したり、殴ったり、殺したりするのは、そうしなければ、自分が、相手に支配され続けると思うからである。もちろん、そのように思考するのは、深層心理である。深層心理が、本人に、怒りの感情とともに、相手を侮辱したり、殴ったり、殺したりするのを指示するのである。当然のごとく、表層心理は、それを意識し、侮辱したり、殴ったり、殺したりした後、周囲から非難を浴びたり、罰せられたりすることを想定し、それを意識し、意志でそれを抑圧しようとする。しかし、深層心理が強過ぎると、表層心理の抑圧は功を奏さないのである。その典型的な例が、ストーカーによる犯罪である。ストーカーは、自分が交際していた人に、もしくは、自分が交際していたと思っていた人に、別れを告げられ、相手につきまとう人である。多くの失恋者は、相手を嫌悪し、軽蔑することによって、自分の恋愛感情を支配することによって、今までの恋愛感情から別れを告げることができる。ストーカーに、女性が男性より断然少ないのは、女性は、容易に、相手の男性を嫌悪し、軽蔑することができ、自分の恋愛感情を支配することにができるからである。失恋者は、全て、一時的にストーカー的心情に陥るが、表層心理が、カラオケ、アニメ、漫画、映画鑑賞、友人との長電話などで気分を紛らわし、自分の気持ちを、相手を嫌悪し、軽蔑するようにし向け、究極的に、自分の恋愛感情を支配することによって、今までの恋愛感情から別れを告げることができるのである。しかし、ストーカーは、深層心理が強過ぎるために、表層心理が、いろいろなことを行って気分を紛らわし、自分の気持ちを、相手を嫌悪し、軽蔑するようにし向けても、自分の恋愛感情を支配できず、今までの恋愛感情に別れを告げることができず、失恋という敗北感から脱せないのである。ストーカーの中には、深層心理が非常に強く、全く、表層心理が抑圧に向けない人もいる。ストーカーが殺人というという罪を犯すのは、失恋という敗北感に支配されている自分を解放させるためである。たとえ、相手を危害を加えたり脅迫したりして、相手が謝罪しても、相手の気持ちが戻って来ないのがわかっているから、危害や脅迫を越えて、殺人にまで及ぶのである。もちろん、ストーカーも、その後、どのように自分が周囲の者や世間から顰蹙を買い、どのように非難されたあげくに罰せられるか知っているから、それを避けるために、行為の後に自殺を図る者が少なくないのである。表層心理は、結末がわかっていて、抑圧しようとしても、深層心理の支配されている苦悩から脱したい気持ちには叶わないのである。一般に、人間は利己的な動物だと言われているが、誰しも、ストーカーの行為を利己的な産物だ言わないだろう。被害者は、もちろんのこと、自分自身にも利益がもたらされないからである。それがわかかっていながら、行為に及んでしまうのである。つまり、人間とは、自我的な動物なのである。自我とは、構造体の中で、自分に与えられた社会的なステータス(ポジション)を、自分と思い、行動する主体である。例えば、会社という構造体ならば、社員、課長、学校という構造体ならば、高校二年生、中学一年生、家族という構造体ならば、父、母、息子、娘、カップルという構造体ならば、恋人、仲間という構造体ならば、友だちなどである。人間は、自分と関わりの無い他者に対しては、善事、悪事を為す観点から自己判断するが、自分の関わりのある人に対しては、自我を基にして、支配するか、支配されるか、共同して第三者のできる人かなどの自我判断するのである。自分の自我を守ってくれたり認めてくれたりする人に対しては、相手(の心)を支配したり、共同で第三者を支配できる人だと思い、満足できるが、自分の自我を無視したり、侮辱したりしてくる人には、このままにしていたら、相手に支配されることになると思い、反撃したり、復讐したりするのである。ストーカーが殺人という罪を犯すのは、相手から別れを告げられて、カップルという構造体が壊れ、恋人いう自我が失われているのに、相手への気持ちを断つことができず、失恋という敗北感に支配されている自分を解放させるためである。このように、人間は、深層心理が、支配欲を基本に、思考し、支配欲を維持するために、つまり、プライドを守るために、大いなる怒りの感情とともに非道徳的な行為、犯罪を指示することがある。それを考慮し、自らの深層心理が暴走しないために、常に、表層心理が行動を考慮する必要がある。自らの、性格(心の傾向)を理解し、深層心理が、支配欲が絶望に落とされ(プライドを傷付き)、大いなる怒りの感情が湧き上がらないような場所に行き、大いなる怒りの感情が湧き上がらないような行動をし、大いなる怒りの感情が湧き上がらないような人と接することが大切である。それでも、大いなる怒りの感情が湧き上がるような事態に遭遇したら、逃げることが大切である。そして、最初から、他者にも、自分にも、大きな期待を掛けないことである。ストーカーに陥る人は、恋愛に期待を掛けているからである。他者の心の維持にも、自分の心の維持にも期待を掛けているからである。むしろ、恋愛を、恋愛ゲームとして、見れば良いのである。人生そのものを、人生ゲームとして見れば良いのである。

自由であることの恐ろしさ(自我その126)

2019-06-07 20:31:27 | 思想
誰しも、自由であることを望む。自由であるとは、人間にとって、究極の目的であると言って良いだろう。さて、自由とは何か。それは、何ものにも束縛されていないということである。しかし、人間は、最初から、自由の感覚を持っているのではない。人間は、最初から、自由を求めてはいない。束縛を受けていると感じるから、自由を求めるのである。何ものかに妨害されて、自分の思い通りに行動できないことが多いと感じるから、自由の世界に憧れるのである。それでは、人間は、どのような時に、束縛や妨害を受けていると感じるのか。それは、何かをしたいのに、実践に移せないときである。何ものかの妨害や束縛を感じ、自分が自由の状態に置かれていないと感じる時である。人間には、あることをしたいと思っても、何かの束縛を受け、何かの妨害に遭い、実行できないから、自由に憧れるのである。「自由への扉」、「自由への脱出」、「自由か、しからずんば、死か」などの言葉に、その気持ちが如実に現れている。それでは、人間は、あることをしたいという「あること」をどのように考え出すのだろうか。また、人間は、あることをしたいという欲望を、どのようにして生み出すのだろうか。しかし、この問いかけが間違っているのである。なぜならば、あることしたいという「あること」もそれをしたいという欲望も、人間は、自らの意志で、作り出していないからである。人間の心の奥底にある深層心理が、あることをしたいという欲望を生み出しているのである。つまり、人間は、自らの意志や意識という表層心理があることをしたいという欲望を生み出さず、無意識という深層心理がそれを生み出しているのである。つまり、深層心理が思考して、あることをしたいという欲望を生み出しているのである。それが、ラカンの言う「無意識は、言語によって、構造化されている。」の意味である。それでは、深層心理は、何を基礎に、あることをしたいという欲望を生み出しているのであるか。それは、自我である。つまり、あることをしたいという欲望は自我の欲望なのである。それでは、自我とは何か。自我とは、ある構造体に所属し、そこで、あるステータス(ポジション)を得て、それを自分だと生活している、その自分の主体的なあり方である。あるステータスを自分だとする主体的なあり方は、自他共に認めて初めて成立する。それが、エリクソンの言うアイデンティティである。それでは、構造体とは、何か。それは、家族、会社、中学校、電車、ホテルなどの組織・集合体を意味する。人間は、常に、そのような構造体の中で、父・母・息子・娘、社員・課長・社長、校長・教諭・生徒、車掌・乗客、客・フロント係などのステータス(ポジション)を得て、それを自分だとして、生活しているのである。その自分の主体的なあり方が自我なのである。つまり、深層心理は、ある構造体の中であるステータス(ポジション)を自我だと認めた時、そこに、あることをしたいという欲望を作り出すのである。それが、自我の欲望なのである。しかし、自我の欲望には、推奨すべきもの、許容できるものの他に、殺したい、殴りたい、侮辱したいなどの非道的なもの、犯罪に繋がるものも存在するのである。人間にとって、自由であるとは、この自我の欲望をそのまま満たすことなのである。それ故に、自由を高らかに謳ってはいけないのである。それを、明瞭に表現したのが、フロイトのエディプス・コンプレクスという思想である。人間は、幼児期において、異性の親に対して、近親相姦的な愛情を抱き、同性の親を憎むが、同性の親を含めて社会が容認しないために、その愛情を、意識に留めることができず、無意識内に抑圧される。この抑圧された感情を伴う心的表象がエディプス・コンプレクスである。それでは、なぜ、人間は、幼児期において、異性の親に対して、近親相姦的な愛情を抱き、同性の親を憎むのか。それは、幼児が、家族という構造体の中で、息子(娘)という自我を持ったからである。そこで、深層心理は、幼児に、異性の親に対する近親相姦的な愛情という欲望を抱かせたのである。深層心理は、このような非道徳的な欲望を抱かせるのである。もちろん、同性の親や社会は、この幼児の欲望を妨害し、遮断する。。つまり、幼児は、この時点で、自由を一つ失ったのである。人間は、ある構造体所属し、あるステータス(ポジション)を自我だとする限り、深層心理から生み出された自我の欲望の中には、必ず、非道徳的な欲望や犯罪に繋がる欲望が混じっている。非道徳的な欲望や犯罪に繋がる欲望は、自己、他者、社会が抑圧しなければならない。だから、人間を、全くの自由にしてはいけないのである。全ての自我の欲望を叶えることが自由の意味だからである。つまり、人間が、人間として生きていくために、不自由であることを受け入れざるを得ないことがあるのである。しかし、だからと言って、深層心理は、不自由であることが正しいと認めたわけではない。生きていくためには、一時的に、不自由であることを受け入れただけである。いつでも、自由を謳歌したいと思っている。だから、常に、自己の自我の欲望、他者の自我の欲望、そして、集団化した自我の欲望の警戒しなければならないのである。