あるニヒリストの思考

日々の思いを綴る

外なる時間と内なる時間について(自我その142)

2019-06-27 19:06:57 | 思想
時間には、外なる時間と内なる時間がある。簡潔に言えば、人間の意識に関わりなく坦々と進んでいくのが外なる時間であり、人間とともに歩むのが内なる時間である。さて、全国、至る所に廃屋という過去の遺物があり、自治体が、その処置に悩んでいる。廃屋になったのは、多くの場合、住人が亡くなったが、その家を引き継ぐ人がいず、誰も住まなくなったからである。もちろん、遺産相続人は存在するが、売れず、そうかと言って、解体するには、数百万円掛かるので放置したのである。自治体は、周辺住民の苦情もあり、景観や危険防止の面からも、解体処分しか無いと考え、遺産相続人に、それを訴えるのだが、大金が掛かるので、納得しないのである。もちろん、自治体が、解体処理費用を持つと約束すれば、遺産相続人も納得するが、本来、自治体にその義務が無い上に、住人のクレームが想像されることや予算削減の現況を考えると、二の足を踏まざるを得ないのである。そこで、全国、至る所に存在する廃屋の処分は、一向に進まないのである。しかし、同じく、過去の遺物と言っても、歴史的な建造物と呼ばれている、出雲大社、法隆寺、姫路城などを代表とする無数の過去に築かれた建物に対しては、現代の日本人は、解体処分どころか、大金を掛けて、修理・修繕しながら、残そうと考えている。それは、なぜだろうか。それは、過去の日本人が、大金を掛けて、修理・修繕しながら、残した物だからである。歴史的な建造物は、時代を超えて、生き残ったのである。言わば、歴史的な建造物は、時間に勝利したのである。だから、歴史的な建造物は、地域住民だけで無く、全国民に、魅力があるのである。歴史的な建造物は、その建物自体に魅力があるから魅力的なのではなく、時間を越えて残存するから、換言すれば、外なる時間に勝利しているから、魅力的なのである。つまり、歴史的な建造物は、その建物自体に魅力があるか否かに関わらず、魅力的なのである。現代日本人が、時間を超えて、過去の日本人と、心を通わすことができ、そのような建物を創造しなおかつ維持してきたことで、過去の日本人に誇りを持つことができ、そして、連綿と、そのような日本人の体質を受け継いできたことに喜びを感じているからである。過去が、外なる時間に打ち勝って、現代も、生きているいるから、大きな喜びを感じているのである。つまり、人間の内なる時間が外なる時間に打ち勝っているから、喜びを感じているのである。それに対して、廃屋は、住人が亡くなり、その住まいが今や朽ち果てようとし、古い時代の敗残物である。言わば、人間は外なる時間に敗北したのである。自治体や地域住民が、廃屋をできるだけ早く解体処分をしてしまおうと考えるのは、もちろん、景観や危険防止の理由もあるが、外なる時間に敗北した人間の象徴となるものを、眼前から、消去したいのである。つまり、廃屋は、外なる時間に人間が敗北していることをまざまざと見せつけるから、できるだけ早く、消去しようと考えるのである。もちろん、一般に、人間は、その事を意識していない。外なる時間だけを時間だとし、自分の内なる時間に気付いていない。だからこそ、無意識のうちに、全ての時間を内なる時間にしようとして、外なる時間と戦って、敗北し、絶望することになる。


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