鑑真大和上東渡│「大和名所圖會三 添下郡、平群郡、廣瀬郡、葛下郡、忍海郡」
下記は医薬に御造詣が深かった鑑真大和上に関する『続日本記』の記述である。留学僧・栄叡の死去を嘆き悲しまれ御眼から光が失われても、経典をそらんじ諸本の誤字を校正なさったことに加えて、薬物の真偽を嗅いで検証するにあたり一つの誤りもなく、光明皇太后が御病気の際に治療にあたられたことなどが記されている。
<書き下し文> 天平宝字七年(七六三年)「五月戊申、大和上鑒真物化す。和上は楊州龍興寺の大徳なり。博く経論に渉り、尤も戒律に精し。江淮の間に独り化主と為り。天宝二載、留学僧栄叡、業行等、和上に白して曰く、「仏法東流して、本国に至れり。その教有りと雖も、人の伝授する無し。幸み願はくは、和上東遊して化を興されむことを。」辞旨懇に至りて諮請息まず。乃ち楊州に船を買ひて海に入る。而るに中途にして風に漂ひて、船打ち破られぬ。和上一心に念仏す。人皆これに頼みて死ぬることを免る。七載に至りて更に復、渡海す。亦、風浪に遭ひて日南に漂着しき。時に栄叡物故す。和上悲しみ泣きて明を失ふ。勝宝四年、本国使適唐に聘えしとき、業行乃ち説くに宿心を以てせり。遂に弟子廿四人と、。副使大伴宿禰古麻呂が船に寄り乗りて帰朝せり。東大寺安置き供養る。時に勅有りて、一切の経論を校正さしめたまふ。往往に誤れる字あり、諸の本皆同じくして、能く正すこと莫し。和上諳に誦して、多く雌黄を下す。又、以諸の薬物を以て真偽を名かしむ。和上一一鼻を以て別つ。一つも錯失ることなし。聖武皇帝、之を師として戒を受けたまふ。皇太后の不悆に及びて、進れる医薬、験有り。位大僧正を授く。俄に綱務煩雑なるを以て、改めて大和上の号を授け、施すに備前国の水田一百町を以てす。又、新田部親王の旧宅を施して戒院とせしむ。今の招提寺是なり。和上、預め終る日を記し、期に至りて端坐して、怡然として遷化す。時に年七十有七。」
(続日本紀 巻第二十四│新日本古典文学大系 続日本紀三)
藤三娘、光明皇太后は聖武天皇崩御の四十九日にあたり、東大寺大仏に聖武天皇御遺愛の品と「訶梨勒」を含む六十種類の薬物を奉納された。鑑真大和上はこれら薬物の献納目録書『種々薬帳』の成立にも多大な貢献をなさっている。本邦には『鑑上人秘方』という書一巻が存在したらしいが、惜しむらくは散逸し後世の我等医家が拝読する術はない。『唐招提寺論叢』の北川智泉長老著<鑑真大和上の醫道并に製薬に関する文献>の序には、本邦の医薬二法の道は鑑真大和上が開祖であり、医道及び製薬にたずさわる者は初祖の御恩徳に報いて感謝し努めるべしとの意の御言葉が綴られている。
「(前文略)我朝の醫道及び製藥の二法は吾宗祖大師に依て開けし事に關しいさゝか諸書の文獻等を採録し研究者の參考に供すると共に現代醫道及び製藥業者は舊の如く大和上の尊像を奉祀し以て其の初祖に對する報恩謝徳の意思表現あらんことを乞ふ之が採録の序となすのみ」(鑑真大和上の醫道并に製薬に関する文献│「唐招提寺論叢」)
鑑真大和上に対する讃仰の念から発した本記事を締めるにあたり、偉大なる御遺徳を偲び医薬の道への御貢献に改めて思いを致すとともに、感銘を受けた大和上の御言葉を記し置きたい。第一回目の渡航計画は誣告の為に水泡に帰して、一時は獄に投ぜられた留学僧・栄叡と普照は再び願い奉るべく鑑真大和上のもとに参上する。大和上の御心は、「是為法事也。何惜身命。諸人不去我即去。」(是れ法事の為なり。何ぞ身命を惜(おしま)ん。諸人去ら不(ず)んば我即ち去んのみ。)と御決意された時のままに揺るがない。これは傍らの思い悩む両人を諭された時の御言葉である。
「不須愁。宜求方便。必遂本願。」
愁(うれふ)ことを須(もち)ひ不(ざ)れ、宜く方便を求て、必ず本願を遂ぐ。
大和尚曰不須愁宜求方便必遂本願│『宝暦十二年原本 唐大和上東征伝』
参考資料:
蔵中進編:和泉書院影印叢刊12「宝暦十二年版本 唐大和上東征伝」, 和泉書院, 1979
唐招提寺戒学院鑑真大和上頌徳会編:「唐招提寺論叢」, 桑名文星堂, 1944
青木和夫, 笹山晴生, 稲岡耕二編著:新日本古典文学大系「続日本紀 三」, 岩波書店, 1992