あるニヒリストの思考

日々の思いを綴る

人間は寂しくて悲しい動物である。(自我その139)

2019-06-24 17:49:59 | 思想
あるテレビ番組が、アパートで、死後十日以上経って遺骸となって発見された、独居老人についてを報じていた。コメンテーターたちが、「どんなに寂しかったことでしょう。誰にも、看取られことなく、死を迎えたのですから。」、「なぜ、十日以上も発見されなかったのでしょう。死期が迫っている時も、死後十日以上も、その間、誰も訪ねて来なかったのですね。悲しいですね。」と解説していた。確かに、看取られない死は寂しく、誰も訪ねてこない間の孤独死は悲しい。しかし、人間は、誕生以来、寂しく、悲しい存在なのである。本質的に、人間は、寂しく、悲しい存在なのである。この寂しさ・悲しさから逃れることが行動の基点なのである。人間は、孤独にあると、寂しさ・悲しさを感じるようにできており、この寂しさ・悲しさから逃れるために行動を起こすのである。人間は、深層心理に、孤独にあると、寂しさ・悲しさを感じるように植え付けられており、深層心理は、それを基に、人間を動かしているのである。人間の深層心理は、他者に対して、対他化・対自化・共感化の動きをするが、いずれも、寂しさ・悲しさから逃れるためにするのである。まず、対他化であるが、対他化とは、他者から認められ、好評価・高評価を受けたく思いつつ、他者が自分をどのように思っているか探ることである。他者から好評価・高評価を受ければ、自分は孤独ではないのである。他者から好評価・高評価を受ければ、寂しさ・悲しさを感じないのである。この、深層心理にある対他化の動きは、ラカンの「人は他者の欲望を欲望する。」(人間は、他者の思いに自らの思いを同化させようとする。人間は、他者から評価されたいと思う。人間は、他者の期待に応えたいと思う。)という言葉に如実に表されている。次に、対自化であるが、対自化とは、他者に対応するために、他者の狙いや目標や目的などの思いを探ることである。他者に対応できれば、共に行動でき、寂しさ・悲しさから逃れることができるのである。最後に、共感化であるが、共感化とは、自己他者共に、味方として、仲間として、愛し合う存在としてみることである。これが、寂しさ・悲しさから逃れるための理想的な動きであるが、自己にとって、他者は脅威であるから、最初は、深層心理は、他者を警戒して、対他化の動きを取るのである。ところで、人間は、全ての人に対して、深層心理が、対他化・対自化・共感化の動きを取るのではない。赤の他人やどこの馬の骨かわからないような人間に対しては、対他化・対自化・共感化の動きを取らない。なぜならば、赤の他人やどこの馬の骨かわからないような人間とは、関係づけができていず、寂しさ・悲しさから逃れることができないのである。同じ構造体に所属している者に対してのみ、対他化・対自化・共感化の動きを取り、寂しさ・悲しさから逃れる可能性があるのである。構造体とは、家族、親戚、学校、会社、仲間、カップルなどの人間の組織・集合体である。そして、構造体は、常に、ある役割(役目、役柄)を担ったポジション(ステータス・地位)によって構成されている。家族という構造体には、父・母・息子・娘などのポジション、親戚という構造体には、伯父、叔父、伯母、叔母、甥、姪、従兄弟、従姉妹などのポジション、学校という構造体には、校長・教頭・教諭・生徒などのポジション、会社という構造体には、社長・部長・課長・社員などのポジション、仲間という構造体には、友人というポジション、カップルという構造体には、恋人というポジションがある。構造体に所属している者だけに、ある役割(役目、役柄)を担ったポジション(ステータス・地位)が与えられ、彼らは、それを自我として、構造内の他者に対して、対他化・対自化・共感化し、寂しさ・悲しさから逃れるために、ポジション(ステータス・地位)の役割(役目、役柄)を果たそうとするのである。しかし、必ずしも、それが上手く行くとは限らない。無差別殺人は、どの構造体からも拒否されたと思った者の犯行である。焦点の絞った殺人は、構造体内の自我の活動が上手く行かず、いっそう寂しさ・悲しさが募った者が、その原因になったと思われる者に対しての憎しみ・恨みによる犯行である。さて、一般に、構造体で最も結び付きが強いと思われているのは、家族である。そこで、独居老人が人知れず亡くなると、マスコミは責任を追及するために、家族を探し出し、インタビューしたり、コメントを求めたりするのである。葬儀を遺族という家族が行うのも、家族が最も強い結び付きの構造体であり、そうであらねばならないとの思いからである。しかし、そもそも、人間、誰しも、その誕生は偶然の産物であり、構造体の存在も、そこに所属している自我も、偶然の産物なのである。人間は、誰しも、自分の意志によって生まれてきたのではない。自分の意志に関わりなく、気が付いた時には、そこに存在しているのである。人間、誰しも、親を選べない。自分の意志に関わりなく、気が付いた時には、その家の子として存在しているのである。親も、子を選べない。生まれてくるまで、どのような子なのかわからないのである。だから、家族という構造体が最も強い結び付きだと言われても、確かに、現代社会は、家族によって、寂しさ・悲しさから逃れている人は多いが、家族によって、いっそう、寂しさ・悲しさが募り、それが、憎しみ・恨みにまで転化している人が顕著に増えているのも事実なのである。それは、当然のことである。自由意識が高まり、自ら選んだ家族ではないという認識が強まっているからである。それでも、そのような人たちが、家族以外の構造体で、寂しさ・悲しさから逃れることができれば良いのだが、そのような構造体が存在しない場合、精神疾患に陥ったり、事件を起こしたりすることが多いのである。先祖伝来の墓を守らない人が増えているのも、家族という構造体が、寂しさ・悲しさから逃れる場ではなく、逆の作用を受けている人が多くなっているからである。確かに、構造体の存在も、そこに所属している自分の自我も、偶然の産物である。そこにこだわる謂われは何も無い。確かに、家族という構造体も、寂しさ・悲しさから逃れる場でなければ、そこに所属している自分の自我も、そこにこだわる謂われは何も無い。しかし、人間には、寂しさ・悲しさから逃れる構造体とポジションとしての自我が必要なのである。アニメや漫画が、若者を中心に、虜にしているのは、それらが寂しさ・悲しさから逃れる構造体になり、そこに所属している自分の自我を見出しているからである。人間は、観念の動物だから、アニメや漫画が現実の世界でなくても、それは可能である。それで良いと思う。しかし、人間は、生活の糧を得なければ生きていけない。収入が無ければ、生きていけない。会社や店などの構造体に所属して、アルバイト社員、アルバイト店員などを自我として、働かなければならない。働けば良いのである。給金を得ることに特化して、自らのポジションの応分に働けば良いのである。それで通用しなければ、別の職場を求めれば良いのである。逆に、構造体に期待せず、構造体の他者からの評価に期待していないから、自分の気持ちがいらいらせず、トラブルが少なくなり。同じ職場の勤務が長くなる可能性が高いのである。そもそも、構造体も自我も、その存在に、必然性は無いのであるから、人生は虚構である。人間は、虚構の中に生きているのである。だから、こだわらずに、無理なく、自由に生きていけば良いのである。