昭和40年代の話である。 1カ月の残業が100時間を超えるのが当然、ときには200時間に近くなることもあった。これには多少の計算法のマジックもあって、休日出勤や徹夜勤務の翌日は全時間が残業扱いになるからでもあった。 残業手当は3割増しであって、たとえば本給10万円であれば、それを25で割り、さらに8で割ると、時給は500円となり、それが残業となると、650円にハネ上がるから、月給袋を開けると、ほう!と声が出るような金額になる。 退社が遅くなるから、酒場へ行くことも少なくなる。 亭主の収入が増え、酒代が減るのだから、女房も喜び、ハンドバッグやアクセサリーを買い替えたりする。 景気回復、経済再生、いろいろと難しい言い方はあろうが、国に元気があるというのは、前記のようなことを言うのだろうと、ある時代を経験した私は思う。 蒲田工場に勤めていて、仕事が9時過ぎにおわって、さて、どうするか? 私は現場へ出て、工員さんたちの下仕事を手伝う。11時になると(会社払いで)ハイヤーが使える。私(当時は、大船の近くの団地住まい)が最終ランナーだから、2、3人の仲間も途中まで送って行ける。すでに表口の閉まった近所の酒店でサントリーホワイトを1本買い、車(クライスラーが多かった)の中で、キャップを使って回し飲みする(ストレートだから水が欲しくなるが、当時、ペットボトルの水は売っていない)。家へ帰って何時間眠れるか。明日もまた、例のごとくの遅刻出社か。まあ、しかたないか。 「そんな時代もあったねと いつか話せる日が来るわ」って誰の歌だっけ。
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