あるニヒリストの思考

日々の思いを綴る

人間の本能には、父性愛も母性愛も存在しない。(自我その145)

2019-06-30 20:32:10 | 思想
幼児虐待のニュースが途絶えることがない。あるテレビ番組のコメンテーターが、「現代の親の中には、人間が本能として持っている、父性愛や母性愛は欠落した人がいて、しかも、そういう人が増えているのではないしょうか。」と嘆いていた。しかし、人間の本能には、本来、父性愛や母性愛は存在しない。だから、父や母には、皆、幼児虐待をする可能性がある。幼児虐待は、家庭という密室で行われるから、一般の犯罪よりも、発生率が高い。父性愛や母性愛は、子を養育していくうちに生まれて来るものである。そして、子の態度、親の気分により、突然、消える時があり、突然、生まれてくることがある。そして、最後まで、生まれない者もいる。だから、父性愛の無い父、母性愛が無い母が存在したとしても、何ら、不思議なことではない。残念ながら、これが真実である。しかも、幼児虐待をする親が増えてきたのではなく、しつけと称して、それが容認されてきたから、幼児虐待が見過ごされてきただけなのである。日本では、1908年から1995年まで、子が親や祖父母を殺せば、尊属殺人罪が適用され、無期懲役か死刑に処されたが、親が子を殺しても、祖父母が孫を殺しても、それが適用されなかったのである。いかに、子供の人権が無視されてきたかがわかるのである。ところで、動物は、本能として、雄親に父性愛があるのは稀れだが、雌親には、例外なく、母性愛がある。猫などは、雌親は、子猫を守るために、体を張って、雄親すら近づけようとしない。また、祖父母の孫に対する愛も、本能ではない。老い先短い老人は、もうすぐ、この世から去ることに不安を抱いているから、血縁関係にある孫に愛情を持つのである。自分の身は死んでも、血縁を受け継いでいる孫がこの世に生きているから、自分がこの世に留まっているように感じ、孫をいとおしく思うのである。だから、血縁幻想が、孫への愛を生み出しているのであって、本能ではないのである。さて、言うまでもなく、家族という構造体は、父・母・子などから形成されている。だが、それは、学校という構造体が、校長・教諭・生徒などから形成され、会社という構造体が、社長・課長・社員などから形成され、店という構造体が、店長・店員・客などから形成され、電車という構造体が、運転手・車掌・客などから形成され、仲間という構造体が、友人たちから形成され、カップルという構造体が、恋人二人から形成されているのと同じであり、家族という構造体だけが特別な存在ではない。すなわち、どの構造体も、いろいろなポジションの人から形成されているから、父・母・子などというポジションから形成されている家族という構造体だけが、特別な存在ではないのである。それぞれの構造体にそれぞれの価値があり、その構造体に所属しているポジションにもそれぞれの価値があるのである。家族という構造体は特別な価値を有していず、父・母・子というポジションも特別な価値を有していないのである。しかし、ほとんどの人は、家族という構造体は、他の構造体と異なった、特別な価値を有し、父・母・子というポジションは、他のポジションと異なった、特別な価値を有していると思っている。それは、なぜか。それは、他の構造体のポジションは、他の人と代替できるが、家族という構造体の父・母・子というポジションは、他の人と代替できない血縁の絆があると思っているからである。子は、父と母という夫婦関係で生まれ、特に、母は、自らの肉体の一部を提供して、激しい痛みに堪えながら子を生んだから、子と父以上に、子と母に、切っても切れない、深い絆があると思っているのである。しかし、ここに、大きな落とし穴があるのである。父も母も、自分がいるからこの子はこの世に誕生でき、この世に生きていけるのだという思いから、子を対自化するとともに子を対他化するのである。対自化とは、深層心理の作用であり、「人は自己の欲望を他者に投影させる。」という言葉に集約されているように、人間は自己の欲望に他者を寄り添わせようとするのである。簡単に言えば、相手を自分の思い通りに動かそうとする行為である。しかし、人間は、一般に、他者は容易には自分の思いにならないと知っている。しかし、親は、子に対しては、自分の思い通りになると思い込み、思い通りにしようとするのである。なぜならが、親と子は血縁関係という深い絆があり、親がいるから、子はこの世に生まれることができ、この世に生きていくことができるのであるから、子は親に感謝すべきであり、言うことを聞くのは当たり前のことだと思っているからである。このような思いから、父も母も、往々にして、子を、幼児の時から、自分の思い通りに育てようとするのである。しかし、子は親の思い通りにならないのである。特に幼児の時がそうである。泣きたい時に泣き、起きたい時に起き、排泄したい時に排泄するのである。それに対して、親は、子が親を否定していると思い、子の分際で親をないがしろにしていると思って怒るのである。それが、親を、子に対して、暴力に走らせたり、冷水を浴びせたり、真夜中に家の外へ出したり、食事を与えないなどして、虐待を行わせるのである。そもそも、子は、特に、幼児は、親の立場など理解できない。親が子を養育するのは当然だと思っている。子は自分の思いだけで行動する。子にとって、親であろうと、なかろうと、血縁関係があろうとなかろうと、自分を大切に扱ってくれることが全てなのである。しかし、父や母の方では、自分が親なのだから、当然、子供は、自分の言うことを聞くべきだと思い込んでいるのである。親は、子が、自分の言うことを聞かないと、子が親を否定しているのではないか、自分に親の力量がないのではないかと思い、悩み、時には、凶行に走るのである。次に、対他化であるが、対自化と同様に深層心理の作用である。対他化は、「人は他者の欲望を欲望する。」という言葉に集約されているように、人間は、他者から好かれたいと思いで、他者に接することである。しかし、誰しも、他者の中には、自分のことを好きになってくれていない人がいることはわかっている。そういう人がいるとわかると、不愉快であるが、自分を好きになってもらうように努力するものである。ところが、親は、子に対しては、子が自分を好きでないのを許さないのである。なぜならが、親と子は血縁関係という深い絆があり、親がいるから、子はこの世に生まれることができ、この世に生きていくことができるからである。簡単に言えば、子は親に感謝すべきであり、好きになるのは当たり前のことなのである。子にとって、親であろうと、なかろうと、血縁関係があろうとなかろうと、自分を大切に扱ってくれる人が好きなのである。すると、親は、子が自分を否定しているのではないか、自分に親の力量がないのではないかと思い、悩み、時には、凶行に走るのである。しかし、それでも、子は親を慕うものである。特に、母を慕うのである。なぜならば、自らの存在の基点が母だからである。誕生の意志もなく、偶然生まれてきたから、不安であるから、それを解消するために、誕生の必然性がほしいのである。人間は、生来、寂しくて、悲しい存在者なのである。特に、両親が離婚し、母に育てられた子は、後に、必死になって、父を探し、父に育てられた子は、後に、必死になって、母を探すのである。しかし、探し出された父や母は、再婚していようとしていまいと、現在の構造体とポジションを優先するのである。会ったとしても、それ以上の関係に進もうとしないのである。どれだけ血縁関係があっても、家族という構造体があってこそ、父と子、母と子と関係が有効なのである。それは、中国の残留孤児が、日本で、実父や実母を探しても、名乗って出てこようとして来ない人が多いことからも、窺われることである。また、母子家庭の母の中には、「子供には父親が必要だから、婚活しています。」、「今、交際している人がいるのは、子供には父親が必要だからです。」、「子供のために、再婚しました。」と言う人がいるが、皆、嘘つきである。自分自身が恋人や夫を求めていたのである。しかし、恋人や夫を求めること自身は、とやかく言うことではない。異性を求めるのは人間の性だからである。しかし、子供を理由にするのは、良くない。子供にとって、平穏な家庭を乱されるのが嫌なのであり、特に、父を求めようとはしない。子は、血縁関係の父ですら嫌うことがあるのだから、血縁幻想すら存在しない、どこの馬の骨かわからない男性が突然入って来れば、ただ、戸惑い、嫌悪するばかりである。その男性が、母と愛し合っていても、子供には、慕う理由にならない。むしろ、母を奪われた嫉妬感から、憎むことが多い。また、新しく家庭に入ってきた男性も、子は親や大人に従うべきだと思い込んでいるから、自分に従わない子に対しては、暴言を吐いたり、いじめたり、暴力を振るったりする。母は、我が子をかばえば良いのに、その男性と一緒に、子供を虐待することが多い。あるテレビ番組で、女性弁護士が、「女性は、母と女とどちらを選ぶかとなると、必ず、女の方を選ぶものです。」と言っていたが、まさに、その通りである。それでも、子供は、親や新しく家庭に入り込んできた男性から、冷水を浴びせられたり、殴られたり、檻に入れられたり、食事を与えられなかったりしても、皆、「ごめんなさい。ごめんなさい。」と謝り続ける。自分が悪くないのに、ひたすら、謝り続ける。子供は、深層心理では、親や新しく入ってきた男性を嫌っているが、表層心理は、生き延びるために、謝るのである。謝罪の言葉が途切れた時、子供の生命は事切れている。