あるニヒリストの思考

日々の思いを綴る

自分を自分自身へともたらしてくれるものやこと(自我その141)

2019-06-26 18:34:28 | 思想
ハイデッガーは、実存主義の哲学者、終末期の哲学者、思想の乏しい時代の哲学者などと呼ばれ、大仰な思想を説いたように思われているが、そうではない。身近な問題を身近でない地平(視点・考え方)で考えた哲学者である。身近にある問題なのに、誰も気付いていないことを取り上げ、考え抜いた哲学者である。それ故、現代人が、「この世に、生きがいになることがあるとは考えられない。」、「生きがいになることをしたい。」、「何のために生きているのかわからない。」、「これだという真理を掴み、その真理のために生きたい。」などと悩んで、ハイデッガーの著書を繙くのは良い。しかし、ハイデッガーの思想から、有名人になる方法、他者より勝る方法、時間を有効に生かす方法、現代を情熱を持って生きる方法を見出そうとするならば、期待外れになる、ハイデッガーの著書は、自分を自分自身へともたらしてくれるものやことへの導きになることはあるが、最終的には、自分で、自分の課題を考え抜き、その解答を自分自身で見出すしかないのである。ハイデッガーは、誰にも、心には、既に課題が存在していると考えている。ハイデッガー自身、内なる課題を、自ら取り組んだのである。ハイデッガーは、自らの著書である「存在と時間」の中心命題である「現存在は、その存在において、その存在そのものが問題となっている存在者である。」について、次のように説明している。「現存在は常に世界内存在として、事物を配慮すること及び共に存在する者に関心を向けることとして、出会ってくる人々との共存在として見られるべきもので、決してそれ自身で存立している主観として見られるべきものではない。さらに、現存在は、常に、空き地の内に立つこととして、出会ってくるものの逗留として、つまり、そこにおいて関心の的になっている出会ってくるものへの開示性として見られるべきものなのである。逗留は、常に、同時に何かへの振る舞いである。振る舞いにおけるわたしと『わたしの現存在』における『わたし』は、決して主観とか実体とかに関係していることとして理解してはならない。むしろ、このわたしは、純粋に、現象的に、つまり、わたしが今振る舞っているままの状態として見られるべきものなのである。誰が振る舞っているかは、まさに、わたしが今そうしている振る舞い方の中にその全てを現しているのである。」ハイデッガーの言う「現存在」とは、端的に言えば、人間である。それを、敢えて、聞き慣れない「現存在」と表現したのは、一般に言われている人間と異なり、人間の、自己の存在を了解しつつ生きているというあり方を強調してしたいからである。ハイデッガーの言う「世界内存在」の「世界」とは、客観的な空間ではない。自分の視点でとらえた、自分の生きている空間を意味する。人間は「世界内存在」として、自分の視点で捉えた空間の中で、いろいろなものやことや人に携わって生きているのである。それが、「現存在は常に世界内存在として、事物を配慮すること及び共に存在する者に関心を向けることとして、出会ってくる人々との共存在として」の意味である。そして、自分のいろいろなものやことや人に携わり方が大切なのである。それは、他者より優れているからという理由ではない。そこに、自分の特徴が現れているからである。それが、「誰が振る舞っているかは、まさに、わたしが今そうしている振る舞い方の中にその全てを現しているのである。」の意味である。ハイデッガーにとって、自分をありのままに見ることが大切なのである。それが、「このわたしは、純粋に、現象的に、つまり、わたしが今振る舞っているままの状態として見られるべきものなのである。」の意味である。もしも、ハイデッガーに、「この世に、生きがいになることがあるとは考えられない。」、「生きがいになることをしたい。」、「何のために生きているのかわからない。」、「これだという真理を掴み、その真理のために生きたい。」などの悩みを相談をする人がいたならば、ハイデッガーは、まず、「誰しも、存在的な問題に悩むことはある。あなた一人ではない。しかし、あなたは、あなたに合った答えを導き出すことが大切なのだ。」と答えるだろう。それが、「現存在は常に、空き地の内に立つこととして、出会ってくるものの逗留として、つまり、そこにおいて関心の的になっている出会ってくるものへの開示性として見られるべきものなのである。逗留は、常に、同時に何かへの振る舞いである。」の意味である。そして、「虚心坦懐に、自分自身を見つめることだ。」とアドバイスするだろう。そして、「自分自身を見つめれば、自ずから、答えを見出せるはずだ。」と言うだろう。それが、「逗留は、常に、同時に何かへの振る舞いである。振る舞いにおけるわたしと『わたしの現存在』における『わたし』は、決して主観とか実体とかに関係していることとして理解してはならない。むしろ、このわたしは、純粋に、現象的に、つまり、わたしが今振る舞っているままの状態として見られるべきものなのである。」という言葉の意味である。しかし、虚心坦懐に自分自身を見つめようと思っても、他者の介入があると、素直に見つめることができなかったり、誤った見つめ方をしたりして、自分の存在的な課題に答えが見出せなくなる。不幸をもたらす他者が介入したために、自分の存在的な課題に答えが見出せなくなったのである。それが、ハイデッガーの言う「病気」である。不幸をもたらす他者が介入したために罹患した「病気」は、幸福をもたらす他者によって、治癒しなければいけない。幸福をもたらす他者を、ハイデッガーは「医者」と表現する。そして、ハイデッガーは、次のように言う。「人間は本質的に助けを必要としている。人間は、常に、自分を見失い、自分でどうにもならなくなる危険の中にいるからである。この危険は人間の自由に関係している。病気になり得るという問題全体が、人間のあり方の不完全さに関係している。病気は、全て、自由の喪失であり、生きる可能性の制限なのである。医者として、病人を助けようとするに当たっては、次の点に留意しなければならない。肝心の問題は、病人が実存していることなのであって、何かが機能していることではないのである。機能だけを目指しても、現存在の助けには全然ならない。現存在こそ目的とすべきものなのである。」つまり、自分の存在的な課題に答えが見出せなくなった者は、誰かの教えや著書やアドバイスを必要とする。それは、「病人」が「医者」の処方箋を必要とするのと同じである。しかし、その処方箋は、「病気」の理解や「病気」を直す参考や手引きになるかも知れないが、実際に、「病気」を治すには、「病人」が、自ら、自分の体質に合った治癒法を見つけなければいけないのである。つまり、自分の存在的な課題に答えが見出せなくなった者は、誰かの教えや著書やアドバイスを受けながらも、その答えは、自分の思考法で、自分で見つけなければならないのである。それは、カントが、「私は、哲学を教えることはできるが、哲学することを教えることができない。」と言い、学生が、自ら、「哲学すること」を編み出さなければいけないと説いたのと同じである。ハイデッガーは、自分の存在的な課題を解こうする者の基本姿勢として、次のようにアドバイスする。「最も有用なものは無用なものである。しかし、無用なものを経験すること、これこそが今日の人間にとって最も困難なことである。ここで『有用な』ものとは、直接に技術的な目的のために、つまり、何らかの効果を生み、それによって、わたしが経済をやりくりしたり生産したりできるもののために、実用的に使用できるものとして理解されている。有用なものというのは、癒やしをもたらすものという意味で、つまり、人間を人間自身へともたらしてくれるとして見なければならない。」ハイデッガーは、現代に蔓延し、中心的な、経済的な利得や便利さを追求するような思考法では、存在的な課題に答えを見出すことができないと説くのである。現代の中心的な思考法から離れて、自らの存在的な課題に沈潜し、有効な他者の思考法を導きの糸をたぐり寄せながら、自ら、存在的な課題の答えを見出さなければいけないと説くのである。存在的な課題は、本質的に、現代の中心的な経済的な利得や便利さを追求するような思考法と離反しているからである。


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