おじさんの映画三昧

旧作を含めほぼ毎日映画を見ております。
それらの映画評(ほとんど感想文ですが)を掲載していきます。

死刑にいたる病

2023-11-15 07:14:21 | 映画
「死刑にいたる病」 2022年 日本


監督 白石和彌
出演 阿部サダヲ 岡田健史 岩田剛典 宮崎優 鈴木卓爾
   佐藤玲 赤ペン瀧川 大下ヒロト 吉澤健 音尾琢真
   岩井志麻子 コージ・トクダ 中山美穂

ストーリー
大学生の筧井雅也(岡田健史)は進学校に入学したものの3流大学にしか受からず、父親(鈴木卓爾)からは認められていない。
母親の衿子(中山美穂)もまた父親から家政婦扱いされ、同じく自由などなかった。
祖母の葬儀のために久々に実家に帰った雅也は実家に届けられていた自分宛の手紙を見つけた。
手紙の主は榛村大和(阿部サダヲ)、中学時代に雅也がよく通っていたベーカリーの店主だったが、その正体は24人もの人間を殺害し、爪を剥がしてコレクションしていたシリアルキラーだった。
雅也は刑務所に収監されている榛村の面会に行くと、すでに死刑が決まっている榛村は、立件されたほとんどの事件の関与を認めているものの、最後の事件だけは自分がやってないのだと告白し、真犯人を見つけて欲しいと願い出た。
その後、榛村の担当弁護士の佐村(赤ペン瀧川)から事件に関する調書を見せてもらった雅也は、16、17歳の少年少女をターゲットにして最終的に殺害に至った榛村の共通した手口に対し、最後の事件の被害者である24歳の根津かおる(佐藤玲)だけは、ターゲットにする年齢も殺害方法もこれまでとは違ったものになっていることを知った。
根津かおるの近辺を調べ始めた雅也は、彼女が極度の潔癖症でストーカー被害に悩まされていた事を知る。
そして同時に、祖母の遺留品を調べていると母親の玲子が若い頃に榛村と繋がっていることも知った。
そこで雅也は、過去の二人を知る滝内(音尾琢真)から話を聞くことにした。
実の親から虐待を受け、育ての親に育てられた榛村はボランティアで玲子と出会っていた。
幼い頃から人の心を掴むことに長けていた榛村。
人には心を開かなかった玲子は榛村には心を開いていたが、やがて玲子は妊娠と共に姿を消していたのだ。
まさか自分の父親は榛村なのではということが雅也の脳裏に浮かんだ。


寸評
阿部サダヲありきの映画で、榛村大和という異常者の人物像が徐々に浮かび上がってくる展開を阿部サダヲが不気味な表情で演じている。
やがて描かれる榛村大和の残虐な殺人行為に目を覆いたくなるが、冒頭の祖母の葬儀場面から変な雰囲気で、雅也が父親と上手くいっていないのは分かるが、母親の衿子が追加するビールの本数を決められない姿が作品が示す異様さの手始めを感じさせ、導入部としては手際が良い。
映画は拘置所の面会室における雅也との直接対話による榛村の柔らかさと、事件にまつわる回想シーンにおける猟奇性の対比を際立たせていく。
榛村大和は幼い頃から人の心を掴むという能力が特別に長けていた男だ。
ベーカリーにやってくるお客や、スーパーのレジ担当アルバイト、公園で遊ぶ少年たちなどに、人を安心させる笑顔と手段で取り入っていく。
やがて榛村大和に関わった人たちは、蜘蛛の巣にかかった蝶のように彼の餌食となっていく。
榛村大和の特殊能力は、言い換えれば人を洗脳する能力である。
被害者は霊感商法で見られる被害者と何ら変わらない。
人間社会において人と交わらないで過ごすことは出来ない。
榛村大和の手口を見ていると、社会生活の中で打ち解け合ったり信頼関係を築いたりしていることも、もしかしたら洗脳の一種なのかと思ってしまいゾッとするものがある。

雅也は榛村大和の担当弁護士から事件に関する調書を見せてもらうのだが、その際に彼は法律事務所のアルバイトと言う身分を与えられる。
そんなにも簡単に法律事務所のアルバイトにありつけるものかと思うし、事務所職員の名刺を勝手に作っての活動にあの程度の叱責で済むのかなどリアリティを感じさせないところもあるが、白石和彌としてはリアリティよりエンタテインメント性を重視して撮っていると思われる。
雅也がスマホで盗撮した被害者の写真を部屋の壁いっぱいに貼っている理由もよく分からず、単に視覚的効果を狙ったものだったのだろう。
その割には後半になって明らかになってくる驚くべき事実の判明の仕方が少々盛り上がりに欠けていたように思われる。
特に雅也の出生に係わる場面はもっと盛り上げることが出来たと言う気がするし、根津かおるの殺害現場で涙を流していた女性が判明する場面も同様で、サスペンス性よりもミステリー性を重視する演出を感じる。
面白いのは榛村大和の洗脳が今も生き続けていることで、拘置所の看守も彼の手中にあるし、母親の衿子だって洗脳が解けていないのかもしれない。
他にも洗脳されている人物が示され、もしかすると雅也自身も榛村大和に操られていたのかもしれないと思わせるラストは衝撃である。
それならいっそ、弁護士の佐村も榛村大和の手中にあったとしたほうが良かったのでは・・・。
検事も裁判官もそうなっていたとしたら、これはもう喜劇の世界になってしまうから、それはないな。
白石和彌が死刑囚を描いた同類の映画としては、僕は「凶悪」の方が良かったように思う。

JSA

2023-11-14 07:05:28 | 映画
「JSA」 2000年 韓国


監督 パク・チャヌク
出演 イ・ビョンホン イ・ヨンエ ソン・ガンホ
   シン・ハギュン キム・テウ

ストーリー
10月28日午前2時16分。
韓国と北朝鮮の境界にある板門店に設けられた、韓国軍と北朝鮮人民軍のJSA(共同警備区域)の北朝鮮側詰所で、警備を担当していた朝鮮人民軍の将校と兵士チョン・ウジンが韓国軍兵士により射殺される事件が発生した。
10月31日、事態を重く見た韓国と北朝鮮の同意を得た中立国監視委員会は事件の真相解明に乗り出し、スイス軍法務科将校の韓国系スイス人、ソフィー・チャン少佐に捜査を依頼した。
ソフィーはまず事件の容疑者とされる韓国軍兵士のイ・スヒョクに面会するが、スヒョクは事件のショックからか何も語ろうとはしない。
ソフィーはスヒョクの捜査記録から、事件の当日スヒョクは詰所付近で用を足していたところ、突如として北朝鮮人民軍に拉致されてしまい、脱出の際に銃撃戦になったという記述を見つけた。
スヒョクはその後、境界線で倒れているところを韓国軍に保護されたということだった。
スヒョクと共に勤務していた韓国軍兵士ナム・ソンシクも同様の証言をしていた。
続いてソフィーは、銃撃戦で負傷したという北朝鮮人民軍の兵士オ・ギョンピルを訪ねた。
ギョンピルの証言によると、スヒョクは拉致されたのではなく、自ら北朝鮮詰所に出向いて発砲してきたと言った。
両者の証言の食い違いにソフィーは困惑の表情を浮かべる。
その後、被害者の検死の結果、二名とも1回撃たれた後で更に追い打ちをかけるように銃弾を浴びせられたことが判明した。
更に調べを進めると、遺体および現場の銃痕と発砲された銃弾の数が一発合わないことが判明した。
やがて事件当日になぜかスヒョクとソンシクの銃が入れ替わっており、ソンシクの銃からは北朝鮮兵士の血痕が発見された。
このことにより、ソンシクも容疑者のひとりとして挙げられたが、ソンシクは取調べ中に窓から飛び降り自殺を図り、意識不明の重体に陥ってしまった。
物語は事件の前にさかのぼる。
ヨーロッパからの観光客の一団が板門店(韓国側)を訪れた時のこと、旅行者のひとりの帽子が風に乗って国境を越えてしまい、当時国境警備に就いていたギョンピルが帽子を拾い上げて旅行者に返した。
一方、韓国側で警備についていたスヒョクは旅行者が写真を撮ろうとするのを制していた。
その後、スヒョクは警備中に誤って北朝鮮側に入ってしまい、しかも地雷を踏んでしまった。
どうすることもできないスヒョクの前にたまたま通りかかったギョンピルとウジンが地雷を解除してスヒョクを助け、それがきっかけで三人は文通を始めるようになった。
しばらくして今度はスヒョクが密かに北朝鮮側の詰所を訪れ、すっかり意気投合した三人は密かに酒を飲み、互いの国の文化などについて語り合った。
スヒョクは人見知りがちなソンシクにも声をかけ、彼も交えた四人は互いの立場を超えた友情を築き上げていった。
しかし、韓国と北朝鮮の関係は悪化していき、そして運命の10月28日、四人が集うのはこの日が最後と決め、ソンシクは絵の好きなウジンに絵の具をプレゼントしたのだが、その場にウジンらの上司が現れた。
時は現在に戻り、スヒョクとギョンピルは取調べで顔を合わせた。
ソンシクが飛び降りた時のビデオを見せられたスヒョクは取り乱し、真実を打ち明けそうになったが、ギョンピルは敢えてわざとスヒョクを罵倒した。
その後、ソフィーは自身の父が北朝鮮軍将校だったことを理由に上司から任務解除を言い渡されたが、どうしても真相を知りたいソフィーはスヒョクに現場近くで発見したウジンのノートを見せ、再度の証言を求めた。
ノートにはウジンが描いたスヒョクの恋人(ソンシクの妹)の絵があり、スヒョクはギョンピルの身の安全を保証することを条件にソフィーに真相を語り始めた。
事件当日、ウジンらの上司がその場に現れたことで四人は一触即発の事態に陥ってしまい、スヒョクは上司と銃を向け合った。
ギョンピルの必死のとりなしでその場は何とか丸く収まろうとしたが、その時上司は無線機を取ろうとポケットに手を入れ、銃を出すのだと勘違いしたスヒョクは上司を撃ち、止めに入ろうとしたウジンをも誤って撃ってしまい、動揺したソンシクは何度もウジンに銃弾を浴びせてしまった。
ギョンピルはかねてからパワハラを受けてきた上司にとどめを刺し、証拠隠滅と偽装工作としてわざとスヒョクに自分の肩を撃たせたうえで逃がした。
行方不明になった銃弾1発はスヒョクがウジンを撃った際に貫通してカセットデッキに当たったのであり、ギョンピルはそれを川に投げ捨てていたのだ。
ソフィーはギョンピルから預かったライターをスヒョクに渡しに行き、その際にうっかりギョンピルの証言内容を伝えてしまう。
取り返しのつかないことをしてしまったと深く悔いるスヒョクは密かに引率していた兵士の拳銃を奪い、自ら命を絶つ。
映画のラスト、友情を組む前の四人が板門店で初めて出会った時の写真が映し出される。


寸評
韓国と北朝鮮を隔てる軍事境界線を挟んで起きた悲劇を描いているが、メッセージ性はあるが堅苦しい内容ではない。
北朝鮮側詰所で、警備を担当していた北朝鮮の将校と兵士が韓国兵士によって射殺される事件が起きる。
紛争拡大を避けるために中立国監視委員会が事件の真相解明に乗り出し、スイス軍法務科将校の韓国系スイス人、ソフィー少佐が派遣されてくるのが導入部である。
当事者である韓国のスヒョクと北朝鮮のギョンピルが尋問を受け、やがて韓国側のソンシクも関係していたことが判明したが、ソンシクは自殺未遂を起こしてしまう。
ソフィーは政治的な解決を求められ「なぜ引き金を引いたの?」と聞けばいいのねと皮肉交じりの返答をするが、物語はまさに「なぜ引き金を引いたのか」の真相解明に向かっていく。
その為に物語は事件の前にさかのぼるのだが、そこからの描写が面白くてこの映画のメインでもある。
ヨーロッパからの観光客の一団が板門店を訪れた時に4人は出会っていたのだが、そのシーンがさりげなく描かれているのがよい。
偵察に出たスヒョクは北朝鮮側に入り込んでしまい地雷を踏んでしまい、ギョンピルとウジンに助けられる。
南北朝鮮は敵同士だが元は同胞なので軍事境界線を挟んで彼らの交流が始まる。
最前線にいながら親友と呼べるくらいに親しくなっていく様子が微笑ましい。
何度も描かれることで戦争の虚しさが伝わってくる。
どちらも国は捨てたくないが、敵国の友人と殺し合いはしたくないのだ。
グローバル社会となって、ひとたび戦争が起きれば彼らのような関係の人たちはたくさん居るのではないかと思う。
将軍は韓国と北朝鮮のやり方を知っていて、全てを明らかにすることではなく曖昧にすることで平和が保たれるのだと言う。
だから中立国の無関心さを利用して中立国に監査の依頼が来たのだと言うのだ。
そしてヨーロッパ生まれのソフィーの父親が北朝鮮将校であったことが判明することで物語が複雑化し、結果的に彼女は二人の兵士を殺してしまったことになる。
いずれの殺人も自殺も分断がもたらした悲劇であろう。
南北問題を描いた秀作である。

ザ・マジックアワー

2023-11-13 06:52:14 | 映画
「ザ・マジックアワー」 2008年 日本


監督 三谷幸喜
出演 佐藤浩市 妻夫木聡 深津絵里 綾瀬はるか 西田敏行
   小日向文世 寺島進 戸田恵子 伊吹吾郎 浅野和之
   柳澤愼一 香川照之 近藤芳正 梶原善 山本耕史
   市川亀治郎 市川崑 香取慎吾 鈴木京香 谷原章介
   寺脇康文 天海祐希 唐沢寿明

ストーリー
売れない役者の村田(佐藤浩市)がマネージャー長谷川(小日向文世)とやってきたのは、港町・守加護だった。
彼は、映画監督の備後(妻夫木聡)から映画の主演を依頼されたのだが、備後の真の職業はクラブの支配人であった。
街のボスである天塩(西田敏行)の愛人マリ(深津絵里)に手を出したことが発覚した備後は、命を救われる唯一の道として伝説の殺し屋“デラ富樫”を5日以内に連れてくることを要求される。
そこで備後は、“デラ富樫”のニセ者として村田を呼び寄せたのだ。
騙されているとも知らず、初めて主役の座を得た村田は大いに張り切って、台本がないことを不審がる長谷川を尻目に、“デラ富樫”の役作りを深めていく。
天塩と初対面の席でも、そのオーバーアクトに拍車がかかり、備後は気が気でない。
幸運な偶然が重なって、天塩の部下である黒川(寺島進)の目も欺くことに成功する。
天塩が“デラ富樫”を探していたのには理由があって、天塩商会と対立する江洞(香川照之)から狙われの身の天塩は、“デラ富樫”を自分の配下におこうと企んだのだ。
きわどい備後の目論みに業を煮やしたマリは、早く街から逃れようと誘う。
やがて計画は崩壊し、ようやく村田も映画の撮影ではないことに気がつく。
そのとき、自分の身を犠牲にして備後と村田を救ったのはマリだった。
すべてを悟った村田は、映画仲間たちを守加護に呼んで、天塩を騙すための大芝居を仕掛ける。
だが、その過程で天塩とマリは真実の愛に目覚めて、二人で街を去っていく。
呆然とする備後と村田の前に本物のデラ富樫が現れると村田は思いもかけぬ行動に出る。

寸評
殺し屋に仕立てられた村田という役者は、自分は映画の撮影で演技をしていると思い込んでいるのに対して、ギャングのボスや手下たちは彼が本物の殺し屋だと思い込んでいる。
そのギャップを利用した可笑しさを笑えるかどうかがこの映画の分かれ目となっている。
笑えない人には全く面白くない映画で、どこがいいのだとなるだろうし、笑える人にとっては三谷幸喜の感性に入り込むことが出来るだろう。
僕はどうだったかというと、その真ん中で、どうも消化不良感があった。
三谷監督の旺盛なサービス精神なのだろうが、いろんなことを詰め込みすぎているような気がする。
どうもそれがテンポを崩していて全体のリズムを悪くしていた。
それは全体的な印象で、この映画が狙った笑いは理解することができる。
村田はどう見たって不自然な状況なのに、すっかり映画撮影と思い込んでいるから、本物のヤクザに囲まれてもまるで動じない。
それを見て「さすがは伝説の殺し屋だ」などと勝手に勘違いする〝本物〟たちの狼狽ぶりの可笑しさだ。
その可笑しさだけは伝わった。

役者たちは嬉々として演じている。
ボス役の西田敏行、手下役の寺島進、マネージャー役の小日向文世、往年のスターの晩年を演じる柳澤愼一などが演技を楽しんでいるようだ。
戸田恵子のド派手な衣装と厚化粧も愉快で、彼らが楽しんでいることがこちらに伝わってくる。
映画ファンとしては市川崑監督に自ら登場してもらってその演出風景を描いたり、「カサブランカ」を髣髴させるシーンがあったりするのは嬉しい。
一番はじけているのは売れない役者役の佐藤浩市で、ナイフをなめまくってスゴむシーンなどは可笑しすぎる。
一つ一つのエピソードは、彼らの頑張りもあって面白いのだが、どうしたわけかぶつ切り感を感じてしまったなあ。

村田は売れない役者だが、どうやらスタッフ連中には好かれているようで、ラストでは皆が村田の頼みに協力するのだが、ここだけはもっと盛り上げてほしかった。
でもエンドロールはよかったなあ。
東宝の巨大スタジオを占拠した大セットの建設の流れが見られるようになっている。
時代設定は現代と思われるが、どこか昔なつかしい不思議な風景が出来上がっていくのだが、三谷監督らスタッフが心からその出来栄えに満足して愛でている様子が伺える。
大道具さん、小道具さんてスゴイんだなあと感心させられるのだ。
僕はすべてのシーンの中で、このエンドロールが一番気に入った。
マジック・アワーとは、太陽が沈んだ後に一瞬だけ見せる街を覆う独特な色彩的雰囲気の出る時間帯を言う。
スタッフたちはその一瞬を狙ってカメラを回すのだが、その瞬間を撮り逃す場合もある。
しかしそれでもまた明日にはマジック・アワーがやってくる。
村田は今は売れない役者だが、それでもいつかその素晴らしい場面に出合えるかもしれない。
我々に対する激励のメッセージでもある。

座頭市海を渡る

2023-11-12 07:23:13 | 映画
「座頭市海を渡る」 1966年 日本


監督 池広一夫
出演 勝新太郎 井川比佐志 安田道代 五味龍太郎 三島雅夫
   山形勲 守田学 千波丈太郎 田中邦衛 東野孝彦

ストーリー
これまで斬った人々の菩提をとむらうため、座頭市(勝新太郎)は四国の札所めぐりを続けていた。
船の中で暴力スリ(千波丈太郎)をこらしめたりした市だが、ある日、馬に乗って追ってきた栄五郎(井川比佐志)という男に斬りつけられ、やむなく彼を斬った。
止むを得ないとはいえ、また人を斬ってしまった市の心は沈んだ。
だから、栄五郎の家を訪ね、妹のお吉(安田道代)に斬られた時、お吉の短刀をよけようともしなかったのだ。
お吉は、実は優しい娘で、兄が殺されたと悟って咄嗟に市を斬ったのだが、今度はその市をかいがいしく介抱するのだった。
お吉の話では、栄五郎が三十両の借金のために、馬喰の藤八(山形勲)から命じられて市を襲ったのだった。
そして市を弟の仇と狙う新造(守田学)が藤八にそれを頼んでいたことが分った。
また村の馬喰の頭でもある藤八は、芹ケ沢の支配権を一手に握ろうと画策してもいた。
だが、そこはお吉の土地だったから、藤八は邪魔なお吉に女房になれと言ってきた。
それを知った市はお吉の後見人となり真っ向うから藤八と対立したのだ。
そんな二人を、名主の権兵衛(三島雅夫)は狡猾な計算で見守っていた。
先ず市は栄五郎の香典として、藤八に三十両を要求した。
腕ずくでということになり、藤八の弓に居合で勝った市は三十両をせしめた。
その帰途を藤八の子分が襲ったのだが、所詮市の居合に敵うはずもなかった。
市とお吉は栄五郎の墓を建てて、しばらくの間楽しい日々を過ごした。
そんなお吉に、恋人の安造(東野英心)が土地を捨てようと誘った。
しかし、お吉は市を信じていた。
やがて藤八は市に最後通牒をつきつけてきた。
そしてその日、市はたった一人で藤八一家と対峙することとなった・・・。


寸評
関八州を中心として描かれていた座頭市シリーズだが、本作では四国が舞台となる。
タイトルに海を渡るとあるから香港にでも行くのかと思ったら、瀬戸内海を渡って四国に上陸したということである。
しかし舞台が四国であることが重要なファクターとはなっていない。
人を斬り過ぎた座頭市が金毘羅さんにお参りして菩提を弔うと冒頭で語るくらいである。
敵役もこれまでのやくざ一家とは異なり、馬賊を相手に戦うことでマンネリの脱却を図っている。
新藤兼人が脚本を担当しているので期待したのだが成功作とは言い難い。
新藤らしく思えるのは、悪役を馬喰藤八としているのだが、非暴力をうたっていつもニコニコしている名主の三島雅夫を狡猾な男として登場させ、権兵衛さんの言う通りと言って傍観する百姓たちのズルさを描いている点だ。
座頭市シリーズは1962年の「座頭市物語」から、1989年の勝新太郎自身が監督した「座頭市」まで26作品が制作されており、本作はそのほぼ中間点に当たる14作目となっている。

目立っているのはお吉の安田道代である。
この頃は安田道代を名乗って大映の看板女優の一人であったが、結婚後は夫の性を名乗り大楠道代に改名して演技派女優としての地位を不動のものとしている。
お吉は兄を殺されたことから市に斬りかかったが、市は逃げることはせず肩に一太刀を浴びる。
そのことでお吉は座頭市と心を通わせる。
馬喰相手にタンカを切る気の強い女でありながら、市と食事を共にするシーンや、池で泳いではしゃぐシーンなどで二人の間に湧き上がる感情を見せている。
しかしどうやらお吉には恋人とでもいうべき安造という若者がいるのだが、この安造の描き方は中途半端なものとなってしまっている。
お吉にこの村から出ようと誘いをかけているが、座頭市の存在をやっかんでいる風でもない。
普通ならお吉が座頭市に好意を持ち始めた事を察して嫉妬しても良さそうなものなのだがその様子はない。
最後になって座頭市に加勢するがあっけない結末である。

村の外れに巣くっている野武士が村人たちを襲ってくるのを描いた作品として、名作の誉れが高い「七人の侍」があるが、本作における馬喰集団は迫力がないし、盗賊と言うよりはヤクザの親分のように縄張りが欲しいだけのようなもので動機付けも弱い。
何よりも親分の藤八に策略もないし強そうでもない。
弓の名手のようではあるが、登場時からとても座頭市の相手になるとは思えないのだ。
そこに行けば三島雅夫の権兵衛の方が格段に気味の悪い存在である。
もう少しこの権兵衛を生かせなかったものかと思う。
市は理由もなく人を斬ったことはないと言っているが、冒頭で人を斬ることがないようにと金毘羅さんにお願いしていたのに、今回も又大勢の人間を斬ってしまった切なさも描かれてはいない。
新藤兼人にしては脚本に甘さがあると思えるのだが、池広一夫の演出によるものだろうか。
それにしても勝新太郎が演じる座頭市の歩き方を初めとする振る舞いは板についており、いつ見ても勝新太郎あっての座頭市と思わせる。

殺人狂時代

2023-11-11 08:22:32 | 映画
2019/1/1より始めておりますので10日ごとに記録を辿ってみます。
興味のある方はバックナンバーからご覧下さい。

2019/5/11は「グレン・ミラー物語」で、以下「黒い雨」「軍旗はためく下に」「刑事ジョン・ブック/目撃者」「KT」「軽蔑」「刑務所の中」「激突!」「けんかえれじい」「恋におちたシェイクスピア」と続きました。

「殺人狂時代」 1967年 日本


監督 岡本喜八
出演 仲代達矢 団令子 砂塚秀夫 天本英世 滝恵一
   富永美沙子 久野征四郎 小川安三 江原達怡
   川口敦子 大前亘 伊吹新

ストーリー
犯罪心理学の大学講師桔梗信治(仲代達矢)はある日、驚くべき人物の訪問を受けた。
男は「大日本人口調節審議会」の間淵(小川安三)で、信治の命を貰うと言う。
しかし、間淵は信治の亡き母のブロンズ像を頭に受けてあっけなく死んでしまい、信治は単身「審議会」に対することになった。
この団体は、実は人口調節のために無駄な人間を殺すのが目的で、会長はヒットラーに心酔する精神病院の溝呂木院長(天本英世)、それに元ナテスのブルッケンマイヤー(ブルーノ・ルスケ)が加わっていた。
信治は、ブルッケンマイヤーが仕事の手始めとして電話帳から無差別に選んだ一人だったのである。
一方、信治には特ダネを狙う記者啓子(団令子)と、コソ泥の大友ビル(砂塚秀夫)が味方についた。
ところで、信治殺しに失敗した「審議会」は、その後次々と殺し屋をさし向けてきたが、その度に三人の返り討ちにあっていた。
じつは、信治の背中の傷には戦争中ヒットラーの手から盗まれたダイヤモンド“クレオパトラの涙”が隠されているということで信治は命を狙われていたのだが・・・。


寸評
タイトルバックからして遊び心満載。
不必要な人間を抹殺するのが役目の「大日本人口調節審議会」という存在がおかしい。
ミステリアスな室内装飾がそれを誇張する。
さらに冒頭でナチスの残党が登場するとあっては完全にコミック、喜劇の世界と認識させられる。
そして起こる殺人事件もリアリティがなくバカバカしいし、主人公の仲代達矢が現実離れしたおかしな大学講師で、彼がやらかす変な行動で相手が倒れるのも喜劇映画とすれば常道だ。
このバカバカしさを満喫できるかが、この映画を見続けられるかの分かれ目である。

桔梗は先ず殺し屋の間淵によって命を狙われるが、間淵の技は2枚のトランプカードの間に剃刀をはさみ、それを飛ばして相手の喉を切るというものだが、失敗して落ちてきた桔梗の母の銅像の一撃をくらい死んでしまう。
この滑稽さの極みは占い師小松弓江のもとに連れていかれた大友ビルが逃げ延びるシーンだ。
大友は全身黒ずくめの服を着た弓江の催眠術にかかり、鳥になった気分で高層階の窓から飛ぼうとしたところで目が覚め、それを見た弓江が窓に立って大友を足蹴にしだす。
助けに来た桔梗が「覗け!」と叫ぶと、大友は上を見上げ弓江のスカートの中を見る。
下着を見られるのを嫌った弓江が足を閉じてバランスを崩し、自らが落下してしまうというものである。
爆笑が起こってしまうシーンで、お遊びもここまでくると中々のものである。

殺し屋は眼帯を使ったり、仕込み傘や松葉杖を使ったりと小道具にも事欠かない。
果ては自衛隊員となって演習場にまで出没する。
砲撃の中での脱出劇は砲弾の穴を次々と渡っていくというものだが、滑稽すぎてハラハラドキドキ感も湧かない。
炸裂する火薬の量だけはふんだんに使用しているらしく、リアリティのない画面の中で浮いたような爆発映像を繰り返し映し出す。
このアンバランスは何なんだと叫びたくなってしまう。
病院での溝呂木と桔梗の対決も、子供の頃に見たテレビ映画を髣髴させるバカバカしいもので、アクションの大芝居は首尾一貫している。
ヒトラーの映像を流しながら溝呂木院長=天本英世に語らせるシーンなども思わせぶりである。
プログラムピクチャと言えばそれまでだが、こんな子供だまし映画を大人に見せようとした岡本喜八の心意気に感服しながらも、どこかでよくもまあこんな作品を恥ずかしげもなく撮ったものだとの思いも湧く。

やっとの思いで助け出したヒロイン啓子の処理もラブロマンスを壊すもので、ストーリー的には最後まで先が読めないものとなっている。
観客の期待を裏切ることを楽しんでいるようでもある。
しかしながら、子供だまし作品の印象はぬぐえずヒットしなかった理由は明白だ。
それでも真剣にこの映画を撮り切ったことで、後世からは変な評価を得ることが出来たのだろうと思う。
理屈抜きに面白い映画をとの岡本喜八の思いが十分に発揮されたとは言い難いが、このおふざけは岡本喜八の晩年作品でも見受けられるから、彼の持ち合わせた資質の一つだったのかもしれない。

サクリファイス

2023-11-10 06:22:41 | 映画
「サクリファイス」 1986年 スウェーデン / フランス


監督 アンドレイ・タルコフスキー
出演 エルランド・ヨセフソン  スーザン・フリートウッド
   アラン・エドワール    グドルン・ギスラドッティル
   スヴェン・ヴォルテル   ヴァレリー・メレッス
   フィリッパ・フランセーン トミー・チェルクヴィスト

ストーリー
スウェーデンの南、バルト海をのぞむゴトランド島。
かつて「白痴」のムイシキン公爵の役等で大成功をおさめた名優だったアレクサンデルは今は評論家、大学教授として島で静かに暮らしている。
「昔、師の言葉を守って3年間、若い僧が水をやり続けると枯木が甦った」という伝説を子供に語るアレクサンデルだが、妻は舞台の名声を捨てた夫に不満をもっている。
娘のマルタも、小間使のジュリアも魔女と噂される召使いのマリアも、夫婦の不仲には慣れている。
急に姿が見えなくなった子供を探していたアレクサンデルは、突然失神する。
白夜の戸外。アレクサンドルは、自分の家とそっくりな小さな家を見つける。
通りかかったマリアが、自分で作ったのだという。
アレクサンデルが階下へ降りると、テレビでは核戦争の非常事態発生のニュースを報じているが、途中で通信が途絶えた。
アレクサンデルの口から、初めて神への願いが発せられる。
「愛する人々を救って下さい。家も、家族も、子供も、言葉もすべて捨てます」と誓う。
マリアを訪れたアレクサンデルは、彼女に母の思い出を話し、抱き合った。
朝、目覚めたアレクサンデルは、光の中、神との契約を守るべく、自らを犠牲に捧げる儀式をはじめた。


寸評
アンドレイ・タルコフスキーはこの作品が完成した1986年の12月に54歳の若さで亡くなった。
そのこともあって僕はアレクサンデルはタルコフスキーの分身で、彼に自分の思いを託したのではないかと思う。
この作品ではアレクサンデルの独白の形で彼の絶望が何度も語られる。
彼は技術革新が人類の幸せのためではなく暴力と破壊のためのツールを人類に与えたと思っており、現代の物質文明に絶望している。
彼は精神的な豊かさや安寧こそが人類にとって重要であると思っているから、現代社会ではそれを求めることは至難の業になっていることへの絶望である。
彼は著名な舞台俳優として、また歴史や美学に造詣のある知識人として尊敬されているが、俳優が行うような語ることの無意味さを感じており、言葉そのものを否定している。
それを肯定するかのように存在しているのが息子の少年で、彼は喉の手術を受け言葉を発することができない。
自分自身を否定しているのはアレクサンデルだけではない。
彼の妻も自分の願望と行動とは一致せず、一番愛した人と結婚したわけではないと述べる。
友人の医者ヴィクトルもまた、これまでの人生を捨てオーストラリアに移住しようとしている。

アレクサンドルは核戦争による世界の崩壊を恐れている。
彼は愛する家族や友人を戦争という暴力で失うことを恐れる。
一番愛していた息子が父親を驚かそうとしたときに彼を傷つけてしまう。
暴力が一番愛する幼い子供を傷つけてしまうという象徴的なシーンだ。
象徴的な存在は召使のマリアだ。
マリアと聞いて思い浮かぶのは聖母マリアである。
召使のマリアは聖母マリアの分身としてアレクサンドルに身体を与えて救おうとする。
ベッドが空中浮揚する超現実シーンが用意されている。
アレクサンドルは物質的なものの象徴である家を燃やす。
彼は約束に従って、この家という大事なものを神に献げ、家族と友人を守ろうとする。
僕は忍ばせた拳銃で自殺をするかと思ったが、どうやら狂人扱いされたようだ。

少年は言葉を発することが出来るようになり、「はじめに言葉があった」とつぶやき、「パパなぜなんだ」と疑問を持つのだが、アレクサンドルは言葉ではなく心で神とつながったのだろう。
見終ってそのようなことを頭の中に浮かべたのだが、映画は難解である。
何よりも面白くない。
映画は何らかの形で面白いものでないと、見るのが苦痛となってしまう。
僕は苦痛だった。
全体的に画面は暗く、カメラは静かにパンし、流れるように移動していきワンシーンが長い。
時間の割にはカット数は少なかったように思う。
その映像には見るものがあったが、眠気を誘ってしまう内容はどうしようもなかった。
カンヌは評価したかもしれないが、僕には評価の対象外の作品に思えた。

THE 有頂天ホテル

2023-11-09 07:30:45 | 映画
「THE 有頂天ホテル」 2005年 日本


監督 三谷幸喜
出演 役所広司 松たか子 佐藤浩市 香取慎吾 篠原涼子
   戸田恵子 生瀬勝久 麻生久美子 YOU オダギリジョー
   角野卓造 寺島進 浅野和之 近藤芳正 川平慈英
   堀内敬子 梶原善 田中直樹 八木亜希子 原田美枝子
   唐沢寿明 津川雅彦 伊東四朗 西田敏行

ストーリー
大晦日。高級ホテル・アバンティは新年を迎えるカウントダウンイベントを控えて賑わっていた。
歌手に成る事を夢見、このホテルでベルボーイのアルバイトをしていた憲二(香取慎吾)は、夢を諦めて明日故郷へ帰ろうと決めていた。
客室係のハナ(松たか子)はシングルマザーとして一人息子を育てていたが、母親としての自覚を未だ持てずにいるのだが、息子の父親は汚職事件で世間を騒がしている国会議員・武藤田(佐藤浩市)であった。
ホテルの副支配人である新堂(役所広司)はこの日たまたまホテルに宿泊していた元妻・由美(原田美枝子)と再会し、自分も宿泊客であり、今晩ホテルで行なわれる“ステージマン・オブ・ザ・イヤー”の表彰パーティーに招かれたのだと言ってしまう。
カウントダウンイベントに出演予定の歌手・桜チェリー(YOU)は、所属事務所の社長に歌いたくない歌を押し付けられ、事務所の為に顧客と寝る事をも強要されていた。
汚職疑惑の渦中にいる武藤田は、このホテルに身を隠している事をマスコミに嗅ぎ付けられてしまい、政治家としての進退を迫られていた。
自室で思い詰めていた武藤田は、自殺を決心して銃に手をかけたが、隣部屋から憲二が宿泊客に頼まれて歌っていた能天気な歌が聞こえて来て思いとどまる。
客には才能が無いから歌なんてやめろと言われる憲二だが、武藤田には良い歌だとほめられる。
憲二は歌が歌えるだけ幸せじゃないかと桜チェリーを叱咤激励し、新堂はホテルマンとして武藤田をマスコミから守り切る事に成功する。


寸評
都内の高級ホテル“ホテル・アバンティ”を舞台としたグランド・ホテル形式の群像劇で、映画「グランド・ホテル」に引っかけた小ネタも披露される。
一つの場所に集う人々の人間性を描くグランド・ホテル形式の映画は、ネーミングの元となった作品以来幾度となく制作されてきたが、この作品はその形態をとりながらも随分と喜劇的である。
三谷幸喜は物語を通じて深く人間を追及すると言うよりは、ストーリーテイラーとしての才能を発揮する監督だ。
ここでもその才能を開花させて、次から次へとギャグを繰り出しながら話を紡いでいく。
よくもまあこれだけアイデアを出せるものだと思うし、監督、出演者が随分と楽しんでいるようにも見える。
作品の性質上、数多くの登場人物がそれぞれの役柄を演じていくが、そのどれもが滑稽だ。
まともなのはアシスタントマネージャーの戸田恵子と、新堂の元妻である原田美枝子ぐらいではなかったか。

副支配人の役所広司は元妻に会って、思わず今晩ホテルで行なわれる“ステージマン・オブ・ザ・イヤー”で表彰されるのだと言ってしまうのだが、開かれるのは“スタッグマン”(鹿の交配技師)の表彰パーティーだった。
客室係のハナ(松たか子)はシングルマザーだが、贈収賄事件でマスコミに追われこのホテルに雲隠れしている国会議員の武藤田(佐藤浩市)が元カレで、二人の間には子供まである。
更に彼女は行きがかり上、会社社長の愛人を装うことになってしまう。
その愛人は実は…という展開も用意されている。
オダギリジョーの筆耕係は小さな文字しか書いたことがなく、大きな垂れ幕を依頼されたがなかなかできない。
そうなったのは「謹賀新年」とすべきところを「謹賀信念」と間違って印刷してしまったためで、このあたりのギャグはよくやるもので、まだかわいい部類だ。
コールガールのヨーコ(篠原涼子)はこのホテルから退去させられても、どこからか再び入り込んでくることを繰り返しているので、ホテルの構造を従業員以上に熟知している良からぬ女で、それを見れば誰もが元気になるという角野卓造のクネクネ動画を携帯の待ち受けにしている。
ウェイターの丹下(川平慈英)は客室係の睦子に恋しているが、彼女の家に泊まった時に自分のパンツがないので彼女のパンツをはいてしまった一件を責められプロポーズを拒否されている。
大物演歌歌手の徳川膳武(西田敏行)はステージの本番前には常に駄々をこね、精神は子供のままで付き人の手を焼かせている。
あげだしたらきりがないキャラクターの可笑しさと、騒動の可笑しさだ。
登場人物はその他にも多彩で、芸能プロ社長の唐沢寿明、会社社長の津川雅彦、副支配人の生瀬勝久、総支配人の伊東四朗、 ベルボーイの幼馴染に麻生久美子、シンガー・桜チェリーにYOUといった具合だが、寺島進、浅野和之、近藤芳正 、梶原善、石井正則 なども所狭しと暴れまくる。

まともな話はきわめて少ない組み立てで、新堂の転職と元妻の思いのやりとりや、ベルボーイ(香取慎吾)が夢破れ退職していこうとしているのを小道具を駆使して引き戻してくることなどはスパイス的な話となっていた。
新堂とアシスタントマネージャー・矢部の恋模様を描き込んでも良かったが、そうなるとこのドタバタ劇がドタバタでなくなってしまうのかも知れないな。
それにしてもYOUの歌、想像以上によかったなあ。

最高の人生の見つけ方

2023-11-08 07:08:35 | 映画
「最高の人生の見つけ方」 2007年 アメリカ 

                    
監督 ロブ・ライナー        
出演 ジャック・ニコルソン モーガン・フリーマン
   ショーン・ヘイズ ビヴァリー・トッド ロブ・モロー

ストーリー            
家族を愛するまじめで心優しい自動車整備士のカーターと、一代で莫大な富を築いた傲慢で孤独な実業家のエドワード。
そんな対照的な初老の男2人は、ひょんなことから同じ病室に入院、揃って余命6ヵ月の宣告を受けてしまう。
そんな時、カーターはかつて恩師から教わった死ぬまでに叶えたいリスト“バケット(棺桶)リスト”を書き出してみるのだった。
それを見たエドワードはこのアイデアを気に入り、バケットリストを実行しようと、2人で病院を抜け出し人生最後の旅に出る。
エドワードはカーターをスカイダイビングから年代物のレースカーのコックピットへも導き、タージマハルからアフリカの野生の楽園セレンゲティ、最高級レストランからいかがわしいタトゥーショップまで、ふたりは気付かないうちに生涯の友になっていく。


寸評
ジャック・ニコルソン、モーガン・フリーマンの二人芝居を見ているだけで時間が過ぎてしまった。
特にジャック・ニコルソンがいい。
莫大な富を有するエドワードという人物設定にもよるものなのだろうが、その傲慢であるが自信家でも有り実行力もありながら孤独でもある男を魅力たっぷりに演じている。
傲慢、自信家というと厭味な男だと思うのだが、ちっとも嫌悪感が湧いてこず、むしろ親しみを持ってしまう魅力的な男になっている。

ストーリー自体は驚くような話ではなく、シチュエーションもよくある話で、全体的には悲壮感もなく、それほどの深みのある物語になっているわけでもないが、逆に悲壮感のない明るさがこの映画の魅力になっている。
泣くほど笑う。世界一の美人とキスをする。見ず知らずの人に親切にする。壮大な景色を眺める。
金持ちの道楽と思えなくもないが、子供のように無邪気にはしゃぐ姿は楽しいものがあった。
エドワードの秘書トマス役のショーン・ヘイズが重くなりそうな話を軽妙な演技で明日への希望を感じさせるのに一役買っていたと思う。
全体を通じたユーモアとウィットにあふれたセリフも印象的。

ときどき垣間見える人生の悲哀もチラッと見えて、それが適度なスパイスになっていた。
家族愛も描かれて、看護師をしているバージニアが「何人もの最期を看取ってきているので、夫との別れも覚悟はできている。でも生きているうちに別れるのはイヤ!」と叫ぶところは感動した。
ラストのホンワカとした雰囲気は、よくあるハッピーエンドだけれど嫌みはない。

自分も、どんなことがあってもこの映画のテーマと思われる「どんな時でも楽しくやろう!人生ってそういうものだろう」という明るい前向きな姿勢は崩したくないものだ。

最強のふたり

2023-11-07 07:42:58 | 映画
「さ」行です。

「最強のふたり」 2011年 フランス


監督 エリック・トレダノ / オリヴィエ・ナカシュ                          
出演 フランソワ・クリュゼ オマール・シー
   アンヌ・ル・ニ オドレイ・フルーロ
   クロティルド・モレ グレゴア・オスターマン                           

ストーリー
ひとりは、スラム街出身で無職の黒人青年ドリス。
もうひとりは、パリの邸に住む大富豪フィリップ。
何もかもが正反対のふたりが、パラグライダーの事故で首から下が麻痺したフィリップの介護者選びの面接で出会った。
他人の同情にウンザリしていたフィリップは、不採用の証明書でもらえる失業手当が目当てというフザケたドリスを採用する。
その日から相入れないふたつの世界の衝突が始まった。
クラシックとソウル、高級スーツとスウェット、文学的な会話と下ネタ──だが、ふたりとも偽善を憎み本音で生きる姿勢は同じだった。
互いを受け入れ始めたふたりの毎日は、ワクワクする冒険に変わり、ユーモアに富んだ最強の友情が生まれていく。
フィリップを車の荷台に乗せるのを「馬みたいだ」と嫌がって助手席に座らせたり、早朝に発作を起こした彼を街へ連れ出して落ち着くまで何時間も付き合ったり、意外にもドリスには自然な思いやりや優しさがあった。
だが別れは突然やってくる。
家族のことを真剣に思うドリスを見たフィリップは、「やめにしよう。これは君の一生の仕事じゃない」と提案する。
翌朝、名残を惜しむ邸の人々に、陽気に別れを告げるドリス。
ドリスは自分の人生を始めるが、フィリップは再び孤独に陥っていた。
そしてドリスは突然真夜中に呼び出される。
いったいフィリップに何があったのか……。


寸評
非常にまとまった映画だ。
説明シーンを省いてテンポの良い流れを生み出している。
重くなりそうな内容をユーモアと小気味よい会話で飽きさせない。

組合せの違いによる面白さの構成はよくある手で、この作品も例にもれず金持ちと貧乏人、音楽に対する好みの相違、高尚人間と下品な奴、白人と黒人、健常者と身障者と正反対の人物像が描かれている。
最後にモデルとなった二人が映し出されて、ドリスを黒人の設定に変えたんだと知るが、これが黒人=スラム育ちの貧乏人というイメージ強化のために為されたのならチト差別的ではないかと思うのだが、ここは対比の一環として人種の違いを盛り込んだのだと理解しておこう。

ドリスが四肢が全く不自由なフィリップに平気で受話器を渡そうとしたことを捕えて、「彼は私に同情していない、そこがいい」という場面が有るが、身障者を普通の人間として扱うことが一番良いのだと知らされて心に留まった。
さらに、自分は四肢が不自由なので自殺することが出来ないと言うくだりが有るが、友人がかつて養護学校の教員として勤めていた時のエピソードを思い出した。
それは身障者が漏らした言葉なのだが「自分は生きていても仕方がないのでナイフを胸に差して死のうと思ったのだが、力が弱くて死ぬことが出来なかった。その時、自分は生きていくしかないのだということが分かって、二度と自殺を考えずに生きていくことにした」と言うすごく印象に残る経験談を聞かせてもらったのだ。
現実は壮絶なものなのだということなのだが、この映画ではそれすら悲壮感漂うものではなく、どこまでも明るい話なのだ。

ドリスがちょっかいを出す女性のエピソードや、フィリップの娘の恋愛エピソードなど、ドリスを取り巻くエピソードの数々も、あくまで副産物らしくさりげなく描いているところも、この映画に小気味よいテンポを生み出していたのだろう。
開始早々のシーンがラストにつながり、そして感動のフィナーレを迎えると言うのも、常套手段と言えばそれまでなのだが、これまたピタリと決まる手際の良さで、最後までこの失策の無さを維持した演出が冴えた作品だった。

殺しの烙印

2023-11-06 08:33:33 | 映画
「殺しの烙印」 1967年 日本


監督 鈴木清順
出演 宍戸錠 小川万里子 真理アンヌ 南原宏治
   玉川伊佐男 南廣 久松洪介 緑川宏 荒井岩衛
   長弘 伊豆見雄 宮原徳平 萩道子 野村隆

ストーリー
プロの殺し屋としてNO3にランクされている花田(宍戸錠)は、五百万円の報酬である組織の幹部(南原宏治)を護送する途中、NO2(大庭喜儀)とNO4(大和屋竺)らの一味に襲撃された。
花田の相棒春日(南廣)は倒れたが、組織の男の拳銃の腕前はすばらしいもので、危うく危機を脱した花田は、その男を無事目的地に送り届けた。
仕事を終えたあとの花田は緊張感から解放され、妻の真美(小川万里子)と野獣のように抱き合うのだった。
ある日、花田は薮原(玉川伊佐男)から四人を殺して欲しいという依頼を受けた。
花田は自分の持つ最高のテクニックを用いて、次々と指名の人間を消していった。
しかし、最後の一人である外国人を殺すのに手間どり、結局失敗してしまった。
殺し屋に失敗は許されず、組織は女殺し屋美沙子(真理アンヌ)を差向けてきた。
家に逃げ帰った花田に妻の真美が拳銃を向けた。
真美も殺し屋だったのだ。
九死に一生を得た花田は美沙子のアパートに転げこんだ。
そんな花田を美沙子は討つことが出来なかった。
その夜、二人は殺し屋の宿命におびえながらお互いを求めあった。
やがて花田殺しに失敗した美沙子は組織に捕われ、彼女を救いに行った花田は組織の連中と対決したが、そこに現われたのは、かつて花田が護送した男大類(南原宏治)だった。
大類こそ、幻の殺し屋といわれるNO1なのだ。


寸評
鈴木清順は1956年の初監督作品「港の乾杯 勝利をわが手に」以来、日活のプログラムピクチャ監督として毎年何本も撮っていた筈だが、僕は1963年からの作品で彼の名前を意識しだした。
すなわち、小林旭の「関東無宿」(1963)であり、高橋英樹の「刺青一代」(1965)、渡哲也の「東京流れ者」(1966)、高橋英樹の「けんかえれじい」(1966)などであった。
ところが「殺しの烙印」を発表したところ、日活社長・堀久作から「わからない映画ばかり作られては困る」と逆鱗に触れて翌年に日活を追われることとなった。
日活は鈴木清順作品のフィルム貸出を拒否したことで鈴木清順問題共闘会議が結成され、鈴木清順が日活を提訴した民事裁判の原告支援を行い、戦いは1971年12月に和解するまで続いた。
和解後だが、僕は大阪の新世界にあった日劇会館で鈴木清順特集を見た記憶がある。
当時は良心的な特集上映をやっていたと思う。
鈴木清純は1977年の「悲愁物語」で復活するが、これは面白くなかった。

「殺しの烙印」は宍戸錠が主演である。
宍戸錠は石原裕次郎、小林旭、赤木圭一郎、和田浩治による「日活ダイヤモンドライン」の貴重な敵役で「エースのジョー」として独特の存在感を示していた。
彼の魅力はオーバーなダンディ気取りにあり、チッチッと舌を鳴らしたり人を小馬鹿にしたようなニヤニヤ笑いの仕草は宍戸錠ならではのものがあった。
1961年の1月に石原裕次郎がスキー事故で入院、2月に赤木圭一郎がゴーカート事故で亡くなった為に宍戸錠の主演作が撮られるようになった。
彼のコミカルな演技者としての特徴が、ここでは炊き立てのご飯の匂いを嗅ぐのが好きな殺し屋と言うユニークなキャラクターに生かされている。
堀久作はわからない映画と言ったそうだが、話は案外と単純である。
冒頭では、元凄腕の殺し屋である春日が酒に溺れて自滅する様子が描かれ、春日から「酒と女は殺し屋の命取りだ」との言葉が発せられる。
その後は主人公の花田も女と酒に溺れて同じ運命をたどっていくという話で、それは殺し屋稼業の逃れられない宿命=烙印なのだというものだ。
ただモノトーンを生かした映像のインパクトが強くてストーリーを堪能できないことが堀久作のいう”わからない”につながったのかもしれない。
美沙子のアパートの壁が蝶に覆われていたり、美沙子を抱こうとする花田の両手に蝶の死骸がつぶれていたりするので、蝶にはいったいどのような意味があるのだろうと考えてしまうようなシーンも多い。
殺し屋のランクを争っているというのも馬鹿げているが、競争社会を揶揄していると言えば理屈は通るのだが、映画全体から受ける印象は、それも後付け評価のような気がする。
作品の持つテイストも前半、中盤、後半で変化を見せ、人間関係の不明さもつかみどころのない映画に一役買っている。
そのつかみどころのなさを面白いと感じる人には受け入れられるだろうが、僕を初め普通の人にはやはり戸惑いをもたらす作品だと思う。

御用金

2023-11-05 08:01:44 | 映画
「御用金」 1969年 日本


監督 五社英雄
出演 仲代達矢 中村錦之助 丹波哲郎 司葉子 浅丘ルリ子
   東野英治郎 田中邦衛 夏八木勲 樋浦勉 西村晃

ストーリー
天保二年の冬、越前鯖江藩領内で奇怪な事件が起った。
黒崎村の漁民が一人残らず姿を消してしまったのだ。
領民たちは、この事件を“神隠し”と呼んで怖れた。
三年後の江戸で浪人脇坂孫兵衛(仲代達矢)が、鯖江藩士の流一学(西村晃)らに急襲された。
孫兵衛は、彼らが、次席家老六郷帯刀(丹波哲郎)によって差向けられたことを知り愕然とした。
その頃鯖江藩は、公儀より一万石を削減され、さらに享保以来の不況で、極度に疲弊していた。
帯刀は、佐渡から産出した御用金を積んだ船が黒崎村沖で遭難した時、漁民たちが拾いあげた金を藩財政建てなおしのために横領し、その秘密を知る漁民をみな殺しにしていたのだった。
帯刀の妹しの(司葉子)の夫である孫兵街が、妻と藩を捨てて出奔したのは、それから間もなくのことだった。
帯刀は、その時竹馬の友孫兵衛に二度と“神隠し”を行なわぬと約束させられた。
だが、藩政改革に自分の政治的生命を賭ける帯刀は、再度の計画を練っていた。
孫兵衛は、帯刀への怒りをこめて鯖江に向ったが、その途中女賭博師おりは(浅丘ルリ子)と知合った。
おりはも神隠しの犠牲者で、年季奉行が明けて村へ帰った時、許婚者も父親もなく、身を落した女だった。
旅を続ける孫兵衛は、やがて、浪人藤巻左門(           中村錦之助)と会った。
一方、藩では、孫兵衛の行動を察知し、剣の木峠で彼を急襲させた。
帯刀配下の高力九内(夏八木勲)の策略で孫兵衛は窮地に陥る。
そして、死闘で傷ついた孫兵衛を救ったのは左門だった。
やがて、帯刀に、金を積んだ御用船が佐渡を出帆したという報告が入った。
そして、鮫ヶ淵村が“神隠し”の舞台に選ばれたのだが・・・。


寸評
僕には五社英雄監督はダイナミックな演出をする監督とのイメージがあるのだが、反面細やかな演出に欠けるところがあるように思う。
「御用金」の着想は面白いと思うのだが、見終るとどこか物足りなさを感じてしまう作品である。
孫兵衛が鯖江藩の宿場にやって来て、待ち構えた高力九内たちとの乱闘でピンチとなり、それを救ったのが女壺振り師おふりなのだが、おふりの作戦は争っているヤクザ同士を乱闘場面に突入させると言うものだった。
黒澤明の「用心棒」ほどの執拗な場面はなくても、二つのヤクザ組織が熾烈を極めた争いをしていることは描いておかないと、鯖江藩の侍たちが争っている所へ斬り込んでいく必然性が余りにも弱い。
いくら縄張り争いがあるとはいえ、藩の侍が斬り合いをしている所に割り込んでいくなどありえないと思える。
当然、彼らの争いの決着はどうなったのか分からず、孫兵衛は混乱に乗じて脱出に成功している。
ストーリー的には納得できても、描き方には手抜き感があるように思う。
同様のことは孫兵衛が捕らえられ縛られて木に吊るされたところから脱出する場面でも言える。
帯刀が何のために手裏剣をロープに投げつけ落下させたのかよく分からない。
帯刀は現場から立ち去って暫くしたところで、配下の一人に孫兵衛の死を確認に向かわせているのだが、それなら捕らえたところで殺しておけば良かったではないかと思うのだ。

孫兵衛の妻はしので帯刀の妹である。
彼女は夫一筋かと言えばそうではなく、兄の帯刀の苦しい立場を擁護するような意見を孫兵衛に言っている。
彼女は兄が大事、お家が大事と考えている女性なのか、それともそれらに逆らっても夫に殉じる女性なのか立場が不明確である。
またその間で悩んでいる風でもないので、彼女は神隠し事件をどう思っていたのだろうと悩んでしまう。
結局、孫兵衛についていくことになるのだろうが、なんだかシラケる彼女の態度に思えた。
第二の神隠し事件は孫兵衛の活躍で阻止されるが、それは基本的な解決にはなっていない。
そもそもの発端は、幕府によって一万石を削減され、さらに享保以来の不況で極度に財政が悪化し、さらに幕府からの要求に応じられなかったら取りつぶしにあうかもしれないという事情からであったはずだ。
藩は財政悪化から抜け出す手立てを失ったわけで、もしかすると藩士の600名とその家族は路頭に迷うことになったのかもしれないのだ。
藩は藩の存続と藩士を守るために小の虫である領民を殺し、幕府は幕府の存続の為に小藩を犠牲にするという権力者のエゴイズムは残ったままなのだ。
そのことの矛盾を藤巻左門が役目を投げ出すことで片付けているのは余りにも訴えが弱い。
権力者や議員が自分の立場や選挙のことしか考えず、国民のことを考えていないような振る舞いをする現在の政治の在り方に対する憤りの様なものが描かれていても良かったのにと思うのは欲張り過ぎだろうか。

五社演出として、孫兵衛と帯刀の対決は面白い描き方をしている。
極寒の中での対決で、寒さの為に手がかじかんで思い通りに使えない。
孫兵衛はしのの肌で温めてもらい、帯刀は松明の火で温め、お互いに自分の手に息を吹きかけて戦う。
もっと壮絶な戦いであっても良かったが、一対一の決闘場面としてはユニークな描き方で面白いと思った。

この首一万石

2023-11-04 08:34:13 | 映画
「この首一万石」 1963年 日本


監督 伊藤大輔
出演 大川橋蔵 江利チエミ 堺駿二 平幹二朗 藤原釜足
   水原弘 大坂志郎 原健策 東野英治郎 原田甲子郎
   河野秋武 香川良介 赤木春恵 吉田義夫

ストーリー
人入れ稼業井筒屋の抱え人足で槍奴ぶりが評判の伊達男、権三と浪人者凡河内典膳の娘ちづはかねてからの恋仲だが、娘の夫は武士でなければという典繕の一徹さのために結婚出来ないでいた。
そんなことから権三は武士になりたいと願うようになった。
ある日、井筒屋に小大名小此木藩から九州へ帰国のための人足を雇いたいという注文が舞い込み、権三は仲間の助十たちと旅に出ることになった。
ちづと愛を誓い合い旅に出た権三は、宿で仲間たちから女遊びを誘われても一人宿に止まるのだった。
その翌朝、はずみで権三は足の生爪を剥いでしまい行列に落伍することになった。
一人旅の権三はのんびり三島の宿にたどりついたが、宿場女郎ちづるがちづと瓜二つなのを知った。
有頂天の権三は本陣に槍を立てて務めを終えると、先刻の遊女屋へ引きかえしていた。
その頃本陣では、小此木藩と後から到着した渡会藩とがハチ合わせするという事件がもち上っていた。
渡会藩が大藩の威力で本陣の明け渡しを申し出たことから、小此木藩も対抗上、東照神君由来の名槍阿茶羅丸を捧げての道中であると、でまかせの口実で拒んでみたものの、渡会藩の賄賂政策にあっさりその申し入れを受け入れて脇本陣へ移っていった。
ところが、阿茶羅丸だという槍が権三が立て掛けたままになっていたので、渡会藩は小此木藩の芝居に気づいて責任者の切腹を要求した。
のっぴきならなくなった重臣たちは身代りの下郎の首で急場を凌ごうと決めて、かねてから武士への憧憬を語っていた権三に目をつけた。
遊女屋から連れ戻された権三は、武士の姿に整えられていく自分の姿を眺めてたあいなく喜んでいた。
しかし権三の夢は儚なく消え、武士の世界の醜い裏側を見せられた権三だった。
がむしゃらの抵抗を試みる権三に武士たちの刃が執拗に迫った。
人足たちも権三を救おうと問題の槍を渡会藩から取り戻したのだが、代官所の鉄砲は非情に火を吹いた。


寸評
権三は今でいうところの派遣社員である。
自分たちが犯した失態を派遣社員の権三に押し付けて責任逃れをする正社員の姿がダブってくる。
武士の非道と身分制度からくる階級差別のために死んでいく哀れな青年の姿を描いて、その姿は哀れだ。
権三は無学だが真面目に働いている一般的な男だ。
庶民階級の女性にはモテる色男だが、派遣家業の下積み生活を真面目に努めなければならない境遇である。
しかし、その努力は一行に報わず、プライドの高い恋人の父親からその身分を否定されている。
自分の分をわきまえずプライドだけは高いという人間は時代を超えているもので、ちづの父親である浪人もそんな人物で、お前は何様だと言いたくなるような振る舞いを見せる。
そんな父親など無視しても良さそうだが、儒教思想が強いこの時代は父親に逆らうことが出来ない。
地位も財産もない庶民はなんとも報われない存在だと言っているようである。

人生のあやとでも言おうか、ちょっとしたことで物事が大きくなってしまう。
小此木藩の一行が宿を変わることになったが、宿屋の主人が看板を外していなかったのでその事を知らず、権三は自分の受け持ちの槍をそこに立てかけて出かけてしまう。
ちょっとしたタイミングのずれが引き金となってしまったということだ。
そして小此木藩と渡会藩の意地の張り合いがそれに輪をかける。
意地の張り合いが高じて、思い付きの嘘を混ぜて自分たちを大きく見せるのだが、最初は上手い機転だと称賛された嘘によってさらに物事が複雑化してしまう。
小此木藩の重臣は金を受け取り納得してしまうのだが、その失態をお互いに責め合うという見苦しさを見せる。
私腹を肥やしている様子が事前に描かれていることが伏線となっている。

お互いの意地を通したところで、渡会藩ではまあこの辺が手の打ち所で事を収めようとしたのだが、一方の小此木藩では武士に仕立て上げた権三に切腹させようとしていたという思惑違いが生じているという具合で、一つのボタンの掛け違いが大ごとになってしまったという顛末である。
ラストシーンでは武士の非道に権三は槍を振り回して暴れまくる。
権三の怒りが爆発する場面だが、そこでは豪快な立ち回りと壮絶な斬り合いが展開され、男性的な映画を撮り続けた伊藤大輔の映画だと感じさせる場面となっている。
観客は傷つきながらも突きまくる権三の姿をみて、権三の怒りに同化するのを意図したシーンが続くのだが、僕はなぜか冷静で居られた。
どうも権三の悔しさが伝わってこなかったのだ。
その原因は演じているのが大川橋蔵だったからではないかと思う。
大川橋蔵の端正な顔立ちからは悲壮感が感じ取れないのだ。
手前勝手な理屈の犠牲になる権三の怒りのエネルギーに感情移入していく醍醐味感が乏しかったように感じる。
当時の東映若手俳優の中にあって演技派と呼べるのは中村錦之助しか居なかったのかなと思わせる。
伊藤大輔晩年の作品だが、少しもったいないキャスティングだった。

ゴジラの逆襲

2023-11-03 08:11:39 | 映画
「ゴジラの逆襲」 1955年 日本


監督 小田基義
出演 小泉博 若山セツ子 笠間雪雄 千秋実 木匠マユリ
   澤村宗之助 志村喬 清水将夫 笈川武夫 山田巳之助
   恩田清二郎 土屋嘉男 山本廉

ストーリー
飛行艇の操縦士月岡(小泉博)は、故障で岩戸島附近に不時着した同僚小林(千秋実)の救援に向った。
軽傷の小林を励ましていると突然ゴジラが現れて、二人に襲い掛ろうとした時、さらに巨大な怪獣が現われ両者は格闘しつつ海中に没した。
報告を受けた大阪警視総監(笈川武夫)は動物学者山根・田所両博士(志村喬、清水将夫)、防衛庁幹部と緊急会議を開いた。
田所は怪獣は水爆実験で眼覚めたアンギラス、学名アンキロサウルスと推定した。
アンギラスは約一億五千年前の巨竜で脳髄が数ヵ所に分散し、敏捷で兇暴な獣である。
防衛隊は行動を開始したが、ゴジラは四国南岸に向い大阪は一応危機を脱した。
月岡が恋人の社長令嬢秀美(若山セツ子)と踊りに行った時、ゴジラの大阪湾接近が報じられた。
月岡等が照明弾を投下しゴジラを沖へ誘き出す事に成功しかけたが、脱走した囚人の起した大爆発の為にゴジラは再び大阪へ向った。
その時沖からアンギラスが現われ再び格闘を始め、ゴジラの吹く白熱光は附近を焼き払った。
本社と工場を失ったA漁業は社長以下全員北海道支社へ移った。
ゴジラの為に沈没した会社の船の捜索隊は孤島神子島にゴジラを発見した。
投下する爆弾にも動じないゴジラに小林は体当りを試みたが、白熱光に機を焼かれ氷の山肌に激突し、その為に起った雪崩はゴジラの進路を阻んだ。
ヒントを得た月岡等の飛行機隊は山脈にロケット弾を投下した。


寸評
ゴジラ映画の第2弾でアンギラスとの対決が描かれる。
あのゴジラは最後の一匹ではなかった、ゴジラを追って新怪獣アンギラスも大阪上陸。
芹沢博士亡き後、人類にゴジラを倒す術はあるのかというのが今回のテーマとなっている。
ポスターのうたい文句は、「ゴジラは生きていた! またも放射能を吐き本土を襲うゴジラに猛然いどむ新怪獣 アンギラス現わる!」というものだった。
前回は東京がやられたので今回は大阪になったのはシリーズ物としては当然の流れだ。
特技監督は前作同様円谷英二が務めているが、監督は本多猪四郎から小田基義に代わっている。
小田はこの一作しか監督していない。

シリーズで常態化していくゴジラと敵対する怪獣による対戦バトルの幕開けと言っても良い。
アンギラスは脳髄が数カ所に分散し俊敏な怪獣ということになっているが、その特徴が攻撃に於いてどのような威力を発揮しているのかが分かりにくい。
むしろ発揮されていないような戦い方で、アンギラスがゴジラに対して優位な戦いを繰り広げるような場面がないのでは、アンギラスの特徴を語った意味がないのではないか。
大阪城でゴジラとアンギラスが最終決戦を行うが、印象的にはあっけなくアンギラスがやられてしまった気がする。
それでもアンギラスはゴジラの最初の対戦相手だったためか、その名前は僕の記憶にとどまっている。
ゴジラの対戦相手は数多くいるがモスラ、キングギドラ、ラドンと共にアンギラスは著名怪獣となっている。

月岡の務める会社は大阪にあり、秀美も関西人らしいし、同僚の女性とする会話は関西弁だったが、それ以外の会話は標準語になっており、大阪を描くと変な大阪弁が登場する典型でもある。
ゴジラもアンギラスも水爆実験によって覚醒させられたことが一言語られるが、メッセージとしてはないに等しい。
小林が愛する女性へのプレゼントに悩みながら飛び立ち、雪山に激突して死亡するというエピソードは子供だまし映画からの脱却の為だったのだろうが、手帳と秀美の涙の報告だけでは悲しみ度が弱い。
月岡は民間人なのに自衛隊機で攻撃に参加するなんて飛躍のし過ぎだ。

大阪のミニチュアセットと実写の組み合わせは上手くできていて、大阪人の僕は当時の建物に懐かしさを覚えたし、芹沢博士がいなくなり、オキシジェン・デストロイヤーがなくなった後のゴジラの葬り方は工夫が見られ、この点においては脚本の発想力を評価できる。
しかしその発想力も底をつき、これ以後の作品は子供たちを動員できたが内容的には輝きを失っていった。
それでも日本の特撮映画としては「地球防衛軍」のような空想科学映画や「ウルトラマン」「仮面ライダー」のような超人ものなど色々あるが、その代表格は何といっても「ゴジラ・シリーズ」であることは異論のないところであろう。
僕の手元に「日本特撮映画」という書物があるが、そこでも巻頭を飾るのは「ゴジラ」である。
アンギラスはこの後、第9作 「怪獣総進撃」、第10作 「ゴジラ・ミニラ・ガバラ オール怪獣大進撃」、第12作 「地球攻撃命令 ゴジラ対ガイガン」、第13作 「ゴジラ対メガロ」、第14作 「ゴジラ対メカゴジラ」、第28作 「ゴジラ FINAL WARS」と度々登場しているから、ゴジラ・シリーズではなくてはならない怪獣だったのかもしれない。

黒衣の刺客

2023-11-02 08:22:27 | 映画
「黒衣の刺客」 2015年 台湾


監督 ホウ・シャオシェン
出演 スー・チー チャン・チェン 妻夫木聡 忽那汐里
   シュウ・ファンイー ニー・ターホン ニッキー・シエ
   イーサン・ルアン シュー・ユン

ストーリー
8世紀後半、唐王朝時代の中国。
美しき黒衣の女、聶隠娘(ニエ・インニャン)は師匠である女道士・嘉信(ジャーシン)の元で修行を積んだ暗殺者である。
殺しの腕前は確かだが、弱点は時折「情」が顔を覗かせることで、この日もあと一歩で標的を仕留め損ねた隠娘に対し、嘉信は新たな使命を課す。
それは隠娘の幼馴染であり、かつての婚約者だった田季安(ティエン・ジィアン)の暗殺指令だった。
13年ぶりに故郷に舞い戻ってきた隠娘は両親の厚い歓迎を受けたが、かつての頃とは打って変わって冷ややかな表情を浮かべる隠娘の姿に周囲は戸惑いを隠せない。
隠娘は地方組織である「藩鎮」(はんちん)の中でも特に有力者にのし上がっていた田委安の屋敷に潜入するが、この日は結局任務を果たさずに立ち去る。
しかし、その際に室内にかつて婚約していた時に分かち合った玉玦の片割れを残し、それを見つけた田委安は隠娘の狙いを悟る。
その後、田委安の怒りを買って左遷させることになった隠娘の伯父・田興(テェンシン)は隠娘の父・聶鋒(ニエ・フォン)の見送りを受けていたが、そこに謎の刺客が襲い掛かってきた。
そこに偶然居合わせていた鏡磨きの青年(妻夫木聡)が駆け付け、聶鋒らを助けようとした時に隠娘が現れて刺客たちを撃退する。
鏡磨きの青年は日本出身で、妻(忽那汐里)を地元に残し、遣唐使として派遣されてきたのだが、帰りの船が難破したために現地に留まることになっていたのだ。
隠娘は青年に自分の傷の手当てをしてもらい、次第に青年に対して心を開いていく。
その後、再度田委安の館に潜入した隠娘は、田委安の妾である瑚姫(フージィ)が呪術により苦しんでいるところを助ける。
その場を目撃していた田委安は隠娘の仕業だと勘違いし二人は刃を交えるが、隠娘は田委安を殺さずに立ち去る。
その直後、田委安は瑚姫に呪術をかけた首謀者は自らの正妻・元氏(ユェンシ)だということを知り、呪術師を殺害すると元氏をも殺そうとするが思いとどまる。
その頃、隠娘は嘉信の元を訪れ暗殺失敗を報告、「委安を殺しても、後継ぎはまだ幼いので混乱は必至だろうから」と理由を述べた。
隠娘は嘉信と刃を交えるが、もはや暗殺者稼業から足を洗うことを決意していた隠娘は刃を収め、師と決別して去っていく。
その後、完全に暗殺者から引退した隠娘は馬を引いて鏡磨きの青年が滞在する辺境の村を訪れる。
彼女の表情には、これまで見せたことのなかった笑顔が浮かんでいた。


寸評
邦題から受ける印象と違ってカメラワークが実にゆったりとしている静かな映画である。
主人公が刺客なので時々アクションシーンが盛り込まれているが、お得意のワイヤーアクションを期待していると裏切られる。
僕は中国語が分からないので字幕頼りになるのだが、人名が読みづらいことに加え、描き方において大胆な省略を行っているために物語として分かりにくいところがあるのが欠点だ。
もっとも、この大胆な省略はホウ・シャオシェン監督の意図したものであろう。
カメラワークは巧みで、自然が漂う遠景の中にとらえられる人物のシーンなどは山水画を見ているようである。

田委安は皇帝ではなく地方の行政官のように思えるが、セットは唐時代の地方権力者の生活空間はこのようなものだったろうと感じさせる雰囲気がでている。
隠娘は刺客として修業を積んでいるが刺客の持つ冷徹さを持てないでいる。
むしろ情に厚い女刺客で、殺すべき相手を全く殺していない。
彼女だけでなく、この映画では内容の割には人が殺されるシーンが極めて少ない。
冒頭で隠娘は標的を殺していない。
田委安を殺さないのは分かるが、田委安も愛する瑚姫を呪術によって殺そうとした元氏を殺していない。
隠娘は師である嘉信と戦うが、すさまじい戦いではなくあっさりと刃を収めている。
派手なアクションを期待していた僕は裏切られ続けた内容である。
独特の雰囲気を持った作品だが、僕には面白みに欠ける映画だった。

コクーン

2023-11-01 06:58:21 | 映画
2019/1/1より始めておりますので10日ごとに記録を辿ってみます。
興味のある方はバックナンバーからご覧下さい。

2019/5/1は「暗くなるまで待って」で、以下「クラッシュ」「グラディエーター」「グラン・トリノ」「クリーピー 偽りの隣人」「グリーンマイル」「狂った果実」「ぐるりのこと。」「クレイジー・ハート」「クレイマー、クレイマー」と続きました。

「コクーン」 1985年 アメリカ


監督 ロン・ハワード
出演 ドン・アメチー スティーヴ・グッテンバーグ
   ターニー・ウェルチ ブライアン・デネヒー
   ウィルフォード・ブリムリー ヒューム・クローニン
   ジャック・ギルフォード モーリン・ステイプルトン
   ジェシカ・タンディ グウェン・ヴァードン

ストーリー
フロリダ州にある養老院に住む3人の老人、アート(ドン・アメチー)、ベン(ウィルフォード・ブリムリー)、ジョー(ヒューム・クローニン)は連れ立って近くにある空き家のプールで泳ぐのを楽しみにしていた。
ジャック(スティーヴ・グーテンバーグ)は、8人乗りの船マンタIII世号の船長。
ウォルター(ブライアン・デネヒー)という男が好条件で船を借りたいと申し出てきた。
3人の老人たち、それにベンの孫デイヴィッド(バレット・オリヴァー)が.プールに行くと、ウォルターがプール付きの空き屋を借りていた。
翌日、3人はこっそリプールに忍び込むと、プールには巨大な繭状のものが沈んでいた。
これは、ウォルターが若い美女キティ(ターニャ・ウェルチ)、フィルスベリー(タイロン・パワー・ジュニア)と協力し、海底から引き上げていたものだった。
3人はプールで泳いでいるうちに、元気が出てきて、ジョーは老妻アルマ(ジェシカ・タンディ)と久し振りにメイク・ラヴした。
アートは元ダンサーのベス(グエン・ヴァードン)に恋を打ち明け、ベンも妻のメリー(モーリン・スティプルトン)とますます仲むつまじくなり、ジャックはキティに惹かれていく。
彼女らは実はアンタレス星人であった。
100世紀前に地球を訪れた先祖がアトランティスの沈没とともに海に沈んでしまい、彼らはまゆ状の先祖を惑星へつれもどそうとしていたのだった。


寸評
中国最初の皇帝である秦の始皇帝が不老不死への憧れから、徐福の具申を受けて不死の薬を求めるよう命じたが、徐福は薬を求める旅に出立せず皇帝から金品をせしめたという話が伝わっているから、不老不死の願いは遠い昔から人が描いていた夢の一つなのだろう。
始皇帝は50歳で没しているが、この映画に登場する人々は遥かに歳を取った老人たちである。
老人ホームで死を待つだけだった老人たちが生命の水を浴びたことで体力的な若返りを果たして頑張る姿が微笑ましいが、一方で地球人のベンと異星人のウォルターの交流も胸を打つ。
ガイドで船長のジャックと若い美女異星人キティの恋模様も微笑ましいが、ベンとウォルターの信頼関係は平和を愛する人の存在の象徴で、ホッとする描かれ方だ。

アートはベスに愛を打ち明け結婚するが、歳を取っても秘かに愛していた人と一緒になれるなら凝んない幸せなことはないと思う。
彼が若者たちに交じって披露したダンスシーンには拍手喝采したくなる。
三人の中で一番面白い存在はジョーだ。
どうやらジョーは若いころから浮気癖があったらしい。
前半部分で、そのこと何らかの形で描いていればもっとドラマとしてアクセントを持たせることが出来ただろう。
若さを取り戻した彼は昔の浮気癖が出て、せっかくいい雰囲気になれた老妻のアルマを裏切るような行動を取ってしまう。
歳を取っても性格だけは変わらないということで、この男は懲りない男なのだ。
ジョーを許してしまうアルマも歳をとった所為で彼しか心を許せる相手が居なかったと言うことなのだろうか。
ベンには彼を慕う孫がいる。
孫のデイヴィッドは別れの辛さからベンの元へ行くが、母親が必死で呼び戻す。
デイヴィッドは母親の呼びかけに呼応して海に飛び込む。
孫が祖父よりも母を選択するのは当然で、僕も孫には大人になれば母親を守ってやってほしいと願うばかりだ。

ところで不老不死だが、もし人が死なない、死ねないとなったら、新たな苦悩が生じるのではないかと思う。
僕も歳をとって死を意識するようになってきたが、たとえ描かれたような若返りを果たせたとしても、今の状態を永久に保持し続ける事を望まない。
やはり天命を受け入れ天寿を全うしたいと思う。
不死を得たなら一生を通じてということがないのだから、晩年にライフワークを成し遂げると言う目標を持てなくなってしまう。
いつ来るか分からない死におびえながら、残された時間を精一杯生きる方を選びたい。
ウォルターは1万年に1回判断ミスをすると言ってベンたちにプールの使用を許可するのだが、それからするとウォルターはアトランティス大陸が沈んだ1万年前から生き続けていることになる。
宇宙船に乗り込んだ人々はその道を選択したことになるが、現状のままで生き続けることへの不安と疑問が希薄なのは信じられないし、描かれてもよかった命題だったと思う。