あるニヒリストの思考

日々の思いを綴る

独我論について(自我その129)

2019-06-12 19:26:42 | 思想
独我論について、広辞苑では、「実在するのは我が自我とその所産のみであって、他我や外界などすべては我が自我の観念または意識内容にすぎないとする主観的認識論。」と説明されている。つまり、独我論とは、自分の存在や自分が捉えたことやものは、確かに存在していると言えるが、他者の存在や周囲の様相は自分の視点で捉えた思いにしか過ぎず、普遍的なものではなく、単なる観念であるという主張である。確かに、自分や自分が捉えたことやものについては、自分に密着し、実感があるから、自信を持って、それらについては、確かに存在していると語ることができるだろう。そして、他者の存在や周囲の様相については、自分の外部に存在しているものだから、それらを捉えた意識内容は、絶対的な唯一のものではなく、他の人が別の捉え方をしていても、自分の見方だけが正しいと言えず、いろいろな見方があると妥協するしかないだろう。しかし、自分や自分が捉えたことやものが存在しているように、他者の存在や周囲の様相は自分の視点で捉えた思いも、確かに存在しているのではないだろうか。なぜならば、それらが存在しているからこそ、他者に、それらについて語ることができるからである。また、他者の存在や周囲の様相は自分の視点で捉えた観念や意識内容に過ぎないように、自分の存在や自分が捉えたことやものも自分の視点で捉えた観念や意識内容に過ぎないのではないだろうか。なぜならば、自分の存在や自分が捉えたことやものも、我々は、自分の視点という深層心理で捉えているからである。自分の存在や自分が捉えたことやものに対してだけ、他者の存在や周囲の様相に対する時と異なり、直接的に捉えているというわけではない。そもそも、人間は、何事も、直接的に捉えることはできないのである。全て、深層心理の自分の視点で捉えているのである。自分の存在や自分が捉えたことやものには、実感があり、密着感があるから、直接的に捉えているように錯覚しているだけである。だから、広辞苑の説明文を利用して、人間の現象を説明すれば、次のようになる。「我が自我とその所産も他我や外界も、すべて、観念または意識内容として、実在する。」このように、人間は、全てを、深層心理の自分の視点で捉えるしかないのである。その現象を、ウィトゲンシュタインは、「私の言語の限界が私の世界の限界である。」と言っている。ウィトゲンシュタインにとって、言語とは、人間の視点なのである。それ故に、ウィトゲンシュタインは、「語り得ぬものについては沈黙しなければならない。」とも言うのである。語り得ぬものとは、言語で捉えられないことがら、つまり、自分の視点で捉えられないことがらである。ウィトゲンシュタインは、人間は、言語、つまり、自分の視点で捉えるしかなく、それには、当然、限界があり、その限界内のことがらだけを語り、それ以上のことは沈黙するしかないと言っているのである。同現象を、ハイデッガーは、「現存在は、世界内存在である。」と言っている。現存在とは、人間のことである。世界とは、人間が自分の視点で捉えた、人間や動物を含めた周囲の環境を意味する。つまり、ハイデッガーは、人間は、自分の視点で自らの世界を形成していると言っているのである。