イズミル便り

IZMIR'DEN MERHABA

BAHAR KONSERI(バハルコンセリ=春のコンサート)

2008-05-30 17:24:49 | イズミル暮らし・イズミル案内


春というには暑すぎるイズミルですが、夜になるとそよそよと風が心地よくそんなひと時を野外劇場で大好きな音楽を聴いて楽しみました。



おなじみ(?)「IZMIR DEVLET SENFONI ORKESTRASI(イズミル国立交響管弦楽団)」の「春のコンサート」。 と言ってもトルコでは芸術家にもしっかり夏休みがあるので今シーズンに別れを告げるコンサートでもありました(来シーズンは9月開幕!)。今回は野外劇場で行われること、「ラフマニノフのピアノコンチェルト」「アランフェス協奏曲」「ボレロ」と好きな曲の3本立てと言うことで何ヶ月も前から楽しみにしていましたがいっこうにコンサートの詳細が発表されずようやく4日前に新聞等で発表されていました。全くトルコ!何ヶ月も前から前売り券を買う日本人には苦痛にも思えます。


二人のソリスト。年齢差56歳!

たとえ4日前の発表でもお客さんの入りは上々、ようやく陽がかげり始めた会場に華やかな雰囲気が広がります。「ラフマニノフのピアノコンチェルト第3番」を弾いたのはイズミル生れの18歳、EMRECAN YAVUZ(エムレジャンヤヴズ)。まだ子供のような細い身体でシンプルな演奏だなあと思って聴いていましたがだんだんダイナミックに聴衆を魅了し最後にはまさに弾ききったという熱演。私もこんなに聴き入ってしまったのは久しぶりでブラボーと叫びたいくらいでした。



EMRECANは8歳の時に行われたあるコンテストで「芸術に優れた才能を持つ子供達の為の法律」の適用を受けトルコ・ハジデぺ大学国立音楽学校でピアノの教育を受け始めたそうです。既に国内の数々のオーケストラと共演を果たし、2007年にはシチリアのラグーザで行われた 「Ibla Grand Prize(イブラ・グランド・プライズ」という国際音楽コンクールでは「ショパン特別賞」を受賞しています。現在はウィーンで勉強を続けるトルコ期待の星です。ピアノを弾く姿や演奏後のお辞儀もきちんと礼儀正しくとても好感が持てました。



「ロドリーゴのアランフェス協奏曲」のソリストはトルコの新星に対してギターのウスタ(名工)と呼びたいスペイン出身の国際的ギタリスト「ぺぺ・ロメロ」



イズミルの夜空にアランフェスの哀愁を帯びたメロディーが響くのですが、やはり都心の野外劇場、しかもトルコ…エザーン(モスクからお祈りを呼びかける詠唱)が静かなギターソロの音に重なり、飛行機は轟音を響かせ、かもめがギャーギャーとうるさく飛び交い、ウスタが気の毒になってしまいました。こういう会場での演奏は演目にも配慮が必要ですね。



最後はおなじみ「ラヴェルのボレロ」。1本のフルートから始まる旋律がだんだんと厚みを帯び最後にはシンバルと銅鑼も重なってとても印象的な最後です。「ああ、音楽っていいなあ」と思いながら席を立ちました。




Adnan Saygun Sanat Merkezi完成予想図

さて我が「イズミル国立交響管弦楽団」のフランチャイズコンサートホールは古くて音響も?だったのですが、来シーズンはイズミル初の本格的コンサートホール2つを持つと言う現在建設中の「Adnan Saygun Sanat Merkezi(アドナンサユグン芸術センター)」の杮落としで開幕の予定だそうです。街の大きさの割りに文化的施設が充実していないイズミルですが、いよいよ本格的なコンサート会場誕生でしょうか?「HOMEROS VADISI(ホメロスの谷)」の前例もあることなので実際にこの目で見るまでは信じられませんからね。9月を楽しみにこれからの本格的な猛暑を乗り切ることにしましょう。








トルコのカラスはこんな色をしています。でもふてぶてしい態度は同じ。
             






☆現在のイズミル☆





右前

2008-05-25 01:30:57 | Weblog


先日、9日に亡くなったトルコの歌姫「LEYLA GENCER」のことを書きましたが、「蝶々夫人」を演じた際の写真でLEYLA GENCERが着物を左前に着ているのが皆さんに見つかってしまいました。

「蝶々夫人」を演じるならそのくらい知っておけとまでは、私は言わないけれどやっぱり衣装担当者は注意するべきでしょうかね。「蝶々夫人」を演じる際の注意書きなんてものはないのでしょうか、と思っていたら発見しました!この写真はオペラ「蝶々夫人」の初演時衣装・小道具デザインの原画だそうです。京都のある古本屋さんの目録にありました。
1903年頃の水彩図(25.5×33cm)で1904年にプッチーニがスカラ座においてオペラ「蝶々夫人」を上演するにあたり、高名なフランスの舞台デザイナーLucien Jusseaumeに描かせたものだそうです。ちゃんとあったんですね~、右前に着物を着ています。LEYLA GENCERとそのスタッフはこの絵を知らなかったのでしょうか…。

私がちゃんと着物を着たのは子供の頃、最近は旅行へ行った時にホテルや旅館の浴衣もどきを着るくらいです。それでも「左前」にならないように、なんて一応気をつけているつもりですが、このLEYLA GENCERの写真を見て「あ、左前」なんてことには気がつかない程度でした。そこで一応自分の為にインターネットで検索してみたことをまとめて貼り付けておくことにしました。

通常日本で和服を着る時は「右前」と言って左身頃を上にして、襟のあきが右にくるように着ます。反対に着物の襟のあきを左にもって着ることを左前といい、死んだ人に着せる死装束は左前にします。

日本で和服をなぜ右前にするのか、またいつから右前にするようになったのかについては、諸説があるようですが、大昔の日本では、騎馬民族の影響から「左前」だったそう。騎馬民族は弓を使うため、左前の方が弓矢が引っかからず都合が良かったのですね。それが後に中国(隋や唐)の影響で右前に統一されました。『続日本紀』(しょくにほんぎ)によると、719年に、全ての人が右前に着るという命令が発せられたのです。武士は刀を腰に固定させて携帯していたことと、多くの日本人の利き手が右手だった、という2つのことが最初の原因として考えられるそうです。右前のほうが懐のものを右手で取り出すのに便利だったということもあります。左手の人はさぞや不便だったことでしょう。

と言うことで日本の着物は男女共「右前」で着ますが、洋服の場合は通常男性は右前、女性は左前になっていますよね。これは、西洋で男は左側に帯剣するため剣が抜きやすいように、でも高貴な女性は自分で服を着ず、召使に着せて貰っていたために左前になったとか…。

着るものの合わせ方に人間の利き手が大いに影響しているということにはびっくりしましたが、アフリカのガーナの民族衣装は、利き手に合わせて右前左前を変えるのだそうで、これにもまたびっくり。ずいぶん合理的ではありませんか?そういう柔軟な考え方ができるっていいなあと思います。





今年我が家二度目のクムル雛は二羽とも元気に育っています。
             






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EUROVISION SARKI YARISMASI(ユウロヴィジョンシャルクヤルシュマス)

2008-05-20 01:03:06 | Weblog

ユウロヴィジョン・トルコ代表「MOR VE OTESI」。写真をクリックするとMOR VE OTESIのHPに飛びます。

ユウロヴィジョンソングコンテスト、日本では話題になっているのでしょうか。欧州放送連合に加盟している国が参加、イタリアのサンレモ音楽祭を前身とし1956年にスイスのルガーノで最初に開催されました。当時は参加国たったの7カ国。今年は43カ国の参加が予定されています。このコンテストは前年の優勝国が翌年の開催国となるため今年はセルビアのベルグラードが会場となります。




2003年トルコへユウロヴィジョン初の優勝をもたらしたSERTABの熱唱。

トルコは2003年にSERTAB ERENER(セルタブエレネル)が「EVERYWAY THAT I CAN」で優勝したことが記憶に新しいのではないでしょうか。セルタブのあまりの熱唱に目頭が熱くなったことを覚えています。この時のビデオは何回見ても力が入ります。


MOR VE OTESIのボーカル、ギター担当HARUN TEKIN(ハルン テキン)

さて、2008年のトルコ代表は「MOR VE OTESI(モル ヴェ オテスィ=紫とそのむこう)」というグループに決まりました。参加曲は「DELI(デリ=CRAZY…他の題名なかったのでしょうか)」。この代表、その選考方法がよくわからないのですがたぶん「TRT(国営放送)」によって選考されているのだと思います。TRTで大々的に代表が2月頃に発表され、音楽クリップがTVでも流れるようになります。
今年は5月20日と22日に準決勝が行われ、トルコは22日準決勝の3番目に歌います。それぞれのグループごとに電話投票(この電話投票、自国代表には投票できないのだそうです)による上位9カ国ずつと審査員推薦の2カ国の計20カ国によりにより24日土曜日最終決勝が行われます。



私の周りでは不評な「MOR VE OTESI」ですが、私はなかなか気に入っています。顔は怖いですが、メロディーがとても好きで何回も聴いています。毎年参加曲は他国の人に歌詞としてもアピールできる英語がいいとか、いやトルコ人なんだからトルコ語だ!とかその中間でトルコイングリッシュだ!などと騒がれますが、今年は堂々トルコ語での参加です。皆さんはいかがですか?応援してくださいねー。





MOR VE OTESIのDELIのミュージッククリップをご覧になるには、写真をクリック!
            
再生できない場合はこちらのリンクからどうぞ。↓ 
http://www.trt.net.tr/eurovision2008/eurovisionhtm/sarki.html




トルコ時間で5月22日22時から行われたユウロヴィジョン準決勝で
MOR VE OTESIは無事に決勝進出を決めました!

24日に決勝が行われた結果、1位はロシア、トルコは7位に終わりました。
もっと上位に入れると思っていたのに…残念でした。





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LEYLA GENCER(レイラ ゲンジェル)

2008-05-15 00:05:22 | Weblog

画面をクリックするとスカラ座のHPに飛びます。表紙の追悼記事は既に変わっています。

このリンクは「ミラノスカラ座」のHPです。「LEYLA GENCERよ永遠に」と「20世紀最高のDIVA(ディーバ=歌姫)」、「トルコの歌姫」と呼ばれたLEYLA GENCERを追悼しています。


写真はNTVMSNBC(http://www.ntvmsnbc.com/news/445855.asp)より拝借。

私はミラノスカラ座もオペラにもあまり興味や知識がなかったので、もちろんこの偉大なDIVAの名前も訃報で初めて知ることになりました。トルコに来て以来、訃報に接するたびにその存在すら知ることなく終わってしまった人々の一生を知るにつけ魅力的な立派なトルコ人がかくもいたことに初めて気がつくことを悲しく思うのです。

1954年ナポリ、「マダムヴバタフライ」でしょうか。

1957年サンフランシスコ、「椿姫」

1928年10月10日イスタンブル生れのLEYLA GENCERはイスタンブルの音楽学校を卒業した後、1950年アンカラでオペラデビュー、イタリアデビューを1953年ナポリではたし、1957年にスカラ座デビューをします。以降1980年に引退するまでスカラ座の常連として活躍し、引退後もスカラ座で後進の指導にあたっていました。

1959年フィレンツェ、「レニャーノの戦い」

1975年フィレンツェ、「マクベス」

※白黒写真は全て「IKSV(イスタンブル文化芸術財団)」の    
HP(http://www.leylagencer.org/index.asp?k1=anasayfaより拝借。
  

1950年代から1980年までプリマドンナとして活躍し、イタリアでは非常に人気が高かったそうですが、日本ではうわさのみであまり知られていなかったようです。おそらく大手レコード会社による録音がなかったためで、最近はお金持ちが持っていたライブの録音が発掘され市場に出回るようになって、ようやく日本でも「本当にすごいソプラノだったんだ」と証明されたようです。



5月9日、イタリアはミラノの自宅で心不全により逝去、享年79歳。ミラノの教会で壮大な葬儀が行われ、遺言により火葬された遺灰は故郷イスタンブルのボスフォラス海峡にまかれるそうです。



上の写真をクリックするとトルコのNTV局のニュースビデオよりLEYLA GENCERの往年のステージをご覧になることが出来ます。



2004年には記念硬貨が発行されています。
              






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HIDRELLEZ(フドレルレズ)

2008-05-10 08:49:29 | Weblog


日本ではGWも終わり新緑が青空に映える美しい季節ですね。ピッカピカの1年生や新入社員もそろそろ新しい環境に慣れる頃、トルコでは日本のような学卒社員の入社式なんて聞かないし新学期も9月からなのでいまいち季節の節目感がありません。



日本の百花繚乱、花咲き鳥歌う、と言った心躍る春を懐かしんでいる私ですがトルコにも春のお祭りがあるということを今年初めて知りました。その名も「HIDRELLEZ(フドレルレズ)」。今まで聞いたことがないというのも不思議なのですがおそらく3月にある「NEVRUZ(ネヴルズ)」とごっちゃにしていたのかもしれません。



5月5日の夜、突然近所の通りで激しいリズムでdarbuka(ダルブカ)と言うトルコの太鼓を叩く音と子供たちの嬌声があがり、向かいのバッカル(雑貨屋)のおじさんは火を燃やしていました。何があったのだろうとその日はあまり気にもせず翌日偶然TVのニュースを見て「ああ、HIDRELLEZだったのか」と知った次第。夫も同様だったそうです(一応トルコ人なのに…)。





HIDRELLERZとはフズルとイリヤスという預言者が地上で出会い春を目覚めさせた日である5月6日を祝う日。トルコではフズルとイリヤスと言う言葉が庶民の間で一緒になりフドレルレズという形で呼ばれるようになったそうです。





フズルは「生命の水」を飲んで不死の身となり、特に春になると人々の間を歩き回り困った人を助け、富や豊穣をもたらしたとされます。フズルは善行を愛し植物の芽吹きを助け、動物を繁殖させ、人間の繁栄をもたらすなど吉兆や幸運のシンボルとされてきました。

 
さすがに21世紀のHIDRELLEZ、オンラインでも願い事受付したようです。

HIDRELLEZ前夜は家を掃除し衣類を清潔にし、食べ物飲み物を準備します。家中をきれいにしないとフズルは立ち寄ってくれないからです。新しい服や靴を買います。地域によっては願い事や希望がかなえられるように喜捨をしたり断食をしたり犠牲の動物をささげたりする習慣があります。
HIDRELLEZの行事は緑の多い場所、水際、陵墓や聖者の眠る場所などで行われます。春の新鮮な植物や新鮮な子羊の肉、内臓を食べる習慣もあるそうです。その春一番の子羊を食べると健康になり病気は全快する、野原から花や草を集めて煮た水を飲むとすべての病に良く効く、この水で40日間身体を洗うと若く美しくなる、などなど…。また願い事を紙に書いてNAHIL(ナフル)と言う願い事の木に貼り付けたりバラの苗木に下げたりするのだそうです。写真を見ると日本の七夕に似ていませんか?



HIDRELLEZの夜、フズルが立ち寄りさわったところには豊穣がもたらされると信じられていることから食べ物を入り口に置いたり、倉庫の入り口やお財布の口をあけておくのだそうです。家、畑、車などを望んでいる人は自分が望んでいるものの小さな模型を作るとフズルが手助けをしてくれると信じられています。

メソポタミアやアナトリアの文明、そしてイスラム以前の中央アジアに住むトルコ民族の民間信仰から伝わって来ているという「HIDRELLEZ」、日本の昔からの行事や庶民の信仰に通じる親しみを感じてしまいました。春がもたらすあらゆる植物、生き物の息吹を謳歌し豊穣を願う古くからの人間の営みは世界に共通と言うことでしょうか。






私が見たニュースで紹介されていたイスタンブルで
最も古い地区と言われる「AHIRKAPI(アフルカプ)」のHIDRELLEZ。
今回の写真は全てこちらのHPから拝借いたしました。
クリックするとHPが開きます。
        






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HOMEROS VADISI(ホメロスヴァディスィ=ホメロスの谷)

2008-05-05 11:36:52 | イズミル暮らし・イズミル案内
 ホメロス。写真はwikipediaから拝借。

遠い遠い世界史の授業で習いませんでしたか?ホメロスを…。「イリアス」と「オデュッセイア」と言う二大英雄叙情詩を作った紀元前8世紀頃の詩人、ホメロスが一人の人物であったのかそれとも複数であったのか、「イリアス」と「オデュッセイア」は本当にホメロスの作品であるかどうか等諸説あるようですが、古代ギリシャから今日に至るまで西洋文学に大きな影響を残した偉大な人物であることに違いはないようです。


古代イオニア地方。写真はWikipediaより拝借。

そのホメロスがイズミル出身と言う説があるそうです。イズミルと言っても紀元前の話、当時この辺りは「イオニア」と呼ばれ、ホメロスの作品が主にイオニア方言からなっていることからこの辺の出身だと考えられているのでしょう。

イオニアと言うのは「古代フォカイア(現フォチャ)」から「ミレトス」までの沿岸地域と「サモス島」「キオス島」を含む地域でスミルナ(イズミル)も含まれており、ホメロスもスミルナの住民だったと言われているそうです。


「ホメロスの谷憩いの場」がイズミル市民と出会います。

さて、前置きは壮大なのです。本日の話題はイズミルのボルノヴァ地区にこの日曜日に開園式を迎えた「HOMEROS VADISI(ホメロスの谷)」。都会の中にピクニックのできる公園を造るという大プロジェクトがついに完成オープンすると言うニュースを新聞で見かけて色々調べてみると「HOMEROS VADISIはイズミルの天国となるだろう」とか「緑一色の環境の中で都会に住む人々が深呼吸できる場所」「5000本の植樹をした」「二つの巨大な人造湖ができた」「谷底に沿ってウォーキングを楽しめる」なんて書いてあるのです。期待して出かけました。ボルノヴァから10キロと書いてありましたが、もちろん隠れ方向音痴の夫の運転、気がついたらお隣の県マニサにいましたよ。結局ボルノヴァに戻り街の中に入ったら至るところに「HOMEROS VADISI」の表示があったんですけどね…。


完成予想図。予想通りになるのはいつのこと…。

この日は開園セレモニーが行われ市長が「イズミルの様々な場所から送迎バスを運行させて全イズミル市民を招待します」なんて発表していました。「25人集まればどこへでも送迎バスを迎えに送ります」なんてことも。開園セレモニーには市長はもちろん野党第一党のCHP(共和人民党)党首(イズミルはCHP)がテープカットを行うと言うことで私たちが行った時は既にものすごい人人人…。お弁当を配ったようで既にあたりは弁当空箱とペットボトルのごみの山。イズミル市民、この程度です。村の入り口に駐車場がありそこにマイカーは置いてそこから谷底のピクニックゾーンまでは送迎バスで運ばれます。この送迎バスに乗るのがまたひと騒動にひと悶着、バスに乗る行列はあるものの順番を守らないし、バスの車体が地面にすれるほどの乗員オーバー。肝心の公園はどうだったかって?5年後くらいに期待ってところでしょうか。5000本植えられた木も昨日植えたばかりのような色とりどりの花たちも一夜漬けの完成であることは目に明らか。開園セレモニーの為の突貫工事だったのでしょうか。








人の列は全て帰りの送迎バスに乗るための行列。トルコ人でいることは本当に大変なんです。

なぜ「HOMEROS VADISI(ホメロスの谷)」と命名されたのかと言うと、昔から人々の口承でこの谷に残る洞穴がホメロスが住んでいた「ホメロスの洞穴」と呼ばれており、その洞穴の名前にちなんでいつの間にか「ホメロスの谷プロジェクト」と名づけられたのだそうです。ホメロスが泣いていないといいのですが…。


帰り道、イズミル湾が望めました。


谷の上には高層アパート郡。

この谷へ行くまでに通る村ではさくらんぼが色づき始め、牛や馬がのどかに草を食む光景が見られます。村の間に突然出現する人工の川に湖、静かな村のままのほうがよかったんじゃないの?と思ったのは私だけでしょうか。







人造湖にはカエルが…。
          






☆現在のイズミル☆