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女学生

2020-07-18 17:31:07 | 日記
世田谷の家は玉電(現在の東京下高井戸線)の沿線にあって、若林駅と西太子堂の駅の中間ぐらいの所だった。朝の7時を10分ほど過ぎると、大学生から中学生までの男女がぞろぞろと太子堂駅に向かって歩いた。女子学生が多かった。我が家の左隣が実践女学園、その隣が昭和女子大付属高、右隣には昭和女子大付属の高校・中学の姉妹、他には鴎友学園の姉妹、東京女子大生などがいた。昭和女子大付属は高校が紺色、中学が赤のベレー帽をかぶっていた。

高校2年になるときに茨城から上京してきた私には、東京の女学生はとても新鮮に見えた。茨城の女学生は10月から3月まで上半身がセーラー服、下半身がズボン姿で登校するのだが、東京娘は真冬でもオーバーコートの下はスカートにホワイトソックスである。田舎と都会の差は、ズボンとスカートの差でもあった。

先日、岡江久美子さんがコロナ肺炎で亡くなった。文藝春秋7月号の追悼録によると、岡江さんは鴎友学園の出身だそうだ。前述のように私の高校時代の朝の登校時には鴎友に通う姉妹がいた。鴎友は玉電の宮の坂という駅にあったと記憶している。宮の坂は下高井戸方向にあって、西太子堂の駅では少数派だった。つまり、大半の学生達は渋谷方向に行くのである。鴎友姉妹の家の玄関にはN工務店と印された大きなドアがあった。しかし、工務店の主はすでに亡くなっていた。そのためか、駅で見る姉妹は、どこか淋しそうというか、静かな感じがあった。

岡江久美子さんは賢い主婦という印象があって、そういう役が似合っていた。笑顔に家庭的な温かさがあった。雑誌で鴎友学園の4文字を見て、あの頃を思い出した。あの頃から68年が経つ。

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