あるニヒリストの思考

日々の思いを綴る

外なる空間と内なる空間について(自我その143)

2019-06-28 20:09:47 | 思想
空間は、場所、世界、宇宙と言い換えることができる。哲学では、空間は時間と共に物質界を成立させる基本形式であり、空間と時間は認識の主観的形式を担っているとされている。空間には、外なる空間と内なる空間がある。外なる空間とは、人間の周囲の環境を超えて無限に広がっていく世界を意味する。内なる空間とは、人間が慣れ親しんでいる世界、人間の周囲の環境を意味する。さて、パスカルは、自らと外なる空間の関わりについて、次のように述べている。「人間の盲目と悲惨を眺め、沈黙する全宇宙と光もなくひとり見捨てられた人間、誰が自分をそこにおいたか、何をしに自分は来たか、死んだらどうなるかも知らず、何ひとつ認識できぬまま、宇宙のこの片隅で途方に暮れているような人間を見つめるとき、私は、眠っているあいだに恐ろしい無人島に連れてこられ、目覚めると自分がどこにいるかわからず、そこから逃れる手段も無い人のように恐怖に襲われる。そして私は不思議に思う、かくも悲惨な状態であるのに、なぜ人は絶望に陥らずにいられるのかと。この無限の空間の永遠の沈黙は私を恐怖させる。」パスカルは、生きるすべを与えられず、宇宙という無限の空間に放り出された人間の不安を述べているのである。そこから、次のように、「宇宙が彼をおしつぶしても、人間はかれを殺すものよりも尊いだろう。なぜなら、彼は自分が死ぬことと、宇宙の自分に対する優勢を知っているからである。宇宙は何も知らない。だから、われわれの尊厳のすべては、考えることにある。われわれが立ち上げねばならぬのはそこからであって、われわれが満たすことのできぬ空間や時間からではない。宇宙と比べれば、確かに、人間は無力である。しかし、自分の惨めさを知るが故に、偉大なのである。」と考え、考えることを自らを含めての人間の生き方の基本だと結論づけるのである。それが、有名な、「人間は、一本の葦に過ぎず。自然の中で最も弱いものである。だが、それは、考える葦である。」という言葉に、集約されている。しかし、なぜ、空間と人間を対峙させなければならないのか、なぜ、無限の空間と有限な人間として、分離して考えなければならないのか、疑問である。なぜならば、パスカルは、キリスト教徒だからである。聖書には、神が世界も人間も含めて全てこの世にあるものを創造したと記しているのだから、キリスト教徒は、人間と世界を分離して考えてはいけないのである。ヴァレリーが、パスカルの「この無限の空間の永遠の沈黙は私を恐怖させる」という言葉に対して、激しく非難しているのは当然である。しかし、パスカルは、「人間は、無と無限、無価値と高貴、卑小と偉大という矛盾した二面を持ち、その二面性を知らせるのがキリスト教である。」と考え、その真摯な姿勢は一貫している。それは、パスカルが、キリスト教徒であると共に、数学者、物理学者であったから、神に対して真摯であると共に、空間や自然現象に対しても、真摯だったのである。しかし、そのような強い精神の持ち主のパスカルも、愛の存在を、自らの思考から、見出すことができず、神に頼らざるを得なかった。そして、「すべてを知っていることよりも、小さな愛の業の方が偉大である。」と説いた。最初、無限の空間よりも人間の考える行為が偉大だと説いたが、考え、知るだけでは、人間の存在の虚しさが拭えなかったからである。それは、デカルトが、「我思う、故に、我在り。」と言い、すべての存在を疑うことができるが、それを考える自己の存在だけは疑うことができないと説いたが、最終的には、自己の存在の保証を神に求めたのと同じである。愛が存在し、自己が存在するのには、神が必要だったのである。まさしく、「人は自己の欲望を他者に投影させる」のである。すなわち、人間は、愛と自己の存在の保証を求めるために神の肯定の言葉を必要とするのである。パスカルもデカルトも17世紀の人であり、17世紀には、神は教条的に天に存在することを許されず、個人の存在を保証するものとして、地上に舞い降りたのである。19世紀の小説家ドストエフスキーは、「神が存在しなければ、人間は、何もしても許される。」と言い、貧困のどん底の人間、絶望の極限の人間、悪に凝り固まった歪んだ人間の行動と心情をまざまざと描き出し、そこに、神の存在、神を必要とする人間の描き出そうとした。そこまで、人間は、追い込まれてしまったのである。そして、20世紀初年に亡くなった、ニーチェは、「神は死んだ。」と言い、神に見切りを付けた。神の不在と共に最高価値の崩落を宣言し、人間が、この世での価値を自ら生み出さなければならないと説いた。しかし、現在、まだ、それが生まれていない。神に代わるものが存在しない。神は死んだままである。そして、パスカルが、無限の空間に驚き、宇宙の広がりに畏怖し、人間は、それと真っ向から対峙できないと考え、人間の尊厳を考えることに求めたのに対し、現代人は、宇宙旅行、宇宙征服などと称して、空間を有限化し、宇宙を狭くし征服しようと目論んでいる。そこには、神を失った人間の傲慢さが如実に現れている。しかし、宇宙は地球化した果てには、そこには、絶望が広がり、待っているしかないのである。ウィトゲンシュタインは、「語り得ないものについては沈黙しなければならない。」と言ったが、現代人は、宇宙に語らせようとしているのである。それは、キリスト教徒が、神に語らせようとして、神を殺してしまったのと同じである。さて、ハイデッガーにとって内なる空間とは、世界のことである。ハイデッガーの言う世界とは、客観的な空間ではなく、自分の視点でとらえた、自分の周囲にある生きている空間を意味する。ハイデッガーは、人間を、現存在と表現する。ハイデッガーが人間を現存在と表現するのは、人間は、一般に言われているような静止的な人間像と異なり、人間は、常に、自己の存在のあり方を了解して、自己の将来に向かって、過去を反省しつつ、現在を生きていると考えているからである。ハイデッガーは、次のように述べている。「現存在は常に世界内存在として、事物を配慮すること及び共に存在する者に関心を向けることとして、出会ってくる人々との共存在として見られるべきもので、決してそれ自身で存立している主観として見られるべきものではない。さらに、現存在は、常に、空き地の内に立つこととして、出会ってくるものの逗留として、つまり、そこにおいて関心の的になっている出会ってくるものへの開示性として見られるべきものなのである。逗留は、常に、同時に何かへの振る舞いである。振る舞いにおけるわたしと『わたしの現存在』における『わたし』は、決して主観とか実体とかに関係していることとして理解してはならない。むしろ、このわたしは、純粋に、現象的に、つまり、わたしが今振る舞っているままの状態として見られるべきものなのである。誰が振る舞っているかは、まさに、わたしが今そうしている振る舞い方の中にその全てを現しているのである。」ハイデッガーは、人間は、「世界内存在」であるとして、自分の視点で捉えた空間の中で、いろいろなものやことや人に携わって生きていると言う。自分の振る舞い方の中に、自分の全てが現れていると言う。ハイデッガーにとって、そのような自分をありのままに見ることが大切なのである。人間は、世界内存在として、世界に生きている。しかし、その世界は、客観的な空間ではない。自分の視点でとらえた空間である。それ故に、人間は、世界内存在として、自分の世界に生きていると表現しているのである。しかし、人間は、視点が変化することがあり、それに応じて、世界の認識も評価も変化する。また、人間は、世界に向かって働き掛ける。この、世界に向かって、みずから、投企して働き掛ける。さらに、人間は、自らが認識した世界を、状況として捉え、状況の中で、自らの行動を選択したり、選択の迷いの末に決断することがある。つまり、人間は、世界に取り込まれず、常に、世界を解釈して、状況として、投企する対象として捉え、投企する方法を選択したり、決断したりして、日々、暮らしている。このように、世界に取り込まれず、世界を解釈し、世界に働きかける人間の在り方が、自由というあり方なのである。これが、人間が現存在として、内なる空間を世界として、すなわち、現存在が世界内存在として生きているという意味である。さて、人間は、日々の活動においては、現存在が自我になり、世界が構造体となる。人間は、常に、ある構造体に所属し、ある自我を持って活動するのである。構造体とは、人間の組織・集合体であり、例えば、家族、学校、会社、店、電車などであり、仲間、カップルなどの人間の組織・集合体も構造体であ。自我とは、ある役割を担った現実の自分のあり方であり、例えば、家族という構造体では、父・母・息子・娘などの自我があり、学校という構造体では、校長・教諭・生徒などの自我があり、会社という構造体では、社長・課長・社員などの自我があり、店では、店長・店員・客などの自我があり、電車という構造体では、運転手・車掌・客などの自我があり、仲間という構造体では、友人という自我があり、カップルという構造体では恋人という自我がある。人間は、一人でいても、そこに、常に、他者との関わりがある。人間は、常に、ある一つの限定された構造体に所属し、ある一つの限定された自我を所持している。人間の自己がひとつの自我へと限定されるのは、おのおのの構造体において、自分の役目(ステータス、ポジション)が決まっているからである。自分の役目を、他者から認められ、自分も認めた時に、初めて、それが自我になるのである。このように、人間は、日々の具体的な営みにおいて、空間は、家族、学校、会社、店、電車、カップル、仲間などの構造体へと細分化され、おののの構造体の中で、自分の役目を担って、自我をもち、その役目に応じて活動しているのである。自我は、他者との関わりの中で、役目を担わされ、活躍することになる。自我の働きが認められ、他者から、好評価・高評価を受けると、気持ちが高揚する。自我の働きが認められず、他者から、悪評価・低評価を受けると、気持ちが沈み込む。当然のごとく、自我は、他者から、好評価・高評価を受けることを目的として、行動するようになる。他者からの評価が、絶対的なものになってくるのである。構造体存在としての自我は、世界内存在としての現存在の具体化であり、他者からの評価によって動かされていると言える。人間の感情形態は、一般的に、喜怒哀楽で表されるが、喜怒哀楽は、他者の評価によって、発生する。そうして、この喜怒哀楽が、また、人間を動かしていく。このように、人間の日常生活は、自我であり、自我は、他者の評価に囚われているのである。人間は、いついかなる時でも、構造体に属し、自我を得て、自我は、他者の評価に囚われ、他者から好評価・高評価を受けることを目標に、それ繰り返して、生きているのである。我々人間は、毎日、同じことを繰り返しながら、生きている。ニーチェの言う、人間生活における、永劫回帰である。そして、いつか、予期せずして、突然、死が訪れる。人生とは、そういうものである。いつか、死が訪れるまで、毎日、同じことを繰り返しながら、生きるしかないのである。恐らく、今日と同じように、明日はやって来るだろう。そして、今日生きたように、明日も生きていくだろう。確かに、誰しも、明日がやって来ること、明日も生きていくことの確証は得ることはできない。しかし、誰しも、明日はやって来るだろう、今日と同じように、明日も生きていくだろうと思っている。意識的に、理性的に考えて、そのような結論に達したのではない。深層心理がそのように思っているから、自らも、そのように思い込んでいるのである。しかし、明日はやってこない、明日は死んでいるという確証も無いのだから、明日はやって来るだろう、明日も今日と同じように生きていくだろうと思い込んでいても、損なことはない。パスカルは、「神を信じた方が生きやすい。」と言い放ったように、明日はやって来るだろう、明日も今日と同じように生きていくだろうと思っていた方が生きやすいのである。つまり、人間が内なる空間に生きるとは、現存在が世界内存在にとして生きることであり、自我が構造体内に生きることであり、そして、毎日、それを繰り返すことなのである。そして、いつか、突然、死が訪れるのである。死が訪れるまで、永劫回帰の生活をするということが、内なる空間に生きるということなのである。何かあって、永劫回帰の生活が壊されたように見えても、いつの間にか、また、永劫回帰の生活をしていくようになるのである。死とは突然の永劫回帰の中断であるが、人類全体から見れば、それも、また、永劫回帰の一部なのである。