おじさんの映画三昧

旧作を含めほぼ毎日映画を見ております。
それらの映画評(ほとんど感想文ですが)を掲載していきます。

シシリアン

2021-03-16 08:15:43 | 映画
「シシリアン」 1969年 


監督 アンリ・ヴェルヌイユ
出演 ジャン・ギャバン
   アラン・ドロン
   リノ・ヴァンチュラ
   イリナ・デミック
   シドニー・チャップリン
   マルク・ポレル

ストーリー
パリに住むマフィアの顔役、ビットリオ・マナレーゼは五月の蝿と異名をとる、殺し屋サルテを、獄中から救出する計画を立てていた。
彼から送られた莫大な値打のスタンプ・コレクションに対する返礼であった。
裁判所で、ビットリオの二人の息子、アルドとセルジオに電気ドリルを渡されたサルテは、護送車で送られる途中、アルドの妻ジャンヌの助けをかりて逃走に成功。
一年ほど前にル・ゴフ警部に逮捕されて以来、久しぶりに自由を得たのだった。
その後しばらくの間、ビットリオにかくまわれていたサルテはジャンヌと人知れず愛し合うようになっていた。
やがてサルテは、獄中仲間から手に入れた宝石強奪の仕事の話を、ビットリオにもちかけた。
心動かされた彼は、ニューヨークのマフィアのボスであるトニー・ニコシアに助力をあおぐことにした。
その結果、パリからニューヨークへ宝石を運ぶ飛行機を襲うことに決められた。
当日、ビットリオ、アルド、セルジオ、それにサルテが飛行機に乗込み宝石を略奪してしまった。
仕事が終った後、南米へずらかる予定のサルテをニューヨークに残し、ビットリオたちはパリへ戻って来た。
そこでシシリーへ帰る支度をしていたビットリオは、孫の口から、サルテとジャンヌに浮気の事実があったことを聞き、シシリー人の面目を汚された彼は、ジャンヌともども殺そうと思いサルテを呼び戻すべく、トニーに工作を依頼した。
しかしジャンヌの密告をうけた妹から自分が狙われているということを聞いたサルテは、アルドとセルジオが待機するオルリーには、降り立たなかった。


寸評
ジャンギャバン、アラン・ドロン、リノ・バンチュラという往年のファンにとってはたまらないキャスティングで繰り広げられる犯罪映画であるが、何といってもジャン・ギャバンが作品を締めていて、さすがのアラン・ドロンも影が薄い。
冒頭はそのアラン・ドロンのサルテが用意周到な計画によって脱獄する様子が描かれる。
サルテは警官2名を射殺している冷酷な犯罪人の筈だが、彼の冷徹さ、非情さは映画全編を通じてもあまり感じられない。
妹に対しても人並み以上の愛情を見せていて、案外いい兄貴なのだと思わせる。
アンリ・ベルヌイユがアラン・ドロンのイメージに遠慮したのだろうか。
危険極まりない人物といサルテに対して、ジャン・ギャバンのマナレーゼは沈着冷静そのものだ。
静かなもの言い、静かな動作は貫禄十分だし、彼の存在がこの映画を支えている。
空港で予期せぬ出来事が起こりピンチになった時の、とっさの行動などは流石はギャバンだと思わせる。
僕はギャバンそのものがマナレーゼになっていて、役名などは吹っ飛んでいた。

一味の狙いは宝飾展に出品されている高額な宝石であることが判明し、その強奪作戦に興味が移っていく。
フランスとアメリカにまたがる壮大な計画が実行されるのだが、マナレーゼがアメディオ・ナザリ演じるアメリカ側のボスであるトニーと再会する場面は渋いなあと感心させられる。
何十年ぶりかで会った二人の会話がイキだ。
お互いに孫の為におもちゃを買うのも微笑ましいが、それが計画の伏線にもなっている。
強奪作戦に素晴らしいアイデアが浮かんだらお互いに連絡を取り合う手筈も小粋なもので雰囲気がある。
ここからは身内の警官を殺されて、執念でサルテを追うル・ゴフ警部との攻防が見どころとなってくる。
間一髪のところで逃げたり、パスポート偽造が発覚したリと、犯罪映画らしい場面が続く。
意外なのは飛行機に乗り込んで宝石を強奪しようとする計画である。
ハイジャックしても警官隊に取り囲まれることは必定で、どのようにして奪うのか興味津々となるのだが、アッと驚く手口で楽しめる。
ところで、ただ酒好きの男が仲間にいたのだが、それが何のための設定だったのかよく分からない。
計画を間違いなくこなすために好きな酒を禁じると言うだけのものだったのだろうか。
もう一つ疑問に思うのはジャンヌへの対処だ。
あの展開だとアルドがジャンヌを即座に始末してもいいと思うのだが、サルテの帰国便を警察に知らせるためのパーツとして生かされていたのだろうか。
ギャバンの決着の付け方を見るとジャンヌへの対応はアンバランスなような気がする。

リノ・バンチュラは2人の人気俳優に挟まれて、目立たない役回りになるのではと気がかりだったが、サルテに振り回される警視の役をうまくこなしている。
禁煙に挑戦してたのにサルテに先を越されてイライラしてタバコを吸いはじめる場面では、そのイライラ具合が伝わって来るもので、ギャバンと1対1の会話の場面でもベテラン警視のいい雰囲気をかもし出している。
後にも先にも3人まとめて見ることができるのはこの作品のみである。
フレンチ・ノワールらしい作品で、ラストの寂しさも余韻が残る。

地獄でなぜ悪い

2021-03-15 13:54:10 | 映画
「地獄でなぜ悪い」 2013年 日本


監督 園子温
出演 國村隼 堤真一 長谷川博己 星野源
   二階堂ふみ 友近 坂口拓 板尾創路
   でんでん 岩井志麻子 水道橋博士
   ミッキー・カーチス 江波杏子
   石丸謙二郎 渡辺哲

ストーリー
ヤクザの組長・武藤(國村隼)は、獄中にいる最愛の妻・しずえ(友近)の夢を叶えようと躍起になっていた。
それは娘のミツコ(二階堂ふみ)を主演に映画を製作するというもの。
娘を映画スターにするのは、武藤を守るため刑務所に入った妻の夢でもあったからだ。
しかし、肝心のミツコは男と逃亡してしまい、映画が出来ないまま、いよいよしずえの出所まで残り数日となってしまう。
そこで武藤は、手下のヤクザたちを使って自主映画を作ることを決断する。
そして何とかミツコの身柄を確保し、映画監督だという駆け落ち相手の橋本公次(星野源)に、完成させないと殺すと脅して映画を撮影するよう命じる。
ところがこの公次、実は映画監督でもなければミツコの恋人でもないただの通りすがりの男だった。
それでも監督として映画を完成させなければ彼の命はない。
そんな絶体絶命の中で出会ったのが、自主映画集団“ファック・ボンバーズ”を率いる永遠の映画青年、平田(長谷川博己)。
一世一代の映画を撮りたいと夢見てきた平田は、ここぞとばかりにミツコに執着する敵対ヤクザ組織の組長・池上(堤真一)まで巻き込み、スタッフ&キャストは全員ヤクザで構成するという前代未聞のヤクザ映画の撮影を開始することになる。
かくして、本物のヤクザ同士の抗争を舞台に、史上最も命がけの映画が電光石火のごとくクランクイン。
狂おしいほどまっすぐな想いが叶うなら、そこが地獄でもかまわない……。


寸評
いやはや何とも中身はごった煮で、任侠路線があれば、ラブストーリーをからませ、果ては大アクションと全くのハチャメチャな内容に唖然とする。
と言いながらも、長谷川博己演じる映画青年の映画に対する情熱に熱くなってしまう。
ミッキー・カーチスの言う「最高の一本を撮れ」にジーンとくる。
次回作を期待する作品を残しながら、その一本だけという監督も結構存在しているからなあ・・・。

オーバー演技にギャグ満載である。
「仁義なき戦い」のテーマ曲の触りが流れたと思ったら、事件担当の警察署が深作警察だったりしている。
堤真一の組長が覚悟を決めて腹をくくり、「腹をくくるなら和服だ」と組員に和服を着させるなど滅茶苦茶だ。
冒頭で組長の妻役の友近がバラエティの延長の様な演技で、敵対する組員を追いかけまわし殺害する。
血しぶきが見物人に降りかかるという、どぎつい演出に出鼻から驚かされる。
園監督を支持しない人は、この時点で引いてしまうのではないだろうか?
友近に刺された堤真一が撮影中の映画青年にアドリブ撮影されて彼等とやり取りするが、ここでは「これは喜劇映画か?」と思わせ、早くもこの時点でハチャメチャぶりを見せつける。
國村隼がクールに一人芝居的な演技を見せ、それの対極として堤真一がコミカルな演技を一手に引き受けているという対比が愉快である

映画青年たちは映画館の映写室にたむろしているが、映写室内は懐かしい雰囲気で、ちょっとしか登場しないミッキー・カーチスが適役ぶりをみせる。
35ミリの映写機が懐かしかった(僕はその昔、映写室で作業したことがある)。

敵対するヤクザを演じる國村隼と堤真一が、バカバカしい演技をしながら時々かっこいいところを見せる。
そのギャップがたまらない。
ヤクザの映画班は、俳優、照明、音響と大活躍するが、その躍動ぶりは僕が失くしてしまった無駄とも思える青春の情熱を思い起こさせた。
そこから、映画作りとヤクザの抗争が一体化する展開が、ついに体当たり演技の大爆発にするところになると、学生時代にあんなことやれたら楽しかったろうなと、やけにノスタルジックになってしまう。
兎に角、やくざの出入りのシーンは滅茶苦茶もいいところで、半ばやけっぱちで映画作りを楽しんでいる。

昭和館での完成作品の上映は、映画が全盛だった昭和の時代へのノスタルジーだったのか?
映画への愛を形にできるのなら、そこが地獄でもかまわないと、映画にのめり込む人種がますます登場することを期待したい。
長谷川博己のオーバーアクションとセリフまわしは最後まで持続するが、最後の最後になっての「ハイ、カット」は映画の中の映画みたいで、なんだか作戦負けしたような気分。
園子温ってそんな監督なんだろうけど、この作品も受け付ける人と受け付けない人がいるだろうな。
でもまあ、受け付ける人しか見に来てないか・・・。

事件

2021-03-14 11:46:52 | 映画
「事件」 1978年 日本


監督 野村芳太郎
出演 松坂慶子 永島敏行 大竹しのぶ
   渡瀬恒彦 佐分利信 丹波哲郎
   芦田伸介 西村晃 山本圭
   北林谷栄 佐野浅夫 乙羽信子
   森繁久彌 夏純子

ストーリー
神奈川県の相模川沿いにある土田町の山林で、若い女性の刺殺死体が発見された。
その女性はこの町の出身で、新宿でホステスをしていたが、一年程前から厚木の駅前でスナックを営んでいた坂井ハツ子(松坂慶子)であった。
数日後、警察は十九歳の造船所工員・上田宏(永島敏行)を犯人として逮捕する。
宏はハツ子が殺害されたと推定される日の夕刻、現場付近の山道を自転車を押しながら下りてくるのを目撃されていた。
警察の調べによると、宏はハツ子の妹、ヨシ子(大竹しのぶ)と恋仲であり、彼女はすでに妊娠三ヵ月であった。
宏とヨシ子は家を出て横浜方面で暮らし、子供を産んで、二十歳になってから結婚しようと計画していた。
しかし、ハツ子はこの秘密を知り、子供を中絶するようにと二人に迫った。
ハツ子は宏を愛し、ヨシ子に嫉妬していた。
その頃ハツ子には宮内(渡瀬恒彦)というやくざのヒモがいた。
彼女は宮内と別れて、宏と結婚し、自分を立ち直らせたいと思っていたのだった。
ハツ子が親に言いつけると宏に迫った時、彼はとっさに登山ナイフをかまえて彼女を威嚇した。
宏が一瞬の悪夢からさめ気がついた時、ハツ子は血まみれになって倒れていた。
上田宏は逮捕され、検察側の殺人、死体遺棄の冒頭陳述から裁判が開始される。
果たして本当に宏が殺人を犯したのかという疑問を含め、裁くもの裁かれるものすべてを赤裸々にあばきながら、青春そのものが断罪されていく。


寸評
姉妹が一人の男を愛した為に生じた殺人事件の裁判劇である。
芦田伸介演じるの岡部検事の冒頭陳述から始まるが、何回かの公判が繰り返される裁判所の場面は重厚だ。
検事の芦田伸介、弁護士の丹波哲郎、裁判長の佐分利信がそれぞれ低温の声で、その声音が裁判劇にリアリティを出していたように思う。
検事の追及に弁護士は想像を加味しながら反論し、新事実も導き出していく。
かといって、本作は冤罪事件を扱ったものではなく、被告の宏は当初から殺人を認めている。
裁判を通じて浮かび上がってくるのは、人の欺瞞に満ちた態度と、三角関係に陥った人間の複雑な心象である。
証言に立った証人たちはいい加減である。
冤罪事件にみられるように、検察による誘導質問に導かれているのだが、それを弁護士に厳しく追及される。
証人として語っていることが偽証ではないにしても、必ずしも真実とは言い切れないものがあることを描いている。
二人が自転車に乗って言い争いをしていたと証言した婆さん(北林谷栄)は、殺されたハツ子の顔が見えなかったはずだったことや、わずか2秒くらいで通り過ごしたのにその会話の内容が聞き取れたのかと詰問される。
犯人である宏とすれ違った時に顔色が悪いように見えたと証言した大村吾一老人(西村晃)は、最近の宏には会っていなくて、普段の宏の顔色との比較などできなかったことを指摘されたり、あるいはハツ子の店の飲み代を催促されていたことを明らかにされたりする。
ヤクザの宮内に至っては証言がころころ変わり、どこまで本当のことを言っているのかわからない。

裁判劇の間に、殺人事件頃に起こっていたことが短い時間で挿入される。
詳しく描いていないだけに、観客である僕たちはその背後にある事柄を読み取るような行動に自然とかられる。
宏とヨシ子は若いカップルで、当初は純愛をはぐくんでいたように描かれている。
ところが姉のハツ子も宏に好意を抱いており、宏とハツ子はラブホテルに通っていたことが判明する。
裁判でヨシ子は、ハツ子と宏の関係は村でも噂しているが、私はそんな噂を信じないし宏を信じていると証言するが、実は二人がラブホテルから親し気に出てくるところを目撃していたことが分かる。
それを証言したのが宮内で、ヨシ子は宮内がウソをついていると言うが、どうやら宮内証言は本当みたいだ。
そうなると純情そうに見えた少女のヨシ子が、実はしたたかな女であることが驚きと共に知らされた思いになる。
ハツ子は母親(音羽信子)と結婚して家に入り込んだ男に犯されそうになり(あるいは犯され)村を出て行ったが、歌舞伎町でキャバレー修行を積んで田舎にかえってきて駅前にスナックを出した。
宮内にヒモの様に付きまとわれ、その宮内は別の女(夏純子)と出来ているという仕打ちにあっている薄幸な女で、人一倍幸せを求めたのかもしれないが、一人の男をめぐって妹と骨肉の争いを見せることになる。
妹は「私から宏さんをとらないで」と叫ぶが、姉は「欲しいなら腕ずくでとりなさいよ」と叫び返す。
男の気持ちは裁判でもあまり証言するシーンがないのでよくわからない。
ハツ子を迷惑と感じていたのか、二人とも愛していたのか、それとも二人との愛欲に溺れていただけなのか…。
未成年ということもあって懲役刑とはいえ軽い判決が出る。
宏はその判決で余計に贖罪の気持ちが湧いてくるが、弁護士は軽い判決を得た時の反動だと言い切る。
もうすぐ出産を迎えるヨシ子だけはアッケラカンとしていて、過去に起きたことなど忘れたかのように明日に向かって歩んでいくラストシーンは、女は恐ろしいし強いと思わせた。

時雨の記

2021-03-13 13:38:14 | 映画
「時雨の記」1998年 日本


監督 澤井信一郎
出演 吉永小百合 渡哲也 林隆三
   佐藤友美 岩崎加根子 原田龍二
   細川直美 裕木奈江 天宮良

ストーリー
昭和が終わりを告げようとしていた頃。
明和建設の専務・壬生孝之助(渡哲也)は、20年ぶりに堀川多江(吉永小百合)の姿をあるホテルのパーティ会場に認めた。
多江とはかつて一度だけ会社の会長の葬式で会っただけの間柄だったが、彼は彼女のことをずっと忘れないでいて、この運命的な出逢いを機に、壬生は彼女の家を頻繁に訪問したり、彼女を食事に誘ったりと積極的な行動に出るようになる。
一方、夫を亡くし生け花教室を開いてひとり慎ましく鎌倉に暮らしていた多江も、初めは戸惑いを隠せなかったが、一途な壬生の性分に好感を抱くようになっていった。
だが、どんなに逢瀬を重ねても、ふたりの関係は口づけを越えることはなかった。
ある日、多江と壬生は秋の京都を訪れる。
多江の愛読する『名月記』の作者・藤原定家に縁のある常寂光寺裏の時雨亭跡を散策し、飛鳥の丘陵から吉野の山々を眺めながらここに庵を建てようと約束を交わすふたり。
しかしそれから数日後、壬生が心臓発作で倒れ入院した。
知らせを聞いた多江は急いで見舞いに駆けつけるが、そこで彼女は壬生の妻・佳子(佐藤友美)と会ってしまう。
多江は身を引くことを決意し、かねてから生け花の師匠に誘われていた京都行きを承諾するのだった。
ところが、壬生はそんな多江の想いとは裏腹に、ふたりで京都に住もうと言い出す。
時代は平成へと移り、スペイン出張から帰国した壬生は遂に佳子に別れを告げる・・・。


寸評
壬生はかつて会社の会長の葬式で会っただけの多江をずっと忘れないでいた。
たった一度、それも大した接点もない女性を想い続けるというのは珍しい感情だと思うが、かつて恋人だった女性を思い続ける気持ちは分からぬでもない。
年齢や周囲の状況などで結婚に至らない恋はままあるものだが、思い出と言うオブラートが思いを増幅させて現実味のない想像の世界へと誘っていく。
それを現実化しているのが「時雨の記」の世界だ。
しかし、僕は壬生が半ば強引に多江に接近していく姿に抵抗感があって、素直にこの物語に入っていくことが出来ず、壬生の行為はまるでストーカーではないかと思ってしまうのだ。
実は多江もホテルで壬生と会った時から好感を持っていたのだと言うなら別なのだが、僕にはそうも思えないので、どうもこの導入部には抵抗感がある。。

この作品は主演の吉永小百合が原作に惚れこんで映画化権を取得していたらしく、相手役に渡哲也を指名したのも彼女自身ということである。
企画を持ち込んだ東映がなかなかOKを出さなかったが執念で映画化にこぎつけたらしい。
映画はベッドシーンも登場せず、しっとりとした中年男女の純愛を描いているが、僕はこの作品にどうしても若い頃の二人のラブロマンス・スキャンダルをダブらせてしまう。
仮想現実の映画として見ると、思い続けた気持ちをぶつけたのは壬生の渡哲也ではなく、多江の吉永小百合だったのではないかと想像してしまうのだ。
そんな邪推をさせる要素を含んでいるので、僕にはプラスアルファを持った作品となっている。

映画は古都鎌倉と京都を舞台にしている(一部で飛鳥地方もある)。
この手の映画にはその土地柄はピッタリである。
僕は何度か常寂光寺を訪れたことがあるが、あんなに静かな常寂光寺に出会ったことがない。
愛しい女性と静かな常寂光寺の階段を上れたら、それはそれは素敵な気分になれるだろうなと思ったのだが、僕には肝心の相手役の女性がいない。
観光地としての京都はいつも大勢の人でごった返しているが、どうしたわけか映画で描かれる京都は静かだ。
紅葉時の常寂光寺なんて歩くのがやっとである。

壬生は多江の家で倒れ他界し、葬儀後、壬生の奥さんが多江の家を訪問するシーンがあり、そこで壬生の妻・佳子は壬生がプレゼントしていた絵志乃をたたき割るのだが、冷え切っていたと思われる夫婦関係だったことを思えば、この描き方にはもう一工夫あっても良かったように思う。
僕には佳子が壬生を愛していたとはとても思えないし、壬生は大晦日の夜を多江の家で過ごしているのだから壬生夫妻に愛が存在していたとも思えず、佳子の行為はただ単にヒステリックになっただけのような印象だ。
登場シーンの少ない佐藤友美だが、彼女に愛を奪われた佳子の妻としてのプライドがそうさせたのだという芝居をさせても良かったように思う。
吉永小百合はあまりいい作品に出ていないように感じるのだが、これはまだましな方かもしれない。

潮騒

2021-03-12 09:13:00 | 映画
「潮騒」1954年 日本


監督 谷口千吉
出演 久保明 青山京子 三船敏郎 沢村貞子
   太刀川洋一 宮桂子 上田吉二郎 高島稔
   加東大介 東野英治郎 小杉義男
   三戸部スエ 本間文子 石井伊吉 赤生昇

ストーリー
伊勢海にある歌島は人口千四百、周囲一里に充たない小島である。
久保新治(久保明)は、船に乗って働き、母(沢村貞子)と弟(高島稔)と三人暮しの家計を助けていた。
ある日夕暮の浜で、彼はふと見知らぬ少女を見かけたが、何故かその夜はいつになく寝つきが悪かった。
翌日彼が船で聞いたところによると、この少女初江(青山京子)は頑固で金持の宮田照吉(上田吉二郎)の末娘で、他所にやられていたのが、婿取りをするために呼び戻されたのだという。
その後新治は山のなかで、道に迷った初江に再び出会ったが、それは秘かなそして楽しい出会いだった。
だが暫くして、新治は島の名門の息子である川本安夫(太刀川洋一)が初江の入婿になるという噂を耳にした。
そして砂浜で初江に会った機会に、彼はこの真偽をたしかめたが、笑って否定する初江だった。
新治は我知らずその唇に触れてしまった。
こうして逢びきをしている間、ある時、砂浜で裸になった二人はそのまま熱情的に抱き合うのであった。
初江は新治の嫁になるのだと云い張ったが、それ迄はと最後の一線だけは守っていた。
一方、東京の大学に行っている燈台長の娘千代子(宮桂子)は、休みで帰省していたが、心を寄せていた新治が初江と一緒にいるところを目撃し、それを安夫に告げてしまった。
嫉妬にかられた安夫は、ある夜、初江を襲ったが、偶然とんできた蜂に妨げられて果さなかった。
照吉は新治との結婚には固く反対していた。
やがて新治と安夫は島の青年達の憧れの的である歌島丸に乗りこみ、訓練を受けることになった。
ズボラな安夫に対し、誠実な新治は、暴風雨のために切れたワイヤーを直すために命を賭して怒涛の中に飛びこんだ。
船が帰ってきたとき、この働きぶりは照吉にも知れ、二人は遂に晴れて結ばれることになったのである。


寸評
川端康成の「伊豆の踊子」、伊藤左千夫の「野菊の墓(野菊の如き君なりき)」、三島由紀夫の「潮騒」は時のアイドルスターを迎えて何度も映画化されている。
僕は森永健次郎監督の浜田光夫、吉永小百合による「潮騒」(1964)年と、西河克己監督の三浦友和、山口百恵による「潮騒」(1975年)も見ているが(他の2本は未見)、この作品が一番よい。
初江を演じた青山京子が一番役にハマっていると感じていることがその理由である。
50本以上の映画に出演した昭和を代表する女優野一人であるが、僕はこの「潮騒」が彼女の中では一番ではないかと思う。
僕は青山京子の出ている映画を何本かは見ているのだが、すぐにタイトルが思い浮かぶ作品がない。
美空ひばりと離婚していた小林旭と結婚して引退したが、僕の中では印象の薄い女優さんだった。
しかし、ここでの初江を演じる青山京子はいい。
少女の初江は、村の有力者で金持ちの宮田照吉の娘で、養女に出されていたが照吉の跡取りである一人息子が死んだために島に呼び戻された。
新治は父親を亡くしていて母と弟と暮す貧しい一家を支えている母想いの青年である。
初江が照吉の娘であると語られるだけで、金持ちの娘と言う感じには描かれてはいないが、金持ちの娘と貧しい家庭の青年というよくある身分格差の図式である。
新治の久保明もいいが、それよりも青山京子の初江が本当に島の娘らしい雰囲気を出せている。

島では初江の婿になるのが島の名門の息子である川本安夫だとの噂が流れる。
安夫は自分の家柄を鼻にかけてふるまう嫌味な男なのだが、彼が名門を笠に着ている描かれ方は希薄だ。
新治と初江とのあらぬ噂をばらまいたのも安夫なのだが、彼が噂を広めている直接的な場面もない。
安夫が初江に横恋慕し、燈台長の娘千代子は新治に恋心がある。
新治、初江、安夫、千代子の間にある若者たちの恋を巡る人間関係をもっと深く描いても良かったと思うが、谷口演出は醜い人間関係よりも青春を賛美しているような感じだ。
僕はもっと人の心に入り込んだような作品の方が好きなのだが、それでは三島が描いた瑞々しい話が台無しになってしまう。
これはこれで神話的な雰囲気を残した作品として評価して良いのだろう。
実際、舞台となっている歌島は神話に出てくるような島である。
結婚は親が許した相手としか出来ないし、人の噂さに戸は立てられないような狭い社会である。
そんな社会が風景に中に上手く溶け込んでいる。
近代化と開発が押し寄せ、この様な雰囲気を持った村落は日本の中に少なくなっていると思う。
新治は初江を思い浮かべて海に飛び込むが、その描き方は初江の力を得て事を成し遂げたように見える。
三島が記したように、初江の力ではなく新治自身の力でやり遂げたという描き方であっても良かったように思う。
照吉が言う「この村の男は金持ちも貧乏人も関係ない、この村の男に求められるのは気力だ」の言葉が生きてくるし、新治は本当にこの島の男になったのだという余韻が持てたような気がする。
それでも、この島の人たちは本当にいい人たちばかりなのだなあという誇らしい気持ちを感じられて、僕には満足感がある。

JFK

2021-03-11 08:14:28 | 映画
「JFK」 1991年 アメリカ


監督 オリヴァー・ストーン
出演 ケヴィン・コスナー
   シシー・スペイセク
   ジョー・ペシ
   ゲイリー・オールドマン
   トミー・リー・ジョーンズ
   ウォルター・マッソー

ストーリー
1963年11月22日、晴天の午後、テキサス州ダラスにおいてケネディ大統領が暗殺されるという事件が起こった。
ニューオリンズ州の地方検事ジム・ギャリソンは、暗殺後2時間も経たないうちに警官殺しの容疑で逮捕されたオズワルドが大統領暗殺の犯人と発表され、さらにオズワルド自身がダラス警察本部の駐車場で護送される途中、ナイトクラブの経営者ジャック・ルビーに撃たれて死ぬという一連の経過に疑問を抱く。
最高裁長官アール・ウォーレンを委員長とする調査委員会は、オズワルドの単独犯行と結論した。
ギャリソンは改めて暗殺事件をスタッフとともに秘密捜査することにし、最初の匿名の電話の主であるジャック・マーティンをはじめ、数々の目撃者、関係者に聞き込みを行い、やがて軍の極秘任務によりキューバ侵攻のゲリラ作戦を行うマングース計画を進めていた元FBI捜査官ガイ・バニスターやフェリーらが暗殺を図ったことと、首謀者は実業家として知られるクレー・ショーであることを突き止めた。
捜査が真相に近づくにつれギャリソンはマスコミの攻撃や政府からの脅しを受け、妻や子供たちとの私生活も危機に見舞われるが、Xと名乗る大佐から事件が軍やFBIやCIAをも巻き込んだクーデターであることを知らされ、遂にクレー・ショーを暗殺の共謀罪で告訴する。
裁判でギャリソンはケネディが三方から射撃されたことを明らかにし、1発の銃弾で7ケ所に傷を与えたという「魔法の弾丸説」の虚構を暴いて陪審員にアメリカの正義を訴えるがクレー・ショーは無罪に終わった。
全ての真相が明らかになるには、オズワルドやジャック・ルビーについての非公開の極秘報告書が公表される2039年まで待たなければならない。


寸評
衛星通信が開始されアメリカからリアルなニュースが飛び込んでくるようになった初日のニュースがケネディ大統領の暗殺事件で衝撃を受けた記憶がある。
僕はまだ中学生だったが、その後幾度となくケネディ大統領の話を目にすることになる。
それはキューバ危機であったり、暗殺事件を描いたものであったりしたのだが、その手法もドキュメンタリーであったりドラマであったりで手法も色々なものであった。
それだけ注目を浴び続けたのはケネディ人気と、暗殺のミステリーによるところが大きいと思う。

映画は尋問であるとか、検事局内での議論であるとかで会話が非情に多い。
その会話劇に少しばかり戸惑いを感じるが、粘り強く見ていると徐々に作品内に引き込まれていく。
おそらく、今ではオズワルドの単独犯行説を信じている人はいないのではないかと思われるし、僕自身も単独犯行説には疑問を感じている。
したがって地方検事のジム・ギャリソンの推論には説得力を感じてしまうし、それを感じさせる作りになっている。
数々の目撃者証言がありながら、それらが検討されずに事件が処理されていった経緯や、重要参考人たちが不審死していく経緯などに国家権力の恐ろしさを感じてくるようになる。
攻防総省、FBI、CIA、警察組織、政府が一体化すれば何でもできてしまう恐怖だ。
日本は戦後直接的な戦争を起こしていないが、世界には戦争を望んでいる人種がいることだけは確かなようだ。
極右的思想者だけでなく、厄介なのは戦争のおかげで巨大な権力を手にする者がいたり、莫大な利益を得る者がいるということだ。
彼等にとって戦争がないことは困ることなので、平和主義者のジョン、ロバートのケネディ兄弟が暗殺され、キング牧師も暗殺されたかのような描き方である。
ジム・ギャリソンのその主張は正しいものであるような印象を受ける。

映画はエンタメ性も持っているので、その間に家庭崩壊寸前の様子も挿入している。
家族での外食シーンでは、尋問が白熱しその食事会に出席できないジム・ギャリソンに対し、子供たちに「パパはいつも約束を守らない」と言わせている。
仕事に没頭する夫に対して不満を爆発させる妻の主張もよくわかるし、家庭崩壊の様子が本題を壊さない程度に抑えられていて緊張を壊さない。
ロバートの暗殺で夫婦が和解したようなシーンになぜかホッとするようなものを感じた。

最後のケビン・コスナー演じるジム・ギャリソンの演説は迫力があったなあ。
一気に気分が盛り上がったし、彼の様な検事がいること、そのような組織が存在していることにも驚いた。
機密文書が公開されれば、果たして事実は明らかになるものなのだろうか?
僕は2039年9月の公開を知ることが出来るかどうかわからない。
しかしその時、軍事関係者の関与が明らかになったとしたらアメリカはどのような態度を取るのだろうか?
関係者は過去の人となっていて、本当の真実は闇に葬り去られるのだろうか。
本当に恐ろしいのは国家権力と、それに群がる人々の欲の様な気がする。

飼育

2021-03-10 06:54:37 | 映画
「し」の第一弾は2019年7月5日から「七人の侍」「地獄の黙示録」「仁義なき戦い」など50本程度を掲載しましたが、今回はさらに幅広く取り上げて行こうと思っています。


「飼育」 1961年 日本


監督 大島渚
出演 三國連太郎 ヒュー・ハード
   小山明子 三原葉子 中村雅子
   沢村貞子 大島瑛子 浜村純
   山茶花究

ストーリー
昭和二十年の初夏、或る山村へ米軍の飛行機が落ち、百姓達の山狩りで黒人兵(ヒュー・ハード)が捕まった。
黒人兵は地主鷹野(三國連太郎)の穴倉へ閉じこめられ、指令があるまで百姓達は黒人兵を飼うことになった。
そんな頃に、鷹野の姪の幹子( 大島瑛子)がこの村に疎開して来た。
村の少年達はクロンボが珍らしくて、いつも倉にやって来ては黒人兵をみつめている。
少年達と黒人兵はいつしか親しさを持つようになっていった。
そこへ、余一(加藤嘉)の息子次郎(石堂淑朗)が召集令をうけて村に帰って来た。
出征祝いの酒盛りの夜、次郎は暴力で幹子を犯し、翌日次郎は逃亡した。
兄が非国民となって、弟の八郎(入住寿男)は幹子のせいだと怒った。
幹子を責めた八郎は、皆に取押さえられて鷹野家の松に吊された。
クロンボが八郎を慰めるように歌をうたったが、八郎はクロンボが村中を狂わしたと憎んだ。
縄を切った八郎は、ナタを持ってクロンボに飛びかかった。
その時、そばにいた桃子(上原以津子)は突き飛ばされて崖下に転落、そして死んだ。
伝松(山茶花究)の息子が戦死したという公報が入り、クロンボが厄病神なのだとなり、村の総意は、クロンボをぶち殺してしまえということになったが、そうと知った少年達はクロンボを逃がそうと図った。
だが、飛びこんで来た鷹野が、ナタでクロンボを殺してしまった。
それから数日して、役場の書記(戸浦六宏)が慌ててみんなに戦争が終ったことを発表した。
みんなは、もし進駐軍に知れたらとあおくなったが、鷹野の発案でなにも起らなかったことにした。
そのかための酒盛りの晩、次郎がかえって来たので、もし発覚したら次郎が犯人ということにしようとしたが、次郎は書記と争ってあやまって死んでしまった・・・。


寸評
大島渚が「日本の夜と霧」で会社を追われて製作を始めた第一作である。
配給をしている大宝映画は1961年(昭和36年)8月新東宝株式会社の倒産後、同年9月に配給部門を分社化して設立されたが、わずか4か月後の翌年1962年(昭和37年)1月には業務停止になり、制作はわずか6本で「飼育」はその中の1本である。
大島作品だけに「飼育」は見ているが、僕はその他の5本に関してはタイトルすら聞いたことがない。

時代は終戦の直前で、舞台は都会からの疎開者がいるものの同族の者でまとまったである。
そこに米軍の黒人パイロットが村人によって捕虜となったことから起きる狂ったような世界が描かれている。
東京は大空襲を受けているのに山間の村は適当にやっている変な時代であり、小さなの人間ひいては日本民族のいびつな姿が捉えられていく。
あわよくば黒人を役場に差し出して金をもらおうとする村人は、黒人をよそ者というより獣のように飼うことにする。
黒人は日本人が持つ差別意識の象徴だ。
小さな村にも存在する格差社会も描かれていて、村の権力者として三國連太郎がモヒカンみたいな頭で象徴的に登場するが、閉鎖の権力者と言う割には迫力不足だ。
山間の同族だけに、その社会の中にあるいびつな性の話も描かれているが、どこか中途半端な描かれ方で宴会で歌われる春歌も生きていない。

物足りない部分もあるのだがストーリー的に面白くなるのは、次郎が出征することになり、その祝宴の夜に次郎が幹子を犯して逃走するあたりからだ。
村人はこの恥はみな、「クロンボのせいだ」と言うようになるのだ。
クロンボのせいはその前にも畑の泥棒問題の時にも語られている。
村人は何でもクロンボのせいにして解決しだす。
次郎の弟の八郎はクロンボを殺そうとするが、関係ない娘を崖から落としてしまう。
クロンボを殺せという村人の声の中で三國が米兵を殺してしまう。
そんな時に次郎が帰って来て、村人たちは何か言われたら次郎のせいにしようとする。
何かあれば誰かのせいにしてしまう村人たちなのだ。
村人たちに対し抵抗する次郎は刺されて死んでしまうのに、次郎のなきがらに火を放ちながら次郎を殺した村人たちはしばらくできなかった秋祭りの話をする。
この一連の出来事は、何でもかんでも過去のこととして葬り去ってしまう日本社会への批判である。

日本は先の大戦の総括を行っておらず、過去の出来事として片付けられようとしている。
汚職事件などが起きると一次的にはマスコミも悪い奴らだと煽り立てるが、時が過ぎると当人たちは過去の人として葬ろうとする現実と何ら変わらない。
熱しやすく冷めやすい今の風潮を風刺しているように思える。
しかしアジテーションは前作の「日本の夜と霧」程ではなく、その代わり話は分かりやすい。
大宝映画という制作環境のせいかもしれない。

サン★ロレンツォの夜

2021-03-09 09:48:59 | 映画
「サン★ロレンツォの夜」 1982年 イタリア


監督 パオロ・タヴィアーニ / ヴィットリオ・タヴィアーニ
出演 オメロ・アントヌッティ
   マルガリータ・ロサーノ
   ミコル・グイデッリ

ストーリー
イタリア中部のトスカーナ地方では、8月10日、聖ロレンツォの日の夜は、愛する人のために流れ星に願いをかけると叶うという言い伝えがあり、この夜も、チュチリアは、愛するわが子に、自分が6歳の時に体験した出来事を聞きとどめてくれることを願って回想するのだった。
それは、第二次大戦も終わりに近づいた1944年の夏にさかのぼる。
ドイツ軍の占領とファシスト支配が続く中部では、連合軍の北上が待たれていた。
この地方の小さな村、サン・マルティーノの郊外の教会では、徴兵を拒否したコラードと、すでに身重のペリンディアのささやかな結婚式が行なわれていた。
そのころパルチザンのニコラが、仲間のブルーノとフィレンツェから帰ってきた。
ドイツ軍司令部は人家を爆破することを決定し、村の司教からそのことを聞いた人々は、大聖堂に向かうが、ガルヴァーノは、ドイツ軍の罠かもしれないと考え、この村を脱出して連合軍を探しに行こうと決意する。
脱出した一行がいると知ったファシストは、追跡を開始した。
居残り組と戻って来た者たちで、大聖堂ではミサが行なわれた。
突然、大爆音が轟き、多くの人々が傷つき、ベリンディアは息絶えた。
ガルヴァーノ達は、米軍の居場所を知っているというダンテという人物が率いるパルチザンを求めてアルノ川沿いを進んだ。
小麦畑でダンテとその一行に出会ったガルヴァーノらは、彼らと行動を共にする。


寸評
6歳の少女が母親になって我が子に自分の体験を語り掛ける形で映画は始まるが、記憶の世界で描かれる場面に少女が登場するものの彼女が常に中心人物になっているわけではない。
描かれている出来事は彼女が目撃し体験したことなのだろうが、彼女の目を意識させるような描き方ではない。
戦争の悲惨さを描いてはいるがユーモアを感じさせるシーンも随所にちりばめられている。
第二次世界大戦末期の混乱した時期だし、それなりに緊迫した状況が描かれているのだが、画面を通じて感じるのは随分とのんびりした人々の様子である。
舞台となったトスカーナ地方の風景が更にのんびりとした雰囲気を手助けしているのだが、それはタヴィアーニ兄弟が意図するところだろう。

ドイツが攻めてきて村を爆破するようで、爆破される家には十字のマークが書かれている。
爆破対象の人々は一カ所に集まっており、そこで村を脱出して北上してくる米軍を探しに行こうとするグループと大聖堂にいれば大丈夫だろうとして村に残るグループに分かれる。
当初は脱出組に入っていた人も、いざ出発となると恐ろしいから残ることにする人が出てくる。
生きるか死ぬかの選択で、迷う人の気持ちは理解できるので残る人を悪いようには描いていない。
しかし安全と思われた大聖堂が爆破され多くの犠牲者が出る。
大聖堂まで破壊しないだろうと言って、残留した人を大聖堂に集めていた村の司教は冷たい視線を浴びるシーンがある。
僕には神の言葉を語る司教でさえ戦争の犠牲者を救うことはできないという現実を描いていたように思う。
実際に結婚式を挙げたばかりの新妻が子供を宿しながら夫の目の前で死んでいく。

ガルヴァーノの一行は米軍を目指す途中で、麦刈りをしている人々に出会い、その刈り入れを手伝うことになる。
その時、敵の飛行機がやって来て人々は森の中に逃げ込むのだが、逃げ込んだところで「ダルマさんがころんだ」状態で全員が動きを止めている。
何とも滑稽な場面を用意したもので、この映画ののんびりさの象徴的シーンとなっている。
この麦畑の中でパルチザンとファシストの戦闘が行われるが、その交戦状況は軍人同士の戦いのように規律に導かれたものではない。
人々の動きが民間人丸出しでバタバタしていることもあって、戦闘にのんびりした雰囲気がある。
しかし、その雰囲気の中で顔見知りの者が敵と味方に別れてお互いに殺し合い次々と倒れていく様は、雰囲気に反してすごく恐ろしいものである。
戦闘が終わりガルヴァーノの一行はその村に一夜の宿をあてがわれて一泊させてもらう。
ガァルヴァーノは夫婦と勘違いされて若い頃に憧れていたコンチェッタと同室になり、幼い頃から想いを寄せていたことを告白し二人は結ばれる。
聖ロレンツォの夜の願いは平和の到来なのだろうが、実はこの二人の願いが叶ったことだったのだと思う。
晩年に自分の思いを相手に告げることができ、秘かに愛した人がそれを受け入れてくれるという時間を過ごせた事はなんてすばらしくて羨ましいことではないか。
僕はこのエピソードで麦畑の悲惨な出来事を払拭できた。

三人の名付親

2021-03-08 06:22:30 | 映画
「三人の名付親」 1948年 アメリカ


監督 ジョン・フォード
出演 ジョン・ウェイン
   ペドロ・アルメンダリス
   ハリー・ケリー・Jr
   ジェーン・ダーウェル
   ベン・ジョンソン
   メエ・マーシュ

ストーリー
アリゾナのウェルカムにやって来た3人の男が、突然町の銀行を襲い砂漠の中に逃れていった。
3人のうち首領格はたくましいボブで、あとの2人は中年のピートとまだ年若いキッドであった。
烈日を浴びて砂漠を行く彼らは渇きに苦しんだが、深傷を負っているキッドは1人耐えがたかった。
砂漠には所々に旅人のための水槽タンクがあり、彼らはその1つであるマジャヴ・タンクへと急いだが、そこはすでに町の役人スイートが部下とともに先回りしていた。
彼らは追手の裏をかき逆戻りしてテラピン・タンクへ向かった。
そこには1台の幌馬車が止まっており、中に1人の若い婦人がいた。
ニュー・エルサレムから来た彼女は身重の体であり、まもなくピートの世話で赤ん坊を生み、3人に赤ん坊のことをくれぐれも頼みながら死んでいった。
3人は途方にくれたが、婦人の残していった子育て本と聖書に力を得てニュー・エルサレムに赤ん坊を連れて行くことにした。
しばらくしてテラピン・タンクに来たスイートは幌馬車の中に残されていた婦人の衣類が彼の姪のものであると知って、3人が彼女を殺したものと思い、ますます彼らに対する憎悪に燃えた。
その頃3人は死の苦しみと闘っていた。
キッドは死に、ボブとピートは赤ん坊をいたわりながら砂漠をさまよったが、突然ピートは足を折り、いまはこれまでと自殺した。
ボブは1人、最後の力をふり絞り、倒れては立ち遂々ニュー・エルサレムに辿り着いたのだが・・・。


寸評
話は単純だが背景には宗教的な筋書きが施されており、クリスマスを祝う描写などもあるから、もしかすると本国では公開時期が12月だったのかもしれない。
母親が死んでしまった新生児を男三人が何とか育てる微笑ましい話であると同時に、三人の逃亡劇でもある。
三人は銀行強盗をやった悪人なのだが、登場した時から人のよさそうな雰囲気がある。
三人組は街へ入って来た時に庭の手入れをしていたオヤジに遭遇する。
そこでのやりとりはお互いの人の好さが出たものである。
重要なのはこのオヤジと奥さんの会話である。
二人によると、到着すべき姪が到着していないし、オヤジは姪のダンナをあのバカ呼ばわりしている。
これが大事な伏線となっていることは、大抵の映画ファンは感じ取るだろう。
そしてオヤジが保安官であることが分かり、ボブは顔を曇らせる。
導入部としては要領を得ていて、僕はこのなにげない処理にジョン・フォードの職人技を見る思いがする。

三人組は逃走時に大切な飲料水袋を撃たれてしまい水を求めて鉄道の貯水場に向かうが、そこには保安官とその助手達が先回りして警戒に当たっていたので、仕方なく貯水池を目指すことになる。
到着すると貯水池はなく捨てられた幌馬車があり、その中には出産が迫っている瀕死の女性が居てピートの助けで赤ん坊は無事生まれるが、女性は息が絶えてしまう。
死の直前に女性から三人は子供の名付け親として立派に育てると約束をさせられてしまうのだが、その妊婦が何故幌馬車に一人居るのかの説明はボブによってなされる。
映像がない手抜き的な描き方に感じるが、なんとか冒頭の伏線が効いていて脚本の上手さがうかがえる。
先ずは赤ん坊を託された三人の微笑ましい行動と、名付け親としての愛情表現が手際よく描かれる。
そこから砂漠を相手に生き残りの生存競争になって行くのだが、彼らが仲たがいして争いごとが起きることはなく、傷ついたキッドを残る二人がいたわりながら旅を続ける。
過酷な逃亡劇を描きながらジョン・フォードはユーモアを盛り込み重苦しい雰囲気を和らげている。
代表的なのがボブがメキシコ人のピートに「スペイン語を話すな。この子はアメリカ人なのだからスペイン語を覚えてしまったらどうするんだ」と言い放つことだ。
言われたピートの表情が何とも言えないが、完全な人種差別である。
そして生まれた赤ん坊の”ロバート・ウィリアム・ペドロ”という名前に関するやり取りも面白い。
ユーモア部分はピートが一手に引き受けていて、ジョン・ウェイン以上に存在感がある。

最後に聖書に記載されている通りにロバが突然出てくるなど宗教色が強い作品なので、本当の悪人は出てこなくて、三人組も救われるべき人物たちである。
ピートは三人の中では一番神を信じている人物で、キッドは赤ん坊の為に子守唄を歌ってあげるのだから、おそらく子供の頃にはそのような環境で育っていたのだろう。
キッドの歌を聞いたボブも故郷の子守唄だと言っているので、彼も子守唄を歌ったことがあるのかもしれない。
三人を追う保安官と赤ん坊を連れた三人組の運命はどうなるのかと話を進める手際はジョン・フォード監督の独壇場であるが、最後に頭取の娘がボブに駆け寄るのだけは「何なんだ?」と思ってしまう。

サン・ジャックへの道

2021-03-07 09:20:55 | 映画
「サン・ジャックへの道」 2005年 フランス


監督 コリーヌ・セロー
出演 ミュリエル・ロバン
   アルチュス・ドゥ・パンゲルン
   ジャン=ピエール・ダルッサン
   マリー・ビュネル
   パスカル・レジティミュス
   エマン・サイディ

ストーリー
会社経営と家庭のストレスで薬に依存している兄のピエール、支配的で頑固なオバサン教師のクララ、アルコール漬けで家族にも見捨てられ一文無しの弟のクロード。
互いを認めず険悪な仲の兄姉弟が、亡き母親の遺産を相続するため、フランスのル・ピュイからスペインの西の果て、聖地サンティアゴ・デ・コンポステーラまで1500kmにも及ぶ巡礼路を一緒に歩くはめに。
本来神聖なる旅路のはずだが、彼らの頭には、遺産の二文字しかない。
このツアーの同行者として、ベテラン・ガイドのギイ、楽しい山歩きと勘違いしてお気楽に参加したハイティーンの女の子達、エルザとカミーユ、カミーユを追って参加したアラブ系移民の少年サイッド、従兄弟であるサイッドにだまされてイスラムのメッカへ行けると信じ、二人分の旅費を苦しい家計から母親から捻出してもらったラムジィ、頭をターバンで包んだ物静かな女性マチルドがいた。
9人の男女が、様々な思いを胸に、フランスのル・ピュイから旅の一歩を踏み出した。
果てしなく続く岩山の道。
様々なトラブルを乗り越えながら、一行はまっすぐ続く一本道を、急勾配の道を、天候に関係なくひたすら歩き続ける。
それは、まさに人生のように長く起伏に富んだ道。
今や彼らは、距離的にも精神的にも出発点からは遥かに離れた地点に立っていた。
1500kmもの徒歩の旅のゴールには、いったい何が待っているのだろう? 
そして、ささやかなラムジィの願いは叶うのだろうか?


寸評
映画の冒頭、字幕と共にフランスの郵便事情が映し出され、郵便を受けとる3人が登場する。
それぞれの住所地で読んだ兄のピエール、姉のクララ、弟のクロードの3人が一様に怪訝そうな顔をしているので、その中には一体何が書かれていたのかと観客の興味を集中させておいて、登場するのがこの3人に対して行われる死亡した母親が残したとされる遺言書の説明シーンである。
巡礼路を歩くことを条件として遺産を相続させると書かれてあることを聞いた時の3人の反応は拒絶である。
長男のピエールは会社経営で忙しく、さらに妻がアルコール依存症という悩みまで抱えて「俺にはそんな時間はない!」と言い、学校の教師をしている長女のクララは、家族の世話のため巡礼など行けるはずがないと言う。
次男のクロードはアル中状態で家族からも見捨てられていて、理由はないが行きたくないのは同じ。
しかもこの兄姉弟はどうやら仲が良くないようだいう幕開けなので、おおよその結末は予想がつく。
したがってその間の出来事で、いかにして結末に導くのかに興味が行くのだが、同行者やガイドが加わって一種独特なロード・ムービーとなっている。

ツアーとは言え、それは1500キロに及ぶ巡礼なのに兄姉弟には信仰心がない。
これに楽しい山歩きと勘違いしてお気楽に参加したハイティーンの女の子二人が加わる。
その内の一人の女の子を追ってアラブ系移民の少年と、従兄にイスラムのメッカに行けると信じ込まされた文字が読めない少年の二人と、なぜか頭をターバンで包んだ1人参加の女性が参加していて、それをガイドのギイが何とか引っ張て行く。
やっと電波が届く場所に到着すると、携帯電話で語られることはもめ事ばかりで、それは文明批判ともとれるし、人と人が係わるともめ事が発生するのなのだとも言っているような滑稽なシーンもある。
珍道中なので重い荷物を内緒で捨てたり、迷惑な相部屋の旅行者がいたりのドタバタもあるが、彼らが抱える苦悩や希望が夢の中で描かれ、そのイメージをシュールな映像で描き出していることや、彼らが歩いている山道の景色や、休憩しているシーンの点描が美しく、ドタバタ感を打ち消すように静かな安堵感をもたらしてくれる。
歩きくたびれた彼らがとる休憩時間の描写に、彼等もホッとしているのだろうが、見ている僕も何故かホッとしたものを感じ取ることが出来た。

旅の途中でガイドのギイから「実はこの遺言書はこの地点でいいと書いてあった」ということが発表され、3人は今や仲間になり切った他の6人に心からの別れを告げ、帰る為に6人とは反対の道へ歩き始めたが、まず最初にピエールが方向を変え、クララとクロードもビックリして後に従う。
そんな行動を自然に納得させるのがロード・ムービーの良さであり、この映画のすばらしさだ。
途中でガイドのギイの子供が病気になっていること、妻が友人と浮気をしていることも判明するが、それに対する埋め合わせ的な結末も用意しているし、識字の勉強を教えてもらっていたラムジィが学習効果を見せた半面、彼に起きる悲しい出来も描きながら、最後は最初の予想通りそれぞれの人たちが迎える明るい未来を予兆させて終わるのだが、クロードの描き方はアル中が治ったのかどうかは疑わしいままのように思う。
巡礼というロード・ムービーだが宗教臭さはまったくなく、というより宗教は全く描かれずに終わったのも肩ぐるしくしていなくてよかったと思う。

サンシャイン・クリーニング

2021-03-06 10:41:43 | 映画
「サンシャイン・クリーニング」 2008年 アメリカ


監督 クリスティン・ジェフズ
出演 エイミー・アダムス
   エミリー・ブラント
   ジェイソン・スペヴァック
   メアリー・リン・ライスカブ
   クリフトン・コリンズ・Jr
   エリック・クリスチャン・オルセン

ストーリー
花形チアリーダーとしてハイスクールのアイドルだったローズも、いまや30代半ばのシングルマザー。
ハウスクリーニングの仕事をしながら、かつての恋人マックとの不倫関係がだらだら続いていた。
一方、ローズの妹ノラも、どんな仕事に就いても長続きせず、いまだに父親のジョーと実家で暮らしている。
そんな中、ローズの8歳になる息子オスカーは、何でもナメる癖がエスカレート、遂には小学校を退学するハメになってしまい、ローズは息子を私立の小学校に入れることになった。
ある日、マックから「事件現場を掃除する仕事で金が稼げる」と聞いたローズは、嫌がるノラを誘って生計を立て直すために新たな仕事をスタートさせる。
始めは犯罪や自殺の現場に四苦八苦する二人だったが、掃除道具屋の店員ウィルソンの協力を得て、次第に仕事の要領をつかんでいった。
ワゴン車を買い、そこに“サンシャイン・クリーニング”という会社のロゴを鮮やかに刻み込む二人を、ジョーやオスカーも応援してくれる。
次から次へと舞い込む仕事をこなしながら、ローズとノラはようやく本来あるべき自分の姿を取り戻し始め、ローズはマックとの関係に終止符を打つ決意をする。
二人の姉妹は、幼い頃に目撃した母親の死にまつわるトラウマを拭い去ることができずに生きてきた。
しかし、見知らぬ誰かの死の痕跡に触れるうち、二人はやっと自分たちの過去を受け入れられるようになっていくのだった。
そんなある日、ローズは学生時代の友人ポーラの出産祝いに出席するが、ノラひとりに任せた大きな仕事が、取り返しのつかない惨事を招くことになるとはローズは考えもしなかった…。


寸評
所得格差が広がって来て、持てる者が勝ち組で、持たざる者が負け組だと言う風潮もある
世の中には仕方なく弱者に甘んじている人々がいる。
それでも弱者だって懸命に生きているのだ。
この映画はそんな弱者への応援歌である。

主人公はかつてチアリーダーとして学園のアイドルだったローズなのだが、そのローズも30代のシングルマザーとして一人息子を必死で育てている。
仕事は家政婦のようなもので、訪問した家のかつての同級生には不動産業だとウソをつかざるを得ない。
彼氏は既婚者で高校時代に付き合っていた男だという典型的な負け犬人生を送っている。
しかし彼女が朗らかなために悲壮感は感じられない。
不倫相手の彼氏が警察官で、そこから事件現場のクリーニング業の仕事を回してもらう。
事件現場だけにどの現場も血の後が生々しく、散らかった残留物の匂いが強烈だ。
しかし妹のノラが遺品から遺族の存在を知り、何とかその遺品を届けようとしているし、ローズは遺族となった老婆を慰めてしばらく一緒にいてあげたりしていることを見ると、人間の最期と向き合う仕事でもあると言える。

この映画に悪い人は登場してこない。
浮気相手だって決して悪く描かれることのない存在である。
妙に親切な片腕の店員や、かわい過ぎる子供など、観客を心地よくさせるキャラクターは十分そろっている。
ローズの子供は学校から見放されるが、ノラや父親たちが必死に励ますシーンは微笑ましいしグッとくる。
彼らが必死で励ますのは甥であり孫であるオスカーへの愛情の深さからである。
しかし励ましている人間は、どう見てもダメ人間なのだ。
不思議なことにダメ人間が励ましているから僕たちの心に響いてくる。
彼らは僕たちの代弁者なのだ。

彼らは弱い。
弱いからこそっ虚勢を張って生きている。
父親はエビの事業を試みて失敗するが、失敗の原因は自分を認めない他人に見る目がないのだとなる。
生活苦に鍛えられた者は、世間体など気にしなければ生きていけるのだろう。
ノラは母親の自殺がトラウマになっているようなのだが、どのようなトラウマになっているのかはよく分からない。
その為に落ち着かない生活を送っているのかもしれないが、そのような背景は描く必要はなかったように思う。
母親が端役で一言セリフを言う映画がテレビ放映されることだけで十分だった。
亡くなっている母親は、二人の思い出の中で、二人の仲たがいを修復させたのだと思う。
妹は姉の庇護から巣立っていく。
父親は自分の家を売りハッタリを効かせた車で娘を励ます。
彼らは決して成功者になったわけではないが、希望に満ちたラストだ。
僕は見終った時にホッコリさせられた。 秀作である。

さよならコロンバス

2021-03-05 08:02:14 | 映画
「さよならコロンバス」 1969年 日本


監督 ラリー・ピアース
出演 リチャード・ベンジャミン
   アリ・マッグロー
   ジャック・クラグマン
   ケイ・カミングス
   ジュリー・ガーフィールド
   ナン・マーティン

ストーリー
ニューヨーク近郊の住宅街。
図書館員のニール(リチャード・ベンジャミン)は、プールで、女子大生のブレンダ(アリ・マックグロー)と知りあい、たちまち恋におちた。
彼は大学を出て陸軍生活をしていたが、今はのんびりと暮らしている男で、将来の目的はこれといってない。
一方、ブレンダの両親は、一代で富を築きあげた典型的なユダヤ人一家だ。
金もうけに気のないニールなど、気に入るはずはない。
だが2人の恋は深まるばかりで、むろん身体の関係も出来た。
そして、ブレンダの夏休みも終わりに近い頃、誘われるままにニールは彼女の家に2週間ほど、泊まりがけで遊びに来た。
ピルを使うとか、使わないとかで押問答をし、結局、ブレンダが避妊器具を使って情事が続けられた。
一方、彼女の兄ロン(マイケル・メイヤーズ)は典型的な若きアメリカン。
近く結婚を控えているが、彼の一番の興味は母校オハイオ大学のこと。
そして“さよならコロンバス”というレコードをかけては、バスケットの名選手だった往年をしのび恍惚としている、おめでたいような、気のいい男である。
そんな彼もユダヤ式の盛大な結婚式を挙げ、父の仕事の後を継ぐ。
ブレンダは大学のあるボストンへ戻り、そしてニールが会いに来て、2人は安ホテルへ。
そこでブレンダは大変なことを言い出した。
避妊器具を家へ忘れてきて、母親がみつけてしまった、どうしたらいいの、とわめく。
冗談じゃない、わざと忘れてきたんだろう、とニール。
2人の口論は続くき、ニールは一人でホテルを飛び出していってしまった。


寸評
この映画を学生時代に見たのだが、当時はアメリカン・ニューシネマと呼ばれる作品群がもてはやされていて、「さよならコロンバス」もその一編とみられていたのだが、確かに描かれている内容的にはその雰囲気があるのだが、僕は「イージー・ライダー」や「俺たちも明日はない」などに比べて公開当時からあまり気乗りしない作品だった。
幸せなように見えながら、それ以上に不安が渦巻いているという内容には共感できるのだが、僕にはひがみ根性もあってブルジョア娘と図書館員のたわごと映画に見えたのだ。

ブレンダは裕福な家の娘だが、格式ある良家のお嬢さんではない。
父親は苦労して成功した言ってみれば成金の家庭で、母親には上流家庭としての思い上がりを感じる。
彼らの本質を表すのが食事シーンで、父親を初め食事の仕方はがさつなもので育ちが判ろうというものだ。
おまけに娘二人は我儘で、特に下の子は敗けることを認めない。
バスケットボールをしても卓球をしても、自分の負けを素直に認めることをしない嫌味な子供だ。
ブレンダにしてもアルバイトをするわけでもなく、お金は父親が提供するものだと思っている。
軽快な音楽に乗ってニールとブレンダが楽しそうにデートする姿を見せられても、嫌悪してしまうシーンを挟まれては、貧乏人の僕は金持ちへの嫉妬も手伝って乗り切れなかったのだと思う。

ニールの実家がどのような家庭なのか分からないが、叔父夫婦の家に居候して従妹の招待でクラブに出入りしているから貧しい家でもなさそうだ。
当初はニールがブレンダに対して積極的だが、途中からブレンダの方が積極的になってくる。
先の食事シーンではテーブルの下でモーションを掛けているし、自分からベッドに誘ったりしている。
ニールは図書館員の仕事に満足していないようだが、かと言って他に夢や希望があるわけではない。
黒人の少年にゴーギャンの画集を世話してやる優しい一面を持っているが、仕事に誇りを持っているようにも思えず少しシラケたような態度を見せる。
冷蔵庫からチェリーを盗んでポケットに入れるような仕草も見せる。

ニールとブレンダには結婚する意思はあったのだろうか。
お互いにひと夏の経験程度であったのかもしれない。
母親はもともとニールを気に入っていないようだし、父親もその内に飽きるだろうと思っている。
ニールは徐々にブレンダの家庭の人々とのギャップを感じ始める。
一方で、関係をもってもニールは避妊の役目を常にブレンダに押し付ける身勝手さを見せる。
純愛のようなシーンを用意していながら、どこかギクシャクした内容である。
過去を懐かしんでいるだけの兄の結婚式はユダヤ式なのかも知れないがどんちゃん騒ぎで、ブレンダの休暇最終日でもある。
その中で父親は娘が間違いを犯さない事を諭し、愛していることを語る。
ブレンダは大学のあるボストンに戻り、そのブレンダをニールが訪ねたところで問題が起きる。
避妊具を巡る言い争いが起き、そんなことが理由になって二人は別れてしまうと言う結末の描き方がニューシネマらしいと思われた。

さよなら歌舞伎町

2021-03-04 09:25:16 | 映画
「さよなら歌舞伎町」 2014年 日本


監督 廣木隆一
出演 染谷将太 前田敦子 イ・ウンウ ロイ
   樋井明日香 我妻三輪子 忍成修吾
   田口トモロヲ 村上淳 大森南朋
   河井青葉 宮崎吐夢 松重豊 南果歩

ストーリー
一流ホテルで働くことを夢見る徹(染谷将太)はミュージシャンを目指す沙耶(前田敦子)と同棲しているが、自分が実際にはラブホテルの店長であることを、家族や沙耶には伏せていた。
ある日、徹の勤めるホテル・アトラスにアダルトビデオの撮影隊がやって来ると、そこには妹の美優(樋井明日香)の姿があった。
メジャー・デビューを目指している沙耶は、枕営業のため音楽プロデューサーの竹中(大森南朋)とホテル・アトラスに入室し、それを知った徹と部屋の外で口論したのち竹中と関係をもつ。
里美(南果歩)は、駆け落ち相手の康夫(松重豊)をアパートメントに匿いながら、ホテル・アトラスの従業員として働いているのだが、傷害事件で指名手配中の2人は、あと1日で時効成立を迎える。
そんな折、夫と子供のいる刑事の理香子(河井青葉)が、同僚の竜平(宮崎吐夢)と入室する。
里美の正体に気づいた理香子は里美を取り押さえたが、逮捕に乗り気でない竜平は帰ってしまう。
非常ベルが鳴らされた隙に、里美は理香子を振り切り、ホテルを飛び出して行った。
ブティック店を開業するという夢をもつヘナ(イ・ウンウ)は、近日中に韓国へ帰るつもりでいる。
一方、蕎麦と日本酒の店の開店資金を貯めている恋人のチョンス(ロイ)は、もうしばらく韓国料理店で働くつもりでいるが、眠っている彼女のバッグを探ったところ、コールガールである彼女の名刺を見つける。
ヘナは日本での最後の出勤日にホテル・アトラスに入室し、客の男の要求で目隠しをしたのだが、浴槽で体を洗われているうち、ヘナは男がチョンスであることに気づく。
ホテルからの帰り道でチョンスはヘナにプロポーズし、2人は一緒に韓国へ帰ることを決心する。
風俗のスカウトの正也(忍成修吾)は、家出少女の雛子(我妻三輪子)とホテル・アトラスに入室する。
雛子の不幸な生い立ちを聞いた正也は、彼女をその場に残しこの仕事から足を洗うために組織の元へ向かうが、バッティングセンターで組織員たちから凄惨な暴行を受けることになった。


寸評
新宿・歌舞伎町のラブホテルに出入りする人々を描いた群像劇で、たくさんの人々が登場するが詰め込み過ぎの感じはしない。
それぞれのエピソードで1本の映画が撮れそうな気がするほど一つ一つが切ない物語である。
主人公は徹という青年で、親からの援助と期待の手前、ラブホテルの店長をやっていると言えないでいる。
妹も故郷の塩釜市で保育士を目指していたが、東日本大震災で実家の工場が潰れたために東京でAV女優の職に就いたのだという。
「絆」という言葉が踊った東日本大震災だが、苦しんでいるのは被災者だけで、人々は無関心になり関係ないような雰囲気になってきていることが批判的に語られる。
両親は工場がつぶれ、除染作業などにも従事しているが日給は少なく、毎日あるとは限らない辛い日々を送っている。
妹の美優の登場は2014年の今を感じさせる映画としている。

南果歩と松重豊の夫婦は何か意味ありげな登場の仕方でミステリーを感じさせる。
途中で南果歩の鈴木が指名手配犯のポスターの前に立っていたことで、どうやら松重豊は指名手配犯らしいことがわかり、いつそれが判明するのかのサスペンス感が加わってくる。
あくまでも群像劇なので、そちらの緊迫感がたかっていくというより、焦点は南果歩の人物そのものに光が当たり、鈴木里美を演じた南果歩が面白い役柄を好演していた。

舞台がラブホテルだけあってヘビーなシーンも多いが、シーンの割りには描かれるのが純愛だったりしている。
切ないのがヘナとチョンスの韓国人カップルである。
ヘナはホステスをしていると言っているが実際はコールガールである。
稼ぎは勿論チョンスと比べ物にならず、韓国に帰って稼いだ金を元手に母とブティックを開こうとしている。
一方、チョンスは韓国料理店ではなく蕎麦と日本酒の店を夢見ているが、恋人のヘナがコールガールをやっていることを知って苦しむ。
ヘナはいかがわしい商売をやっているのだが、気持ちは優しい女であり客に対しても誠心誠意尽くすのである。
ヘナは客となって対面したチョンスに泣いて謝るが、チョンスは自分も女性客から金を受け取って関係をもったと告げる。
二人がお互いの嘘を許し合う場面だがこの純愛は内容の割には少し弱いと感じた。

むしろ爽やかなのが風俗のスカウトである正也と家出少女の雛子の物語だ。
組織から足を洗おうとした正也への出来事はサワリ程度だが、雛子があこがれていたチキンナゲットをいっぱい食べるという夢を二人で叶えるシーンは青春ドラマだ。
徹は沙耶を残して立ち去り、故郷の塩釜市へ向かうバスに乗り込むが、そのバスには美優も乗っている。
しかし二人はお互いの存在に気づいていない。
このラストはいい。
被災した故郷だが、自らの傷をいやしてくれて再出発させてくれるのは故郷なのだと思う。

2021-03-03 09:34:50 | 映画
「侍」 1965年 日本


監督 岡本喜八
出演 三船敏郎 小林桂樹 伊藤雄之助
   松本幸四郎 新珠三千代 田村奈巳
   八千草薫 杉村春子 東野英治郎
   平田昭彦 稲葉義男 大辻伺郎

ストーリー
万延元年二月十七日。
雪降る桜田門を、水戸浪士星野監物を首領とする同志三十二名が、登城する井伊大老を狙っていた。
しかし、なぜか井伊は登城をさけ、暗殺計画は失敗に終った。
相模屋に集合した同志は、副首領住田啓二郎の「この中に裏切り者がいる」という言葉に騒然となった。
その日から星野と住田は裏切り者の探索に乗り出した。
そして浮びあがったのは、尾州浪人新納鶴千代と上州浪人栗原栄之助であった。
鶴千代は、出生の秘密も知らず、孤児として成長し、浪人として食いつないでいたが、ある日、捕吏に追われる小島要ら水戸浪士を助け大老暗殺計画の一味に加わったのだった。
「天下にときめく大老の首をとって、侍になる」鶴千代の夢は広がった。
一方栄之助は町道場で代稽古をつとめ、文武に長じた穏かな家庭人で、みつという美しい妻があったが、井伊大老のやり方に反抗して同志となった。
この二人は鶴千代が道場破りに現われて以来の友人であったが、栄之助の妻みつと、大老と親しい間柄である松平左兵督の側室お千代の方とは姉妹であったことから、二人は疑いをうけたのだった。
疑わしい者は斬る星野監物の強い信念で、武勇をみこまれた鶴千代がその役に指命された。
その頃鶴千代は、相模屋の女将お菊にかつて鶴千代が慕情を寄せた一条成久の息女、菊姫の面影をみて、泥酔する毎日であった。
星野から話を聞いた鶴千代は、涙ながらに栄之助に斬りかかった。
だがその後裏切り者の正体は、同志の参謀増位惣兵衛と判り、即日、斬殺された。
三月三日、暗殺の日は決定したが、鶴千代の出生の秘密を知った監物は、鶴千代に刺客を送った。
鶴千代の実父は、井伊大老であったのだ。


寸評
「侍ニッポン」は何度か映画化されているが僕はこの「侍」しか見ていない。
原作では自分の父親が井伊大老であると知った新納鶴千代が桜田門外に駆けつけ、親子の対面を果たすが二人とも浪士集団の刃に倒れることになっているらしいが、この作品では新納鶴千代は最後まで実の父親をしらないで、実の親子が殺し合うという悲劇性を描いて終わっている。
観客は木曽屋政五郎とお菊の会話から、井伊直弼が実の父親であることを知らされるが鶴千代は知らない。
井伊直弼襲撃に加担した鶴千代は、井伊大老の首級をあげ「見ろ!この首、二百石では手渡さぬ。いや三百石でもまだ安い。見ろ!本日の殊勲一番、井伊大老の首は、尾州浪人、新納鶴千代の手にある!」と叫び、降りしきる雪の中をよろめきながら歩いていくというラストシーンが用意されている。
このラストシーンは、親子の悲劇を描いていたというよりも、個人や組織のエゴイズムも時代の流れという見えざる力の前にはかき消されると言っていたように感じる。

伊藤雄之助の星野監物を初めとする水戸浪士たちは自分たちの目的のみが頭にある。
仲間の一人である小林桂樹の栗原栄之助は見るからに善人だが、疑いをもたれ抹殺される。
星野は井伊を殺害するには自分達だって血を流さねばならないのだと、屁理屈ともいえる弁解をする。
彼等は自分勝手なエゴイスト集団であり、そもそも新納鶴千代は井伊を殺害することによって立身出世を遂げようとしているのだから、他人の命と引き換えに自分が浮かび上がろうとしている究極のエゴイストだ。
鶴千代の出自や過去に受けた差別があるにせよ、金もないのにお菊の店に居続けるなんて、店側に立てば鶴千代は迷惑千万この上ない輩なのである。
それでも鶴千代は、妾腹の子で父親の名前を明かしてもらえない可哀そうな境遇に育ったとして同情をかう立ち位置だと思うが、三船敏郎の新納鶴千代は豪快過ぎて同情を買うという雰囲気ではない。
鶴千代は三船が何度も演じてきた腕だけはやたらと強い浪人者で、その立ち回りが待ち遠しくなってくる。
実際、鶴千代が星野の差し向けた水戸藩士と斬り合う場面はすさまじい。
血しぶきが飛び散り、バッタバッタと斬りまくる。
待っていた見せ場がやって来たという気がして画面に食い入ってしまうシーンとなっている。

時代劇はそれらしいセットを必要とする。
街並みであり、路地裏の様子であり、屋敷であり店構えであり、部屋の調度品などである。
江戸時代の雰囲気がモノクロの画面によって上手く描かれていたと思う。
そして桜田門外の変と言えば雪であり、雪はモノクロ作品によく似合う。
桜田門外の乱闘シーンはなかなか見応えのあるシーンとなっている。
実際と違って水戸浪士が次々と死んでいく中で、架空の人物である新納鶴千代が相手を倒し続け、ついに大老井伊直弼の首をとる。
ところが僕はなぜか、井伊と鶴千代の何とむごい巡り合わせかという気持ちが全くわいてこなかった。
父親の名を教えてもらえず、差別を受けて育ってきた鶴千代ということは消え去っていて、何とも強い素浪人三船敏郎というイメージだけが残った。
三船は素浪人がよく似合う。

ザ・ファイター

2021-03-02 07:07:10 | 映画
「ザ・ファイター」 2010年  アメリカ


監督 デヴィッド・O・ラッセル
出演 マーク・ウォールバーグ
   クリスチャン・ベイル
   エイミー・アダムス
   メリッサ・レオ
   ジャック・マクギー
   メリッサ・マクミーキン

ストーリー
アメリカのマサチューセッツ州にある、低所得者の労働者階級が暮らす寂れた街であるローウェル。
そこに性格もファイティングスタイルも全く違うプロボクサーの兄弟がいた。
兄のディッキーは、かつては天才ボクサーとして注目されたもののドラッグで身を持ち崩してしまっている。
弟のミッキー・ウォードは、ボクシングの全てを兄から教わった。
だがミッキーは、兄とマネージャー役の母アリスの言いなりで、金のために彼らが組んだ明らかに不利なカードで敗戦を喫するなど不遇の日々を送っていた。
ある日、ミッキーはバーで働くシャーリーンと出会う。
そんな時、ディッキーが窃盗の現行犯で逮捕され監獄へ。
助けようとしたミッキーもボクサーにとって大事な手を痛めてしまう。
ミッキーは家族と決別、シャーリーンと共に新しい人生へと旅立つ決意をする。
スポーツ経験のある彼女の献身的なサポート、新トレーナーの訓練メニュー、そしてミッキーをスターボクサーにするための対戦カードが功を奏し、ミッキーのまさかの連勝が始まった。
だがたとえ刑務所の中にいても、兄は弟の専属トレーナーのつもりだった。
やがてミッキーの世界タイトルマッチへの挑戦が決定し、時を同じくしてディッキーが出所する。
当然のようにミッキーのトレーニングに参加しようとする兄だったが、弟は兄とはもう組まないと宣言。
激しく言い争う家族とシャーリーン・・・。


寸評
この映画は単なるボクサーのサクセス・ストーリーではない。
あえていえば兄弟愛、家族愛を描いた人間ドラマだった。
それも狂気の兄と、狂気の母親に囲まれた一家の家族愛を描いていたのが新鮮なシチュエーションで、単純なスポーツ映画となっていないのが魅力になっている。

ディッキーのクリスチャン・ベイルと母親役のメリッサ・レオが、利己的なのか、家族を思ってのことなのか、それとも自己満足のためなのか判別がつかないような行為を繰り返す強烈な個性をもった人間を演じていて、アカデミー賞の助演男優賞と助演女優賞を獲得したのも納得できる。
二人の存在がこの映画の面白さを支えていて2時間を一気に見せる。
前半は登場人物の設定に時間が割かれる。
常に中心的な存在で何事も指示しないと気が済まない母アリス。
兄は、ボクシングファンでもない僕も名前だけは知っているシュガー・レイ・レナードをダウンさせたことがあるという過去の栄光にしがみつきドラッグに溺れている。
より複雑な心理状況を生み出しているのが、それでもディッキーはその試合では勝てなかったことだ。
ミッキーはそんな二人にまったく頭が上がらないようなのだ。
母の子分のような姉妹たちは、大人なのか子供なのか分からないような傍若無人な振る舞いを見せる連中だが、その中で父親だけは母親に遠慮しながらも秘かにミッキーを応援しているが家族の中では弱い存在だ。
そんな家族関係が余談を排して鮮やかに描かれていて、中盤へのモノローグとしては巧みだ。

中盤はミッキーとシャーリーンが家族を遠ざけて再起を図るくだりが描かれる。
このシャーリーンも母と兄に勝るとも劣らない強烈な個性の持ち主で、決して彼等に負けないバトルを展開する。
誰か一人がヒーロー、ヒロインというのでなく、登場する人物はだれもが欠点を持つ、ある意味では不完全な人間として描かれている。
マネージャーの母親とトレーナーの兄がいてはだめだと、シャーリーン達が二人をミッキーから遠ざけるのを父親は了承しミッキーとシャーリーンをかばう。
どうせ文句を言われるのは自分なのだからと自虐的になっているのが可笑しい。
ディッキーは刑務所に入り、そこでテレビ局が制作した番組を他の囚人たちと見るのだが、それはディッキーが思っていた再起物語ではなく、薬物による転落物語になっていた。
父親の出ている番組を見たいというディッキーの息子に見なくていいと言う母親のアリス、ミッキーは別れた妻に娘にはその番組を見せないでくれと懇願するが、真実の叔父さんを見せたほうがいいと拒絶される。
子供達だけにはよい父親であってほしいという家族の思いがドタバタの中で描かれていた。

終盤は壮絶なボクシングシーンへとなだれ込んでいく。
ここからはボクサーとしての出世物語になるのだが、遠ざかっていた家族が再び団結する様がそれを補完する。
出所してきたディッキーを迎えるミッキーとシャーリーンの思いの違い、ミッキーに夢を託すディッキーの思いが交差してラストシーンへと誘う演出は巧みだ。 エンドロールの処理で、現在の彼らが登場するのも効果的だった。