イズミル便り

IZMIR'DEN MERHABA

ちょっとMOLA(モラ=休憩)

2007-02-25 08:07:02 | Weblog
咳が止まりません。去年のこの時期も同じようなことを言って同じような記事を書いたような気がするのですが、今年はこれで3回目。今回は特に長くてかれこれ1週間以上続いています。

喉も痛くないし、鼻水も出ないのに咳だけ。咳止めシロップを飲んでものど飴をなめても効き目なし。夜中にいったん発作がおきると(?)1時間は咳き込んで止まりません。苦しい。

夫がついに香辛料屋から色々な葉っぱを買い込んできました。


たとえば「IHLAMUR(ウフラムル=菩提樹)」

 


たとえば「AYVA YAPRAGI(アイヴァヤプラウ=花梨の葉)

 


たとえば「KUSBURNU(クシュブルヌ=ローズヒップ)」

 

これをやかんに入れて煮詰めます。ウフラムルは8回くらいは繰り返し煮ることが出来るそうです。
 
 

夫入魂の咳止めチャイはこちら~。

 

これは2煎目くらいなので少し色が薄くなってしまいましたが、最初はもっときれいなローズ色でした。ここでひらめいたのが先日の「AYVA TATLISI」の色。AYVAの葉っぱを入れればAYVAの美しいローズ色がでるかもしれません。いつか試してみます。きっと来年かな…。










 入魂中?  



ASANSOR満100歳!

2007-02-20 00:25:37 | イズミル暮らし・イズミル案内

現在のアサンソル。

私が住む地区のシンボル的な存在であるASANSOR(アサンソル=エレベーター)については以前も一度書きましたが、このアサンソルが今年満100歳を迎えるそうで「YENI ASIR」と言う地元新聞で特集の記事がありました。現在は大変な住宅密集地であるアサンソル界隈のかつての写真を見てノスタルジックな感慨にふけってしまいました。

   
現在は海岸通からアサンソルを望むことは高層アパートにさえぎられてできなくなりました。右の写真の左上にアサンソルが見えます。


かつてイズミルでは主に2つの地区が「ジュデリア(ユダヤ人地区)」として使われていたそうです。15世紀の宗教裁判で祖国を離れなければならなかったユダヤ人たちがスペインからオスマン帝国へと移住をした地域の一つがエーゲ地方、主にマニサでした。
かつて 「Şehzade Şehri(スルタンの王子たちの街)」として栄えたマニサやアイドゥンに比べてイズミルはかなり小規模で重要ではない街と考えられていたようです。しかし沿岸都市ということから17世紀頃にヨーロッパの投資家、商人がイズミルを港湾都市、荷積みの中心地として注目しだした結果、イズミルの運命は大きく変わり急激に発展をし始めたのです。その為、アイドゥンやマニサの重要性は薄れ、マニサのユダヤ人社会の大部分がイズミルに移住し重要な商業コロニーを築いていきました。






このようにして最初にユダヤ人たちが移住してきた「第一ジュデリア」は、現在のイズミルの中心的商店街として有名なケメルアルトゥの辺りでした。この地区の人口が急激に増加し始めると次第に新しい居住地が探し始められます。鉄道に沿った地域に新しい居住区が広がると同時に18世紀には沿岸に新たに造成開発され始めた地域にユダヤ人たちが注目をし、現在海岸通りに平行に走るMithat Paşa (ミトハトパシャ)通りとうちのアパートが面しているHalil Rıfat Paşa(ハリルルファトパシャ)通りにはさまれた地域は「第二ジュデリア」としてユダヤ人たちの定住が進みました。




ちょうど同じような角度でイズミル湾方面を写した写真がありました。


この辺りの定住が進み人口が増えるにつれ、ミトハトパシャ通りとハリルルファトパシャ通りの住民の生活の便宜の為に多くの階段が作られました。しかし急勾配の階段は住民達にとって悪夢以外の何ものでもなく、ついに1907年にユダヤ人実業家Nesim Leviさんがこの不便さを解消しようとイタリアから連れて来た技術者達とのプロジェクトによって、かつて鉱山だった場所にアサンソルを建築するのです。


見えにくいですが、鉱山の名残が真ん中辺にギザギザと黒っぽく見えます。ここが現在のアサンソルのある場所です。


かつての鉱山の面影は・・・。

第一次大戦の頃、このアサンソルは下が賭博場、真ん中が写真館、上が映画館として使われていたそうです。今はただアサンソルがあるだけ、かつての姿をしのぶものは上にオープンした「Asansor Cafe」だけです。


アサンソルを降りると音楽家として有名なダリオ・モレノが住んだことから名づけられたダレオ・モレノ小径があります。

今でも、ミトハトパシャ通りに一つ、ハリルルファトパシャ通りに一つシナゴグ(ユダヤ教会)が残っていますし、このちょうど「第二ジュデリア」と呼ばれていた辺りには地元の人が「Rum evi(ギリシャ人の家)」と呼ぶ洋館が数多く残っています。Rum eviと呼んでいますが多くはユダヤ人達の住まいだったと言うことでしょうか。市の文化財として認定されているが為に現在の持ち主は好きなように改造もできず朽ち果てている家が少なくありません。放火されたり時の流れとともに崩れてしまった為、浮浪者や不法住人、シンナー常用者の溜まり場になっているような家もあります。かつての美しいイズミルはどこへ行ってしまったのでしょう。


ハリルルファトパシャ通りに面して残るRum eviの廃墟の一つ。壁だけが残っています。



白黒写真はこちらからお借りしました。年代に多少の差があると思いますがご容赦を。
http://wowturkey.com/forum/viewtopic.php?t=3234




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Birten ve Elif (ビルテンとエリフ)

2007-02-14 07:08:06 | イズミル暮らし・イズミル案内


1月26日に生まれたビルテンの妹、名前は「Elif(エリフ)」です。Elifはアラビア語の第一番目の文字の名前、義妹と私のお気に入りのドラマ「IHLAMURLAR ALTINDA(菩提樹の下で)」の主人公の一人の名前でした。そのエリフが大好きだった義妹、影響されたのかどうかは謎ですが妊娠がわかった時から女の子ならエリフと決めていたようです。


ビルテンのおさがりのベビーベッド。

我らがエリフも生後3週間が過ぎようとしています。この日曜日に久しぶりに顔を見に行ったらすっかりしっかりとした顔つきになり口元などやっぱりビルテンに似てきたようです。

 

ビルテンは食が細く、赤ちゃんの頃からミルクを飲ませるのも一苦労だったそうですが、エリフはいつまでたってもお腹がいっぱいにならないそうで義妹はへとへとです。

いつも周りに誰かがいるので、泣けばすぐに誰かの腕に抱かれることに慣れてしまったエリフ 、布団の上に置かれるやいなや「ひゅんひゅん」泣き始めます。そして誰かが抱っこすればご機嫌!布団の上ではラジオがかかっていていつもクラシック音楽ならぬトルコの渋~い音楽を聴いているエリフ、どんな女の子に育つでしょうか。イブラヒムタトゥルセスやオルハンゲンジェバイ(トルコ演歌の大御所)大好きな子になっちゃったりして。



トルコではこうやって足の上に赤ちゃんを乗せて揺らしながら寝かせます。腹筋が強くなりそう。

アンネの家から義妹の家までエリフを連れて来る時(同じアパート)、おくるみの中に財布のようなものをアンネが入れていました。ベッドに寝かした後もそのままで私はアンネが財布を入れて忘れたのだと思って聞くと、「これはコーラン(イスラム教の経典)なのよ、生後40日目まではこうやって外に出る時は身を守るように入れておくの」とのこと。一つまた新しいことを覚えました。


        


トルコの学校は二期制で今週から後期が始まりました。前期と後期の間には15日のお休みがあったわけですが、ビルテンの宿題・・・もちろんあったそうです。そして最後の最後、日曜日の夕方に思い出したわけです。びるてえええん!!! (義妹の声)。ビルテン、子守に忙しかったのでしょうか。泣きそうになりながら夕飯後宿題に着手!義妹やその旦那、私の夫にアンネにと、よってたかって世話を焼かれてぐちゃぐちゃになりながら…。


普通に見えますが実は相当パニクってます。



Happy Varentine's Day 素敵なバレンタインデーをお過ごしください。


夫からのプレゼントは炊飯器でした!
まさかトルコで炊飯器が買えるとは。嬉しいっ!
      

BRUKSEL LAHANASI(ブリュクセルラハナ=芽キャベツ)

2007-02-10 07:12:08 | 料理


トルコのパザルの冬の顔の一つ、BRUKSEL LAHANASI。ブリュクセルとはベルギーの首都ブリュッセルのトルコ語です。どうしてブリュッセル?とずっと不思議に思っていたのですがその謎が解けたので今日は芽キャベツの話題。

この芽キャベツ、起源は西ヨーロッパだそうで200年ほど前に初めてベルギーで食用に栽培が始まったそうです。だからブリュッセル!因みに英語ではbrussels sprouts。


びっしり実ったブリュクセルラハナ。写真は「サカタのタネ」HPから拝借しました。

アブラナ科の一種で長く太い茎にたくさんつきます。1株から50個も60個も獲れるそうで写真を見てびっくり。キャベツよりも暑さに弱いため、収穫のピークは12~1月、効用としては血液を清浄にし、胸焼け、吐き気、食欲不振、疲労回復、利尿、高血圧、肝臓病などにもよいとされているそうです。ビタミンCもレモンの1.5倍も含まれ芽キャベツを6個も食べれば一日に摂取必要なビタミンCは摂取できてしまうのだとか。

日本では外食の時にしか食べたことはなかったし、トルコに来てからもまだ数回しか料理したことがありません。今回はちょうどクルバンバイラム(犠牲祭)に頂いた羊肉もあったのでHurriyet新聞のインターネット版で見つけたMercimekli Brüksel Lahanası(メルジメッキ豆入りブリュクセルラハナ)と言うレシピを試してみました。

       
     緑メルジメッキ豆とクルバンバイラムに頂いた肉。



《作り方》

ブリュクセルラハナ500g
緑メルジメッキ豆250g
羊肉150g
玉ねぎ2個
マーガリン40g
サルチャ(トマトペースト)大さじ3
熱湯1カップ


①ブリュクセルラハナの芯の部分を切り外側の葉を落とす。
②緑メルジメッキ豆を10分ほどお湯に浸しておく。
③みじん切りにした玉ねぎをマーガリンで炒め、肉も加えて水分がなくなるまで炒める。
④熱湯で溶いたサルチャを加える。
⑤最後にブリュクセルラハナとメルジメッキを加え、塩を入れて柔らかくなるまで煮る。


水分がなくなってしまいましたが美味しかった。Afiyet olsun!


※私はこの通りに作ったのですが、水気をすぐに吸ってしまうのでメルジメッキはお湯につけるだけではなく、茹でておいた方が良いと思いました。





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BIR HAFTA SONU(ビルハフタソヌ=ある週末)

2007-02-03 19:55:43 | 


小春日和のある週末の一日、朝寝坊をするのもいいけれど早起きをしてちょっとした小旅行ができるのもイズミル暮らしならでは。
今回私達はイズミルからイズミル湾に沿って北西へ70キロあまりのところにあるFoca(フォチャ)を目指しました。何となく以前から気になっていたFoca、夫にとっては遠い昔にFocaで夏の間キャンプをしていた今は亡き伯父さんを訪ねたことがあると言う思い出の地。


水の中をのぞいてみると!なんと!!ウニが!!!びっしり。春先にウに獲りに来なければ!

歴史の父ヘロドトスはトロイ戦争について調べるためにこの辺りを訪れ、祖国に戻った後で「フォチャの人々は我々が知っている限りこの地球上の最も美しい大空と気候のもとに都市を築いた」とその著書の中で書いたそうです。
そのフォチャを築いた人々と言うのは紀元前600年以前のフォカイア人、フォカイアというのはこの辺の海で見られる地中海モンクアザラシ(Phoca)から取られた名前のようです。このアザラシ、既に世界で400頭とも言われている珍しい種類なのだそう。



フォカイア人は優れた船乗り、商人であり50本のオールを持つ500人乗りの船でエーゲ海、黒海、地中海を渡り歩き現在のサムスンを初め各地で植民地を築きました。フランスへアルファベットをもたらしたのもフォカイア人だとか。様々な文化を各地へもたらしその貨幣はあらゆる場所で使えたのだそうです。ところがさすがのフォカイアもペルシャの進攻を止めることはできませんでした。ペルシャ軍の将軍ハルパゴスに降伏をする為に1日の猶予を求めたフォカイア人、翌朝ハルパゴスが明け渡しを求める為にフォカイアの街に入ってみるとそこには1匹の犬がいるだけで人っ子一人いないもぬけの殻であったそうです。奴隷になるよりは祖国なき海の民の道を選んだフォカイア人たちは夜のうちに地下に掘ってあったトンネルを使って重要な荷物共々船で大海へと旅立っていったのだそうです。


役場も港に面して建っていました。右側の建物。

と行く前にこんなにわか勉強をして既にフォカイア人の勇壮なロマンにうっとりしながら行ったフォチャの町に私は完全に魅了されてしまいました。夏の間は観光客でレストランに席を見つけることすら難しいそうですが、冬の柔らかい日差しの中でのんびりと散歩をする人々の顔はみな穏やか。小さな港沿いの道で釣り船や夏の間島巡りをする観光船を見たり、裏道に入って石畳の上をギリシャ風、オスマントルコ風の古い石造りの洋館を見てぶらぶらするだけでも幸福感を充分に蓄えることができました。


シーズンオフのひとけのないレストランもまた風情があります。

Focaは、隣接したもう一つの町YeniFoca(新フォチャ)と区別するためにEskiFoca(旧フォチャ)とも呼ばれます。遅めの昼食はYeniFocaへ行ってみようかと車を走らせましたがこちらはもう少し小さい新興のリゾート地といった風情で特に見るものもなくやっぱりEskiFocaがいいねとまたUターンをしました。まさにFocaには一度でもFocaを見たならFocaを好きにならずにはいられない、そして再び戻らないでいることは不可能だという伝説(長くなるのでここには書きません)があるそうです。今回私達もはからずもその日のうちにその伝説を実践してしまったわけですが、夫もその昔伯父さんをFocaに訪ねた翌年、クシャダスで夏休みを過ごしたのですが、やはりFocaが懐かしくなってバスに飛び乗ってFocaまで来て、チャイを飲んでまたクシャダスへ帰ったと言う思い出があるそうです。

不思議なFocaの物語でした。





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