蟋蟀庵便り

山野草、旅、昆虫、日常のつれづれなどに関するミニエッセイ。

夢、果てしなく……(その5:終章)

2007年12月04日 | 季節の便り・旅篇

 見果てぬ夢のフィナーレが近付いていた。それを煽るように、夕映えのビーチでエイが飛んだ!波打ち際からほんの20メートルほどのところで、4度5度、かつてテレビの映像で見たエイのジャンプが、現実としてそこにあった。

 11月15日、重ねてきた夢の究極のダイブが待っていた。Deep Blueに娘と行き、雅美さんのガイドに、たまたま日本から来ていた玲子さんも合流して、Land’s End に向かう。会社を9月で退社し、世界の海で潜る目的で旅に出た玲子さんは、既にメキシコで20本近いダイビングを重ねているベテラン・ダイバーである。たまたま横浜の上の娘と同じ名前である。ふと、二人の娘とダイビングを楽しんでいるような、心地よい錯覚があった。水中カメラを担いだもう一人のダイバーが、一組の白人グループを引き連れて乗り込んでくる。風も波もなく、大きな大洋のうねりが時たまボートを傾ける中、先日潜ったPelican Rockから、Neptune Finger (海神の指)を過ぎると、アーチを穿つ岩Arch Rockや奇岩が林立するLand’s Endは、すぐそこだった。バハ・カリフォルニア半島最南端の「大地の果て」Land’s End、岩の一つにシー・ライオン(カリフォルニア・アシカ)が群れるコロニーがある。その傍らにボートを停めて、バックロールでエントリーした。

 切り立った岩礁の間の狭い砂地に、這うように留まって待機する。大洋の大きなうねりが海の底まで及び、揺りかごのように身体を揺する。逆らわずに身を委ね続けていたその時、海面から数頭のアシカがうねるように泳ぎ込んで来た。砂地の上で戯れ、時折好奇心に負けたように、すぐ傍らをマスクを掠めるように泳ぎ抜けていく。娘が繰り返し「お父さんに見せたい!」と言い続けていた水底の幻想の世界に、今私はいた。
 やがて雅美さんに促されてゆっくりと後退し、海溝に沈む暗い淵の辺りに戻った時、目の前に雲のようにたなびく大きな影があった。上気して曇ったマスクに海水を入れ、鼻からの呼気でクリアした瞬間、思わず声を上げてレギュレーターを口から放しそうになった。渦巻くように、流れるように視界を覆い尽くす数万、数十万とも思えるアジの大群だった。雅美さんや娘が、ひと言も言わずに用意していた究極のサプライズがこれだった。
 瞬く間に大群の中に吸い込まれ、周り中がアジ、アジ、アジ……感動に酔った。ライセンスを取るまでの寒いトレーニングの苦労も、全てが一瞬に消し飛んだ。
 アジの大群の渦の中を泳ぎ抜けていく。そこだけぽっかり開いたアジのトンネルの中を潜り抜けていく。想像さえしなかった20メートルの海底の幻想、高まる動悸を鎮めながら、レギュレーターの呼気と吸気の音だけが耳にこだましていた。

 悲願68歳の挑戦、果てしない夢を叶えたこの一瞬を、私は忘れない。40分は瞬く間だった。水深5メートルでの3分間の安全停止も、雅美さんの巧みなガイドは、その深度の海底探索をさりげなく織り込んで、気付かずに過ごさせてくれる。浮上のハンド・シグナルを確認してゆっくりと海面に上昇すると、そこにボートが待っていた。娘が「サプライズ成功!」と言いたげに、ニコニコしながら上がってくる。
 マサ君がいた。娘がいた。便宜を図ってくれたOcean Gearのオーナー夫妻がいた。日曜日のプールを貸してくれたインストラクターがいた。2泊3日のダイビング・ボートで寝食を共にした18人の高校生がいた。Deep Blueのオスカルさんと奥さんの幸子さんがいた。雅美さんがいた。無口だけど優しい船長のドン・ファンさんがいた。……全ての人々の支えがあって、その向こうにアジの大群の祝福があった。
 幾つになっても、夢・挑戦・発見・感動を忘れまい。メキシコ・ロス・カボスの空はどこまでも青く、ペリカンが遊び、アシカが戯れ、コンドルが舞い、時を忘れ、歳を忘れて、至福の時間がゆっくりと流れていった。
   (2007年12月:写真:Land’s End:ホテルのパンフより借用)


夢、果てしなく……(その4)

2007年12月04日 | 季節の便り・旅篇

 ホテルのビーチから、コルテス海に上る朝日を拝み、太平洋に没する夕日を見送り、プール・サイドで寛ぎながらマルガリータを楽しむ愉悦の日々が続く。11月14日、予定していたLand’s End (地の果て)での2回目のダイブは、オスカルさんが風邪のため雅美さんが店番することになって、中止となった。

 娘が代わりのサプライズを用意してくれた。ホテルからタクシーで20分ほど、コルテス海のサンタ・マリア・ビーチでのシュノーケリングである。荒野の中にメキシカンの青年が一人ぽつんと番をする空き地で車を降り、サボテンと潅木の中を暫く汗して歩くと、美しい入り江に出る。真っ白な小砂利のビーチに、機材を貸し出す小さな小屋があるだけの静かなダイビング・スポットだった。港から入れ替わり様々なボートが訪れ、暫くシュノーケリングを楽しんではまた去っていく。船の上から美味しそうな匂いと、賑やかなメキシカン・リズムが漂ってくる。目ざとい娘が、潮を吹き黒い背中をうねらせて波間に没する鯨を見つけた。残念ながらビーチの輝きに見とれていた私達は、海中に没したあとのしぶきを見ただけだった。
 波打ち際にアンチョビの群れが流れるように輝く海にはいると、すぐそこに岩礁が広がり、色とりどりの魚群が遊ぶ。マスクの前に繰り広げられた龍宮城、この海の豊かさを思い知らされた半日だった。「潜れなくても、こんなに綺麗で豊かな魚達が見られて……!」と、家内の歓声が波間に弾ける。クッキーのかけらを撒いて魚影に囲まれ、ここにも至福の時間があった。

 コルテス海(カリフォルニア湾)の北の深奥部には、コロラド川が注ぎ込む。遠くロッキー山脈に源流を発し、コロラド北西部を流れ、ユタ州、アリゾナ州を経てメキシコ北西部からコルテス海に注ぐ。途中コロラド高原を侵食してグランド・キャニオンの深い渓谷を造り、不夜城・ラスベガスの電力を賄うフーバー・ダムを可能にした総延長2,330キロの大河である。ミネラル豊富な河口から植物性プランクトンが大量に発生し、それを食べる動物性プランクトン、オキアミを狙って魚群やいろいろな海獣が集まり、深い海に住む巨大なイカを追うマッコウクジラや、世界最大の哺乳動物シロナガスクジラ、ザトウクジラ、コククジラ、巨大なジンベイザメ等、豊饒の海で幾つもの食物連鎖の輪が完成する。冬場になると、その鯨たちがアラスカから南下し、ロス・カボスのランズ・エンドを回り込んでこの海に入り込んでくるのだ。

 午後、もう一つのサプライズを娘が用意してくれた。ホテルから15分歩いた所に、新しくイルカと泳げるプールが出来ていた。連日大型のクルーズ船が港にはいり、沢山の観光客を送り込んでくる。3年前に比べ人が増え、物価が上がり、設備が増えた一方で、土産物屋もすれてしまったのが寂しい。無愛想になった店先では、笑いながら値引きの攻防を楽しむことも少なくなってしまった。そのクルーズ客が船に戻る頃合の夕方の予約を入れて、牝イルカのジェニーとの触れ合いを楽しんだ。鰭を振って歓迎の挨拶をしたり、キキキと笑って頭を振りたてたり、仰向けになって胸鰭を両手で掴ませ、背泳ぎでプール中を引き回してくれたり、一緒に写真を撮らせてくれたり……何故かすっかりなつかれて、しきりに擦り寄って来ては身体を触らせてくれるのが楽しい。

 日本語が聞こえてこない快感と安らぎを感じながらホテルのプール・サイドに出ると、顔なじみになったメキシカンのボーイが「オーラ(やあ)、バナナ・マルガリータ?」と声を掛けてくる。白人よりも日本人に優しいメキシカン、真っ赤な夕日の中、ホテルの上をいつまでもコンドルが舞って、異国の一夜が今夜も暮れようとしていた。
     (2007年12月:写真:波間に光るアンチョビの群)

夢、果てしなく……(その3)

2007年12月04日 | 季節の便り・旅篇

 11月10日、高校での授業の為に休めないマサ君を残し、娘と3人でロサンゼルスから南に飛んだ。メキシコにはいると、1300キロに及ぶバハ・カリフォルニア半島が果てしなく延びる。殆ど雨が降らない広漠たる砂漠と岩山の荒野である。その最南端、コルテス海と太平洋が境を接する岬の先端に、一大リゾート地 Los Cabosがある。小さな港を囲んで幾つもの豪華なホテルが建ち、長期滞在型のリゾート、ダイビング、フィッシング、そしてサボテンと潅木だけに覆われた砂漠の荒野を駆け抜けるATV(サンド・バギー)の走りを楽しめるアウト・ドア・スポーツの基地でもある。ここに、娘が11月の第2週を向こう30年間タイム・シェアの権利を持つホテル・Playa Grandeがある。
 2時間15分のフライトを経て、鋭い尾根にコンドルを舞わせる岩山を見ながら、San Jose Del Cabo空港に降りると、そこは乾いた常夏。空港からシャトルで小一時間、港沿いの街並みを抜けた岩山の先に、3年前とは見違えるほどに一段と拡張完成した豪壮なホテル・プラヤ・グランデが建っていた。大理石張りの床に自炊設備も完備した部屋から、5つのプールと3つのジャグジーの向こうにビーチが広がり、冬場はその沖をアラスカから南下した鯨が、コロラド川が注ぎ込む豊饒のコルテス海に回りこんでいく姿が見える。気温30度を超える常夏のこの海で、ワン・ランク上のダイバー資格を持つ娘とダイブするのが、今回のもう一つの大きな夢だった。

 早速港のダイブ・ショップDeep Blueを3年振りに訪ねた。日本語を話すオスカルさんと奥さんの幸子さん、それにプロの水中カメラマンでもあるダイブ・マスターの浅井雅美さんがいる。彼の素晴らしい写真は、ダイヤモンド社のトラベル・ガイドブック「地球の歩き方」シリーズのメキシコ編にも、ザトウクジラのブリーチング、エイの群舞、アジの群れと遊ぶシー・ライオン(カリフォルニア・アシカ)の姿など、何枚も掲載されている。彼が私のバディーとして付いてくれることになった。
 翌日、立っていられないほどのかなりの波と風の中を、小さなボートで港から出て数分、白砂のLover’s Beachを右手に見たら、もうダイビング・ポイントである。ペリカンが群れ遊ぶ小さな岩の傍、文字通りPelican Rock、水温24度のここが、私の初ダイビングの海となった。先にエントリーして待つ娘に続き、5ミリのウエット・スーツに機材を背負い、船べりに腰掛けて右手でマスクとレギュレーターを、左手でマスクのバンドを押さえて後ろ向きに倒れ込むバックロール・エントリー(実はこれをやることが、私の憧れであった!)で、夢のダイブが始まった。右のこぶしで頭を2度叩いてOKのサインを出し、雅美さんのエントリーを待つ。
 大きくうねる海面から潜行すればそこはもう穏やかな青の世界。透明度25メートル、砂地を這い岩礁を回り込むと、一気に1000メートルの海溝に沈む暗い深淵がある。もう少し潜れば、深淵に流れ落ちる海底の砂の滝Sand Fallも見られるという。雅美さんがサポートし、娘が見守る中、水深20メートルの海底散歩は、まるで夢の世界だった。(実は、私のライセンスでは18メートルが許された深度なのだが……)エンゼルフィッシュ、イエローテール、ハコフグ、ハーバーフィッシュ、メキシカンゴートフィシュ、ブダイなど色とりどりの魚に見とれ、砂に隠れたエイを追い立て、美しいイソバナが咲く岩礁の底を覗いて、時間はたちまち過ぎて行った。海底から見上げる水面はキラキラ輝く光の天井、そこに向かって無数の泡が私の口元から揺らめきながら立ち昇って行く……。

 「予定していたもう1本のダイブは、今日ちょっと条件が悪いので、日を改めましょう。」と雅美さんが言う。(その言葉の裏にあった意味は、後日解ることになる。)
 「お父さん、やったね!」娘と家内が笑顔を向けてくる。誰もが冗談と思った熟年ダイバーが一人、メキシコの海で感動の初ダイブに酔い痴れていた。マサ君が知る限り、2番目の高齢認定だったという。カタリナのボートの中でも、カボスのショップでも、68歳と聞いて「オ~!」と驚いてくれる。この歳でも、挑戦と発見、そして感動がある。上半身脱いだウエット・スーツを腰に垂らしたままで、観光客が行き来する港沿いの遊歩道をショップに戻る時の達成感と心の高揚!
 港の小さなレストラン「ラ・カリーナ」で、ライムを絞り込んだメキシカン・ビールを流し込んだ……甘露ここに極まった。
      (2007年12月:写真:我が水中遊泳)

夢、果てしなく……(その2)

2007年12月04日 | 季節の便り・旅篇
 ひとつ間違えば命に関わる海の底…日頃優しいマサ君も、ハンティントン・ビーチのダイブ・ショップOcean Gearのインストラクターとしてトレーニングに臨む姿勢は厳しい。わが息子でありながら、気がついたら敬語を使っている自分がいた。

 11月3日、日本ではもう初冬の冷たい風が吹く頃である。ロングビーチ港に停泊するダイビング・ボートに、三々五々子供達が集まって来る。早めに乗船し、準備に忙殺されるマサ君を置いて、上部甲板の食堂で早めに弁当を食べ、早々に下のバンク・ルームのベッドに横になった。蚕棚のような2段、3段ベッドが30人分ほどある。船酔いに備え、耳の後ろに娘が用意してくれた4日間有効というスコポラミンのパッチを貼った。疲れが溜まっていたのか、乗船して来る子供達のざわめきを夢うつつに聞きながら、いつの間に深い夢の中に沈んでいた。
 翌朝、港は濃い霧の底にあった。7時、霧笛を鳴らしながら、風強くやや波高い太平洋に出た。食堂に起き出してきた子供達は、白人、黒人、メキシカン、チェコ、パキスタン、日系…80カ国の言葉が飛び交うという、カリフォルニアらしい人種構成である。勿論全て英語、「第2次世界大戦を知ってるか?」と問いかけてくるチェコ系の女の子、いつも「ハーイ!」と声を掛けてくれるパキスタンの少年…2メートル近い大きな子や、成熟した体型の少女、重いタンクを背負わせるのが痛々しいほど小柄な男の子など、屈託がないけれども、気分はまだ無邪気な子供である。今人気の日本語のゲーム機に没頭している子供も何人もいて、マサ君が声を嗄らしながら叱咤しているのが微笑ましい。
 2時間半後、カタリナ島の入り江に着き、碇を下ろして早速訓練が始まった。子供達を4つのグループに分け、2人のインストラクターが交替で海にはいる。そのあとで、私だけ個人レッスンという、贅沢な待遇である。16度の水温に備え、頭から胸まで覆うベストを着て、7ミリのウエット・スーツにブーツとグローブを着けると、露出するのはマスク周辺部だけになる。発砲ネオプレンの合成ゴムで出来たウエット・スーツの圧迫感に慣れることが第一歩だった。
 初冬のカタリナの海は透明度15メートルを超え、ジャイアント・ストライド・エントリーでたどたどしく潜水を開始した私を待っていたのは、ジャイアント・ケルプの林だった。10メートルの海底の砂に膝をつき、マサ君と向かい合ってハンド・シグナルを交わしながら、プール・トレーニングのおさらいをした。いよいよ水中遊泳の開始である。ジャイアント・ケルプの林の中をくぐり抜けると、岩礁と砂地……いきなりアンチョビの群れが、流れるように眼前に現れた。つるべ打ちの感動の始まりだった。オレンジ色のガリバルディー、砂に潜るエンジェル・シャーク、ホーン・シャーク(ネコザメ)、幾種類ものゴビー(ハゼ)やレイ(エイ)、オパール・アイ(メバル)……砂の中から小さな焔のように揺れるクリスマス・ツリー・ワーム、セニョリータ、ブラック・スミスなどという可愛い名前の魚達…黄昏時のナイト・ダイブでは、ライトの中に砂地を歩くロブスターがいた。世界屈指の豊饒の海である。(魚達の名前は、帰宅後マサ君が図鑑を見ながら教えてくれたものである。)
 その日3本のダイブのあと、船端を叩く波音を枕元に聴きながら一夜をボートに眠り、翌日2本……ウエット・スーツの圧迫感に戸惑い、最後まで自己課題だったエントリー直後のレギュレーター呼吸の安定にもようやく自信がついて、全てのトレーニングを終えた。
 強い横波に大きく蛇行しながら帰途に着いた。夢の実現を可能にしてくれたカタリナ島、遠ざかるその姿を甲板で見送りながら、無量の想いがあった。数百頭のイルカの群れが長い列を成して、まるで車輪を転がすように次々とジャンプしながら、夕映えの航跡を横切って北上して行った。

 港に戻ってマサ君から成績発表があり、私の実技合格も告げられ、子供達の祝福の拍手を貰って……年甲斐もなく、ふと胸が熱くなる。
 翌日、日本語で50問の筆記試験をクリア、マサ君から「おめでとうございます!お父さん合格で~す。」仮の認定カードとダイビング記録を記入するDive Logを受けた。……正式な認定書は1ヵ月後に届く。
 NAUI(1960年にアメリカで設立された、世界で最も権威あるScuba Diver認定コース National Association of Underwater Instructors )の悲願のライセンスが、今、私の手中にあった。
       (2007年12月:写真:夕映えの航跡)

夢、果てしなく……(その1)

2007年12月04日 | 季節の便り・旅篇

 誰もが冗談だと思った。

 日本にはちょっと切ない言葉がある。「いい歳をして……」「年寄りの冷や水……」しかし、自分なりに密かに期するものがあった。古希を過ぎたら、もう暴挙愚挙、今が最後のチャンスだろう、と……。
 カリフォルニア西海岸、ロングビーチ沖2時間、チャンネル諸島国立公園に属するサンタ・カタリナ島で挑戦が始まった。11月初旬のカリフォルニアの海は冷たい。水温16度の島影の入り江に30人乗りのボートの碇を下ろした。曇り空のもと、18人の高校生達(13歳から15歳の、日本で言えばまだ中学生達)に混じって、68歳のチャレンジである。

 「お父さん、スキューバ・ダイビングのライセンス取りませんか?」次女知子の伴侶・マサ君から声が掛かったのは9月だった。インストラクター・ダイバーの資格を持ち、高校の体育の授業の正課として、ダイビングを担当するベテランである。かつて、沖縄・座間味島で体験ダイビングを経験して以来、悲願ともなっていたライセンスである。「行く、行く!」……二つ返事で誘いに乗った。「まさか本気になるとは思っていませんでした」と、マサ君に言わせた「いい歳をした男」のトライアルである。

 10月下旬、およそ40日の予定でロサンゼルスに飛んだ。LAX空港から1時間ほど南、オレンジ・カウンティの一角、ラグーナ・ニギェールの静かな新興住宅地に、娘のコンドミニアムがある。数日、200ページ余りのテキストを繰り返し独習したあと、早速コンドミニアム住人専用のプールで最初のテストが始まった。砂漠からの熱風・サンタ・アナで、山火事頻発のニュースが世界中に流れる寒い夜である。泳力、立ち泳ぎ、潜水、浮遊etc.……30分ほどでOKが出て、傍らの温水ジャグジーで凍える身体を温めて、初日が終わった。

 二日目、週末の高校のプールを借りて命を預ける機材の取扱いを覚え、いよいよ実技トレーニングが始まる。ウェット・スーツ、BC(浮力補助ベスト)を着て、レギュレーターを装着したタンクを背負い、ウエイト・ベルトを腰に巻き、マスク、シュノーケルを着け、ダイビング・ブーツ、フィンを履いて……まるで海獣のような姿で(それは、永年の憧れの姿でもあった)、よろけそうな重量を足腰で支えてプールに入った。BCのエアを抜いて、潜水開始である。(マスクとシュノーケルは昨年娘が、フィンとブーツ、グローブは今回マサ君が記念にプレゼントしてくれた。)
 フィンでの泳法、マスクを水中で外して再装着するマスク・クリア、レギュレーターを水中で外してのリカバリー、……ひと通り終わって、今度は隣の深いプールで飛び込み方の実技……立ったまま大きく片足を蹴り出し、開脚して垂直に飛び込むジャイアント・ストライド・エントリー、ハンド・シグナル、耳抜き、中性浮力の調整、バディーがエア切れを起こした場合の補助呼吸器(オクトパス)の与え方、緊急浮上…次々に与えられる課題に、1時間半はあっという間に過ぎた。

 三日目、インストラクターの個人のプール(さすがリッチなアメリカ!)を借りて更に習熟度を高め、最後はBCやレギュレーター、ウエイトを外して、スキン・ダイビングのヘッド・ファースト・ダイブ(ジャックナイフ)を習って、プール・トレーニングが終わった。「お父さん、合格で~す。あとは、海ですね!」
 陽射しのない寒いトレーニングは、さすがに厳しいものがあった。しかし、疲労感をねじ伏せる不思議な高揚感がある。「カリフォルニアの海でのライセンス取得は厳しいけど、ここで取れば世界中の海で大丈夫だよ!」という娘の言葉に励まされて、翌週末のカタリナ島行きを待った。実は、ライセンス取得のあと、密かに期待しているもう一つの大きな夢があった。
 時に暑く、また寒くなる……ここも異常気象、いつものカリフォルニア・ブルーの空は望むべくもなかった。
       (2007年12月:写真:プール・トレーニング)