おじさんの映画三昧

旧作を含めほぼ毎日映画を見ております。
それらの映画評(ほとんど感想文ですが)を掲載していきます。

殺しの烙印

2023-11-06 08:33:33 | 映画
「殺しの烙印」 1967年 日本


監督 鈴木清順
出演 宍戸錠 小川万里子 真理アンヌ 南原宏治
   玉川伊佐男 南廣 久松洪介 緑川宏 荒井岩衛
   長弘 伊豆見雄 宮原徳平 萩道子 野村隆

ストーリー
プロの殺し屋としてNO3にランクされている花田(宍戸錠)は、五百万円の報酬である組織の幹部(南原宏治)を護送する途中、NO2(大庭喜儀)とNO4(大和屋竺)らの一味に襲撃された。
花田の相棒春日(南廣)は倒れたが、組織の男の拳銃の腕前はすばらしいもので、危うく危機を脱した花田は、その男を無事目的地に送り届けた。
仕事を終えたあとの花田は緊張感から解放され、妻の真美(小川万里子)と野獣のように抱き合うのだった。
ある日、花田は薮原(玉川伊佐男)から四人を殺して欲しいという依頼を受けた。
花田は自分の持つ最高のテクニックを用いて、次々と指名の人間を消していった。
しかし、最後の一人である外国人を殺すのに手間どり、結局失敗してしまった。
殺し屋に失敗は許されず、組織は女殺し屋美沙子(真理アンヌ)を差向けてきた。
家に逃げ帰った花田に妻の真美が拳銃を向けた。
真美も殺し屋だったのだ。
九死に一生を得た花田は美沙子のアパートに転げこんだ。
そんな花田を美沙子は討つことが出来なかった。
その夜、二人は殺し屋の宿命におびえながらお互いを求めあった。
やがて花田殺しに失敗した美沙子は組織に捕われ、彼女を救いに行った花田は組織の連中と対決したが、そこに現われたのは、かつて花田が護送した男大類(南原宏治)だった。
大類こそ、幻の殺し屋といわれるNO1なのだ。


寸評
鈴木清順は1956年の初監督作品「港の乾杯 勝利をわが手に」以来、日活のプログラムピクチャ監督として毎年何本も撮っていた筈だが、僕は1963年からの作品で彼の名前を意識しだした。
すなわち、小林旭の「関東無宿」(1963)であり、高橋英樹の「刺青一代」(1965)、渡哲也の「東京流れ者」(1966)、高橋英樹の「けんかえれじい」(1966)などであった。
ところが「殺しの烙印」を発表したところ、日活社長・堀久作から「わからない映画ばかり作られては困る」と逆鱗に触れて翌年に日活を追われることとなった。
日活は鈴木清順作品のフィルム貸出を拒否したことで鈴木清順問題共闘会議が結成され、鈴木清順が日活を提訴した民事裁判の原告支援を行い、戦いは1971年12月に和解するまで続いた。
和解後だが、僕は大阪の新世界にあった日劇会館で鈴木清順特集を見た記憶がある。
当時は良心的な特集上映をやっていたと思う。
鈴木清純は1977年の「悲愁物語」で復活するが、これは面白くなかった。

「殺しの烙印」は宍戸錠が主演である。
宍戸錠は石原裕次郎、小林旭、赤木圭一郎、和田浩治による「日活ダイヤモンドライン」の貴重な敵役で「エースのジョー」として独特の存在感を示していた。
彼の魅力はオーバーなダンディ気取りにあり、チッチッと舌を鳴らしたり人を小馬鹿にしたようなニヤニヤ笑いの仕草は宍戸錠ならではのものがあった。
1961年の1月に石原裕次郎がスキー事故で入院、2月に赤木圭一郎がゴーカート事故で亡くなった為に宍戸錠の主演作が撮られるようになった。
彼のコミカルな演技者としての特徴が、ここでは炊き立てのご飯の匂いを嗅ぐのが好きな殺し屋と言うユニークなキャラクターに生かされている。
堀久作はわからない映画と言ったそうだが、話は案外と単純である。
冒頭では、元凄腕の殺し屋である春日が酒に溺れて自滅する様子が描かれ、春日から「酒と女は殺し屋の命取りだ」との言葉が発せられる。
その後は主人公の花田も女と酒に溺れて同じ運命をたどっていくという話で、それは殺し屋稼業の逃れられない宿命=烙印なのだというものだ。
ただモノトーンを生かした映像のインパクトが強くてストーリーを堪能できないことが堀久作のいう”わからない”につながったのかもしれない。
美沙子のアパートの壁が蝶に覆われていたり、美沙子を抱こうとする花田の両手に蝶の死骸がつぶれていたりするので、蝶にはいったいどのような意味があるのだろうと考えてしまうようなシーンも多い。
殺し屋のランクを争っているというのも馬鹿げているが、競争社会を揶揄していると言えば理屈は通るのだが、映画全体から受ける印象は、それも後付け評価のような気がする。
作品の持つテイストも前半、中盤、後半で変化を見せ、人間関係の不明さもつかみどころのない映画に一役買っている。
そのつかみどころのなさを面白いと感じる人には受け入れられるだろうが、僕を初め普通の人にはやはり戸惑いをもたらす作品だと思う。