おじさんの映画三昧

旧作を含めほぼ毎日映画を見ております。
それらの映画評(ほとんど感想文ですが)を掲載していきます。

ジョニーは戦場へ行った

2021-03-31 08:13:41 | 映画
「ジョニーは戦場へ行った」 1971年 アメリカ


監督 ダルトン・トランボ
出演 ティモシー・ボトムズ
   キャシー・フィールズ
   ジェイソン・ロバーズ
   マーシャ・ハント
   ドナルド・サザーランド
   ダイアン・ヴァーシ

ストーリー
第1次大戦にアメリカが参戦し、コロラド州の青年ジョー・ボナムは、ヨーロッパの戦場へと出征していった。
ジョーはいま、<姓名不詳重傷兵第407号>として、前線の手術室に横たわっている。
延髄と性器だけが助かり、心臓は動いていた。
軍医長テイラリーは「もう死者と同じように何も感じない、意識もない男を生かしておくのは、彼から我々が学ぶためだ」と説明した。
軍医長の命令で<407号>は人目につかない場所に移されることになり、倉庫に運び込まれた。
<407号>は新しいベッドに移し変えられ看護婦も変わった。
その看護婦はジョーのために涙を流し、小瓶に赤いバラを1輪、いけてくれた。
やがて雪が降り、看護婦は<407号>の胸に指で文字を書き始めた。
<407号>が頭を枕にたたきつけているのを見た看護婦は軍医を呼んだ。
頭を枕にうちつける<407号>を見た将校は「SOSのモールス信号です」といった。
将校は<407号>の額にモールス信号を送った。
「君は何を望むのか…」「外にでたい。人々にぼくを見せてくれ、できないなら殺してくれ」に上官は愕然とした。
一同が去ったあと、1人残った看護婦は、殺してくれと訴えつづける<407号>の肺に空気を送り込む管を閉じたが、戻ってきた上官がこれを止め、看護婦を追いだしてしまった。


寸評
この映画が封切られた頃はベトナム戦争の真っ最中で、その為「ジョニーは戦場へ行った」は反戦映画として評判を呼んでいたのだが、僕は反戦映画というよりも”尊厳死”について語った作品との印象を持った。
ジョーは四肢を失い目も見えず言葉も発せない生ける屍だ。
最後の方で牧師は「彼を作ったのは神ではない。彼を作ったのは軍だ」と言い放って去っていく。
軍医は負傷兵の治療研究の為に彼を生かしている。
軍が負傷兵を治療するのは完治した彼らを再び戦場に送り出すためである。
言い換えれば殺すために生かしているとも言える。
そのような観点から「ジョニーは戦場へ行った」は反戦映画に属する作品と思われたのだろう。

しかし、モールス信号での会話を思いついたジョーは何を望むかと聞かれ、「外にでたい。人々にぼくを見せてくれ、できないなら殺してくれ」と発進し、殺されることを切望する。
優しい看護婦は彼の望みをかなえようとするが、上官はこれを阻止する。
僕はこの最後の一連の場面で、人が生きている事の意味を否応なく考えていた。
後年、僕の母親は肝硬変を患った末期に意識朦朧となり腹水が溜まり苦しんでいた。
腹水を抜いて楽にしてやってほしいと懇願する僕に、担当医は「そんなことをすれば命を縮めますよ」と告げた。
僕が助かる見込みはあるのかと聞くと、それは絶対にないとの返答だった。
だったら少しでも楽にしてやってほしいと伝えると、「私の本意ではないが、家族のたっての頼みなので少し抜いてみましょう」と処置してくださった。
その時の母は苦しい表情を少し和らげたような気がした。
僕はこの時、延命治療とは何なのかと思った。
生きている時間と引き換えに、苦しむ時間を与える治療とは患者にとって有難いものなのだろうか。
僕はこの時、「ジョニーは戦場へ行った」を思い描いていたような気がする。

映画はモノトーンとカラー映像の組み合わせで描かれていく。
モノトーンのシーンはジョーの今を描いている。
カラー映像で描かれる場面は、ジョーの思い出の出来事であったり、ジョーが想像している内容である。
その対比は分かりやすいし、特にモノトーンの映像はジョーが現在置かれている立場の悲惨さがより強烈に観客に迫ってくる効果をもたらしている。
ジョーに関わる看護師は何人か出てくる。
上司に忠実な看護師も居れば、締めきった窓を開け放つように命じる婦長もいる。
最後の担当者は心優しい看護師で、ジョーをいたわり、普通の病人に対するようにバラの花を生けてくれる。
彼の胸にクリスマスと指で書く場面は感動的だ。
ここからこの地味な映画は一気にクライマックスへと駆け上がる。
そのクライマックスは感動を与えるものではない。
言いようのない絶望を感じさせるラストシーンとなっているが、その絶望はジョーと我々に残されたものだ。
僕たちは絶望するしかないのかと思うと悲しすぎる。