おじさんの映画三昧

旧作を含めほぼ毎日映画を見ております。
それらの映画評(ほとんど感想文ですが)を掲載していきます。

グッドフェローズ

2021-01-16 11:06:01 | 映画
「グッドフェローズ」 1990年 アメリカ


監督 マーティン・スコセッシ
出演 レイ・リオッタ
   ロバート・デ・ニーロ
   ジョー・ペシ
   ロレイン・ブラッコ
   ポール・ソルヴィノ
   クリストファー・セロン

ストーリー
ヘンリー・ヒル(レイ・リオッタ)は少年時代からマフィアに憧れ、地元のボス、ポーリー(ポール・ソルヴィノ)のもとで下働きを始めたところ、ポーリーに認められて街で一番恐れられている男ジミー(ロバート・デ・ニーロ)を紹介してもらい、ジミーは弟分のトミー(ジョー・ペシ)とヘンリーを組ませる。
不法な売買で警察に捕まったヘンリーは、取り調べでも決して口を割らなかったことで、先輩マフィアから一人前の男として認められ、その時、この世界の掟が“仲間を売るな”“決して口を割るな”であることを学ぶ。
大人になったヘンリーとトミーは、ジミーの仕切りで空港貨物の強奪など規模の大きな仕事もするようになり、一人前のマフィアとして贅沢に暮らしていた。
ヘンリーはカレン(ロレイン・ブラッコ)と出会い、恋に落ちた2人は結婚する。
ある日、ヘンリーの愛人のことでカレンは激怒し、ヘンリーに銃口を向け、ヘンリーは家を出る。
カレンはポーリーやジミーに泣きつき、ヘンリーは帰るよう説得されカレンと寄りを戻す。
ヘンリーとジミーはフロリダで暴行事件を起こし、10年の実刑判決を受ける。
ヘンリーは刑務所内でポーリーの嫌う麻薬の売買を始め、カレンが運び屋をしていた。
4年で出所したヘンリーは金になる麻薬の売買を続け、ジミーとトミーも仲間に引き入れる。
そんな中、ケネディ空港からルフトハンザ貨物を強奪するという計画がジミーの仕切りで進んでいた・・・。


寸評
主人公のナレーションと軽快なロック音楽に乗ってテンポよく物語が展開されていくのが特徴となっている。
事件が前後している以外はほとんど実話ということなのだが、犯罪映画のように犯行を手際よく見せて爽快感を感じさせるという作りにはなっていない。
ケネディ空港からルフトハンザ貨物を強奪するという犯行では、実行手順と参加するメンバーの紹介がヘンリーのナレーションでなされるが、実際の犯行シーンは描かれず、彼らが喜ぶ姿を通して作戦の成功が知らされるだけである。
仕入れた麻薬を小分けする場面はあるが売りさばくシーンなどはなく、そこでうごめく輩の様子が描かれていく。
そのように犯罪そのものよりも、そこでうごめく人物に焦点を当て続けた作品で、「ゴッド・ファーザー」のようにマフィアを美化して物語を膨らませるような所も見受けられない。

レイ・リオッタのヘンリーも、ロバートデ・ニーロのジミーもいいが、抜群のキャラクターを演じたのはトミーのジョー・ペシで、この男の機関銃の様なしゃべくりと、カッときたら簡単に人を殺してしまう単純さと狂気がこの映画の雰囲気を支配していた。
レストランの従業員である若者を気分で殺してしまうなどは狂気の世界だ。
からかっているのか、本気なのか分からない異常な人物で、絶対に知り合いになりたくないタイプの人物である。

少年時代からマフィアに憧れていたヘンリーは“仲間を売るな”、“決して口を割るな”という掟を学び、一人前のマフィアに成長していきカレンと知り合う。
カレンはヘンリーの正体を知らないままに、特別待遇とぜいたくな暮らしに引き込まれていくのだが、彼らが初めてレストランで食事するシーンがいい。
レストランは大人気で、店の外は順番待ちの人々が列を作っている。
ヘンリーとカレンは裏口から入り、厨房の中をすり抜けながら店内に入ると、優先的に一番前に席を作ってもらう。
その間、ヘンリーは従業員にチップをはずみ続ける。
その様子をカメラがワンカットで追い続けるのだが、流れるような画面が彼等の世界におけるステータスを表していたし、カレンがヘンリーに参ってしまうのも納得できてしまういいシーンだった。

常に仲間と一緒にいて結束が固いのはイタリア系マフィアの特徴なのだろう。
大豪邸に住んでいるような所はないが贅沢な暮らしはしている。
運送会社の従業員や警官をワイロで自由にあやつり、金品強奪犯罪を繰り返しているのだが、ジミーの指導の下で目立つようなハデな暮らしを慎んでいる。
ところがとんでもない大金を得たことで、彼らが急に贅沢な買い物をするようになってしまう。
あぶく銭を手にするとこうなるのだという典型である。
ジミーは発覚を恐れて、結束はどうなったのだと思われるくらい仲間を次々と消していく。
追い込まれたヘンリーが“仲間を売るな”、“決して口を割るな”という掟を破る経緯が面白く描かれている。
司法取引で保護されたヘンリーは足を洗うが、その生活は刺激的な過去とは別物の、安全と引き換えの退屈なもので、ただ生き延びているだけというラストが余韻を残す。

グッド・シェパード

2021-01-15 10:02:48 | 映画
「グッド・シェパード」 2006年 アメリカ


監督 ロバート・デ・ニーロ
出演 マット・デイモン
   アンジェリーナ・ジョリー
   アレック・ボールドウィン
   タミー・ブランチャード
   ビリー・クラダップ
   ロバート・デ・ニーロ

ストーリー
1961年4月17日、アメリカの支援を受けた亡命キューバ人の部隊が、カストロ政権の転覆をもくろみピッグス湾に上陸するが、CIA内部の情報漏れによって作戦は失敗し、CIAは窮地に追い込まれた。
3日後、作戦の指揮を執ったベテラン諜報員エドワード(マット・デイモン)のもとに1本のテープが送られてくる。
録音されていたのは同封の写真の男女がベッドで交わした会話だった。
エドワードは、部下のレイ・ブロッコ(ジョン・タートゥーロ)を通じて技術部にテープと写真の分析を依頼した。
その結果が、自分と家族にどれほどの衝撃をもたらすかも知らずに・・・。

エドワードが諜報の道に足を踏み入れたのはイエール大学在学中のことだった。
時代は第二次世界大戦前夜。
エドワードは、FBI捜査官のサム・ミュラッハ(アレック・ボールドウィン)の接触を受け、親独派のフレデリックス教授(マイケル・ガンボン)の身辺を探る任務を頼まれ、教授を辞職に追い込んだ。
さらに彼は、先輩の紹介でサリヴァン将軍(ロバート・デ・ニーロ)と対面し、戦時中の諜報活動に参加して欲しいと誘われる。
自殺によって人生の幕を閉じた海軍高官の父の汚名を晴らすことを願っていたエドワードは、サリヴァンの申し出を引き受けた。
その当時、エドワードには、ローラ(タミー・ブランチャード)という恋人がいた。
彼女は耳が不自由だったが、明るく優しい女性で、エドワードはローラと共に歩む人生に多くの夢を馳せていた。
しかし、ディア島の集会の夜、エドワードは上院議員の娘クローバー(アンジェリーナ・ジョリー)と弾みでベッドイン。
クローバーが妊娠したことから、彼女と結婚する道を選ばざるをえなくなる。
その挙式当日にサリヴァン将軍の使者が出現し、海外赴任命令を受けたエドワードは1週間後、戦略事務局(OSS)の一因としてロンドンへ旅立った。
ロンドンで情報操作のノウハウを学ぶエドワード。
1946年、帰国したエドワードは、これまで電話でしか話したことのなかった息子と初めて顔を合わせた。
クローバーは、エドワードが不在の間に、寂しさのあまり一度だけ別の男性と付き合ったことを自らエドワードに告白。
過去を忘れ、改めて幸せな家庭を築きなおそうとエドワードに申し出る。
しかし、OSSの流れを汲んで作られたCIAで働き始めたエドワードは、家庭を顧みる暇もなく仕事に没頭。
秘密主義を貫く彼のせいで友達付き合いもままならなくなったクローバーはストレスをつのらせ酒に溺れていく。

1960年。エドワードは、自分と同じくイエール大学に進み、大学生活を送った息子から、CIAに入るという話を聞かされる。
息子だけはCIAと無縁の生活を送って欲しいと願っていたクローバーは「不採用になるように計らってくれ」とエドワードに懇願する。
そんな彼女と口論になったあげく、「君と結婚したのは子供が出来たからだ」と口走ってしまうエドワード。
その瞬間、20年に渡る二人の偽りの結婚生活は完全に終わりを告げた。
クローバーは去り、諜報員となった息子は海外へ赴任。
いまや一人になったエドワードにとっては、CIAの仲間だけが家族と呼べる存在だった。
とはいえ、ヒックス湾の失敗が内部の情報漏れによって引き起こされた以上、仲間と言えども信用することは出来ない。
エドワードと腹の探り合いを演じてきたソ連の諜報員スタス・シャンコ(オレグ・ステファン)こそが、今回のCIAの情報漏洩を仕組んだ黒幕であることが明白になる。
写真とテープの分析結果にもとづいてコンゴへ出向いたエドワードは、待ち構えていたシャンコと顔を会わせることとなる。
そこで明らかになった驚くべき事実。
エドワードは協力を求めるシャンコから、国を守るか、家族を守るかの二者択一を迫られることになる・・・。


寸評
総製作指揮に名を連ねるフラシス・フォード・コッポラがどこまで影響を及ぼしたのかは不明だが、ロバート・デ・ニーロの監督としての手腕も中々のものがあった。

オープニングはバックボーンとなるビデオのシーンから始まり、その真相を解明しようとする現在と、今日に至るまでのエドワードの過去が交差する形で進展してゆく。
サスペンスとしてみると、真相解明においては送られてきたビデオと写真に写っていた人物は一体誰なのかという事。
一方では今日のエドワードが如何にして出来上がってきたのかという事。
そのミステリアスな構成が良い。

妹の妊娠を告げ責任を取るように迫る兄の唇を読み、ぼう然と去るローラの海辺のシーンは、耳が聞こえなくて唇を読んで会話するローラの特性が伏線になっていて秀逸だった。
エドワードに理想の夫像を見出し、肉体関係を迫って結婚にこぎつけるまでのアンジェリーナ・ジョリーは野心ある積極的な女としてはまり役だったと思うが、結婚生活に疲れ果てていく段になると、ひ弱さを感じない分だけ、彼女が取り乱すシーンに少し違和感があった。

クローバーと再会するエピソードは添え物かなと思ってみていたが、送りつけられる盗み撮り写真が冒頭のビデオと写真を送りつけた人物と同じではないかと感じさせるので、けっして添え物などではなく感心させられたし、CIAなどという諜報機関にいると、寡黙で陰気で少し前かがみに歩くマット・デイモンが演じたエドワードのような人格になってしまうことが現実的で、ジェームス・ボンドは当然とはいえ活劇映画の中だけの存在なのだと再認識させられた。
映画においては情報漏えいだけが作戦の失敗原因の如く描かれているが、通説によればCIAが亡命キューバ人部隊には米軍が援護するかの如くいい、大統領には米軍は関与しなくても成功するとの二枚舌を使ったせいだとか、攻撃の時差を間違えた作戦ミスなどの複合原因となっている。
そして、この失敗に激怒したケネディ大統領がCIAを解体しようとして暗殺されたのだとする説もある。
それからすると、正に事実は小説よりも奇なりで、映画よりも恐ろしい背景があることになる。
エドワードが女性スパイを抹殺するくだりにその片鱗が垣間見えたが、この映画のテーマとしてはそちらに重きを置いていなかったようだ。
アレン長官が作戦に乗じて私服を肥やしていることなどが淡々と描かれると、かえってCIAという巨大組織の中では自然発生的に存在する腐敗の奥深さを想像させた。
タイムリーな事に、公開示においては日本の防衛省相手(守屋前次官)の接待疑惑が報じられていたので、軍事とか諜報とかの国家機密が存在する部署には腐敗が存在するものとの確信を持った。
それは奇しくもエドワードに接触してきたソ連のスパイ容疑者が口にする「あなたたちにとってはソ連が脅威でないと困る」という言葉が国家組織の本質を言い当てている。
国家及び指導者は国民の不満を外に向けるために巨大な敵という幻想を国民に植え付け、税金を軍需産業に注ぎ込む。
中国にそれを感じるし、アメリカにとってはその事が顕著なのだろう。
そして、それはソ連にとっても同様で、冷戦という作られた緊張の上に政権基盤を築いて来た筈だ。
ラストにおけるエドワードの暗い後姿はCIAという組織が抱えている底なしの腐敗の存在を見るようだった。

沓掛時次郎 遊侠一匹

2021-01-14 08:16:03 | 映画
「沓掛時次郎 遊侠一匹」 1966年 日本


監督 加藤泰
出演 中村錦之助 池内淳子 中村信二郎
   東千代之介 弓恵子 高松錦之助
   那須伸太朗 小山田良樹 松下次郎
   志賀勝 結城哲也 中村時之介
   阿部九州男 清川虹子 渥美清

ストーリー
街道を行く渡世人沓掛時次郎(中村錦之助)を身延の朝吉(渥美清)は兄のように慕っていた。
佐原の勘蔵一家に助ッ人として迎えられた二人だが、時次郎は喧嘩の当日、勘蔵の娘お葉(弓恵子)から草鞋銭をうけとると、朝吉を連れて勘蔵一家を後にした。
時次郎の行動に、納得のゆかぬ朝吉は、単身牛堀一家に乗り込み殺された。
時次郎の怒りは爆発し、牛堀一家を叩っ斬った時次郎は、鴻巣一家にわらじをぬぎ、助っ人を頼まれた。
相手は落ち目の中ノ川一家を守り抜く代貸の六ツ田の三蔵(東千代之介)であった。
勝運は時次郎にあり、三蔵は死にぎわ時次郎に女房おきぬ(池内淳子)と太郎吉(中村信二郎)の二人を、伯父のもとに届けてくれるよう頼んで息をひきとった。
時次郎はおきぬに自分が三蔵を殺したことを打明け三人の苦難の道中が始まった。
おきぬも憎みながらもいつか時次郎のやさしさにひかれ、時次郎も秘かに愛の炎を燃やした。
だがそのうち、おきぬは過労から労咳で倒れ、時次郎は金をつくるため馴れぬ仕事に精を出した。
やがて病も癒えおきぬ母子が沓掛の叔父のもとへ旅立つ日が来た。
だが旅立ちの日、親子の姿はどこへともなく消えていた。
そして一年が過ぎ、時次郎ははからずも高崎宿でかど付けをする母子に再会した。
複雑な気持のおきぬは雪の上に倒れ、時次郎は薬代をかせぐため、土地の八丁徳一家と聖天一家の喧嘩を聞き助っ人を買って出た。
医者に行くといつわって出る時次郎を送るおきぬには、死相がただよっていた。
時次郎の働きで八丁徳一家は勝利を治めた。
金を手におきぬのもとへかけつけた時次郎は、おきぬの美しい死顔に息をのんだ。
残された太郎吉をつれ、時次郎は故郷の沓掛へ向った。


寸評
冒頭で身延の朝吉が時次郎に代わって彼の仁義を述べるシーンがあるが、渥美清のこのタンカは小気味がよい。後年のフーテンの寅さんの口上を彷彿させる。
ヤクザ渡世の不条理さや、それによって死んでいく男たちのエピソードは小気味良く、六ツ田の三蔵との果し合いぐらいまではそのことがテンポよく進む。
時次郎が渡し舟で渡される柿の実は、その後に起きるおきぬへの慕情の伏線となっていたと思うし、二つに割ったクシが三蔵とおきぬ、時次郎とオキヌという三人の気持ちのつながり、苦しみを表す小道具として効果を上げていた。
画面を青くしたり、真っ赤な血でスクリーンを覆うなど色彩効果を狙ったりしているが、もう少し時次郎とおきぬの情愛の盛り上がりが欲しかった。

おきぬへの思慕の情を持ちながらも、三蔵との約束に苦しむ時次郎。
三蔵を弔いながらも徐々に時次郎に情を移していくおきぬ。
両者の葛藤の様なものがもっと深く描かれていたら大傑作になっていたかもしれない。
おきぬが時次郎のもとを去る場面などはもっと盛り上がってもいい見せ場だったように思う。
それでも、死を悟ったおきぬが綺麗な顔を見せたいと紅を引くシーンなどは、エピソードとして股旅映画へ感情移入させるに足りていた。
時次郎が高崎宿の女将相手に独白するシーンなどは、股旅映画だからこそ描けるシーンで、他のジャンルなら白けてしまうと思う。

登場するヤクザ者たちは弓恵子演じるお葉を初め、誰もかれもが打算的である。
一方で、清川虹子演じる安宿の女将の様な気のいい庶民が描かれ、やくざ者の非道ぶりが浮き出されるような構成になっていたように思う。
もっとも、なぜその女将がそれほどまでに時次郎に肩入れしているのかは不明だったが。

加藤泰の演出はローアングルを多用して、あたかも市井に生きる小市民を仰ぎ見るような効果をもたらしていたと思う。
もっとも、ローアングルは加藤泰の代名詞の様な所もあるけれど、小津安二郎の様な評価を受けていないのは可哀想だな。
時代劇の中に股旅映画というジャンルが有るように思うのだが、その股旅映画の中では上位にランクされる作品に仕上がっていると思う。
加藤泰の手堅い演出が光る。

中村錦之助と東千代之介は笛吹童子のジャリタレから成長していった役者だけれど、中村錦之助が性格俳優としての地位を駆け上がっていくのに対し、東千代之介はもうひとつ役柄に恵まれなかったなあ。ここの六ツ田の三蔵は良かったのだがなあ・・・。主演を張る役者ではなかったということなのかなあ。でも僕にとって思い出に残る俳優さんであることは間違いない。

沓掛時次郎

2021-01-13 08:14:21 | 映画
「沓掛時次郎」 1961年 日本


監督 池広一夫
出演 市川雷蔵 新珠三千代 杉村春子
   島田竜三 青木しげる 稲葉義男
   志村喬 千葉敏郎 須賀不二夫
   清水元 村上不二夫 橋幸夫

ストーリー
信州沓掛生れの時次郎(市川雷蔵)は渡世の義理から、六ツ田の三蔵(島田竜三)に一太刀浴びせるが、三蔵の女房おきぬ(新珠三千代)への溜田の助五郎(須賀不二男)の横恋慕の果てと知って、逆に助五郎らに立ち向かったところ、卑怯な助五郎らは深傷の三蔵を斬って逃げた。
三蔵は苦しい息の下から女房おきぬと伜太郎吉(青木しげる)を時次郎に託した。
時次郎は二人を連れて、熊谷宿まで逃げのびるが、おきぬはそこで病いに倒れた。
人のいい旅籠桔梗屋の女将おろく(杉村春子)は何かと面倒をみてくれた。
医者玄庵(清水元)の診察でおきぬは身重であることが分った。
時次郎は、おきぬの父親源右衛門(荒木忍)が足利在にいると知って、足利在に源右衛門を訪ねておきぬ母子の苦衷を訴えたが、親を捨ててやくざと一緒になった不幸者に用事はないと冷たく突っ放されてしまった。
おきぬの病気回復をまって時次郎とおきぬは門付けを始めた。
助五郎のふれ書で時次郎のことを知った、助五郎の兄弟分聖天の権蔵(稲葉義男)は、時次郎の留守を狙って太郎吉を人質にさらおうとしたが、これを救ったのは熊谷宿の貸元八丁畷の徳兵衛(志村喬)だった。
かねてから、八丁畷の縄張を狙っていた聖天の権蔵は助五郎に通報し、八丁徳へ喧嘩状を叩きつけた。
その頃、おきぬは再び病いに倒れた。
時次郎は八丁徳の助っ人を買って出、その助ッ人料の十両をおろくの手に渡して修羅場へ向った。
その頃、助五郎らは、聖天の用心棒赤田(千葉敏郎)を道案内に桔梗屋を襲っていた。
気丈に太郎吉をかばうおきぬに赤田の当身が飛んだ。
悶絶したおきぬを拉致しようとした時、権蔵を斬った時次郎が飛びこんできた。
太郎吉をひさしって時次郎は助五郎、赤田を斬り倒していった。
悶絶したおきぬは再び目を開かなかった・・・。


寸評
池広一夫はプログラムピクチャと呼ばれる量産体制の作品を数多く世に送り出した監督であるが、その礎を作ったのはおそらくこの作品であっただろう。
娯楽作品として上手い具合にまとまっていると思う。
股旅物とは各地を渡り歩く博徒を主人公とした時代劇だが、その意味で「沓掛時次郎」は典型的な股旅物だ。
映画が始まり大映マークが出た後で、時次郎らしき渡世人の姿がシルエットで浮かび上がる。
いきなり撮影の宮川一夫を思わせる美しいショットで、タイトルが表示された時にはすっかり股旅映画に浸っている出だしと言っていい。
作品中で山里の小道を歩いている時などの流れる橋幸夫の歌声がプログラムピクチャ作品らしい雰囲気をだして、どこか懐かしさを覚えるのは歌い手が橋幸夫というナツメロ歌手のせいだけではない。
市川雷蔵はその顔立ちからニヒルな役がよく似合う俳優で、この作品でも渡世人の掟に縛られながら生きる、愁いを秘めた男でありながら、時折見せる優しいまなざしで温かみを感じさせる人物像としている。
時次郎は一宿一飯の義理から六ツ田の三蔵を襲うが、手傷を負わしただけで義理は果たしたと見逃がしている。
また八丁徳から助太刀を頼まれ10両をもらう場面では「本来なら受け取れる義理ではないのだが、よんどころない事情があるので」と断って受け取っている。
そのように、形を変えながら渡世人の掟とやらが随所で描かれていて、それが物語のアクセントになっている。

時次郎とおきぬはお互いに好きになってはいけない相手である。
それをわかっていながら思いを募らせていく切ない感情表現がもう少し描かれていたら傑作の呼び声を得ることが出来た作品だと思う。
「沓掛時次郎」は股旅物に名を借りた悲恋物語でもあるのだ。
おきぬは夫の仇である時次郎に殺意を抱いていたが、やがて時次郎の覚悟を知って離れながらもついていく。
子供の太郎吉は時次郎と手をつないで歩いたり親しく旅しているが、おきぬ少し離れた後ろからその姿を見ながらの逃避行である。
おきぬが並んで歩かないのは、まだ時次郎を心底許していないからである。
病気を契機とし、時次郎の献身的な看病もあって、おきぬは時次郎との距離を縮めていく。
しかしおきぬの衰弱の原因が、六ツ田の三蔵との間に出来たお腹の子にあると分かった時の時次郎の複雑な表情は、時次郎もおきぬに対する気持ちが芽生えていたことを暗示するもので、印象的なシーンとなっている。

聖天の権蔵と助五郎が八丁徳の出入りに向かう場面のカットの積み重ねはスピーディで、アップのカメラアングルもいいし、喧嘩前の緊迫感を一気に盛り上げていて、僕はこのようなカット割りは好きだなあ~。
赤田の当身を受けおきぬは絶命するが、居合わせた助五郎はそれを黙って見ている。
元はと言えば助五郎のおきぬへの横恋慕から生じた出来事なのに、その女の死を黙ってい見ているというのはこの時点で助五郎の意識はおきぬへの思いよりも、時次郎への恨みという男の意地が勝っていたということなのだろうか。
ラストシーンと言い、股旅物は山村の細い曲道のロングショットがよく似合うなあと思った。

クィーン

2021-01-12 10:17:42 | 映画
「クィーン」 2006年 イギリス / フランス / イタリア

   
監督 スティーヴン・フリアーズ    
出演 ヘレン・ミレン
   マイケル・シーン
   ジェームズ・クロムウェル
   シルヴィア・シムズ
   アレックス・ジェニングス
   ヘレン・マックロリー

ストーリー  
1997年5月、イギリス総選挙当日に首相候補のトニー・ブレアが投票所に一番乗りしている頃、王室ではエリザベス女王は選挙権がないことを嘆いていた。
投票してみたいというのが女王の叶わぬ願いだった。
翌朝、女王は目覚めとともにブレアが大勝利を収めたことを知る。
1997年8月30日深夜、パリの大使館からダイアナが交通事故に遭い集中治療室に運ばれたというったと連絡が入る。
その知らせは、ブレアはもちろん、ロイヤルファミリーにも伝えられた。
チャールズ皇太子は、王室機でパリに向かおうとするが、女王は「王室の浪費と国民から非難される」として王室機の使用を禁止する。
そして8月31日の早朝、ロイヤルファミリーにダイアナ死亡が知らされる。
女王からの公式声明がない中、バッキンガム宮殿は悲しみに暮れる国民が集まり、多くの花が手向けられる。
悲しみに暮れる英国国民の関心は、かねてから不仲が取り沙汰されたエリザベス女王へと向けられる。
マスコミの見世物になりたくない女王は、ダイアナがすでに王室を離れ一民間人となっているので、生家の意見を尊重して内輪の葬儀で済ませると言い放つのだった。
9月1日、月曜日。バッキンガム宮殿では、ダイアナの葬儀について会合が行われ、6日後の日曜日に国葬を行う方向で話が固まった。
女王は、派手な内容に呆れるとともに、アトラクションのような国葬を本当にイギリス国民が望んでいるのか疑問に思い、国民の考えていることが理解できないでいた。
マスコミは自分たちの責任の追及をかわすため、王室のバッシングをエスカレートさせていく。
口を閉ざし続ける女王の態度は、国民の目には薄情としか映らず、女王はたちまち窮地に立たされてしまう。
国民の思わぬ反応に一番動揺しているのは女王自身だった。
首相に就任したばかりの若きトニー・ブレアは、国民と女王の間に立ち、事態の収拾に乗り出す。
女王には、これ以上避けることのできない問題への決断が迫っていた…。


寸評
この映画の面白さって、やはり現存している実在の人々が登場することだろう。
実名で登場する人々が喜劇とも思えるような会話劇を繰り広げて大いに楽しませてくれる。
皇太后の毒舌ぶりなどはユーモアにあふれていた。
労働者たる国民の代表ながら王室の伝統にも配慮するトニー・ブレアが映画の中ではずいぶんとヒーロ的で、一見すると王室を救うために奮闘する首相の美談話にさえ見える。
ダイアナ元王妃の死亡に不明な点が多く陰謀説まである中で、単なる自動車事故死と公式発表されたことに対する告発映画という様相は一切ない。
あくまでも、国民と王室の間で板ばさみとなり、激しく葛藤するエリザベス女王の姿が描かれている。
ハンターに殺された鹿に自分を投影するエピソードなどがその苦悩を象徴し映画の深みを醸し出していた。
皇室を抱える日本人として、王室という閉ざされた世界でのやり取りが興味を引いたのだと思う。
王室機の使用を禁止した女王が、チャールズ皇太子から「将来のイギリス国王となる母親の死体を王室機で連れ戻すことが浪費なのか」と詰め寄られしぶしぶ承諾する。
あるいはトニー・ブレア首相が何度も女王に会って、伝統より国民への対応をと説得するが彼女はなかなか首を振らない経緯。
それらが「あんた、見てたのか」と突っ込みを入れたくなるぐらい本当らしく描かれているので引き込まれてしまう。
スティーヴン・フリアーズ監督の演出が当時のニュース画像などを取り入れてオーソドックスで手堅いことも本当らしさに貢献している。
夫であるフィリップ殿下ってどんな立場の方なのだろうと思っていたが、結構主張しているのだと思うと微笑ましかった。
女王の行動基準は「伝統を守る!」という一点なのだが、そのためにはどうすればいいのか、どうしたら王室を守れるのかと揺れ動く複雑なその胸の内を繊細な演技でみせたヘレン・ミレンの主演女優賞もうなづける。

それにしても、ここまで自由に王室と現存の人々を自由に描くイギリスって、やっぱり日本とは違うんだなあ~と言うのが一番の感想だ。
同じように民間人から皇室入りした美智子上皇后と皇室の確執なんて絶対に映画化されないだろうと思うし、もちろん雅子皇后に起きていたことも…

グーグーだって猫である

2021-01-11 08:31:50 | 映画
2019年4月23日が「く」の第1弾でした。
本日より追加掲載です。

「グーグーだって猫である」 2008 日本


監督 犬童一心
出演 小泉今日子 上野樹里 加瀬亮 大島美幸
   村上知子 黒沢かずこ 林直次郎 伊阪達也
   高部あい 柳英里紗 田中哲司 村上大樹
   でんでん 山本浩司 楳図かずお 高梨
   小林亜星 松原智恵子

ストーリー
吉祥寺に住む天才漫画家の小島麻子(小泉今日子)。
締め切りに追われ、徹夜で漫画を描き上げた翌朝、長年連れ添った愛猫のサバが亡くなる。
サバを失った悲しみは大きく、麻子は漫画を描けなくなってしまう。
ある日、麻子はペットショップで一匹の小さなアメリカンショートヘアーと出会う。
彼女はその猫を連れ帰りグーグーと名づけ、これをきっかけに状況が好転。
グーグーはアシスタントのナオミ(上野樹里)達にも可愛がられ、麻子に元気な表情が戻ってくる。
そんなある日、避妊手術に連れて行く途中でグーグーが逃げ出してしまう。
必死で探す麻子の前にグーグーを連れて現れたのは沢村青自(加瀬亮)。
彼の姿に思わず見とれてしまった麻子は、今まで忘れていた気持ちを蘇らせる。
後日、ナオミの彼氏マモル(林直次郎)のライブにアシスタント達と出かけた麻子は、そこで青自と再会。
ライブ後の打ち上げで、気を利かせたナオミは麻子と青自を二人きりにする。
これをきっかけに青自は麻子の家を訪れるようになる。
幸せな日々が続く中、新作のアイデアを思いつき、麻子は半年振りにペンを取る。
生き生きとした表情で語る彼女の姿に、ナオミも喜びの表情を隠せなかった。
グーグーが来てからすべてが順調に回りだしていたが、ある時新作の取材中に麻子が突然倒れる。
病院に運ばれ事なきを得るが、数日後、麻子はナオミの家を訪れグーグーを預かってほしいと頼む。
二つ返事でOKするナオミに、麻子は衝撃の告白をする。
彼女は卵巣ガンを患っていたのだった……。


寸評
僕のような大阪の田舎者にとっては吉祥寺と聞くだけでイメージが膨らんでしまい、井の頭公園のあるとてもおしゃれな街を想像してしまう。
学生が集う若者の町というイメージもある。
麻子先生はその街に暮している漫画家だが、ナオミ、加奈子、咲江、美智子という若いアシスタントが先生を慕う取り巻きとして青春を謳歌している。
麻子先生のゆったりとした話し方と対応するようにアシスタントたちは賑やかだ。
タイトルだけ聞くと、全編に猫ちゃんのカワイさがあふれた猫が主人公のような映画に思えるが、もっと色々な要素が詰まった映画となっている。
麻子先生と子猫との関係を軸にしつつも、彼女の繊細な心理を写し取り、アシスタントの女の子などの人間模様も描いている。
さらには吉祥寺の魅力を紹介しながら、物語の背景としての吉祥寺を存分に描いて、まるで街の紹介ビデオの様でもあり、首都圏以外の者にとっては訪ねてみたくなる雰囲気をだしていた。
そんな街をグーグーが闊歩して楽しませてくれる。
雌猫を追っかけ廻すシーンなどは思わず笑ってしまう。

麻子先生は異性に対して積極的になれない。
自ら壁を作っている風でもあり、母親が電話をかけてきた時の様子に噴き出してしまった。
かつては告白されたこともあるようだし、その時は好きだったはずなのに上手く伝えられなくて結ばれなかった。
いまも清自といい雰囲気になりながらも、思わず身を背けてしまうのだ。
そんな麻子先生なのでアシスタントたちはヤキモキする。
人を気にするだけでなく、当のナオミも彼氏と浮気相手の女の子を追いかけまわすコミカルな事もやらかす。
青春物語絶好調といったシーンなのだが、そこでこの作品の転機となる事件が起きる。

ここからは人生の大きな岐路に差しかかった麻子の微妙な心理が繊細に描きこまれていく。
麻子はグーグーの引き取り手としてナオミに白羽の矢を立てるが、ナオミも自分の人生における新しい一歩を踏み出そうとしていた。
ナオミは今できることをやるべきだと公園で絶叫するが、若者はいつか自分の力で進むべき道を見出さなくてはならないのだ。
最初飼っていた猫の名前は「サバ」と言い、フランス語で「元気?」という意味とのことである。
生と死の狭間に立つ主人公を暗示していたのかも知れない。
麻子先生は思わぬ形で「サバ」と再会し、穏やかで美しい対話を行う。
ペットに癒されていた麻子先生だが、ペットの猫も幸せだったことを知る。
自分一人だけ幸せなんてないのだ。
そして命を大切にして先立つ人を見送る幸せを悟る。
主人公を演じた小泉今日子に加え、アシスタント役の上野樹里、森三中の3人が好演していた。
もちろん動物映画なので猫ちゃんが可愛らしさを振りまいている。

銀座の恋の物語

2021-01-10 08:42:27 | 映画
「銀座の恋の物語」 1962年 日本


監督 蔵原惟繕
出演 石原裕次郎 浅丘ルリ子 ジェリー藤尾 江利チエミ
   和泉雅子 清水将夫 深江章喜 清川虹子 高品格
   河上信夫 三崎千恵子 南風洋子 牧村旬子

ストーリー
伴次郎(石原裕次郎 )はジャズ喫茶のピアノひきの宮本(ジェリー藤尾 )と一つ部屋を仕切って同居する絵かきで、「銀座屋」の針子秋山久子(浅丘ルリ子 )と愛しあっていた。
次郎と宮本は苦しい生活の中で助けあう仲で、次郎は久子の肖像画作成に没頭した。
一方宮本はバーテンたちの企みで、クラブをクビになってしまった。
次郎は久子と結婚するために信州の母のところへいくことになった。
田舎いきのため、次郎は今まで売ろうとしなかった久子の肖像画を画商の春山(清水将夫)に売り払った。
出発の日、新宿駅へ向かった久子は、横からとびだした車にはねられてしまった。
久子は事故現場から姿を消したままで、次郎にはやけ酒の日が続いた。
ある日宮本のピアノをひきあげにきた月賦屋を次郎と宮本は悪酔いが手伝って殴り、留置所にいれられた。
次郎と宮本が釈放されて帰ってみると、二人の家は消えてなくなり、「銀座屋建築用地」の立札。
宮本は憤り、次郎のとめるのもきかず、何処かへきえ去った。
幾週かがすぎ次郎は久し振りで宮本にあったが、彼は豪華なアパートに住み、久子の肖像画をもっていた。
宮本の部屋からでた次郎はデパートに流れる久子の声を耳にしたが、久子は記憶喪失症になっていた。
次郎は久子の記憶回復につとめ、二人の記憶がつながる肖像画を買いとりに、宮本の所へ行ったが彼は絵を手ばなさないといった。
その時電話がなり、宮本は蒼然と外へとび出していった。
彼は偽スコッチ製造の主犯だった。
宮本はひそかに久子をおとずれ、例の肖像画をおいて、そそくさとでていった。
数日後、春山堂で次郎の個展がひらかれ、“銀座の恋の物語”のメロディに久子の記憶は回復した。


寸評
カラオケなどで定番のデュエット曲として愛唱されている「銀座の恋の物語」は1961年の1月に公開された裕次郎主演の「街から街へつむじ風」の挿入歌として使用されて大ヒット曲となったものである。
本作で共演した浅丘ルリ子とのデュエットもあるが、本来はこの作品でジェリー藤尾の恋人であった樹理役の牧村旬子とのデュエット曲である。
このテーマ曲が効果的に使われていて、耳に馴染んでいる人にとってはメロディの一部が流れるだけでつい口ずさんでしまいそうになる。
古典的な和製恋愛映画と言えるが、プログラムピクチャとして撮られた割にはしっかりとした脚本だ。

主人公が画家を目指す青年とあって、浅丘ルリ子を描いた肖像画が重要な役割を担っている。
記憶喪失になった浅丘ルリ子が、記憶を取り戻すための小道具の一つとして描かれてもいるが、浅丘ルリ子が記憶喪失になる前に恋人のためにその絵の額縁を買い、石原裕次郎は恋人のためにその絵を売ってハンドバッグを買うというシーンを通じて、二人がそれぞれを想う気持ちを描写しつつ、小道具としての肖像画の重要性を観客に伝える役目を果たしている。
さらには冒頭で宮本の彼女である牧村旬子が部屋を訪れた時に「どうしてこの絵、額縁に入れないの?」とつぶやかせている念の入れようである。
そんな伏線はいたるところに張られていて、壊れたピアノの使い方も堂に入ったものだ。
後半に入って浅丘ルリ子の記憶喪失に焦点が当たってくると、小道具としてのピアノや肖像画、そして主題歌が輝きを増してきて、僕たちはムード歌謡の世界に引き込まれていく。

浅丘ルリ子が記憶を取り戻すのも、昔の劇的な出来事に巡り合ってすべてを思い出すといった単純なものではなく、二重にも三重にもひねりを聞かせている。
劇場のライトを浴びて交通事故を思い出すとか、肖像画で記憶を取り戻すとかになってもおかしくないが、それを最後まで引っ張っていき、観客をじらし続ける感があるのも効果的なものとなっている。
したがって、あるきっかけで記憶を取り戻す1分弱のサスペンス性は感動的だ。
二人がヒシと抱き合う感動的場面に、眼鏡をかけた道化役的な和泉雅子や清川虹子のお松さんでなくても思わず「ああ、よかった」と思ってしまう。
ラストシーンで二人が闊歩する銀座のショットも素晴らしいけれど、冒頭でのタイトルバックの人力車のショットも「無法松の一生」ほどではないが、なかなかいいシーンとなっている。
星ナオミの芸者を乗せて夜の銀座を走り抜ける石原裕次郎の姿は、この青年の性格描写を一瞬のうちに描いていたとは思うのだが、この人力車のアルバイトがまったく意味を持っていなかったのはおしい。
ラストシーンで、代わってあげたおじさんが二人を見つめるだけではちょっと寂しい気がした。

外国人とのハーフと思われるジェリー藤尾がいい味を出し、金がすべてと音楽家の道を諦めた自分への嫌悪感と、純粋な気持ちを持ち続ける石原裕次郎への嫉妬をうまく表現していた。
屋上でトランペットを吹く小島忠夫の青年をシルエット的に描くことで、夢を追うことの素晴らしさを強調していた。
裕次郎や牧村旬子の歌声は当然だが、婦人警官役として江利チエミの歌声が聞けるのも嬉しい。

キング・コング

2021-01-09 15:23:32 | 映画
「キング・コング」 2005年 ニュージーランド / アメリカ


監督 ピーター・ジャクソン
出演 ナオミ・ワッツ
   エイドリアン・ブロディ
   ジャック・ブラック
   トーマス・クレッチマン
   コリン・ハンクス
   ジェイミー・ベル

ストーリー
1933年、大恐慌時代のニューヨーク。
売れない女優のアン・ダロウは芝居小屋が突然閉鎖になり路頭に迷う。
そんな彼女を救ったのは、出資者から見離された映画監督カール・デナム。
彼は幻の島へ行って冒険映画を撮ることに賭けていた。
最初は彼の誘いに抵抗を感じたアンだが、脚本が憧れのジャック・ドリスコルのものだと知り、承諾。
こうしてデナムは、助手のプレストンに命じ、主演男優のブルース・バクスターらスタッフと機材を3時間足らずで船に乗せ、急いで大西洋へと出航してき、唯一、本当の目的地をデナムから聞いていたエングルホーン船長は、危険を承知で南インド洋の海域に近づいていった。
そしてデナムが探し求めていた髑髏島に辿り着いた。
上陸したクルーは、原住民たちの攻撃に遭って数名が命を落とす。
まもなく彼らにアンがさらわれ、巨大な野獣、キング・コングがアンを奪い去る。
アンを追ってジャングルの奥地に進むクルーだが、恐竜や未知の生物に襲われ、次々と命を落としていく。
一方、アンはコングと心を通わせるようになっていた。
やがてジャックが、アンを連れ戻すことに成功。
怒ったコングを、デナムは生け捕りにしてしまう。
数か月後、コングはブロードウェイで人間たちの見世物にされていた。
その最中に怒り出したコングは、拘束具を破壊してニューヨークで暴れ出す。


寸評
僕はこの映画は3部構成になっていたと思う。
それぞれ一時間ばかりを費やして描いて、都合3時間8分の長尺になっている。
第一部と思われるのは1930年代の不況の世の中を丁寧に説明しながら、映画のロケに出発するまでを描いていた部分。
1929年が世界恐慌だから、まさに不況の中で、町では浮浪者がいて炊き出しが行われている。
街に流れるのはアル・ジョルスンの能天気な歌声だけど、戦後日本の「りんごの歌」のような希望はまだ見えない。
人々は日々の生活さえままならなくて、劇場に通う客足も遠のいて劇場封鎖で喜劇女優のアン・ダロウは職を失い、それがやがてコングの住む髑髏島への航海となっていく。この辺りの展開は丁寧に描かれているので説得力がある。
映画製作者デナムの山師的な行動や言動も違和感なく物語を進める役割を十分にこなしていたと思う。

さて、第二部の部分になると第一部のリアリズムから一転して空想の世界になる。
コングの登場も含めて、島に住む巨大生物と、撮影隊との死闘が繰り広げられる。
巨大生物は今もいるゴリラや、かつてはいた恐竜だったり、いそぎんちゃくのオバケの様な空想の生物だったりする。
僕はこの怪獣たちとのバトルは少し食傷気味だった。
恐竜との追っかけっこや、変な虫との格闘などが仮想なのだと言う感覚を強くしてしまって興ざめしたのだ。
ただ、コングがアンを守り、そして自らは傷つきながらも恐竜と戦うシーンは引き込まれた。
身を犠牲にしてもアンをかばい続ける格闘に感動すら覚えて、コングのアンに寄せる愛情がよく現わされていたと思う。

第三部に当たる部分は最終章で、コングがニューヨークに連れてこられて見世物となり、再び暴れだしビルから転落して死ぬまでを描いている。
コングを見世物にしか出来なかった人間のエゴと淋しさや空しさなどがもう少し出ていたらなとは思ったが、ビルのてっぺんからコングとアンが見る夕陽のシーンがしんみりさせた。
あれは、二人(?)が髑髏島の岩山の崖っぷちで見た夕陽とつながって感傷的になった。
なぜコングは逃げようの無いビルに登ったのか?所詮は動物の浅はかさなどではなく、コングはあの髑髏島で夕陽を見た至福の時を今一度味わいたかったのではないかと思う。
コングの見せた優しそうな眼差しが脳裏に残る。予想に反して、真面目に作られた三角関係の恋愛映画だった。

余談ではあるが僕が解説や評論、感想の類を色々とネットサーフィンしていて、ちょっとくすぐられるエピソードを知った。
それは、女優探しに奔走するデナムが次々に女優の名をリストアップする中で、「フェイ・レイはどうだ?」「彼女はRKOで新作の撮影中です」「そうか。監督はクーパーだったな」という会話があって、実はフェイ・レイはオリジナル版『キング・コング』の主演女優で、RKOは製作会社、クーパーはその監督だと言うことを知ったわけだが、この映画ファンのための楽屋オチはやはり先輩映画ファンの特権だったのだと羨ましかった。

疑惑の影

2021-01-08 08:12:55 | 映画
「疑惑の影」 1942年 アメリカ


監督 アルフレッド・ヒッチコック
出演 テレサ・ライト
   ジョセフ・コットン
   マクドナルド・ケリー
   パトリシア・コリンジ
   ヘンリー・トラヴァース
   ウォーレス・フォード

ストーリー
カリフォルニア州サンタ・ローザの町に住むニュートン一家は平和な生活を続けていたが、長女のチャーリーは家庭を生々としたものにするため、母の弟のチャーリー叔父に来てもらいたいと思っていた。
当のチャーリー叔父はある犯罪のため身に迫る危険を知ってカリフォルニア州へ高飛びして、偶然にもニュートン一家に仮寓することになった。
ある日、ジャック・グラハムとサンダースという二人の男がニュートン家を訪れて来た。
彼等は政府の調査員とのふれこみだったがチャーリー叔父は彼等が探偵であることを見破り避けていた。
ところがうっかりしたところを写真に撮られたので怒ってフィルムを奪ったが、そのただならぬ様子に傍らにいたチャーリーは怪しんだ。
その夜チャーリーはジャックから、叔父をある殺人事件の容疑者としてその確証を握りに東部の警察から派遣されて来たのだと言われ協力を求められたが、叔父を信用しているチャーリーは彼の申し出を固く断った。
だが叔父が破り棄てた新聞の記事にも疑いを持った彼女は、早速図書館へ行き新聞の綴込みを調べると、金持ちの未亡人を次々に殺害して金を奪った犯人が西部へ逃亡した形跡があり、目下探索中であると書かれてあり、そして最後の被害者の名前が、叔父から土産にもらった指輪の裏に刻まれている頭文と符合しているので、もはや叔父の犯罪を認めないではいられなかった。
チャーリーは家族の名誉を守るために、叔父が捕縛される前に家から出そうと決心した。
叔父に対して自分が総てを知っていると匂わせたり、証拠となるべき指輪を示して退去を迫ったが、叔父は平気な顔で滞在を続けるのであった。


寸評
アルフレッド・ヒッチコックの演出が良いのか、それとも ソーントン・ワイルダー 、 サリー・ベンソン 、 アルマ・レヴィルによる脚本が素晴らしいのか、家族描写もまとまっていてヒッチコック作品としても上の部に入る作品だ。
始まりはダウンタウンの下宿屋で、ジョセフ・コットン扮するアンクル・チャーリーが描写される。
どうやら警察に追われているような雰囲気で、いら立ちを隠せずグラスを叩きつけるショットが入る。
冒頭のこのシーンでアンクル・チャーリーは何か犯罪を犯しているのだと分かる仕掛けとなっている。
したがって観客は、ジョセフ・コットンがどのように紳士ぶろうとも、それは取り繕っているもので、本当は警察に追われる身なのだと分かって見ていることになる。
興味はどのようにして姪のチャーリーが、大好きなチャーリー叔父さんの悪事を知るか、また知った時に二人の間に何が起きるのかになっていく。
駅まで家族そろって叔父さんを迎えに来るのだが、出発するときには静かに出て行った汽車が、チャーリーが待つ駅に着いた時にはもうもうと黒煙を上げて入線してくるので、これはこれから起きる災いを暗示している細かい演出だと思うし、それを補足するように、病を装ったアンクル・チャーリーが、彼らを見つけるや颯爽と歩きだすという不自然な行動をとらせている。
最初からアンクル・チャーリーは犯罪者なのだと分かっているので、彼のとる行動はすべてが怪しいものである。
多くの作品では、チャーリーに好かれている感じの良い叔父さんがなぜそんな不可解な行動をするのかに関心を持たせるのだが、ここではアンクル・チャーリーの不可解な行動を観客が楽しむ作りになっている。

映画は家族が気付かないアンクル・チャーリー不可解な行動を次々と描いていく。
アンクル・チャーリーはお土産としてチャーリーには指輪を贈るのだが、この指輪は上手く使われている。
この時ワルツが流れていて、この作品では所々でワルツを踊るイメージが挿入されている。
母親も口ずさむこの曲は「メリー・ウィドウ」というものらしいのだが、僕は知らなかった。
しかしこの曲名を知っていれば、プラスアルファでこの映画を楽しめただろうにと思う。
日本語に訳すと「陽気な未亡人」ということで、アンクル・チャーリーが起こした事件名でもあるのだ。
食事の後の席でハミングするメロディーは何の歌?と話題になtったところで、話をそらすためにアンクル・チャーリーがグラスを倒すのだが、この時のクローズアップショットは印象的なのだが、上記の理由で僕はその行動の意味が理解できなかった(残念)。
その他、新聞記事にまつわるエピソードなども盛り込まれて、チャーリーの疑惑がどんどん深まっていく。
この映画は大好きだったアンクル・チャーリーに疑いを持ち出すチャーリーの変化を楽しむように撮られている。
アンクル・チャーリーは銀行に預金に行き、皆に聞こえるように銀行内で嫌味を連発するのだが、そこに未亡人のポッター夫人が登場し、アンクル・チャーリーはお世辞を言って未亡人キラーぶりを発揮する。
これなども彼の犯罪を補完する細かい演出となっている。
もう一人の容疑者が死亡して事件が解決したとの報を受け、アンクル・チャーリーはこの家に居つこうとする。
事実を知っているチャーリーには困ったことだが、アンクル・チャーリーにとっても事実を知るチャーリーがいては困ることで、それを二階から見下ろすアンクル・チャーリーを捉えることで次の展開を予測させる上手い演出だ。
事件が解決したと思い込んでいる刑事も刑事だと思うのだが、東部に送った写真の結果が描かれていないのはどうしたものか。

ギルバート・グレイプ

2021-01-07 08:05:35 | 映画
「ギルバート・グレイプ」 1993年 アメリカ


監督 ラッセ・ハルストレム
出演 ジョニー・デップ
   ジュリエット・ルイス
   メアリー・スティーンバージェン
   レオナルド・ディカプリオ
   ダーレン・ケイツ
   ローラ・ハリントン

ストーリー
人口千人ほどの田舎町、アイオワ州エンドーラで、24歳のギルバート・グレイプ(ジョニー・デップ)は、大型スーパーの進出ではやらなくなった食料品店に勤めている。
日々の生活は退屈なものだったが、彼には町を離れられない理由があった。
知的障害を持つ弟アーニー(レオナルド・ディカプリオ)は彼が身の回りの世話を焼き、常に監視していないとすぐに町の給水塔に登るなどの大騒ぎを起こすやんちゃ坊主。
母のボニー(ダーレーン・ケイツ)は夫が17年前に突然、首吊り自殺を遂げて以来、外出もせず一日中食べ続けたあげく、鯨のように太ってしまった。
ギルバートはそんな彼らの面倒を、姉のエイミー(ローラ・ハリントン)、妹のエレン(メリー・ケイト・シェルバート)とともに見なければなれなかった。
彼は店のお客で、中年の夫人ベティ・カーヴァー(メアリー・スティーンバージェン)と不倫を重ねていたが、夫(ケヴィン・タイ)は気づいている。
ある日、ギルバートは沿道にキャンプを張っている美少女ベッキー(ジュリエット・ルイス)と知り合い、2人の仲は急速に深まるが、家族を捨てて彼女と町を出ていくことはできなかった。
そんな時、ベティの夫が死亡し、彼女は子供たちと町を出た。
アーニーの18歳の誕生パーティの前日、ギルバートは弟を風呂へ入れさせようとした時、いらだちが爆発して暴力を振るってしまい、いたたまれなくなって家を飛びだした彼の足は、自然にベッキーの元へと向かった。
華やかなパーティも終わり、愛するアーニーが18歳を迎えた安堵からか、ボニーが2階のベッドで眠るように息を引き取ると、母の巨体と葬儀のことを思ったギルバートは「笑い者にはさせない」と決心し、家に火を放つ。
一年後、ギルバートはアーニーと、町を訪れたベッキーのトレーラーに乗り込む。


寸評
レオナルド・ディカプリオがすごい!
知的障害を持つアーニーを演じているが、この演技がこの映画を支配している。
とは言え、主人公は長男のギルバートである。
彼は肉親に拘束され町を出ることも、自由に飛び回ることもできない。
父親は自殺しており、そのショックからか母親は食べ過ぎてギルバートからクジラだと言われるくらい太っている。
その巨体は町の子供たちの好奇の対象でもあり、家族はその巨体を恥じている。
母親が家に引きこもっているのは、その巨体の為だ。
そんな母親をギルバートも、姉のエイミーも、妹のエレンも見捨てるわけにもいかず、せっせと世話を焼いている。
そんな母親がたった一度家を出て、保安官事務所に補導されたアーニーを迎えに行く。
所長は旧知の間柄らしく、呼び捨てにしてアーニーを連れ戻すのだが、母親は醜い姿になって人目をはばかるようになっていても、自分の子供への愛情は人並み以上なのだと訴える感動的なシーンとなっている。
ここでも母親は町の人から好奇の目を向けられ、中には写真を撮る者もいるという状況が痛ましい。

知的障害を持つ弟の面倒を見ているのがギルバートで、彼は職場の食料品店にも連れていき、一日中アーニーと過ごしている。
動けない母親と、知的障害の弟を抱えギルバートはどうすることもできない。
そんな環境に対するイライラが内在しているギルバートのはずだが、そのイライラを表立って見せないのは上手い描き方で、彼の立場につい同情を寄せてしまう。
同情は一歩離れた他人の感情で、自分が彼の立場だったらと思うと恐ろしくもある。
母親は太っている以外は普通という状態だが、見ている限りでは要介護者だ。
介護が必要な家族がいる事の大変さは、少なからず僕も経験しているが、世の中の人は僕の経験などとは比較にならないほどの苦労をしているはずだ。
おまけに給水塔に登って何度もパトカーのお世話になっている弟を抱えているのである。
そんな彼のはけ口が中年夫人ベティの不倫相手になることだったのだろう。
妻が不倫しているというこの家庭も変で、夫は気付いているような所があって、子供に対しても極端な行動を見せている。
結局、心臓マヒを起こして子供用のビニールプールで溺死してしまうのだが、街の人は妻が殺したのではないかと噂をしているという始末なのだ。
ギルバートはそんな異様な人間に囲まれていたということになるのだが、それを救うのがベッキーである。
しかし彼女も定住者ではなく、母親とキャンピングカーで旅しているという女性である。
どうやらギルバートの居る町の近くはキャンピングカーの集積地の様で、毎年列を連ねてやってきている。
ギルバートはベッキーと恋に落ちるが、母親や弟を棄てて出ていくことが出来ない。
悲しいことに、そんな彼を救うのが母親の死である。
クレーンで運び出されるのを見物に来る町の人を予想し、家財道具を運び出して家ごと火葬してしまう。
切ないシーンだが、燃え上がる家が美しいシーンでもある。
憂鬱になってくる映画だが、最後になってやっと救われた気分になった。

斬る

2021-01-06 08:54:45 | 映画
「斬る」 1968年 日本


監督 岡本喜八
出演 仲代達矢 高橋悦史 中村敦夫 久保明
   久野征四郎 中丸忠雄 橋本功 浜田晃
   地井武男 土屋嘉男 星由里子 岸田森
   香川良介 神山繁 東野英治郎 黒部進

ストーリー
天保四年。空っ風が砂塵を巻き上げる上州は小此木領下に二人の男がふらりと現われた。
ひとりは、二年前に役目の上から親友を斬り、武士を棄てた男、やくざの兵頭弥源太である。
もうひとりは、百姓に厭気がさし、田畑を売って武士になろうとしている男、田畑半次郎である。
二人が姿を現わしてから間もなく、野々宮の宿場で城代家老溝口佐仲が青年武士七名に斬られた。
小此木藩は城代家老溝口の圧制下で住民たちの不満が絶えず、つい最近、やくざまで加った一撲を鎮圧したばかりだった。
しかし、血気盛んな青年武士たちにとって、腐敗政治は許せるものではなかったのだ。
ところが、ひそかに機会を狙っていた次席家老鮎沢は、私闘と見せかけて七人を斬り、藩政をわが物にしようと討手をさしむけたのだ。
青年たちはやむなく国境の砦山にこもり、期待と不安を抱いて江戸にいる藩主の裁決を待った。
鮎沢はそれに対し、腕の立つ狼人を募り、砦山に向かわせたのだ。
半次郎は、武士にとり立てるという鮎沢の誘いに応じた。
しかし、源太は藩政改革を志す青年たちの味方になり、二人は敵味方に分れて戦うことになった。
一方、砦山に篭った青年たちも、その一人笈川の許嫁千乃が来たことから、美貌の彼女を間に対立する雰囲気が生まれてきた。
また討手の狼人たちも、鮎沢に見殺しにされる状態になったため、藩士と戦いを交える有様だった。
こうした情勢から、半次郎もようやく鮎沢の狡猾な政略を見抜いて怒った。
それは鮎沢の命を受けている藩士たちも同じ気持で、彼らはついに青年たちを討つことは出来なかった。
その頃、源太は鮎沢を斬っていて、藩政改革の騒動は終った。
源太、そして武士になる志を捨て“土の匂いのする”トミを連れ、それぞれこの地を去っていった。


寸評
黒澤明の「椿三十郎」は1962年に公開されたが、これは岡本喜八版の「椿三十郎」だ。
城代家老の腐敗政治を正すために若者が立ち上がる。
若者の一人の叔父がもう一人の一見頼りなさそうな城代家老で相手方に捕らえられてしまっている。
若者のリーダーには美しい許嫁(いいなずけ)がいる。
若者を見かねたヤクザ者(元は武士でスゴ腕だ)が助っ人として加わるなど共通点は多い。
こちらは岡本監督作品らしく、スピーディで西部劇風でもある。
高橋悦史の田畑半次郎(半次)と、仲代達矢の兵頭弥源太(源太)が、空っ風が吹き荒れる宿場町に現れるところなどは西部劇の始まりみたいだ。
このふたりの掛け合いは面白く、特に仲代の源太が普段の仲代と違って、ぼそぼそと核心的なことを呟くトボケた味を出している。

始まってすぐに青年武士が圧政の張本人である城代家老の溝口を襲うシーンがある。
ここでの乱闘はダイナミックに描かれている。
カメラの前から急にフレームインしてきて走り去ったかと思えば、男がカメラの前に倒れてきたり、カメラをまたぐように走り去ったりで、カメラの目の前を行ったり来たりする演出だ。
そこでは腕が切り落とされ、指が飛ぶなどのグロテスクなシーンも挿入されている。
この辺は岡本監督独特のカメラワークなのだと感じる。

設定は「椿三十郎」よりも複雑だ。
まず源太と半次が心を通わせながらも敵味方に分かれている。
二人は武士に嫌気がしたヤクザ者と、士分に取り立てられることを夢見る百姓上がりと対照的な立場である。
そこに今は女郎屋に身を置く、妻と決めた女性の身請けに30両を必要として追手に加わる岸田森の荒尾十郎太が絡む。
青年武士たちは正義感に燃えているが、その中には裏切り者がいる。
星由里子の千乃に恋する男が何人かいて、その恋の恨みが亀裂を呼び起こしたりもする。
あるいは酒に目のない男がいて、そのことでもひと悶着起こす。
清廉潔白で純情多感な若者たちという風には描いていない。
追手に加わる浪人たちの悲哀も組み込まれている。

悪役である城代家老の鮎沢(神山繁)は藩きっての剣客でもある。
源太が屋敷に行った時にその片鱗を見せていたのだが、それにしては最後の対決があっけない。
さんざん痛めつけられた源太の体が自由のきかないものになっていることは分かるのだが、それを逆手にとった工夫がもう少しあっても良かった。
源太と鮎沢の対決は最後の見せ場のはずだから、ここで一気の盛り上がりを見たかった気分は残った。
解放された女郎たちは生まれ故郷に帰るのだろうが、源太たち4人はどうするのかなあ。
まさか4人で旅するわけではあるまいに…。

斬る

2021-01-05 08:54:43 | 映画
「斬る」 1962年 日本


監督 三隅研次
出演 市川雷蔵 藤村志保 渚まゆみ 万里昌代
   成田純一郎 丹羽又三郎 天知茂

ストーリー
高倉信吾(市川雷蔵)が小諸藩士である養父の高倉信右衛門(浅野進治郎)の許しを得て、三年間の武道修行に出てから三年の歳月が流れた。
信吾の帰りを最も喜んだのは義妹の芳尾(渚まゆみ)だった。
信吾は藩主牧野遠江守(細川俊夫)の求めにより、水戸の剣客庄司嘉兵衛(友田輝)と立会った。
信吾は“三絃の構え”という異様な構えで嘉兵衛を破った。
数日して、下城中の信吾は、信右衛門と芳尾が隣家の池辺親子に斬殺されたという知らせをうけた。
池辺義一郎(稲葉義男)は、伜義十郎(浜田雄史)の嫁に芳尾を望んだが、断わられこれを根にもってのことであったが、その時、信吾は自分の出生の秘密を知った。
信吾の実母は山口藤子(藤村志保)という飯田藩江戸屋敷の侍女で、城代家老安富主計(南部彰三)の命をうけて殿の愛妾を刺したが、処刑送りの駕籠から彼女を救った長岡藩の多田草司(天知茂)と一年を送ったのち生れたのが信吾で、それから藤子は捕えられたが、彼女を斬る役が多田草司だったのだ。
信吾は池辺親子を国境に追いつめて討った。
信吾は遠江守から暇をもらって旅に出たが、旅籠で就寝中、信吾は二十人もの武士に追われている田所主水(成田純一郎)という侍から、姉の佐代(万里昌代)を預ってくれと頼まれた。
しかし、佐代は主水が危くなった時、自分を犠牲にして主水を逃がした。
彼女の崇高な姿にうたれた信吾は、彼女を手厚く葬った。
江戸に出た信吾は、千葉道場主栄次郎(丹羽又三郎)と剣を交えたが、その技の非凡さを知った栄次郎は、幕府大目付松平大炊頭(柳永二郎)に彼を推挙した。
大炊頭に仕えて三年の文久元年、世の中は尊王攘夷の嵐が吹き荒れ、大炊頭はその急先鋒であった水戸藩取締りのため信吾を伴って水戸へ赴いた・・・。


寸評
大映のスター女優である藤村志保がいきなり処刑されてしまうので、これは回想形式の作品だなと思ってしまうのだが、この作品は単純な回想で物語が進められていくというものではない。
出生の秘密と、母への思慕を描くために所々に藤村志保の藤子が挿入されるだけで、市川雷蔵の一人芝居的な要素が強い。
それでもオープニング早々に描かれる藤村志保演じる藤子の登場シーンは秀逸だ。
特に真上からのアングルで撮ったシーンがなかなか良くて、よほど気にいったのか、その位置からの撮影シーンはその後にも登場する。
70分ほどの短い作品だが要領よくまとまれていてテンポがよい。
先ずは高倉信吾の出生には何やら秘密がありそうなこと、しかし養父には可愛がられていて、義妹を含めた家庭は幸せそのものであることが描かれるが、秘密は守られ実の兄妹として育てられているらしく、義妹が恋心を抱いて義兄を慕うような描かれ方はされていない。
もっとも、描けば許されない兄と妹の恋物語になってしまう。
些細なことから父と妹を殺された信吾が、瀕死の父から出生の秘密を聞かされ、敵を討つまでが前半部分だ。

後半は浪人となった信吾のその後が描かれるが、起点となるのは万里昌代が弟を救うために敵の前に裸になって立ちふさがり殺される場面に立ち会ったことだ。
信吾が後に語ったように、真吾にとって死んでいった重要な三人の女の一人となる。
一人は母である藤子であり、一人は妹の芳尾であり、いま一人がこの佐代だ。
それぞれが非業の死を遂げていることになる。
藤子は義のために死んでいくことになり、夫に斬られる藤子は笑みさえ浮かべる。
芳尾はいわば言いがかりを受けたような死で、一番無益な死だったかもしれない。
佐代は弟を救うための覚悟の死だが、その覚悟はすさまじい。
佐代の登場シーンは短いが、この女性は信吾に通ずる精神の持ち主で、信吾と対をなす存在だと思う。

どのようにしてその剣技を会得したのかは描かれていないが、高倉信吾の剣は邪剣とは言いながらもすさまじく、
喉元を狙う三絃の構えも独特だが、河原で道場で立ち会ったことのある庄司嘉兵衛を、頭の先から胴体を真っ二つに切り裂く技を見せる。
大写しで血しぶきが噴き出るという描き方ではないので、遠写しのその様子は一瞬何が起こったのか分からないくらいだが、笑ってしまうような演出である。
この時点では高倉信吾はストイックな孤高の剣士という感じなのだが、大目付の松平大炊頭と心を通わせることによって世捨て人のようなイメージを排除している。
疑似親子のような関係を打ち砕くのが武士道ということになる。
主人の護衛役だった男が、その役目を果たせず殉死するという非業の死で締めくくっている。
剣にストイックな男に市川雷蔵がピタリとはまり、続編が作られるようになったのもうなづける。

魚影の群れ

2021-01-04 10:34:57 | 映画
「魚影の群れ」 1983年 日本


監督 相米慎二
出演 緒形拳 夏目雅子 十朱幸代 佐藤浩市
   矢崎滋 三遊亭円楽 工藤栄一 寺田農
   レオナルド熊 石倉三郎 下川辰平 木之元亮

ストーリー
小浜房次郎は、娘トキ子が結婚したいという、町で喫茶店をやっている青年・依田俊一に会った。
彼は養子に来て漁師になっても良いと言う。
マグロ漁に命賭けで取り組んできた房次郎は、簡単に漁師になると言われて無性に腹だたしく感じた。
店をたたみ大間に引越してきた俊一は、毎朝、房次郎の持ち船(第三登喜丸)の前で待ち受け、マグロ漁を教えて欲しいと頼む。
十日以上も俊一を無視し続けた房次郎が、一緒に船に乗り込むのを許したのはエイスケの忠告に従ったからだった。
エイスケに指摘されたとおり、房次郎はトキ子が、家出した妻アヤのように自分を捨てて出て行くのではないかとおびえていたのだ。
数日間不漁の日が続き、連日の船酔い打ち勝ったある日、遂にマグロの群れにぶつかった。
餌がほうりこまれた瞬間、マグロが食いつき凄い勢いで引張られる釣糸が俊一の頭に巻きついた。
またたく間に血だらけになり俊一は助けを求めるが、房次郎はマグロとの死闘に夢中だ。
一時間後、マグロをようやく仕留めた房次郎の見たのは俊一の憎悪の目だった。
数ヵ月後に退院した俊一はトキ子と一緒に町を出ていった。
一年後、北海道の伊布港に上陸した房次郎は二十年振りにアヤに再会する。
壊しさと20年の歳月が二人のわだかまりを溶かすが、アヤを迎えに来たヒモの新一にからまれた房次郎は、徹底的に痛めつけ、とめに入ったアヤまで殴りつけた。
翌日伊布沖でマグロと格闘していた房次郎は、生まれて初めて釣糸を切られ、ショックを受ける。
大間港に、すっかりたくましくなった俊一がトキ子と帰って来た・・・。


寸評
相米慎二監督得意の長回し、それに応えた長沼六男のカメラがたまらなくいい。
全編ロケによる大間の風景、特に海のシーンが良くて船が写り込むショットは感激ものである。
俊一が房次郎の船に乗せてもらい、マグロに引っ張られたテグスに巻き付かれると大けがをするとの注意を受けていたが、テグスが頭に巻き付き命の危険にさらされてしまう。
房次郎はテグスを放して俊一を助けようとするのだが、その時かかったマグロが釣り糸を勢いよく引き始める。
とっさに房次郎の気持ちは俊一からマグロに向かってしまう。
ここから始まるマグロとの格闘シーンは素晴らしくて、房次郎の緒形拳は本物の漁師に見えてくる。
テグスを引き寄せるとマグロが姿を見せ始める。
モリをマグロの頭に打ち込むのを失敗しながらも何とか仕留めるのだが、カメラはこれを延々と撮り続ける。
年頭で大間のマグロがご祝儀相場の超高額で競り落とされるのをニュースで毎年見るのだが、あのマグロはこのようにして釣り上げられるのだと思うと感動的だ。
房次郎は別れた妻のアヤに言われたように、人間とマグロの価値が一緒になってしまう男である。
この時の房次郎は房次郎を捨ててマグロを選択しているのだ。

房次郎がマグロを追って北海道に行き、そこで別れた妻のアヤと20年ぶりで再会する。
アヤは5歳のトキ子を置いて出て行ったことになる。
アヤには男がいたが、二人はヨリを戻してしまう。
房次郎の凶暴性を指摘して去っていくアヤに、房次郎は港で待っていると伝えて漁に出る。
一度は去って行ったアヤだが、約束の場所に現れる。
ところが房次郎が釣りあげたマグロのテグスが切れてしまう。
テグスを切られたことで自信をなくしたのか漁を辞めてしまう房次郎だが、マグロと人間の区別がつかない房次郎を思うと、切れたテグスの先にかかっていたのはマグロではなく人間のアヤだったということを著していたと思う。
アヤを演じた十朱幸代の濡れ場シーンは男と女の関係が雰囲気で感じ取れて印象に残る。
方言が使用されているし、囁くような会話で何を言っているのかわからない所もあるのだが、そのことがむしろ効果的で、二人の感情がストレートに伝わってくる。
それは緒形拳と佐藤浩市、佐藤浩市と夏目雅子、夏目雅子と緒形拳の会話においても感じられ、漁師の世界に生きる者たちの愛憎劇が胸に突き刺さってくる演出となっている。
助けを求めてきた娘の夏目雅子が緒形拳の父親に出航の為の服を着せる場面などは、これが漁師の親子関係なのだと思わせるいいシーンだ。

鼻歌を口ずさみながら坂道を自転車で駆け下りてくる夏目雅子、房次郎を待って荷物のそばをウロウロしながら鼻歌を口ずさむ十朱幸代など、鼻歌を歌うシーンがなぜか印象的だ。
十朱幸代が房次郎から逃げる雨のシーンは雨待ちで撮ったと思われるがすごくいい。
ハッピーエンドではないが、俊一が大間の漁師になったことだけは確かで、房次郎を追い続けた俊一が房次郎に追いついたようで、男の意地を見せてもらったような気がした。
男っぽい夏目雅子を含めて骨太な男性映画だ。

教誨師

2021-01-03 07:04:22 | 映画
「教誨師」 2018年 日本


監督 佐向大
出演 大杉漣 玉置玲央 烏丸せつこ
   五頭岳夫 小川登 古舘寛治 光石研

ストーリー
「日本の死刑確定者は刑務所ではなく、拘置所内の独房で生活をしている。懲役囚と異なり、原則的に髪型・服装は自由、就労の義務もない。」
受刑者に対して道徳心の育成、心の救済につとめ、彼らが改心できるよう導く教誨師。
牧師の佐伯(大杉蓮)は、半年前に死刑囚専門の教誨師として着任した。
彼は年齢、境遇、性格の異なる6人の死刑囚と面会する。
勝手な理屈で殺人を正当化する自己中心的な若者・高宮(玉置玲央)、おしゃべりな関西の中年女・野口(烏丸せつこ)、お人好しが高じて借金の山を築いたホームレスの老人・進藤(五頭岳夫)、家族思いで気の弱い父親・小川(小川登)、心を開かない無口な男・鈴木(古舘寛治)、気のいいヤクザの組長・吉田(光石研)。
受刑者は、他人の命を奪った者たちばかり。
死をもって罪を贖うことが決定している死刑囚である。
いつか必ずやってくる執行日を、できるだけ心穏やかに迎えられるよう、佐伯は親身になって彼らに向き合う。
独房で孤独な生活を送る彼らのなかには、よき理解者であり、格好の話し相手である教誨師に対し、真剣に思いを吐露する者もいれば、くだらない話に終始したり、罪を他人のせいにする者もいる。
一方、佐伯は彼らに寄り添いながらも、自分の言葉が本当に届いているのか、死刑囚たちが安らかに最期を迎えられるよう導くことが正しいのか苦悩する。
そして彼もまた、その葛藤を通して忘れたい過去と対峙し、自らの人生と向き合うことになる。


寸評
教誨師を務める牧師の佐伯は個性的な死刑囚それぞれに正面から相対し、彼らの話に耳を傾け、様々な言葉を語り掛けるのだが、深刻な話ばかりではなく、時にはユーモアを感じさせる会話を交わす。
見せ場はもちろんこの対話シーンであり、そこでは大杉漣と死刑囚役の芸達者な役者たちによる演技合戦が披露され、シンプルなセットも手伝って観客は舞台劇を見ているような気持になる。
死刑囚たちがどのような残忍な殺人を行ってきたのかは描かれていないので分からないが、佐伯との対話を通して、死刑囚の今までの人生や犯行の様子などが、おぼろげではあるが浮かび上がってくるという趣向である。
犯行場面が描かれないことで、観客には無縁に思える死刑囚も、けっして遠い存在ではないと感じてくる。
もしかしたら、自分たちの隣人が彼らと同じような運命をたどるかもしれないし、我々自身が彼らのようになっていたかもしれないと思わせる。
進藤の様に無学ゆえに犯罪に走ったケースもあれば、小川の様に些細な行き違いが事件に発展したケースなども明らかになる。
その経緯は映画の世界だけの話とは思えず、ストーカー殺人や障がい者に対する殺人など、現実の事件を想起させるのである。

僕は馬鹿なやつを抹殺したと豪語する高宮に相模原障害者施設殺傷事件の植松聖を想起したし、おしゃべりな野口は和歌山毒物カレー事件の林真須美を連想した。
鈴木が語るストーカー殺人も似たような事件があったことを思い出すし、進藤には数ある冤罪事件を連想する。
そのなかでもやはり玉置玲央が演じた高宮は強烈なキャラクターだ。
佐伯が命の大切さを説くと、高宮は「それなら死刑はどうなんだ?」と問い返す。
高宮は佐伯に菜食主義者ではないことを確認し、「豚や牛は食べるのか?」と聞く。
佐伯が「食べる」と応えると、「どんな命も大切と言いながら、命を奪っているではないか」とつめより、「それならイルカはどうだ?」と聞き返し、「なぜ食べない?」と問い詰める。
「イルカは知能が高い」と答えた佐伯に、「それなら知能の低いものは殺しても良い」と屁理屈を突きつける。
死刑廃止論に加担しているようでもあり、反捕鯨団体への抗議の様でもある。
一見、高宮の主張には理があるように思えてきて、冷静な佐伯もおもわず感情を取り乱す。
野口には妄想癖があり、吉田の告白も真実かどうかわからない。
自分の死刑執行を遅らせるための方策を講じているのかもしれない。
どこか冷めていた高宮も最後には取り乱すから、やはり命はかけがえのないものなのだ。
劇中では、ある種の超常現象が二度描かれるが、一度目は死刑囚の鈴木と被害者をめぐってのものであり、二度目は佐伯の過去の傷をめぐってのものだ。
佐伯が亡き兄と対峙した後、高宮に対して本当の心の内をさらけ出し、「あなたに寄り添う」「穴を見つめる」と自分がすべきことを表明するシーンは痛切で、大杉連の表情もなかなかいい。
ラストシーンでは、佐伯がやっと字を覚えた進藤からのメッセージを目にするのだが、そのメッセージは我々に対してのものでもある。
これが大杉連の遺作となったことを知る僕は、エンドロールで映る去り行く大杉漣の後姿を見て胸がいっぱいになってしまい、まさに名優だったと実感した。 合掌。

Q&A

2021-01-02 08:20:01 | 映画
「Q&A」 1990年 アメリカ


監督 シドニー・ルメット
出演 ニック・ノルティ
   ティモシー・ハットン
   アーマンド・アサンテ
   パトリック・オニール
   リー・リチャードソン
   ルイス・ガスマン

ストーリー
殉職した模範刑事の息子で地方検事補アル・ライリーは、初仕事として、ベテラン刑事マイク・ブレナンによる麻薬売人射殺事件のQ&A(尋問調書)を、黒人のチャッピー、プエルトリコ人のバレンタインの2人の刑事と協力して作ることになる。
しかし目撃者の1人、プエルトリコ系麻薬ディーラーのボビー・テキサドールの証言は、正当防衛を主張するブレナンと食い違うものだった。
疑惑を持ったアルは、かつての恋人で今はテキサドールの愛人となっているナンシー・ボッシュから何とか真実を聞き出そうとするが、黒人の父を持ち、アルの人種差別的言動により去ったという過去にしこりを持つナンシーはそれを拒むのだった。
一方、ブレナンは重要な証人のオカマのロジャーを捜し出して口封じをしようとするが、機先を制したテキサドールがロジャーを連れ去る。
アルもその後を追い、そこでブレナンが麻薬組織と黒いつながりを持っていることを知るが、その直後にテキサドールとロジャーの乗ったヨットはブレナンによって爆破される。
アルの部下のチャッピーと、バレンタインを抱き込もうとするが失敗して、ついに追い詰められ逆上したブレナンはアルのもとに乗り込んでくるが、撃ち合いの末倒れる。
真の黒幕が自分の上役の検事課長のケヴィン・クインであることを既に知ったアルは彼を告発しようとするが、先輩検事のブレーメンフェルドは、検事総長に立候補しようとしているクインは全ての証拠をもみ消すことができる立場にあるから、そんなことをしても無駄だと忠告する。
しかしいつかきっと自らの手で真実を暴くという決意を胸に、ナンシーのもとへ結婚の申し込みに向かう。


寸評
警察の腐敗を描いた作品は数多く存在しているが、この作品では悪徳警官が誰であるかがまず示されているので、大抵の作品で描かれる誰がどのような悪事(大抵は麻薬関係)を働いているかの犯人探しと、そして多くの場合は悪徳警官のさらに上にいる高級官僚が暴かれ摘発されると言う筋立てではない。
「Q&A」は従来から描かれてきた腐敗モノとは微妙に違った視点で描かれている。
微妙に違っているから面白い。

主人公のアルは裁判を戦うための証拠固めを行う新人の検事であり、彼の亡き父は誰からも尊敬される刑事だったし、彼自身もかつてはいい刑事だったという経歴の持ち主である。
興味を掻き立てられるのは、彼が恋人のナンシーと破局していて、別れたナンシーが今回の事件に絡んでいる麻薬の売人の恋人になっていることだ。
彼がナンシーと破局を迎えたのは、ナンシーの父親を紹介された時に初めてナンシーの父親が黒人であることを知り戸惑いの表情を見せたことによる。
シドニー・ルメットはアメリカの抱える人種問題が根深いものであることを、声高に柵ぶものではない、ごく自然な出来事として描き込んでいる。
そしてアルのチームメイトとなるのが黒人のチャッピーとプエルトリコ人のバレンタインというマイノリティである。
チャッピーは事件のターゲットであるブレナン刑事と海兵隊で一緒だったので、職務に忠実ながらも戦友のよしみで自分がブレナンを逮捕することを拒絶している。
バレンタインがプエルトルコ人であることも上手くいかされており、人種問題が巧みに取り込まれている。
故郷であるプエルトルコを訪れたバレンタインが、テキサドールの手下が同国人であることで拳銃をテーブルに置き合う場面なども洒落たシーンとなっていて、人種問題の描き方は巧みだ。
事件の切り札となる目撃者が普通のチンピラでも良かったと思うが、ゲイというマイノリティを登場させて雰囲気を高めているのも見逃せない。

検察を巡る事件は日本でも起きていて、2010年には証拠を改ざんして厚生労働省元局長の村木厚子さんを犯人に仕立て上げたことが発覚し、障害者郵便制度悪用事件の担当主任検事、上司であった大阪地検元特捜部長、元副部長が逮捕された大阪地検特捜部主任検事証拠改ざん事件があったし、2020年には時の安倍内閣が検事総長人事に介入した黒川検事長の定年延長問題なども発生している。
この作品でもアルの上席検事が黒幕として登場している。
そのためアルは信頼できる先輩検事のブレーメンフェルドを相談相手としている。
しかし組織の実態を知り過ぎるほど知っている彼は、正義感だけではこの事件を解決できない事情をアルに言って聞かせるのだが、日本における検事総長人事問題の裏にあるものを十分すぎるほどうかがわせるもので、もみ消し行為はどの国、どの組織にもあるものなのだなあと思わせる。
腐敗をテーマにした作品において、明らかな敗北を描いている珍しい作品である。
くやしさで荒れ狂うアルが事務所のガラス窓を割りまくるが、心情を察するブレーメンフェルドが「修理を手配しておくように」と事務員に申し付けて去るのも粋な演出だ。
ラストは予想されたものだが結論を出していないのがいい。