あるニヒリストの思考

日々の思いを綴る

生きていくことは、汚れ、不正直を重ねることである。(自我その134)

2019-06-18 17:02:42 | 思想
「子供は正直である」と称賛されるのは、大人のように、自分に利益をもたらすために、ごまかしたり、策略を用いたりして、悪事を働くことはないと思われていたからである。たとえ、子供は悪いことをしても、簡単に露見し、注意すれば、素直に従うと思われたからである。しかし、そんなことはない。子供も悪事が露見すれば、友人や他の人のせいにする。正直に白状することがあるのは、言い逃れをするだけの知恵が無いからであり、正直に言えば、許される可能性が高いことを知っているからである。全国各地において、小学校の低学年の頃から、弱者に対して、陰湿ないじめが長期にわたって繰り返されている。確かに、大人に比べて、悪事のレベルは低いから、犯罪に問われないだけで、悪事の件数から言えば、決して、大人に引けは取らない。それは、各人が、自分の子供時代を振り返ってみればわかることである。子供時代には、純真だったが、次第に、心が汚れてきたとと、誰が言えるだろうか。人間は、子供の頃から、汚れており、不正直なのである。それは、人間は、子供時代から、欲望があり、その欲望は、本人の意志にかかわらず、深層心理から上ってくるからである。それでも、大人が、「子供は正直である」と言いたいのは、大人は、「せめて、子供だけでも、純真な心を持ってほしい」と願っているからである。まさに、「人は自己の欲望を他者に投影させる」のである。また、もしも、子供が純真な心の持ち主ならば、少年法は不要だろう。そもそも、正直であることは良いことなのだろうか。正直であるとは、自己の欲望に忠実であるということである。言いたいことを言い、したいことをするということである。人間の欲望の基点は、生命欲、快楽欲、認知欲であるが、それらを思う存分に、発揮するということである。生命欲は、欲求とも言われ、飲みたい、食べたい、眠りたいなどの欲望である。快楽欲とは、文字通り、楽しみたいという欲望であり、アニメを見たい、音楽を聴きたい、ゲームをしたいなどの欲望である。認知欲とは、人に愛されたい、人に認められたいなどの他者から好評価・高評価を受けたいという欲望である。しかし、その欲望がかなえられないとき、自分の欲望を妨害した人に対して、侮辱したい、殴りたい、挙句の果てには、殺したいなどの復讐欲も欲望としてわいてくるのである。正直であるとは、自己の欲望に正直であるということであるから、復讐欲も、忠実に実行するということになる。このように、人間の欲望は、生命欲・快楽欲・認知欲を基点として、深層心理から、いろいろなものが生まれてくる。深層心理から、自分の意志に関わりなく、いろいろな欲望が湧き上がってくる。表層心理は、才覚を発揮して、その欲望の中で、実行すれば、自分に不利益な結果を招来しそうなものは、押さえ込もうとする。所謂、心理学で言う、抑圧である。人間の心理に抑圧がなければ、とんでもない社会になる。犯罪社会になり、短期間で、人類は絶滅する。つまり、人間は、深層心理の欲望に忠実でないから、換言すれば、人間は正直でないから、人間社会が成り立っているのである。表層心理が才覚を発揮するから、換言すれば、人間は汚れているから、人間社会が成り立っているのである。しかし、人間は、どんな欲望であっても、自己の欲望を抑圧すれば、ストレスを感じてしまう。しかし、後に、抑圧したことが正しいと思うことができれば、ストレスも消えてしまう。ストレスが消えないのは、抑圧したことが正しいと思われず、自己の力不足を嘆くことから生まれてくる、心のわだかまりが継続しているからである。現代社会は、自由な社会だと言われていて、誰しもそう思い込んでいるから、どんな欲望でも、自己の欲望を抑圧すれば、後に、その抑圧が正しいと思われなければ、心の中で、自己の力不足を嘆き、ストレスを感じ、それをため込んでしまうのである。職場で、上司からパワハラやセクハラを受け続けた部下が、ストレスをため込み、鬱病に罹患するのは、パワハラやセクハラを受けた時、深層心理から反発や抵抗や反論や反撃などの欲望が起こったが、表層心理が、その欲望を実行すれば、自分に不利益な結果を招来することを考慮して、欲望を抑圧したが、後に、その抑圧を後悔しているからである。上司の意のままになっているというように考え、自己の力不足を嘆き、ストレスをため込み、鬱病になってしまったのである。パワハラやセクハラを行った上司は、その地位や権威を利用した欲望が深層心理から湧き上がり、それを実行しただけなのである。上司は、たとえ、邪なパワハラやセクハラの欲望であっても、自己の欲望を抑圧すれば、今度は、上司が、ストレスを感じてしまうことになるのである。賢明な上司は、欲望を抑圧したことに納得し、ストレスが消えてしまう。しかし、暗愚な上司は、欲望を抑圧したことで、心の中で、自己の力不足を嘆き、ストレスを感じ、それをため込んでしまうので、パワハラやセクハラを行うのである。暗愚な上司の中には、パワハラやセクハラの欲望を抑圧することを全く考えず、そのまま実行する者も存在する。現実には、賢明な上司よりも、暗愚な上司が、断然、多いのである。なぜならば、上司を止める者がいないからである。だから、部下が団結して、若しくは、部下が外部の力を借りて、上司の欲望を阻止しなければいけないのである。権力者とは、常に、そういう者なのである。権力の旨味とは、自己の欲望を、思う存分に発揮できることなのである。しかし、政治家が、地方遊説に行くと、大衆が、喜色満面で、歓声を上げて、彼を取り囲む。それを見ても、ニーチェが「大衆は馬鹿だ。」と言うのは納得できる。マルクスは、政治的・経済的な支配権をめぐって、支配階級に対して、被支配階級が階級闘争を起こすことを提唱したが、現代社会においては、それに加えて、人権をめぐっても、階級闘争を起こす必要があるのである。キリスト教徒は、長年、「全知全能の神が、なぜ、善なる心だけでなく、悪なる心を抱く、人間を創造したのか。」という課題に取り組み、いろいろな解答を出してきた。しかし、人間は、欲望の動物であり、欲望は深層心理から湧き上がってきて、深層心理には、善悪の判断はないから、人間の心に、善悪が同居するのは当然のことなのである。さらに、キリスト教徒は、簡単に、善と悪について述べるが、善とは何か、悪とは何かという思考を深めていないのである。例えば、第二次世界大戦の末期、何度も、ヒートラーの暗殺未遂事件があり、彼らは、皆、処刑されているが、彼らは善なる心を抱いていたか悪なる心を抱いていたか。キリスト教徒はどのように答えるのだろうか。簡単に、善とか悪とか決められないはずであり、決めてはいけないのである。また、キリスト教で、悪事を犯したことや悪なる心を抱いたことがある者が、神の代理とされる司祭に、それ告白し、許しと償いの指定を求める懺悔という儀式があるが、悪なる心を抱いた者まで罪人であり、人間は欲望の動物だから、人間全員が懺悔しなければならないだろう。当然、司祭自身、懺悔しなければならないことになる。このように、人間が生きていくということは、汚れ、不正直を重ねることである。しかし、自分の意志に関わりなく、深層心理から、善悪の区別無く、欲望が湧き上がってくるから、そうならざるを得ないのである。人間は、いついかなる時でも、深層心理から、いろいろな欲望が湧き上がってくるから、表層心理が、それを吟味し、実行すれば、自分に対して、他者に対して、社会に対して、不利益や害悪をもたらす欲望を抑圧する必要があるのである。しかし、どのような欲望でも、抑圧すれば、ストレスを感じる。しかし、抑圧したことが正しいと思うことができれば、ストレスも消えてしまうのである。しかし、ストレスを全く感じること無く、自己の欲望を追求したいというのも、人間の性である。だから、人間は、権力者を目指すのである。しかし、だからこそ、権力者の欲望を阻止しなければいけないのである。


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