おじさんの映画三昧

旧作を含めほぼ毎日映画を見ております。
それらの映画評(ほとんど感想文ですが)を掲載していきます。

時雨の記

2021-03-13 13:38:14 | 映画
「時雨の記」1998年 日本


監督 澤井信一郎
出演 吉永小百合 渡哲也 林隆三
   佐藤友美 岩崎加根子 原田龍二
   細川直美 裕木奈江 天宮良

ストーリー
昭和が終わりを告げようとしていた頃。
明和建設の専務・壬生孝之助(渡哲也)は、20年ぶりに堀川多江(吉永小百合)の姿をあるホテルのパーティ会場に認めた。
多江とはかつて一度だけ会社の会長の葬式で会っただけの間柄だったが、彼は彼女のことをずっと忘れないでいて、この運命的な出逢いを機に、壬生は彼女の家を頻繁に訪問したり、彼女を食事に誘ったりと積極的な行動に出るようになる。
一方、夫を亡くし生け花教室を開いてひとり慎ましく鎌倉に暮らしていた多江も、初めは戸惑いを隠せなかったが、一途な壬生の性分に好感を抱くようになっていった。
だが、どんなに逢瀬を重ねても、ふたりの関係は口づけを越えることはなかった。
ある日、多江と壬生は秋の京都を訪れる。
多江の愛読する『名月記』の作者・藤原定家に縁のある常寂光寺裏の時雨亭跡を散策し、飛鳥の丘陵から吉野の山々を眺めながらここに庵を建てようと約束を交わすふたり。
しかしそれから数日後、壬生が心臓発作で倒れ入院した。
知らせを聞いた多江は急いで見舞いに駆けつけるが、そこで彼女は壬生の妻・佳子(佐藤友美)と会ってしまう。
多江は身を引くことを決意し、かねてから生け花の師匠に誘われていた京都行きを承諾するのだった。
ところが、壬生はそんな多江の想いとは裏腹に、ふたりで京都に住もうと言い出す。
時代は平成へと移り、スペイン出張から帰国した壬生は遂に佳子に別れを告げる・・・。


寸評
壬生はかつて会社の会長の葬式で会っただけの多江をずっと忘れないでいた。
たった一度、それも大した接点もない女性を想い続けるというのは珍しい感情だと思うが、かつて恋人だった女性を思い続ける気持ちは分からぬでもない。
年齢や周囲の状況などで結婚に至らない恋はままあるものだが、思い出と言うオブラートが思いを増幅させて現実味のない想像の世界へと誘っていく。
それを現実化しているのが「時雨の記」の世界だ。
しかし、僕は壬生が半ば強引に多江に接近していく姿に抵抗感があって、素直にこの物語に入っていくことが出来ず、壬生の行為はまるでストーカーではないかと思ってしまうのだ。
実は多江もホテルで壬生と会った時から好感を持っていたのだと言うなら別なのだが、僕にはそうも思えないので、どうもこの導入部には抵抗感がある。。

この作品は主演の吉永小百合が原作に惚れこんで映画化権を取得していたらしく、相手役に渡哲也を指名したのも彼女自身ということである。
企画を持ち込んだ東映がなかなかOKを出さなかったが執念で映画化にこぎつけたらしい。
映画はベッドシーンも登場せず、しっとりとした中年男女の純愛を描いているが、僕はこの作品にどうしても若い頃の二人のラブロマンス・スキャンダルをダブらせてしまう。
仮想現実の映画として見ると、思い続けた気持ちをぶつけたのは壬生の渡哲也ではなく、多江の吉永小百合だったのではないかと想像してしまうのだ。
そんな邪推をさせる要素を含んでいるので、僕にはプラスアルファを持った作品となっている。

映画は古都鎌倉と京都を舞台にしている(一部で飛鳥地方もある)。
この手の映画にはその土地柄はピッタリである。
僕は何度か常寂光寺を訪れたことがあるが、あんなに静かな常寂光寺に出会ったことがない。
愛しい女性と静かな常寂光寺の階段を上れたら、それはそれは素敵な気分になれるだろうなと思ったのだが、僕には肝心の相手役の女性がいない。
観光地としての京都はいつも大勢の人でごった返しているが、どうしたわけか映画で描かれる京都は静かだ。
紅葉時の常寂光寺なんて歩くのがやっとである。

壬生は多江の家で倒れ他界し、葬儀後、壬生の奥さんが多江の家を訪問するシーンがあり、そこで壬生の妻・佳子は壬生がプレゼントしていた絵志乃をたたき割るのだが、冷え切っていたと思われる夫婦関係だったことを思えば、この描き方にはもう一工夫あっても良かったように思う。
僕には佳子が壬生を愛していたとはとても思えないし、壬生は大晦日の夜を多江の家で過ごしているのだから壬生夫妻に愛が存在していたとも思えず、佳子の行為はただ単にヒステリックになっただけのような印象だ。
登場シーンの少ない佐藤友美だが、彼女に愛を奪われた佳子の妻としてのプライドがそうさせたのだという芝居をさせても良かったように思う。
吉永小百合はあまりいい作品に出ていないように感じるのだが、これはまだましな方かもしれない。