あるニヒリストの思考

日々の思いを綴る

自殺について(自我その131)

2019-06-14 21:28:59 | 思想
カミュは、哲学的文学論『シジフォスの神話』の冒頭で、「本当に重大な問題は一つしかない。それは自殺である。人生が生きるに値するか否かを判断すること、これこそ哲学の根本問題に答えることである。」と書いている。また、同作品の中で、「未だ嘗て、私は、存在論的な論証から人が死ぬのに出会ったことがない。」とも書いている。カミュにとって、生きていくにしろ自殺するにしろ、存在論的な論証があって初めてなすべきことなのである。人生の課題とは、生きるに値するかしないかを存在論的に論証することなのである。一般の人は、人生をどのように生きていくかが、人生の課題である。しかし、カミュにとっては、生きるに値するか否かを判断することが、人生の課題なのである。ここで思い出されるのは、明治36年、「人生は、不可解なり。」という遺書を残し、華厳の滝に投身自殺した藤村操のことである。彼は、16歳の旧制一高の学生であったから、世間で、「やはり、一高生は、考えることが違う。」と褒めそやしたものである。しかし、カミュは、藤村操の自殺に納得できなかっただろう。確かに、彼が、人生そのものに対して疑問を抱き、人生の意味について深く思考したのは評価できる。しかし、まだ人生が不可解である段階で自殺するのは、思考を途中で放棄したことになるからである。人生は無意味であるという結論を出してからの自殺ならば、カミュも納得できるだろう。しかし、果たして、人生は不可解であるという理由で、人間は、自殺できるものなのだろうか。藤村操は、本当に、それを理由に自殺したのだろうか。後に、この疑問は氷解することになる。藤村操の手紙が発見されたからである。そこには、自殺直前の失恋の苦悩が綴られていた。つまり、藤村操は、人生の意味を解けないことから来る苦悩から自殺したのではなく、失恋の苦悩を逃れるために自殺したのである。失恋を機に、なぜ失恋したのだろう、なぜ失恋の苦悩から逃れられないのだろう、なぜ人は愛するのだろうか、自分は生きるに値する人間なのかなどの疑問が湧き上がり、苦悩の中で人生の意味を問い直し続け、それでも、人生の意味が見いだせず、苦悩から脱却できなかったから、自殺したことは大いに考えられる。単に、人生の意味とは何か、人生は生きるに値するかという問題を考えるならば、人生は不可解なりという段階はもちろんのこと、たとえ、それが結論だったにせよ、万が一、人生は無意味である、人生は生きるに値しないという結論が出ても、誰一人として、自殺しない。失恋という苦悩の中にいるから、失恋という苦悩から脱却できなかったから、人生は不可解なりという段階で自殺したのである。藤村操にとって、失恋という苦悩から脱却することが第一義であり、人生の意味とは何か、人生は生きるに値するかという問題を解くことは、失恋の苦悩から脱却するための手段だったのである。しかし、それは、誰しも、経験することであり、失恋に限らず、人間は、苦悩から思考が始まるのである。そもそも、人間の日常生活は、ニーチェの言う「永劫回帰」のごとく、同じようなことを繰り返し、無意識のままに坦々と過ぎ、つまり、深層心理が同じことを繰り返させ、時として、坦々と過ごせないことが起こると、つまり、深層心理では処理でぎないことが起こると、人間は、表層心理でそれを意識し、それを意識的な思考で解決しようと図るのである。人生のつまずきが思考を促すのである。人生のつまずきという形而下の出来事が、それを解決するために、ある人は形而下の思考をし、ある人は形而上の思考をするのである。藤村操は、失恋という形而下の出来事が、人生の意味とは何か、人生は生きるに値するかという形而上の課題に逢着したのである。しかし、人生の意味とは何か、人生は生きるに値するかという課題は、形而上的な問いであるから、容易に結論が出せないのである。たいていの人は、人生につまずき、苦悩の中で、自らに課題を課すのであるが、時間が経つにつれ、苦悩が薄れていき、課題の解決法を見出せないままに、事が終わってしまうのである。つまり、時間が苦悩を解決したのである。それは、まさしく、ウィトゲンシュタインがの「自分にとって、その問題がどうでも良くなった時、その問題が解決したということなのだ。」という言葉の通りなのである。そもそも、誰しも、時として、人生の意味とは何か、人生は生きるに値するかと考えることがあるが、既に立ち後れているのである。なぜならば、既に人生は始まっているからである。人生の途上で、人生の意味とは何か、人生は生きるに値するかと考えても、人生の全体像が見えないのであるから、正答できるはずが無いのである。人間は、鏡を駆使すれば、体の全体像を見ることができる。しかし、人生の全体像を見る鏡は存在しないのである。人間は、人生につまずき、苦悩の中で思考によって、それを探るしか無いのである。そこが、人間の限界があり、可能性が潜んでいるのである。