あるニヒリストの思考

日々の思いを綴る

自由であることの恐ろしさ(自我その126)

2019-06-07 20:31:27 | 思想
誰しも、自由であることを望む。自由であるとは、人間にとって、究極の目的であると言って良いだろう。さて、自由とは何か。それは、何ものにも束縛されていないということである。しかし、人間は、最初から、自由の感覚を持っているのではない。人間は、最初から、自由を求めてはいない。束縛を受けていると感じるから、自由を求めるのである。何ものかに妨害されて、自分の思い通りに行動できないことが多いと感じるから、自由の世界に憧れるのである。それでは、人間は、どのような時に、束縛や妨害を受けていると感じるのか。それは、何かをしたいのに、実践に移せないときである。何ものかの妨害や束縛を感じ、自分が自由の状態に置かれていないと感じる時である。人間には、あることをしたいと思っても、何かの束縛を受け、何かの妨害に遭い、実行できないから、自由に憧れるのである。「自由への扉」、「自由への脱出」、「自由か、しからずんば、死か」などの言葉に、その気持ちが如実に現れている。それでは、人間は、あることをしたいという「あること」をどのように考え出すのだろうか。また、人間は、あることをしたいという欲望を、どのようにして生み出すのだろうか。しかし、この問いかけが間違っているのである。なぜならば、あることしたいという「あること」もそれをしたいという欲望も、人間は、自らの意志で、作り出していないからである。人間の心の奥底にある深層心理が、あることをしたいという欲望を生み出しているのである。つまり、人間は、自らの意志や意識という表層心理があることをしたいという欲望を生み出さず、無意識という深層心理がそれを生み出しているのである。つまり、深層心理が思考して、あることをしたいという欲望を生み出しているのである。それが、ラカンの言う「無意識は、言語によって、構造化されている。」の意味である。それでは、深層心理は、何を基礎に、あることをしたいという欲望を生み出しているのであるか。それは、自我である。つまり、あることをしたいという欲望は自我の欲望なのである。それでは、自我とは何か。自我とは、ある構造体に所属し、そこで、あるステータス(ポジション)を得て、それを自分だと生活している、その自分の主体的なあり方である。あるステータスを自分だとする主体的なあり方は、自他共に認めて初めて成立する。それが、エリクソンの言うアイデンティティである。それでは、構造体とは、何か。それは、家族、会社、中学校、電車、ホテルなどの組織・集合体を意味する。人間は、常に、そのような構造体の中で、父・母・息子・娘、社員・課長・社長、校長・教諭・生徒、車掌・乗客、客・フロント係などのステータス(ポジション)を得て、それを自分だとして、生活しているのである。その自分の主体的なあり方が自我なのである。つまり、深層心理は、ある構造体の中であるステータス(ポジション)を自我だと認めた時、そこに、あることをしたいという欲望を作り出すのである。それが、自我の欲望なのである。しかし、自我の欲望には、推奨すべきもの、許容できるものの他に、殺したい、殴りたい、侮辱したいなどの非道的なもの、犯罪に繋がるものも存在するのである。人間にとって、自由であるとは、この自我の欲望をそのまま満たすことなのである。それ故に、自由を高らかに謳ってはいけないのである。それを、明瞭に表現したのが、フロイトのエディプス・コンプレクスという思想である。人間は、幼児期において、異性の親に対して、近親相姦的な愛情を抱き、同性の親を憎むが、同性の親を含めて社会が容認しないために、その愛情を、意識に留めることができず、無意識内に抑圧される。この抑圧された感情を伴う心的表象がエディプス・コンプレクスである。それでは、なぜ、人間は、幼児期において、異性の親に対して、近親相姦的な愛情を抱き、同性の親を憎むのか。それは、幼児が、家族という構造体の中で、息子(娘)という自我を持ったからである。そこで、深層心理は、幼児に、異性の親に対する近親相姦的な愛情という欲望を抱かせたのである。深層心理は、このような非道徳的な欲望を抱かせるのである。もちろん、同性の親や社会は、この幼児の欲望を妨害し、遮断する。。つまり、幼児は、この時点で、自由を一つ失ったのである。人間は、ある構造体所属し、あるステータス(ポジション)を自我だとする限り、深層心理から生み出された自我の欲望の中には、必ず、非道徳的な欲望や犯罪に繋がる欲望が混じっている。非道徳的な欲望や犯罪に繋がる欲望は、自己、他者、社会が抑圧しなければならない。だから、人間を、全くの自由にしてはいけないのである。全ての自我の欲望を叶えることが自由の意味だからである。つまり、人間が、人間として生きていくために、不自由であることを受け入れざるを得ないことがあるのである。しかし、だからと言って、深層心理は、不自由であることが正しいと認めたわけではない。生きていくためには、一時的に、不自由であることを受け入れただけである。いつでも、自由を謳歌したいと思っている。だから、常に、自己の自我の欲望、他者の自我の欲望、そして、集団化した自我の欲望の警戒しなければならないのである。