あるニヒリストの思考

日々の思いを綴る

無権力者の芸人が嘘を付いたことについて(自我その140)

2019-06-26 13:03:46 | 思想
五年前、十数名の芸人が、詐欺集団という反社会的勢力の首謀者の誕生会や忘年会に参加した。当初、金銭の授受を否定していたが、それが嘘であり、実際は、十万円以上を受け取っていたということが露見した。芸能事務所は、彼らに、謹慎処分を科した。マスコミは、連日連夜、彼らの嘘を追及している。マスコミが、遠慮会釈なく追及できるのは、彼らが芸人という無権力者であるからである。安倍晋三首相が、森友学園問題・加計学園問題で不正な便宜を計らったのに、マスコミの追及の手が緩かったのは、国の最高権力者だからである。心理学に、「人は自己の欲望を他者に投影する。」と「人は自己の欲望を他者に投影させる。」という言葉がある。前者は、人間は、自己の思いを他の人も持っていると思ってしまうという意味である。後者は、人間は、自己の思いを実現するために他の人を利用するという意味である。今回の事件は、後者に該当する。人間には、皆、支配欲がある。他者の上位に立ちたいという欲望がある。今回の事件は、マスコミも大衆も、協力して、大仰に、正義を振りかざして、彼らの不正を追及し、彼らの上位に立てるのだ。支配欲を満足させるのに、こんな格好の材料は他に無い。総理大臣という最高権力者ならば、後に、復讐されるかも知れないから、二の足を踏むが、芸人という無権力者ならば、後に、復讐される心配が無いから、思う存分、追及できるのである。また、マスコミも大衆も、協力して、芸人たちの嘘を追及できる喜びもある。連帯感である。格好の餌食が現れたのだ。喜びもひとしおである。さて、人間の深層心理は、他者に対して、対他化・対自化・共感化の動きをする。対他化とは、他者から認められたいと思いつつ、他者が自分をどのように思っているか探ることである。対自化とは、他者を利用・支配するために、他者の狙いや目標や目的などの思いを探ることである。共感化とは、他者を、味方として、仲間として、愛し合う存在として認め、外部の敵に対することである。今回の事件の場合、マスコミや大衆の深層心理は、対自化と共感化の作用を働かせている。マスコミや大衆の深層心理の対自化の作用は、芸人たちの上位に立ち、彼らを支配するために、大仰に、正義を振りかざして、彼らの嘘を追及するのである。そして、それは、今のところ、成功しているように見える。マスコミも大衆も満足しているだろう。マスコミや大衆の深層心理の共感化の作用は、互いに、仲間として、協力して、嘘を付いた芸人たちに対している。マスコミや大衆は、連帯感に満ちて、満足していることであろう。そもそも、芸人たちは、なぜ、嘘を付いたのだろうか。彼らの深層心理の対他化の作用からである。それは、彼らが、大衆から、これからも、芸人として認められたいという思いからである。金銭の授受を認めれば、大衆から信用を失い、芸人として暮らしていけないと思ったのである。彼らは、芸能界という構造体から追放され、芸人というポジションを失うのを恐れたのである。芸能界や芸人に限らず、人間は、常に、ある構造体に所属し、ある役割(役目、役柄)を担ったポジション(ステータス・地位)を得て、それを自我として、他者から認められるように活動して、暮らしている。活動の舞台を失うことは、自分が認められる機会を失うことだから、一つの構造体も一つのポジションもおろそかにできないのである。構造体には、家族、親戚、学校、会社、仲間、カップルなどの人間の組織・集合体がある。家族という構造体には、父・母・息子・娘などのポジション、親戚という構造体には、伯父、叔父、伯母、叔母、甥、姪、従兄弟、従姉妹などのポジション、学校という構造体には、校長・教頭・教諭・生徒などのポジション、会社という構造体には、社長・部長・課長・社員などのポジション、仲間という構造体には、友人というポジション、カップルという構造体には、恋人というポジションがある。どの構造体もどのポジションも大切なことが理解できるであろう。彼らは、芸能界という構造体から追放され、芸人というポジションを失うのを恐れて、嘘を付いた。しかし、嘘を付いたことが露見したことによって、いっそう、その可能性が強くなったのである。一般に、芸人は、自らの失敗を自虐ネタにすることによって復帰してくる。しかし、彼らが受け取ったお金は、詐欺集団の被害者のお金の一部であり、かつ、意図的に大衆を欺いたということで、自らの失敗を自虐ネタにできないのである。復帰は容易ではない。

人間は寂しくて悲しい動物である。(自我その139)

2019-06-24 17:49:59 | 思想
あるテレビ番組が、アパートで、死後十日以上経って遺骸となって発見された、独居老人についてを報じていた。コメンテーターたちが、「どんなに寂しかったことでしょう。誰にも、看取られことなく、死を迎えたのですから。」、「なぜ、十日以上も発見されなかったのでしょう。死期が迫っている時も、死後十日以上も、その間、誰も訪ねて来なかったのですね。悲しいですね。」と解説していた。確かに、看取られない死は寂しく、誰も訪ねてこない間の孤独死は悲しい。しかし、人間は、誕生以来、寂しく、悲しい存在なのである。本質的に、人間は、寂しく、悲しい存在なのである。この寂しさ・悲しさから逃れることが行動の基点なのである。人間は、孤独にあると、寂しさ・悲しさを感じるようにできており、この寂しさ・悲しさから逃れるために行動を起こすのである。人間は、深層心理に、孤独にあると、寂しさ・悲しさを感じるように植え付けられており、深層心理は、それを基に、人間を動かしているのである。人間の深層心理は、他者に対して、対他化・対自化・共感化の動きをするが、いずれも、寂しさ・悲しさから逃れるためにするのである。まず、対他化であるが、対他化とは、他者から認められ、好評価・高評価を受けたく思いつつ、他者が自分をどのように思っているか探ることである。他者から好評価・高評価を受ければ、自分は孤独ではないのである。他者から好評価・高評価を受ければ、寂しさ・悲しさを感じないのである。この、深層心理にある対他化の動きは、ラカンの「人は他者の欲望を欲望する。」(人間は、他者の思いに自らの思いを同化させようとする。人間は、他者から評価されたいと思う。人間は、他者の期待に応えたいと思う。)という言葉に如実に表されている。次に、対自化であるが、対自化とは、他者に対応するために、他者の狙いや目標や目的などの思いを探ることである。他者に対応できれば、共に行動でき、寂しさ・悲しさから逃れることができるのである。最後に、共感化であるが、共感化とは、自己他者共に、味方として、仲間として、愛し合う存在としてみることである。これが、寂しさ・悲しさから逃れるための理想的な動きであるが、自己にとって、他者は脅威であるから、最初は、深層心理は、他者を警戒して、対他化の動きを取るのである。ところで、人間は、全ての人に対して、深層心理が、対他化・対自化・共感化の動きを取るのではない。赤の他人やどこの馬の骨かわからないような人間に対しては、対他化・対自化・共感化の動きを取らない。なぜならば、赤の他人やどこの馬の骨かわからないような人間とは、関係づけができていず、寂しさ・悲しさから逃れることができないのである。同じ構造体に所属している者に対してのみ、対他化・対自化・共感化の動きを取り、寂しさ・悲しさから逃れる可能性があるのである。構造体とは、家族、親戚、学校、会社、仲間、カップルなどの人間の組織・集合体である。そして、構造体は、常に、ある役割(役目、役柄)を担ったポジション(ステータス・地位)によって構成されている。家族という構造体には、父・母・息子・娘などのポジション、親戚という構造体には、伯父、叔父、伯母、叔母、甥、姪、従兄弟、従姉妹などのポジション、学校という構造体には、校長・教頭・教諭・生徒などのポジション、会社という構造体には、社長・部長・課長・社員などのポジション、仲間という構造体には、友人というポジション、カップルという構造体には、恋人というポジションがある。構造体に所属している者だけに、ある役割(役目、役柄)を担ったポジション(ステータス・地位)が与えられ、彼らは、それを自我として、構造内の他者に対して、対他化・対自化・共感化し、寂しさ・悲しさから逃れるために、ポジション(ステータス・地位)の役割(役目、役柄)を果たそうとするのである。しかし、必ずしも、それが上手く行くとは限らない。無差別殺人は、どの構造体からも拒否されたと思った者の犯行である。焦点の絞った殺人は、構造体内の自我の活動が上手く行かず、いっそう寂しさ・悲しさが募った者が、その原因になったと思われる者に対しての憎しみ・恨みによる犯行である。さて、一般に、構造体で最も結び付きが強いと思われているのは、家族である。そこで、独居老人が人知れず亡くなると、マスコミは責任を追及するために、家族を探し出し、インタビューしたり、コメントを求めたりするのである。葬儀を遺族という家族が行うのも、家族が最も強い結び付きの構造体であり、そうであらねばならないとの思いからである。しかし、そもそも、人間、誰しも、その誕生は偶然の産物であり、構造体の存在も、そこに所属している自我も、偶然の産物なのである。人間は、誰しも、自分の意志によって生まれてきたのではない。自分の意志に関わりなく、気が付いた時には、そこに存在しているのである。人間、誰しも、親を選べない。自分の意志に関わりなく、気が付いた時には、その家の子として存在しているのである。親も、子を選べない。生まれてくるまで、どのような子なのかわからないのである。だから、家族という構造体が最も強い結び付きだと言われても、確かに、現代社会は、家族によって、寂しさ・悲しさから逃れている人は多いが、家族によって、いっそう、寂しさ・悲しさが募り、それが、憎しみ・恨みにまで転化している人が顕著に増えているのも事実なのである。それは、当然のことである。自由意識が高まり、自ら選んだ家族ではないという認識が強まっているからである。それでも、そのような人たちが、家族以外の構造体で、寂しさ・悲しさから逃れることができれば良いのだが、そのような構造体が存在しない場合、精神疾患に陥ったり、事件を起こしたりすることが多いのである。先祖伝来の墓を守らない人が増えているのも、家族という構造体が、寂しさ・悲しさから逃れる場ではなく、逆の作用を受けている人が多くなっているからである。確かに、構造体の存在も、そこに所属している自分の自我も、偶然の産物である。そこにこだわる謂われは何も無い。確かに、家族という構造体も、寂しさ・悲しさから逃れる場でなければ、そこに所属している自分の自我も、そこにこだわる謂われは何も無い。しかし、人間には、寂しさ・悲しさから逃れる構造体とポジションとしての自我が必要なのである。アニメや漫画が、若者を中心に、虜にしているのは、それらが寂しさ・悲しさから逃れる構造体になり、そこに所属している自分の自我を見出しているからである。人間は、観念の動物だから、アニメや漫画が現実の世界でなくても、それは可能である。それで良いと思う。しかし、人間は、生活の糧を得なければ生きていけない。収入が無ければ、生きていけない。会社や店などの構造体に所属して、アルバイト社員、アルバイト店員などを自我として、働かなければならない。働けば良いのである。給金を得ることに特化して、自らのポジションの応分に働けば良いのである。それで通用しなければ、別の職場を求めれば良いのである。逆に、構造体に期待せず、構造体の他者からの評価に期待していないから、自分の気持ちがいらいらせず、トラブルが少なくなり。同じ職場の勤務が長くなる可能性が高いのである。そもそも、構造体も自我も、その存在に、必然性は無いのであるから、人生は虚構である。人間は、虚構の中に生きているのである。だから、こだわらずに、無理なく、自由に生きていけば良いのである。

趣向性と欲望(自我その138)

2019-06-23 22:22:42 | 思想
人間は、深層心理の動物である。人間は、自らの意志という意識無く、自らの無意識のうちに思考し、思考の結果、生まれてきた感情と行動の指針を意識し、それを、自分が意識的に自らの意志の下で行った結果だと思い込んでいるのである。もちろん、その感情や行動の指針は自分のものである。しかし、自らの意志無く、自らが無意識のうちに、深層心理が思考し、生み出したものなのである。例えば、朝起きると、学校や会社に行くことを考えて嫌になる。しかし、我慢し、登校し、出勤する。この、学校や会社に行くことを考えて嫌になることは、自らの意志ではなく、深層心理が行ったことなのである。だから、無意識のうちに、いつの間にか、行っていることなのである。そして、表層心理が、深層心理が生みだした感情と行動の指針を意識し、登校・出勤しないと、後で困るになることを予想し、嫌だという感情を抑圧して、登校・出勤するのである。これが、表層心理による意志の働きである。しかし、深層心理が生み出した嫌だという感情が強すぎると、表層心理の抑圧が功を奏さず、深層心理の欲望のまま、登校・出勤しないのである。もちろん、逆に、朝起きて、深層心理が、学校や会社に行くことを考えて、楽しく感じたならば、表層心理に意識されること無く、つまり、無意識のままに、登校・出勤してしまうだろう。なぜならば、毎日の行動であるから、換言すれば、ルーティーン通りだからである。ルーティーン通りのことは、意識する必要が無いのである。たとえ、表層心理が、それを意識しても、登校・出勤することは、深層心理の欲望によるものだと気付かず、自らの意志によるものだと思い込むだろう。なぜならば、人間は、常に、自分は自らの意志の下で自ら意識して主体的に行動していると思い込んでいるからである。さて、人間は、常に、ある構造体に所属し、ある自我を持って活動している。構造体とは、人間の組織・集合体であり、自我とは、構造体の中での、ある役割(役目、役柄)を担った、自分のポジション(ステータス・地位)である。例えば、朝起きるのは、家族という構造体であり、そこには、父・母・息子・娘などの自我がある。学校という構造体に行けば、校長・教頭・教諭・生徒などの自我がある。会社という構造体に行けば、社長・部長・課長・社員などの自我がある。朝起きると、学校や会社という構造体に行くことを考えて嫌になるのは、社員、生徒という自我のあり方が嫌だからである。学校に行けば、同級生たちから継続的ないじめにあっていたり、会社に行けば、上司から毎日のように叱責されたりしているからである。人間の深層心理は、自我の働きが、他者から認められ、好評価・高評価を受けると、気持ちが高揚する。逆に、自我の働きが、他者から認めてもらえず、悪評価・低評価を受けると、気持ちが沈み込む。当然のごとく、自我は、他者から、好評価・高評価を受けることを目的とし、他者から、悪評価・低評価を受けることを避けるように、行動するようになる。だから、学校に行けば、同級生たちから継続的ないじめにあっていたり、会社に行けば、上司から毎日のように叱責されたりしていれば、深層心理は、本人に対して、嫌な感情を持たせると共に学校・会社に行かないという指針を出すのである。なぜならば、人間とは、自我にこだわる動物だからである。深層心理が、自我にこだわって、構造体において、積極的に、自分のポジション(ステータス・地位)における役割(役目、役柄)を果たし、自我の働きが、他者から認められ、好評価・高評価を受けるように行動させているのである。人間は、常に、自分が他者からどのように思われているか気にして生きている。深層心理が、常に、自我が他者からどのように思われているか配慮しているからである。このような、人間の、他者の視線、評価、思いが気になるあり方を対他存在と言う。深層心理による、対他化の働きである。対他化とは、深層心理による、他者の視線、評価、思いを気にしている働きである。人間にとって、他者の視線、評価、思いは、深層心理が起こすから、気にするから始まるのではなく、気になるから始まるのである。つまり、表層心理の意志で気にするのではなく、自分の意志と関わりなく、深層心理が気にするから、気にしないでおこうと思っても、気になるのである。気になるという気持ちは、自分の心の奥底から湧いてくるから、気にならないようになりたい・気にしないでおこうと思っても、気になってしまうのである。このように、深層心理には、他者に対した時、他者を対他化し、その人が自分をどのように思っているか探る。しかし、深層心理は、他者に対した時、対他化だけでなく、対自化する時もあり、共感化する時もある。対自化とは、他者に対応するために、他者の狙いや目標や目的などの思いを探るのである。共感化とは、他者を、味方として、仲間として、愛し合う存在としてみることである。当然のごとく、深層心理の対自化の働きは、人間のあり方としては、対自存在であり、深層心理の共感化の働きは、人間のあり方としては、共感存在である。しかし、深層心理の働きとして、対他化が、対自化や共感化よりも、優先する。なぜならば、人間にとって、他者の存在は脅威だからである。だから、他者の自分に対する思いが最も気がかりになってくるののである。それが、また、社会的な存在としての人間を形成するのである。深層心理の対他化の働き、つまり、人間の対他存在のあり方の特徴は、ラカンの「人は他者の欲望を欲望する。」(人間は、他者の思いに自らの思いを同化させようとする。人間は、他者から評価されたいと思う。人間は、他者の期待に応えたいと思う。)という言葉に集約されている。だから、人間の欲望は、既に存在している他者の欲望に同化し、他の動物のような向き付けの欲求ではなくなるのである。人間を含めて全ての動物は、生きていくために、食べること、寝ること、子孫を残していくことが必要である。それが、食欲、睡眠欲、性欲である。しかし、他の動物たちの食欲・睡眠欲・性欲の欲求と、人間の食欲・睡眠欲・性欲の欲望は、本質も形態も異にしているのである。他の動物たちの欲求はそれ自体が目的であり、個体の生存欲に満たされている。しかし、人間の欲望は、個体の生存欲のみではなく、他者の欲望が絡んで、支配欲、安定欲、名誉欲などが入り込んでくる。時には、個体の生存欲は、支配欲、安定欲、名誉欲などに圧倒される。名誉の死などは人間だけにある現象である。他の動物たち、例えば、馬が人参を、猫が魚を、犬が肉を洗うことさえしないで、生のままに食べるのは、生命の維持だけが目的だからである。しかし、人間にとって、単に、生命の維持のために食べるという行為は存在しない。食材をそのまま食べることはほとんど無い。調理し、形を変えて、食している。それは、調理されていない物には食欲が湧かず、調理されている物に対してだけ食欲が湧いてくるからである。人間にとって、食材を調理するとは、単に、生命の維持のために消化しやすくするためでなく、自然を自分の都合の良い形に変えて支配するという支配欲を満足させるのである。そして、栄養価がほとんど無くても、食べることを好む物があれば、食べることができ、生命の糧となっても、食べることを嫌いな物ができたり、実際に食べられない物ができたりするのである。生存欲を圧倒した欲望が、個人によって異なる趣向性を生むのである。また、他の動物たちは、安全性が確保されれば、そこで寝ることにし、眠りに落ちることが早く、不眠症も存在しない。しかし、人間にとって、単に、睡眠欲を満たすという行為は存在しない。人間は、安全性以外に、明かりや音や温度の程度・布団やベッドの硬度・抱き枕やぬいぐるみ・添い寝者の有無などの環境が自分に合わなければ、眠ることができないのである。つまり、眠る時にも、環境を自分の都合の良いものでなければ、つまり、環境を支配していなければ、眠ることができず、体調や精神状態に安定性を求めることができないのである。ここでも、また、生存欲を圧倒した欲望が、個人によって異なる趣向性を生んでいるである。また、他の動物たち、発情期が来ると、雄たちが雌をめぐって争い、勝利した雄が交尾し、雌が妊娠し、出産している。そこには、好みや恋愛などは存在しない。子孫を残すことだけが目的である。しかし、人間は、大いに異なっている。そもそも、人間には、発情期は存在しない。言わば、一年中が発情期である。しかも、妊娠中も、更年期を迎えても、性欲が存在し、セックスする。また、人間は、ただ単に、セックスするのではなく、恋愛や結婚という形態が存在し、そこに愛情という相手への思いが存在しなければ、基本的にはセックスしない。なぜならば、人間にとって、性欲とは、相手の愛情を求める気持ちであり、セックスができるとは、相手の愛情を手に入れたという支配欲を満足させることだからである。つまり、性欲とは、異性の心を支配したいという欲望なのである。さらに、人間は、異性ならば誰でも愛情や性欲の対象になるわけではなく、個々人によって、好みが異なっているのである。つまり、人間にとって、セックスとは、子孫を残すことが目的ではなく、自分の好きな異性の愛情を手に入れたいという支配欲を満足させる行為なのである。ここでも、また、生存欲を圧倒した欲望が、個人によって異なる趣向性を生んでいるである。このように、人間には、他の動物のような純粋な欲求は存在しない。それは、全て、個々の趣向性の下で、支配欲という欲望に変換させられている。安定欲も名誉欲も支配欲である。安定欲は自分自身を支配したい、名誉欲は大衆の心を支配したいという欲望なのである。支配欲、安定欲、名誉欲などの欲望は、遠因は、生命を維持し、子孫を残すという欲求にあるが、他者の欲望に関わって、個人の趣向性の下で、欲望が欲求を圧倒するようになったのである。人間にとって、食欲は、自然を支配したいという支配欲であり、睡眠欲は、安定した体調や精神状態を求めたいという支配欲であり、性欲は好みの異性の心を支配したいという支配欲なのである。つまり、人間にとって、純粋な欲求は無く、欲求は全て欲望に変えられ、さらに、個人の趣向性の下での支配欲に形を変えられているのである。この個人の趣向性の下での支配欲が、人間世界に、文化、学問、芸術を生み出し、発展させてきたのである。

現実を虚構の世界だとして生きる。(自我その137)

2019-06-22 19:18:48 | 思想
人間は、誰しも、自分の意志によって生まれてきたのではない。そうかと言って、生まれることを拒否したのに、無理矢理、誕生させられたわけでもない。自分の意志に関わりなく、気が付いた時には、そこに存在しているのである。人間、誰しも、親を選べない。自分の意志に関わりなく、気が付いた時には、その家の子として存在しているのである。親も、子を選べない。生まれてくるまで、どのような子なのかわからないのである。人間は、誰しも、生まれてくる時代を選べない。自分の意志に関わりなく、気が付いた時には、その時代に存在しているのである。人間は、誰しも、生まれてくる国を選べない。自分の意志に関わりなく、気が付いた時には、その国に存在しているのである。パスカルが、『パンセ』で、「私の人生の短い時間が、その前と後ろに続く永遠のうちに、『一日だけで通り過ぎてゆく客の思い出』のように飲み込まれ、私の占めている小さな空間、さらに、私の眺めているこの小さな空間が、私の知らない、また私を知らない無限のうちに沈んでゆくのを考える時、私はあそこにいず、ここにいるのを見て、恐れ、驚く。というのは、なぜあそこにいずここにいるのか、あの時にいず今この時にいるのか、全然その理由がないからである。誰が私をここに置いたのだろうか。誰の命令と指図によって、この場所とこの時が私のために当てがわれたのか。」と述べているのは、この謂である。誰しも、存在の不安を感じる時があるのである。しかし、パスカルは、熱心なキリスト教徒である。最後には、神が存在の保証をしてくれるのである。神の視線を感じることができれば、自分の存在が保証されるのである。もちろん、それによって、自分が存在している必然性の疑問が解き明かされたというわけではない。しかし、ウィトゲンシュタインが言うように、「人間にとって、問題が問題として気にならなくなった時、問題は解決したのである。」のである。キリスト教徒にとって、神の視線、神のほほえみを感じることができれば、存在の問題は解決されたのである。それ以上に問うことは、神に対する冒涜である。しかし、日本人には、存在を保証してくれる神は存在しない。神道の神は、神社で、賽銭を上げて願いを唱えれば、人々の叶えてくれる、現世利益の神である。人間の現実に密着している、形而下の神であり、人間の存在を保証してくれるような、形而上の存在ではない。仏教の仏も、「南無阿弥陀仏」と六字の名号を唱え、念仏すれば、また、「南無妙法蓮華経」と七字の題目を唱えれば、人々を極楽へ往生させてくれる、来世利益の仏である。仏も、また、人間の現実に密着している、形而下の仏であり、人間の存在を保証してくれるような、形而上の存在ではない。神道の神も仏教の仏も、人々に、苦役や苦行をせずとも、利益をもたらすような、人々に寄り添い、友好的で軽い存在なのである。だから、逆に、人々に、存在の保証を与えてくれる力はないのである。それに比べて、ユダヤ教・キリスト教・イスラム教の神は、死後、人々を裁き、時には、断罪する、厳しく、重い存在であるが、逆に、人々に、存在の保証を与えてくれる力があるのである。しかし、人間は、存在の不安を覚えても、生きていけるのである。現実に深く関わり、それを考えないようにすれば良いのである。そうして、死期が迫ったら、「南無阿弥陀仏」や「南無妙法蓮華経」と唱え、極楽へ往生することを願えば良いのである。しかし、現実に深く関わると言っても、深層心理が現実に深く関わっていこうとするから、そうなるのであって、もしも、深層心理が存在の不安を覚え続け、自分で存在の意味を究明しようとしたり、何かに存在の保証を求めようとしたらば、現実に深く関わっていこうという形而下の気にはならず、形而上の思いになる。しかし、日本人は、伝統的に、現実に密着した、形而下の思考をし、存在の意味を究明しようとするような形而上の思考はしないのである。ユングの言う「民族の元型」を日本人に当てはめると、日本人の元型の思考は、現実密着の形而下の思考である。さて、現実密着とは、自我にこだわって生きていくということである。人間は、常に、ある構造体に所属し、ある自我を持って活動している。構造体とは、人間の組織・集合体であり、自我とは、構造体の中での、ある役割(役目、役柄)を担った、自分のポジション(ステータス・地位)である。家、日本国などが構造体であり、父・母・息子・娘、日本人などが自我である。人間は、自我の働きが、他者から認められ、好評価・高評価を受けると、気持ちが高揚する。逆に、自我の働きが、他者から認めてもらえず、悪評価・低評価を受けると、気持ちが沈み込む。当然のごとく、自我は、他者から、好評価・高評価を受けることを目的とし、他者から、悪評価・低評価を受けることを避けるように、行動するようになる。だから、自我にこだわって生きていくということは、構造体において、積極的に、自分のポジション(ステータス・地位)における役割(役目、役柄)を果たし、自我の働きが、他者から認められ、好評価・高評価を受けるように行動することである。しかし、その挙げ句に、日本国に所属した日本人が、積極的に、太平洋戦争に参加し、壊滅的な敗戦を喫し、今もって、アメリカの家来であり、近隣諸国から恨まれているのである。家に所属する父・母が、いじめの加害者の子供を持ち、いじめられた子供が自殺すると、自殺の原因を、自殺した子の家庭や自殺した生徒の性格などに求め、責任転嫁するのである。だから、自我にこだわって生きることは誤りであり、自我を反省しつつ生きていくことが大切なのである。そもそも、自我は偶然の産物であり、そこに、必然性は無いのである。人間の誕生が偶然の産物であり、構造体の存在も、そこに所属している自我も、偶然の産物なのである。そこにこだわる謂われは何も無いのである。確かに、日本人の元型の思考は、現実密着の形而下の思考であり、現実密着とは、自我にこだわって生きていくということであるが、そこから、脱することが必要なのである。そもそも、構造体も自我も、その存在に、必然性は無いのである。そういう意味では、人生は虚構である。人間は、虚構の中に生きているのである。しかし、虚構だから何をしても良いというのでは無い。そもそも、何をしても良いという思いは、深層心理の強い欲望であり、それは、現実密着型の人間の発想であり、人生を虚構だと考えている人からは生まれてこないのである。人は、現実を虚構だと思い、虚構を生き抜いていけば良いのである。虚構だと思えばこそ、自由があるのである。自分の意志によって、現実密着の形而下の思考から距離を置き、形而下の思考を形而上の思考に変換させ、自分の思考によって、現実を編み直すことが大切である。そこに、自由の喜びがあるのである。

深層心理の敏感な人について(自我その136)

2019-06-21 17:33:58 | 思想
勘違いしている人が多い。自らの意志で生き、自らの意志で行動し、自らの行動を意識し、自らの感情を意識して暮らしていると思っている人が多い。しかし、そうではない。意志や意識という表層心理は後発の動きなのである。まず、深層心理が思考し、感情と行動の指針という欲望を生み出し、それによって、人間は生きているのである。先発の動きは、深層心理によって引き起こされるのである。意志や意識という表層心理は、深層心理の動きがあって、初めて、動き出すのである。しかし、一般的には、意志や意識が重要視され、深層心理は、例外的な動きとして、捉えられている。しかし、真実はそうではない。常に、深層心理が思考し、感情と行動の指針という欲望を生み出し、表層心理が、時には、深層心理が生み出した欲望を意識し、それを意志したり、抑圧したりするのである。それでは、深層心理とは、何であろうか。一般的に、深層心理は無意識と呼ばれている。むしろ、無意識という言葉の方がより普及している。無意識について、辞書では、「精神分析の用語。本人は意識していないが、日常の精神に影響を与えている心の深層。心理学で、通常意識に上らない識閾の領域。夢・精神・分析などによって意識化が可能になる。潜在意識。」と説明している。そして、深層心理については、「人間の精神活動のうち、意識されていない心的領域。無意識。日常の意識生活に働きかけている無意識下の心理。奥深くに隠れている心の働き。外に現れない無意識の心の働き。」と説明している。このように、深層心理と無意識は、同じ意味である。しかし、無意識という言葉は、意識という言葉に無という否定を表す助字を付けた言葉であり、主体は意識にあるということを言外に表現しているから、同じ意味であるが、敢えて、無意識に換えて深層心理という言葉を使うのである。それは、先に述べたように、人間の感情や行動は、深層心理の働きによって生まれているからである。表層心理は、時に意識し、時に意志し、時に抑圧するだけなのである。つまり、本質的には、人間の主体は深層心理にあるのである。人間は、自ら意識して思考するという表層心理の働く前に、既に、自らが気付かないうちに、深層心理が思考し、感情と行動の指針という欲望を打ち出しているのである。表層心理は、時に、深層心理が生み出した欲望を意識し、意志したり、抑圧したりするだけなのである。一般的には、意識して行動する方が無意志の行動より多いと考えられている。しかし、真実は、逆である。無意志による行動の方が意識しての行動より多いのである。誰が、「次は右足、次は左足」と意識して、歩くだろうか。誰が、品詞や活用形などの文法を意識して考えて、文を作るだろうか。誰が意識して考えて、人を好きになるだろうか。さて、深層心理の欲望は、深層心理自らが持っている、対自化・対他化・共感化の作用によって生まれてくる。対自化とは、人は、物や動物や他者に対した時、それをどのように利用するか、それをどのように支配するか、彼(彼女)がどのように考え何を目的としているかなどと考えて、対応を考えることである。対他化とは、他者に対した時、自分が好評価・高評価を受けたいという気持ちで、彼(彼女)が自分をどのように思っているか、相手の気持ちを探ることを言う。共感化とは、他者と、敵に当たるために協力したり、友情を紡いだり、愛情を育んだりすることを言う。人は、物や動物や他者に対した時、この三化のいずれかの姿勢で当たる。この三化の中で、深層心理の欲望が最も激しく動くのは、他者に対した時の対他化である。喜怒哀楽の感情のほとんどは、他者に対した時、対他化の結果、自らがどのように思われているかを知ることによって起こる。それほど、他者の自分に対する評価が、人の気持ちを左右するのである。特に、深層心理の敏感な人は、他者の自分に対する評価によって、心が大きく揺れるのである。他者から好評価・高評価を受けると、ある人はは有頂天になり、ある人は歓声を上げ、ある人は威張り出す。他者から悪評価・低評価を受けると、ある人は気持ちが大きく沈み込み、ある人は相手に激しい憎悪の感情を抱き、ある人は恥ずかしくて居たたまれない感情になり、ある人は自殺を考えるほど気持ちが重くなるのである。しかし、たとえ、自分の深層心理が敏感であることが嫌いであったとしても、自分の意志では、どうすることもできない。人間は、先天的に、深層心理の感度、つまり、敏感、鈍感が決まっている。そして、それが性格に繋がっている。だから、人間は、先天的に、性格も決まっているのである。さらに、自分の意志で自分の深層心理を変えることはできないから、性格は、一生、変わらないのである。さて、深層心理の敏感な人には、怒りっぽい、心が傷付きやすい、いつまでもくよくよしている、いつまでも根に持っている、復讐心が強い、嫉妬深い、よく笑いよく泣くなど、感情の起伏の激しさが外面に現れる特徴がある。なぜならば、深層心理の敏感な人は、他者からの評価に、心が大きく動くから、必然的に、欲望も強くなる。その強い欲望を、表層心理が抑圧しようとしても、抑圧できないからである。深層心理の欲望が強いから、いつまでもくよくよしている、いつまでも根に持っている、復讐心が強い、嫉妬深いなどの思いが長く持続するのである。傷害事件を起こしやすいのもストーカーになりやすいのも深層心理の敏感な人の特徴である。それも、また、深層心理の欲望が強いからである。芸術家が多いのも、深層心理の敏感な人の特徴である。それは、深層心理の敏感な人は、心が激しく動揺し、心のバランスを失い、そのバランスを取り戻そうとして、芸術に表現するのである。つまり、芸術に、心の傷を表現することで、昇華するのである。傷害事件を起こす人の多くは、激しく心が傷付けられ、心のバランスが失われたので、バランスを取り戻そうとして、自分の心を傷付けた人の心を傷付けようとして、相手に暴力を振るったのである。ストーカーになる人は、失恋によって激しく心が傷付けられ、心のバランスが失われたので、バランスを取り戻そうとして、相手につきまとって、相手に新しい恋人を作らせないようにして、失恋の事実を認めないようにしたり、自分の心を傷付けた相手の心を傷付けて、失われた心のバランスを取り戻そうとして、相手に暴力を振るったり、殺したりするのである。精神疾患に陥りやすいのも、深層心理の敏感な人の特徴である。それは、他者から悪評価・低評価を受け続け、それに伴い、心も激しく動揺し続け、バランスを失い続け、深層心理がそれに堪えられなくなり、自らを、精神疾患にすることによって、現実から逃れようとするのである。確かに、その他者からの悪評価・低評価から逃れることはできるが、日常生活全体に大きな支障が出るのである。さて、このように、人の深層心理の感度、人の性格は、生まれつきのもので、一生、変わることはない。自分の性格を知ることによって、自分の深層心理の感度を知ることが大切である。深層心理の敏感な人は、心が傷付けられ、心のバランスを失いそうな場所には近寄らないことが大切である。また、深層心理の敏感な人は、他者から悪評価・低評価を受け続けている環境にいるならば、即刻、環境を換えることである。確かに、人間は、ある程度は、逆境に堪えることができるが、深層心理の敏感な人の感情の揺れは、揺さぶり続けられたならば、精神疾患に陥らなければ堪えられないほど、高まるからである。日本全体で、かつて、「克己」、「根性」、「大和魂」、「逃げるのは卑怯者のすることである」、「逃げるのは恥ずべき行為だ」などの言葉で、我慢して、そばに居続け、今までと同じことを繰り返すことを強要し、強要されたが、それは、政治権力者、資本家、教師などの上に立つ者が、大衆、労働者、生徒を、自らの意図の下に支配したいという意図が隠され、それらが美徳として誤って解釈されていたからである。「君子危うきに近寄らず」であり、環境を換えること、逃げることは、決して、卑怯者のすることでも恥ずべき行為でもない。最も良いのは、深層心理の仕組みを知り、他者の思いに囚われないことである。「たかが他者の思いではないか」、「人生はゲームのようなものだ」などと考えた方が良いのである。実際に、そうなのだから。