あるニヒリストの思考

日々の思いを綴る

日本という構造体の状況と日本人の投企(自我その144)

2019-06-29 19:36:20 | 思想
ハイデッガーは、「現存在は、世界内存在として、生きている。」と言う。現存在とは、人間を意味する。ハイデッガーが、それを人間と表現しなかったのは、人間と表現すれば、生物学的な意味で理解されたり主観を持った存在者として理解されたり虞があるからである。ハイデッガーは、人間は、他の生物と異なり、自分の存在の本質を理解しつつ、常に、自分の生き方や行動の仕方を考慮しながら生きていると考えるから、敢えて、現存在という言葉を使ったのである。ハイデッガーの言う世界も、客観的な空間ではなく、自分の視点でとらえた、自分の周囲にある生きている空間である。そこで、ハイデッガーは、次のように述べるのである。「現存在は常に世界内存在として、事物を配慮すること及び共に存在する者に関心を向けることとして、出会ってくる人々との共存在として見られるべきもので、決してそれ自身で存立している主観として見られるべきものではない。さらに、現存在は、常に、空き地の内に立つこととして、出会ってくるものの逗留として、つまり、そこにおいて関心の的になっている出会ってくるものへの開示性として見られるべきものなのである。」つまり、ハイデッガーは、人間は、世界という自分の視点で捉えた空間の中で、いろいろなものやことや人に携わって生きていると言っているのである。そして、人間は、自らが認識した世界を、状況として捉え、状況の中で、世界に向かって働き掛ける動きをするとも言う。この、世界に向かって、みずから、働き掛けることを、ハイデッガーは投企と呼んでいる。つまり、人間は、世界に取り込まれず、常に、世界を解釈して、状況として、投企する対象として捉え、投企する方法を選択したり、決断したりして、日々、暮らしているのである。このように、世界に取り込まれず、世界を状況として解釈し、投企という世界に働きかける在り方が、自由というあり方なのである。人間が、他の生物と異なり、自由な存在であるというのは、世界を状況として解釈し、行動を選択し、決断し、自らを投企するからなのである。これが、人間が現存在として、内なる空間を世界として、すなわち、現存在が世界内存在として生きているという意味である。さて、人間は、日々の活動においては、現存在は自我になり、世界は構造体となる。構造体とは、人間の組織・集合体である。自我とは、構造体における、ある役割を担った自分のポジションである。人間は、常に、ある構造体に所属し、ある自我を持って活動している。具体的には、構造体と自我の関係は、次のようになる。日本という構造体には、総理大臣・国会議員・官僚・国民などの自我があり、家族という構造体には父・母・息子・娘などの自我があり、学校という構造体には、校長・教諭・生徒などの自我があり、会社という構造体には、社長・課長・社員などの自我があり、店という構造体には、店長・店員・客などの自我があり、電車という構造体には、運転手・車掌・客などの自我があり、仲間という構造体には、友人という自我があり、カップルという構造体には、恋人という自我があるのである。人間は、一人でいても、常に、構造体に所属しているから、常に、他者との関わりがある。自我は、他者との関わりの中で、役目を担わされ、行動するのである。それでは、自我を動かす思いとは何か。その第一の思いは、他者から評価されたいという思いである。他者から評価されると、大きな満足感・喜びを覚えるからである。人間は、自我の働きが、他者から、好評価・高評価を受けると、気持ちが高揚するのである。逆に、自我の働きが認められず、他者から、悪評価・低評価を受けると、気持ちが沈み込むのである。当然のごとく、自我は、他者から、好評価・高評価を受けることを目的として、行動するようになる。他者からの評価が、絶対的なものになってくるのである。ところで、気持ちの高揚や沈み込みの感情は、自ら、意識して、自らの意志で、生み出すことはできない。意識や意志などという人間の表層心理は、感情を生み出すことができない。人間は、自分が気付かない無意識というところで、つまり、深層心理が感情を生み出しているのである。もちろん、深層心理は、恣意的に感情を生み出すのではない。深層心理は、自我の状況を把握して、感情を生み出しているのである。つまり、人間は、自らは意識していないが、深層心理が、自我の状況を理解し、感情、それと共に、行動の指針を、本人に与えるのである。だから、学校に行けば、同級生たちと仲良く過ごしていたり、会社に行けば、上司から信頼されていたりすれば、深層心理は、本人に、楽しい感情を持たせると共に学校・会社に行くようにという指針を出すのである。逆に、学校に行けば、同級生たちから継続的ないじめにあっていたり、会社に行けば、上司から毎日のように叱責されたりしていれば、深層心理は、本人に対して、嫌な感情を持たせると共に学校・会社に行かないようにという指針を出すのである。深層心理が、構造体において、自分のポジション(ステータス・地位)における役割(役目、役柄)を果たすという自我の働きが、他者から認められているかいないか考慮しているのである。人間は、常に、自分が他者からどのように思われているか気にして生きているのも、深層心理が、常に、自我が他者からどのように思われているか配慮しているからである。このような、人間の、他者の視線、評価、思いを気になるあり方は、深層心理の対他化の作用なのである。対他化とは、深層心理による、他者の視線、評価、思いを気にしている働きなのである。人間にとって、他者の視線、評価、思いは、深層心理が起こすから、気にするから始まるのではなく、気になるから始まるのである。つまり、表層心理の意志で気にするのではなく、自分の意志と関わりなく、深層心理が気にするから、気にしないでおこうと思っても、気になるのである。気になるという気持ちは、自分の心の奥底から湧いてくるから、気にならないようになりたい・気にしないでおこうと思っても、気になってしまうのである。このように、深層心理には、他者に対した時、他者を対他化し、その人が自分をどのように思っているか探っているのである。ところで、深層心理には、対他化だけでなく、対自化、共感化の機能もある。対自化とは、他者に対応するために、他者の狙いや目標や目的などの思いを探るのである。共感化とは、他者を、味方として、仲間として、愛し合う存在としてみることである。しかし、深層心理の働きとして、対他化が、対自化や共感化よりも、優先する。なぜならば、人間にとって、他者の存在は脅威だからである。だから、他者の自分に対する思いが最も気がかりになってくるのである。それが、また、社会的な存在としての人間を形成するのである。深層心理の対他化の働きは、ラカンの「人は他者の欲望を欲望する。」(人間は、他者の思いに自らの思いを同化させようとする。人間は、他者から評価されたいと思う。人間は、他者の期待に応えたいと思う。)という言葉に集約されている。そして、深層心理の対自化働きは、「人は自己の欲望を他者に投影させる。」(人間は、自己の欲望が他者にも存在すると感じる。人間は、自己の欲望に寄り添うかどうかで他者を判断する。人間は、自己の欲望を他者にも持たせようとする。)という言葉に集約されている。深層心理は、自我が他者より強いと思えば、他者を対自化し、自我が他者より弱いと思えば、自己を対他化し、同等の立場にあるのは共感化している時である。サルトルが、自己と他者の関わりを対自化と対他化の相克とし、対自化に持っていかなければいけないと言ったのは、当然のことである。自己と他者の関わりを相克の関係とするならば、対自化に持っていかなければいけないと考えたのは、当然のことなのである。ところで、人間は、いろいろな構造体で、自我を持ち、その構造体の現在の状態を状況として捉え、自らの行動を投企して、暮らしている。日本という構造体でも、日本人は、総理大臣・国会銀・官僚・国民などの自我を持ち、日本の現在の状態を状況として捉え、自らの行動を投企して、暮らしている。日本の現在の状況の捉え方にはいろいろあるであろう。しかし、安倍晋三総理大臣が、国家安全保障会議(NSC)を創設し、秘密保護法、集団的自衛権を強行採決で得てからは、日本は、いつでも、アメリカの指揮の下、戦争に入れる状況にあることは間違いの無いところである。安倍晋三は、内閣の支持率が低ければ、国民の目で自らを対他化して様子を窺うところであるが、支持率が高かったから、日本を戦争のできる国にしたいという自らの欲望を国民に対自化したのである。しかし、それでは、なぜ、安倍晋三は、日本をいつでも戦争できる国にしたのか。それには、三つの理由がある。一つ目の理由は、常任理事国の総理大臣になりたいがために、他の国や既にある常任理事国に、日本の軍事力を認めてもらいたかったのである。他の国や既にある常任理事国に対して、自らを対他化したのである。二つ目の理由は、自民党の憲法草案を見れば分かるように、戦前の日本のように上意下達の国にしたいからである。国民を対自化したいのである。三つ目の理由は、アメリカの力を借りて、いつでも、中国・北朝鮮・韓国と戦争できるという姿勢を見せ、敗戦を否定し、祖父の岸信介のA級戦犯・自らのA級戦犯の孫といういう汚名を返上したいからである。敗戦国という日本の構造体とA級戦犯という自我を消滅させたいのである。それでは、国民は、このような日本の状況に対して、どのように投企すべきなのだろうか。多くの国民は、安倍晋三は戦争を起こすはずがないと静観しているが、それで良いのだろうか。既に、ネット右翼、産経新聞、読売新聞、安倍晋三に共感化を示している。中国・北朝鮮・韓国を嫌悪しているからである。それとも、SEALsのように、街頭で反対運動を展開すべきなのだろうか。大江健三郎のように、自らの戦前の体験を下に、「戦後の平和・日本国憲法を守ろう。」と訴えるべきなのだろうか。それとも、武田泰淳のように、「人間は、どんな時でも、何をしてでも、生き延びようとする。いざとなったら、道徳も人道主義も吹っ飛ぶものだ。」と、人間に不信感を抱いて、行動すべきなのだろうか。それとも、大岡昇平のように、「戦争時も平和時も、人間は、変わらないものだ。いずれも、地獄のようなものだ。」と、常に、覚悟をもって行動すべきなのだろうか。いずれも、一に掛かって、自分の、状況の判断、投企の判断に掛かっている。しかし、日本の現在は、いつでも、戦争に入るという状況にあることは間違いの無いところだから、後は、自ら、判断して、投企するしかない。どれだけ状況に背を向けていても、最後には、ハイデッガーが言うように、「自らを臨死(死ぬことが逃れられないこと)の状態において、自らの投企を決断しなければならない。」という状態に追い込まれることは間違い無いだろう。いつでも戦争できる日本という構造体の状況の中での、日本人という自我の存在者の覚悟ある投企、つまり、一人一人の実存が問われる時が、必ず、訪れるのである。それも、近いうちに。


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