秀明記(syuumeiki)

着物デザイナーが日々感じたこと、
全国旅(催事)で出会った人たちとのエピソードなど・・・
つれずれなるままに。

「小野毛子」の墓。

2009年03月02日 07時40分02秒 | 京都非観光迷所案内
本日の朝食、大原の「山田農園」の卵かけご飯。黄身の味が濃くて美味かった!

「大原の有精卵」から「蓮花寺」、そして「小野毛子」(おののえみし)の墓。
いつも通りなんの脈絡もありませんが・・・。

募陵のある「宗道神社」は以前お話した菅原道真と並ぶ日本三大怨霊といわれる
※「宗道天皇」の霊を鎮めるために建立された神社の一つですが、今回は「毛子」の話。

「毛子」の墓は正確には「宗道神社」の裏山に位置しています。

神社の参道は思った以上に長く、一歩ずつ歩むたびに太古の森に踏み込んで行く
気がします。

石段を登れば「宗道神社」ですが、その手前を右へ、細い山道を登る
こと約20分、息絶え絶えになる寸前、ようやく樹木が伐採された明るい山頂へ到着。

途中の道は狭い上に所々苔むしている岩があるから、登下山には注意が必要です。
(って誰も行かないか)

墓の前で一息ついて振り向くと八瀬の村落が一望でき、なるほどこの場所が墓地
に選ばれた理由が納得できました。

石碑をカメラに収めて、綴れ折れの坂を下りきると、先ほど「蓮花寺」のガレージ
で出合ったタクシーの運転手さんと遭遇。

「どこを見学してこられました?」、と訪ねられたので「いや、毛子の墓を」
と、答えると以外そうに驚かれました。

確かに「宗道神社」も見学しないで毛子の墓だけ訪ねる人は少ないでしょうね。
(宗道神社を見学する観光客自体、少ないと思いますけど・・・。)

お話をすると、なんとその運転手さん、「小野氏」の末裔で、仕事の合間に
「小野氏」に関わりの土地を調べておられるそうです。

かなり本格的に調査されておられるご様子でしたね。

こちらはなにしろ「非観光迷所案内」ですから、対応できるほどの知識もなくて、
感心するばかり。

ところで「毛子」、ってダレ?という人が多いと思いますが、「毛子」は遣隋使で
有名な「小野妹子」の息子です。

あの「日出ずる処の天子」の国書を携えて中国へ渡り、かの国の国王を激怒させた
「遣隋使」。返書を紛失したカドで一時謹慎させられますが、すぐに国務に復帰。

きっと紛失はウソで、「ばっかじゃないの?なんでお前んちみたいな小国が日出ず
る処なのよ。顔あらって出直してこんかい!!」ってくらいの事が書かれていて、
天皇に見せるわけにはいかなかったんでしょうね。

有能な役人であった妹子の子、「毛子」も有能な人だったのでしょう、天武朝のもとで
太政官と刑部大臣を兼任していたそうです。

その「毛子」の墓が発見されたのは慶長十八(1613)年。募中から金銅製墓誌が見
つかりました。墓誌とは故人の官職名や功績を彫りつけたもので、今日の墓石ですね。

この「毛子」発掘のニュースは当時の知識人たちにはビッグニュースだったようで、
伊藤東涯(仁斎の息子)なども見学に出かけたと書き残されています。

その墓誌は明治に一度盗掘にあいますが、無事に返還され、最終的には国宝に指定
されて、現在は京都国立博物館に収められています。

この辺り、はじめは出雲族が住み、その後小野一族が移り住み、やがて小野氏も
全国にちらばっていったようです。

因みに運転手さんは九州に移り住んだ一族の末裔。

この八瀬近辺、八瀬童子の話でいつか取り上げたいと思っています。

※天皇の位は死後15年後に与えられたもので、生存中は「早良親王」と呼ばれていた。

参考書籍 京の石碑ものがたり 伊藤宗裕氏著 京都新聞社。