秀明記(syuumeiki)

着物デザイナーが日々感じたこと、
全国旅(催事)で出会った人たちとのエピソードなど・・・
つれずれなるままに。

小町寺。

2009年03月05日 07時15分44秒 | 京都非観光迷所案内
洛北の三原、大原、静原、市原。といっても大原以外は観光客の訪ねる地ではあり
ません。

「山かつの すみぬとみゆるわたりかな 冬にあせ行く静原の里」 西行法師

そのぶん、静原などはその名が示すように静かな里といえるでしょう。

この里には昔、アマゴ釣りにきたり、河原にクレソンを摘みにきましたが、最近は
抜け道として利用することもなく、ご無沙汰でした。

砕石場や、建設会社のあるあたりは「静かな里」とはいえませんが、脇道に入った
村落は昔ながらの風景でした。

この静原では死者の出た家は「ブク」といい、「ムカイヤ」(一周忌)が済むまで
神社にお参りできないそうです。

そういえば、我が家でもそんなこといってたけど、明治の神仏判然令以前は神も仏
も一緒に合祀している社や寺はけっこうあったはず。

神主がお経をあげたりしていた、という話も聞いたことがあります。

それはおいといて。

静原街道を突き当たると鞍馬街道。右は鞍馬、貴船への道です。

今回は左に折れて宝ヶ池から帰宅。その前にちょっと※「小町寺」に寄り道。

小町寺とよばれる寺は、他にも山科の随心院がありますが、この寺は※小町が終焉を
迎えた地といわれています。

この静原はかつては鳥辺野や化野と同じ埋葬の地であったことから、そんな伝説
が生まれたのかも知れません。(この地で父親が暮らしていた、など諸説があります。)

あるとき、恵心僧都がススキ野を歩いていると、
「あなめ、あなめ」(あ~、目が痛い)と叫ぶ髑髏と遭遇、見ると髑髏の目から
ススキが生えていて、その菩提を弔ったのですが、そのれが小町の髑髏だったとか。

この髑髏からススキ(または草など)が生えて、痛みを訴えるという話は他にも
よく耳にします。(後白河法皇の三十三軒堂建立の由来など)

そのあたり仏教説話のもとになるルーツがあるのかも知れませんね。

小町信仰を伝えたのは小野氏ゆかりの巫女や覡(かんなぎ)だといわれています。

「われ死なば焼くな埋むるな野にさらせ 痩せたる犬の腹をこやせや」

この小町辞世の句もそんな巫女たちによって全国に伝えわっていったのでしょうか。

※静原の小町寺、正式名は「補陀洛寺」。もとの補陀洛寺は静原にありましたが、
廃寺となり、その後この地に再興されました。

※小町の町は宮廷の区画(大町、中町など)を示す言葉、という説や小町のマチ
とは町に仕える巫女や覡のことをいう言葉という説もあります。