あるニヒリストの思考

日々の思いを綴る

趣向性と欲望(自我その138)

2019-06-23 22:22:42 | 思想
人間は、深層心理の動物である。人間は、自らの意志という意識無く、自らの無意識のうちに思考し、思考の結果、生まれてきた感情と行動の指針を意識し、それを、自分が意識的に自らの意志の下で行った結果だと思い込んでいるのである。もちろん、その感情や行動の指針は自分のものである。しかし、自らの意志無く、自らが無意識のうちに、深層心理が思考し、生み出したものなのである。例えば、朝起きると、学校や会社に行くことを考えて嫌になる。しかし、我慢し、登校し、出勤する。この、学校や会社に行くことを考えて嫌になることは、自らの意志ではなく、深層心理が行ったことなのである。だから、無意識のうちに、いつの間にか、行っていることなのである。そして、表層心理が、深層心理が生みだした感情と行動の指針を意識し、登校・出勤しないと、後で困るになることを予想し、嫌だという感情を抑圧して、登校・出勤するのである。これが、表層心理による意志の働きである。しかし、深層心理が生み出した嫌だという感情が強すぎると、表層心理の抑圧が功を奏さず、深層心理の欲望のまま、登校・出勤しないのである。もちろん、逆に、朝起きて、深層心理が、学校や会社に行くことを考えて、楽しく感じたならば、表層心理に意識されること無く、つまり、無意識のままに、登校・出勤してしまうだろう。なぜならば、毎日の行動であるから、換言すれば、ルーティーン通りだからである。ルーティーン通りのことは、意識する必要が無いのである。たとえ、表層心理が、それを意識しても、登校・出勤することは、深層心理の欲望によるものだと気付かず、自らの意志によるものだと思い込むだろう。なぜならば、人間は、常に、自分は自らの意志の下で自ら意識して主体的に行動していると思い込んでいるからである。さて、人間は、常に、ある構造体に所属し、ある自我を持って活動している。構造体とは、人間の組織・集合体であり、自我とは、構造体の中での、ある役割(役目、役柄)を担った、自分のポジション(ステータス・地位)である。例えば、朝起きるのは、家族という構造体であり、そこには、父・母・息子・娘などの自我がある。学校という構造体に行けば、校長・教頭・教諭・生徒などの自我がある。会社という構造体に行けば、社長・部長・課長・社員などの自我がある。朝起きると、学校や会社という構造体に行くことを考えて嫌になるのは、社員、生徒という自我のあり方が嫌だからである。学校に行けば、同級生たちから継続的ないじめにあっていたり、会社に行けば、上司から毎日のように叱責されたりしているからである。人間の深層心理は、自我の働きが、他者から認められ、好評価・高評価を受けると、気持ちが高揚する。逆に、自我の働きが、他者から認めてもらえず、悪評価・低評価を受けると、気持ちが沈み込む。当然のごとく、自我は、他者から、好評価・高評価を受けることを目的とし、他者から、悪評価・低評価を受けることを避けるように、行動するようになる。だから、学校に行けば、同級生たちから継続的ないじめにあっていたり、会社に行けば、上司から毎日のように叱責されたりしていれば、深層心理は、本人に対して、嫌な感情を持たせると共に学校・会社に行かないという指針を出すのである。なぜならば、人間とは、自我にこだわる動物だからである。深層心理が、自我にこだわって、構造体において、積極的に、自分のポジション(ステータス・地位)における役割(役目、役柄)を果たし、自我の働きが、他者から認められ、好評価・高評価を受けるように行動させているのである。人間は、常に、自分が他者からどのように思われているか気にして生きている。深層心理が、常に、自我が他者からどのように思われているか配慮しているからである。このような、人間の、他者の視線、評価、思いが気になるあり方を対他存在と言う。深層心理による、対他化の働きである。対他化とは、深層心理による、他者の視線、評価、思いを気にしている働きである。人間にとって、他者の視線、評価、思いは、深層心理が起こすから、気にするから始まるのではなく、気になるから始まるのである。つまり、表層心理の意志で気にするのではなく、自分の意志と関わりなく、深層心理が気にするから、気にしないでおこうと思っても、気になるのである。気になるという気持ちは、自分の心の奥底から湧いてくるから、気にならないようになりたい・気にしないでおこうと思っても、気になってしまうのである。このように、深層心理には、他者に対した時、他者を対他化し、その人が自分をどのように思っているか探る。しかし、深層心理は、他者に対した時、対他化だけでなく、対自化する時もあり、共感化する時もある。対自化とは、他者に対応するために、他者の狙いや目標や目的などの思いを探るのである。共感化とは、他者を、味方として、仲間として、愛し合う存在としてみることである。当然のごとく、深層心理の対自化の働きは、人間のあり方としては、対自存在であり、深層心理の共感化の働きは、人間のあり方としては、共感存在である。しかし、深層心理の働きとして、対他化が、対自化や共感化よりも、優先する。なぜならば、人間にとって、他者の存在は脅威だからである。だから、他者の自分に対する思いが最も気がかりになってくるののである。それが、また、社会的な存在としての人間を形成するのである。深層心理の対他化の働き、つまり、人間の対他存在のあり方の特徴は、ラカンの「人は他者の欲望を欲望する。」(人間は、他者の思いに自らの思いを同化させようとする。人間は、他者から評価されたいと思う。人間は、他者の期待に応えたいと思う。)という言葉に集約されている。だから、人間の欲望は、既に存在している他者の欲望に同化し、他の動物のような向き付けの欲求ではなくなるのである。人間を含めて全ての動物は、生きていくために、食べること、寝ること、子孫を残していくことが必要である。それが、食欲、睡眠欲、性欲である。しかし、他の動物たちの食欲・睡眠欲・性欲の欲求と、人間の食欲・睡眠欲・性欲の欲望は、本質も形態も異にしているのである。他の動物たちの欲求はそれ自体が目的であり、個体の生存欲に満たされている。しかし、人間の欲望は、個体の生存欲のみではなく、他者の欲望が絡んで、支配欲、安定欲、名誉欲などが入り込んでくる。時には、個体の生存欲は、支配欲、安定欲、名誉欲などに圧倒される。名誉の死などは人間だけにある現象である。他の動物たち、例えば、馬が人参を、猫が魚を、犬が肉を洗うことさえしないで、生のままに食べるのは、生命の維持だけが目的だからである。しかし、人間にとって、単に、生命の維持のために食べるという行為は存在しない。食材をそのまま食べることはほとんど無い。調理し、形を変えて、食している。それは、調理されていない物には食欲が湧かず、調理されている物に対してだけ食欲が湧いてくるからである。人間にとって、食材を調理するとは、単に、生命の維持のために消化しやすくするためでなく、自然を自分の都合の良い形に変えて支配するという支配欲を満足させるのである。そして、栄養価がほとんど無くても、食べることを好む物があれば、食べることができ、生命の糧となっても、食べることを嫌いな物ができたり、実際に食べられない物ができたりするのである。生存欲を圧倒した欲望が、個人によって異なる趣向性を生むのである。また、他の動物たちは、安全性が確保されれば、そこで寝ることにし、眠りに落ちることが早く、不眠症も存在しない。しかし、人間にとって、単に、睡眠欲を満たすという行為は存在しない。人間は、安全性以外に、明かりや音や温度の程度・布団やベッドの硬度・抱き枕やぬいぐるみ・添い寝者の有無などの環境が自分に合わなければ、眠ることができないのである。つまり、眠る時にも、環境を自分の都合の良いものでなければ、つまり、環境を支配していなければ、眠ることができず、体調や精神状態に安定性を求めることができないのである。ここでも、また、生存欲を圧倒した欲望が、個人によって異なる趣向性を生んでいるである。また、他の動物たち、発情期が来ると、雄たちが雌をめぐって争い、勝利した雄が交尾し、雌が妊娠し、出産している。そこには、好みや恋愛などは存在しない。子孫を残すことだけが目的である。しかし、人間は、大いに異なっている。そもそも、人間には、発情期は存在しない。言わば、一年中が発情期である。しかも、妊娠中も、更年期を迎えても、性欲が存在し、セックスする。また、人間は、ただ単に、セックスするのではなく、恋愛や結婚という形態が存在し、そこに愛情という相手への思いが存在しなければ、基本的にはセックスしない。なぜならば、人間にとって、性欲とは、相手の愛情を求める気持ちであり、セックスができるとは、相手の愛情を手に入れたという支配欲を満足させることだからである。つまり、性欲とは、異性の心を支配したいという欲望なのである。さらに、人間は、異性ならば誰でも愛情や性欲の対象になるわけではなく、個々人によって、好みが異なっているのである。つまり、人間にとって、セックスとは、子孫を残すことが目的ではなく、自分の好きな異性の愛情を手に入れたいという支配欲を満足させる行為なのである。ここでも、また、生存欲を圧倒した欲望が、個人によって異なる趣向性を生んでいるである。このように、人間には、他の動物のような純粋な欲求は存在しない。それは、全て、個々の趣向性の下で、支配欲という欲望に変換させられている。安定欲も名誉欲も支配欲である。安定欲は自分自身を支配したい、名誉欲は大衆の心を支配したいという欲望なのである。支配欲、安定欲、名誉欲などの欲望は、遠因は、生命を維持し、子孫を残すという欲求にあるが、他者の欲望に関わって、個人の趣向性の下で、欲望が欲求を圧倒するようになったのである。人間にとって、食欲は、自然を支配したいという支配欲であり、睡眠欲は、安定した体調や精神状態を求めたいという支配欲であり、性欲は好みの異性の心を支配したいという支配欲なのである。つまり、人間にとって、純粋な欲求は無く、欲求は全て欲望に変えられ、さらに、個人の趣向性の下での支配欲に形を変えられているのである。この個人の趣向性の下での支配欲が、人間世界に、文化、学問、芸術を生み出し、発展させてきたのである。