あるニヒリストの思考

日々の思いを綴る

存在することの不思議について(自我その132)

2019-06-16 03:40:12 | 思想
アリストテレスは、「哲学は驚異に始まる。」と言っている。確かに、人間は、驚くことがあったら、考える。しかし、それが、必ずしも、哲学に結びつかない。むしろ、哲学に結びつかないほうが多い。なぜならば、驚きは日常生活で起こり、日常生活は世事にまみれた形而下の営みなのに、哲学は、理性を使って抽象的な思考を重ねていく形而上の営みだからである。日常生活という形而下での驚きだから、現実的に対応し、形而下にとどまり、形而上の思考に発展することは稀なのである。それ故に、日常生活での驚きを形而上にまで高める人は、もともと、心の中に、形而上の思考や疑問を抱いていたと思われる。ハイデッガーが、「人間は、心の中にあることしか、発見できない。」と言うのは、この謂いであるように思われる。しかし、ウィトゲンシュタインは、「世界がいかにあるかが神秘ではなくて、世界があるという事実が神秘である。」と言っている。存在しているものやことの現象の不思議さに気づくのではなく、存在していること自体が不思議だと考えなければいけないと言っているのである。それは、ハイデッガーの「なぜ何もないのではなく、何かがあるのか。」という問いかけと同じである。存在することに必然性が見いだせないのである。パスカルの「私はなぜここにいて、あそこにいないのか。」という疑問も、自分の存在することが疑問であり、人間誰しも、自由な選択はありえないということなのである。しかし、パスカルはキリスト教徒であり、神と対話することによって、究極的に、神が求めた運命であると納得できるのである。それは、ドストエフスキーが、「神に保証されない限り、人間の存在はありえない。」と言うのと同じである。つまり、人間は、自分が存在すること・世界が存在することの疑問を解くことも自分の存在の必然性・世界の存在の必然性の意味づけもできないのである。ニーチェは、「真理は存在しない。解釈だけが存在する。」と言っている通りなのである。しかし、だからこそ、人間は、自ら、積極的に、自分が存在すること・世界が存在することの疑問を解き、自分の存在の必然性・世界の存在の必然性の意味づけを行っていき、それを確信にまで高めるべきなのである。確かに、それは、ニーチェが言うように、普遍的な真理ではなく、自分による解釈である。しかし、確信にまで高められた解釈ならば、それが、自分にとっての真理である。堂々と、発表し、批判を仰げばよいのである。それを糧にして、さらに高めていけばよいのである。さて、先に述べたように、人間誰しも、驚くことがあったら、考えるのであるが、多くの人にとって、驚きは、日常生活で起こり、日常生活は世事にまみれた形而下の営みだから、現実的に対応し、形而下にとどまり、形而上の思考に発展することは無いのである。なぜならば、彼らにとって、驚くことは、自我が傷つけられて、自我が衝撃を受けることであり、自我が癒されれば、ことはそれで済むのである。つまり、形而下の生活での驚きは、形而下の思考でとどまり、形而上まで発展することは無いのである。たとえば、自我が傷つけられるのは、高校や大学の入学受験に失敗したり、会社で上司に叱られたこと、学校で教師に叱られたこと、失恋したこと、友人に無視されたことなのである。彼らに誰かが自信をつけれれば、また、時間がたてば、傷ついた自我が癒されていくのである。また、彼らの中には、挫折をきっかけに自分探しをするものも存在するが、その探している自分も誰かに認められている自分であるから、自我にとどまり、自己の存在探求や世界の存在の疑問にまでいかないのである。つまり、形而下の思考にとどまり、形而上の思考にまで高まらないのである。このように、形而上の思考をする者と形而下の思考をする者がいるが、両者はかみ合うことは無い。権力者は、常に、現実に密着した形而下の思考者であるから、形而上の思考者を、役に立たないものと批判し、時には、弾圧し、粛清さえするのである。形而上の思考者の多くは、現実に妥協することが少なく、権力者の言うがままにならないからである。日本の戦前の軍部やドイツのヒットラーやソ連のスターリンや中国の毛沢東などが、多くの哲学者、学者、芸術家、作家などを拷問にかけ、暗殺したのは、権力は常に形而下の思考者であることの宿命である。テレビドラマで、水戸黄門、徳川吉宗、織田信長、豊臣秀吉、徳川家康などの権力者が正義を貫いているが、それは、絶対にあり得ないことである。正義を貫ける人は、形而上の思想の持ち主であり、権力の亡者である形而下の人たちにはできないからである。そのようなドラマができるのは、大衆が正義を貫ける権力者を待望しており、脚本家がそれに迎合したからである。大衆が存在しえない権力者を待望しているから、主体的に政治を見ることはできず、政治の動向や政治家の本性を見誤り、一向に政治が良くならないのである。