由紀草一の一読三陳

学而思(学んで、そして思う)の実践をめざすブログです。主に本を読んで考えたことを不定期に書いていきます。

男はいらんかね

2012年07月11日 | ビジュアル(映画・マンガ、など)
メインワークス:平山秀幸監督「愛を乞うひと」(平成8年)
        成島出監督「八日目の蝉」(平成23年)

 母性神話は、最も強力に人類の文化を支えている要素の一つだろう。しばらく前には「子どもを産まない女の生き方」を商品化しようとする動きも多少あったような気がするが、「少子化」が一大問題とされるようになってから、それも消えた。だからといって、若い夫婦が子作りに励むようになったという明らかな証拠まではないけれど、「産まない」選択をすることは、女性にとってたいへんなプレッシャーになるとは実感されているようだ。
 これは理不尽だ、と思う女性がいても不思議ではない。人は社会の中で、「自然に」何かになったりできる者ではない。母親も、それ以前に女そのものも、生まれてから「なる」ものだ。それなのに、母親にならなかった場合には、一方的に、まるで女失格のように見られたり言われたりしてよいものなのか? あまり目立つとは言えないが、ここからくる葛藤は、フェミニズム以前から、いくつかの文学的な作品にも垣間見えている。
 ただし、文学関係で母子関係というと、すぐにかのエディプス・コンプレックスが思い浮かぶだろう。「母を犯したい」という欲望がそれほど普遍的なものかどうか、私自身は疑っているけれど、誰からであれ、「母」が性欲の対象と見られるのは、それだけでもけっこうスキャンダラスだとされがちなのはわかる。もちろん、少なくとも一度は「性」の段階を経なければ、女は母にはなれない。そしてそのことは、少なくとも子どもの目からは隠すべきものとされている。
 例えばハムレットは、かなりのマザコン男で、母が父以外の男のモノとなったことをさんざんに罵る。そして母もまた、その非難を受け入れて、後悔するようなそぶりは見せる。女が、夫の死後に再婚するのは、当時も今も一般に不道徳とはされていないにもかかわらず、母である以上、こんな「義務」までなんとなく背負わされてしまう。
 また、キリスト教で、処女のままイエスを産んだとされているマリアが崇拝の対象になってきた事実も、「母」から「性」(セックス)を引き離そうとする感情がいかに広く深く行き渡っているかを証すだろう。換言すると、母体であるユダヤ教からして非常に父性的であるキリスト教が、世界宗教へと発展していくためには、なんらかの形で母性を取り込む必要があり、そのためにマリア伝説は好都合であったのだ。
     
 もう少し別の角度から考えるために、エディプス関係から外れているはずの、母娘関係を例にしてみたい。といっても、これを主軸にした作品は、無知のせいか、あんまり思い浮かばないのだが。
 古い映画だと、たまたま同じ1960(昭和三十五)年に製作された、ヴィットリオ・デ・シーカ監督「ふたりの女」と小津安二郎監督「秋日和」ぐらいか。この二作品の母(ソフィア・ローレン/原節子)はともに寡婦で、しかも美貌であるために、男たちの欲望の対象にされる。前者はイタリアの、第二次世界大戦の敗戦前後を舞台にしているため、あからさまに、後者は小津作品なので、礼儀正しく。どちらの場合も、娘(エレオノラ・ブラウン/司葉子)はこれに対して、けっこう厳しい。母には、自分のお手本になってくれることを当然のこととして求める。自分もまた、男の欲望の対象になる身体を持っていることを自覚すれば、なおさら、そうなる。そのときの母の側の惑い。両作品はこれを主要なモチーフとして展開する。
 つまり、これまた旧来の母性神話の枠内にある。母が母性以外の意味で「女」であることには、子どもの立場からは反感が持たれる。子どもが男であっても女であっても。理不尽だ、と言ってみてもそれだけでは解消できないぐらい、その根は深いのである。
 もっと別の形のものはないのか、と思ったら、最近の日本映画にそういう作品があった。これも、女性の自由度が高まったためだろうか。

 標記の二作品には共通したプロットがある。両作の「母」とも、非難が少しも理不尽ではないような者だ。しかし、そのことの本当の意味は何か? 成長した娘が探る。この探索と発見の物語が全体の大枠を作っている。そこで映画は、現在の娘と、過去の母を交差させる形で進む。
 「愛を乞うひと」の母(原田美枝子)は暴力的で、娘(成長してからは原田が一人二役で演じる)にひどい虐待を繰り返す。なぜか? 娘はかつて父(中井貴一)の手で母から引き離され、父の死後は孤児院に預けられていた。それを、他の男と同棲だか再婚だかしていた母がわざわざ引き取った。それなのに、まるで憎んでいるとしか思えない暴行の嵐。娘はあるとき、「私が可愛いからひきとったんでしょう?」と精一杯の抗議をしてみる。母の答えは、「お前なんか産みたくなかったんだ。お前は強姦されてできた子だ」。
 後に「強姦されて」云々は嘘であると判明する。それ以外の理由として、母の口からは、「子どもが施設にいたんじゃみっともない」と漏らされることもあるが、信用できない。世間体なんかそんなに気にする女とは思えない。娘が働けるようになってからは、その給料を巻き上げるが、最初からそれが目当てで、十歳の娘を引き取ったというのも無理がある。そんなに「計画性」がある女とも思えない。
 この母もまた、その親から虐待されていたのではないか、とは父の知り合いの婦人(熊谷真実)の推測だが、父と知り合う以前の母については、描かれることも語られることもないから、これは仮定にとどまる。
 これが語られる会食の場面には、もっと重要な話がある。父と母の関係が詳しくわかるのだ。終戦直後、台湾人である父は、宿無しの母が、ゆきずりの男に強姦されたところに行き合わせて、知り合う。父はやさしく彼女を包み込み、やがて愛情が芽生えて、結婚する。しかし妊娠すると、彼女はなぜか、捨てられるのではないかと脅える。出産後まもなく父は肺病にかかり、死期が近いことを悟る。虐待はもう始まっていた。そこで前述のように、彼は幼い娘を連れて、母と別れる。
 これが重要なキーであることは、そもそも映画の冒頭に、雨の中、娘の手を引いて歩み去る父と、悪態をつき、よろめきながらそれを追いかける母の姿が置かれていることでもわかる。すると、こういう推測が成り立つ。父は、母が愛したたった一人の男だった。そして、母を捨てたたった一人の男でもあった。それ以外にはいつも、母のほうで男を捨ててきたのだ。そこからくる強い愛憎の感情を、母は忘れ形見の娘にぶつけた。
 以上はセリフで語られることは一切ない。それはこの映画の優れたところだとしてよいと思う。この推測が正しければ正しいで、間違っていれば間違っていたで、強く印象づけられるのは、人間の愛憎の手に負えない不条理さだろう。母性もまた、その例外ではあり得ない。つまり、理不尽なのは女性が置かれた立場とばかりは言えないのである。

 「八日目の蝉」は、生後四ヶ月から四歳までの四年半、誘拐犯の女に育てられた娘の話である。
 誘拐犯(永作博美)を「母」として記述すると、彼女は妻帯者の男(田中哲司)との不倫で、妊娠するが、「まだ妻とは離婚できる段階ではない」と言われ、堕胎して、それが基で子どもが産めない体になってしまう。男が離婚して彼女と結婚するわけはないことは、彼の妻(森口瑤子)が妊娠したことで確定的になる。浮気を嗅ぎつけた妻からは、「(子どもが産めない)あんたは空っぽのがらんどうよ」と罵られる。絶望にかられた「母」は、夫婦の留守宅に入り込み、残された赤ん坊を見る。一目見ればすべてあきらめられると思ったのだが、産まれる前に失われたわが子が念頭に浮かんできて、衝動的に赤ん坊をさらう。その後は、各地を転々としながら、警察に捕まるまで、自分の子として、わが子につけるつもりだった名前で呼びつつ、慈しみ育てる。
 娘は、実家にもどされてからも、最初は実の父母を「知らないおじさんとおばさん」だとしか思えず、「母」のところへもどろうとして、家出したりする。やがてそれなりに事情が飲み込めた後も、ちょっとしたときに「母」の影が滲み出てきて、実母を苛立たせる。
 これ以上の不条理はないだろう。本当は、「母」から娘を取り戻すべく奮闘する実母こそ、ヒロインとして描かれるべきだったのではないか。現に冒頭は、実母が裁判でその不条理を訴えるところから始まっている。しかし、その後の映画の半分は、「母」と娘の「愛の逃避行」の描写で占められる。そこで一番強い訴求力があるのは、憂いに満ちた永作博美の可憐な容姿だと個人的には思うが、ともかくこれを見た観客は、彼らの幸せな生活が一日でも長く続くことを願うように導かれる。不条理の上塗りである。この束の間の幸福のために実の両親が払わされた代価が、償われることはついにない。
 やがて成長した娘(井上真央)は、「母」と同様に不倫の子を孕む。そして、「逃避行」のとき出会っていた女(小池栄子)に導かれて、思い出の地を歴訪し、「母」の深い愛情を改めて見出し、自分は一人で、今お腹にいる子どもを育てることを決意する。ここで映画は終わる。母性が勝利したわけだ。それも、男を可能な限り遠ざけた形で。
 角田光代の原作小説からして、男性排除の志向があることは見やすい。何より、女だけの宗教団体らしきエンゼル・ホームなるものが登場する。映画では、逃避行の最初の場所として選ばれるのがここである。様々な理由で社会にいられなくなった女たちの駆け込み寺的な性格もあるので、イエスの箱舟を連想させるが、全体としてはジェンダーからの解放を目指しているらしい以外、よくわからない。原作では、娘が後で新聞・雑誌記事などで調べたこととして、創設から消滅までの簡単な説明はあるが、映画ではそれもない。こういった団体の全体像を描くとしたら、それだけで、小説「八日目の蝉」よりずっと分厚い本になりそうだから、しかたのないことではある。しかし、中途半端に出てくるので、未消化感は残ってしまう。
 それより、映画にはもっとずっと強烈なシーンが二つある。娘の家庭は、この出来事と、それがマスコミの好奇の目にさらされたために、離散はしないが内面的にはバラバラになり、十年以上たっても修復されない。改めて、不条理極まりない話である。娘は大学入学を期に、実母の反対を押し切って一人暮らしを始める。実父は仕事を転々としつつ、実母にはないしょで娘に小遣いを与える。最初のほうのシーンで、娘はこれを断る。「父親らしいことはしないで。似合わないから」。
 もう一つは、娘が不倫相手(劇団ひとり)に別れを告げる場面。彼も、実父と全く同じ種類の男であり、このままでは娘も「母」のような道を歩かされることははっきりしている。で、「もう会いません」と言うのだが、ここは井上真央一人のアップとなり、それを聞いた男のほうの反応は一切描かれない。愛していたはずなのに、最初から全く問題にする値打ちもなかった存在であったかのよう。これはめったにない、大胆な手法である。
 こうしてこの映画からは「父」は二重に追放される。残るのは、聖母マリアに近い純粋な母性のみ。一見「無償の愛」に見えるので、感動的だ。しかし、実際は有償であったことは、上で見た通り。

 もう一つの作品には、これほど露骨な表現はないが、やはり父の影は薄い。
 娘の旅は、直接には父の遺骨をさがすためのものだ。それがほとんどただちに、より強力な人物だった母に向き合うためのものにすり代わる。前述の私の推測が正しいとして、問題になっているのは父の存在ではなく、父の不在なのだ。娘は女だというせいもあって、どうあっても父の代わりにはなれない。母を苛立たせるものとしては、おそらくこれ以上はない。
 また、この娘・照恵には、今は高校生になる娘・深草(みぐさ・野波麻帆)がいるのだが、母子家庭である。深草の父親はどうしたのか、全然わからない(下田治美の原作では、交通事故で亡くなったことになっている)。話題になるのも一度だけ、プロポーズの模様を、のろけのように深草に告げるとき。深草の漕ぐ自転車の後に横座りで乗って、深草に抱きつきながら。このときの原田美枝子は、母・信子を演じるときとはうってかわった可愛らしさを存分に見せていて、よいのだが、話の内容は凡庸なホーム・ドラマに過ぎない。
 それはいいとしても、このとき照恵は夫を「あの人」と呼ぶ。「あの人ったらね~」という調子で。娘に父親について話すときに、「あの人」と呼ぶ母がどれくらいいるものか。いなくはないだろう。しかしここでは、照恵は、かつての夫について語るのであって、それが今現に密着している深草の父であることは、度外視されている。計算づくでそうした、というより、彼はそういうふうに扱われるのが相応しいのだ。より正確に言うと、「父」はそう扱われるのが相応しいように作られた映画なのだ。
 つまり、「愛を乞うひと」の父たちは、「八日目の蝉」のよりずっと優しく、責任感もあるのに、やっぱり根本的に問題とはされていない。
 母が性から可能な限り遠ざかるのをよしとするのは、エディプス・コンプレックスを除けば、家庭を作って維持するために都合がいいからだが、そのために最も有効なやり方は、父や息子などの男性を家庭から消去してしまうことだ。これは論理的というより、算数の問題である。家庭で、程度の差はあれ、男は居心地の悪さを味わはなければならないのは、そういうわけだったのだ。
 といって純粋な母性がよいとばかりはとうてい言えないことも、ちゃんと描き込まれている。たとえジェンダー・フリーが実現したとしても、愛憎は深く強く人を縛り続けるだろう。ここに解決はないし、解決しようなどと思ってはならない。

 末筆ですが、「愛を乞うひと」を勧めてくださったW.H.さんに、心からお礼申し上げます。

【今回もやっぱり細かいことをつけ加える。「八日目の蝉」の最初のほうに、誘拐実行直後の永作博美が、ホテルの部屋で、泣きやまない赤ん坊の前で途方に暮れるシーンがある。スキム・ミルクは受け付けない。服を脱いで、乳をやろうとするが、もちろん出ない。合間に別のシーンが挿入されるが、前後三分近く長回しで続くこのシーンをどう思うか、うまい表現か、あざとすぎるか、人によって感じ方はまちまちであろう。
 私は、悪くない、と思うほうだが、でも…これやっぱり、乳首を赤ん坊に含ませるべきじゃないか。インナーを着けたままで、乳房に赤ん坊の顔を押しつけて、「出ないわよね」ってつぶやくのって、アリですか? どうしてこうなったの? すぐ後の井上真央のベッド・シーンでは、井上の裸は背中だけを見せる。そういうもんだ、と我々は自然に思い込まされているが、それと連続した流れ? 意味が全然違うでしょ。女の乳房が露になるのは、どういうシチュエーションでもイヤらしいというのは、それこそ男目線なんだから、それへの反逆を志向したこの映画では、それもスッパリ切ってみせてほしかったです】

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2 コメント

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Unknown (W.H.)
2012-08-05 12:29:40
大した意見の違いはないと思われる藤原正彦氏に対する由紀さんのイライラは何だったのか、と案じ、次のように考えました。

今や、石を蹴れば保守派か愛国者に当たるようになりました。だから、『日本人の誇り』といった本がベストセラーになるのでしょう 。こんな時代に、文系の人間の成果をうまくまとめて溜飲を下げるのではなく、同様なことを20年前か30年前に書いてよ、というこ とではないのかと。
当該ブログにおける由紀さんの結論の出自をたづねれば、このように推測されます。

”流行”に乗るのがうまい、というのが日本の国振りのように思いますが、藤原氏がそうだというのではありません。氏には、専門(文系)外という立場を生かして、是非タブーに挑んでいってほしいと思います。たとえば、暴力について、そして女性の問題などはど うでしょう。前者について、由紀さんは既に著書を出されています。後者については、今、語ろうとしているのでしょうか。進むべき 方向として、私の磁石も同様の方位を指しています。

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ということで、今回のブログを面白く読みました。私の「読み」は以下のようなものです。
女性は、一個の「女」である以上に母であるという見方は、人類の文化を支えている要素の一つである。客観主義はそれに反発 して神話に過ぎないとする。確かに、「女」を経なければ、母にもなれない。しかし、それは子供から反撃を受けるだろう。息子と娘 は、母が「女」であることを拒否するのだ。「愛を乞うひと」「八日目の蝉」も、男などは及びもつかない、単なる「女」以上である女性 の存在を描いていると言えよう。

私の考える主客の像が、由紀さんによって二つの女性像に言い換えられているように思い、面白く思い、また啓発されました。以前、家族概念に二種類あるということを学びましたが、この二つの女性像が軸になって生まれているのか?、とも考えました。しか し、由紀さん、私は、神話という言葉を使わないでみようと思います。女性は単なる「女」であって、また同時に由紀さんが書いているよう に「聖母マリアの如き」存在であるかもしれない、と思うからです。

それでは
返信する
W.H.様 (由紀草一)
2012-08-07 00:47:50
 コメント、ありがとうございます。
 よい映画を勧めて下さったのが、このブログを書くきっかけになったのですから、今回は重ねてお世話になりました。
 
 それでコメントにお応えしますと、
(1)藤原さんとの意見の相違が「大したもの」ではない、とは私は思いません。確かに、おっしゃるように、「日本は悪くなかった」は最近の流行で、その流行そのものを苦々しく思わなくもないですが。しかしそれ以上に、「日本は悪かった」の単なる裏返しのような言論は、一言で言って、「つまらない」のです。これは私の感じ方の問題であると言われるなら、半ばは認めますが、もう半分では、今こそ、こういうところにこだわる必要が、「客観的」にもあるのだ、と信じます。

(2)女性の問題は、ずっと興味はありますけど、例えば上のことほど、「本格的」に取り組もうとするほどの気構えはありません。
 ご推奨の「愛を乞うひと」と、最近の話題作「八日目の蝉」をたまたま近い時期に(ビデオで)観て、類似点が印象的だったので、感想を書いたにすぎません。最も簡単に言ってしまえば、「母もの」の変化球でしょう? といって母性が否定されているわけでもなく、そのへんはズルイかしら、とも思えますが。でも、変化をつけたことで、母性の、神話としての無理は表現されてしまっているようで、それが一番面白かったです。
 で、つい「神話」なんて言ってしまいますが、私は、人間の文化・文明の範囲にあるのは、すべて神話である、と思っています。「事実」として、女性は「女」でもあれば、「母」でもあるのは当然です。この両方に、古今東西、強く惹きつけられ、呪縛されてきました。それを「神話」と名付けたく思います。「事実」の上に、男性の欲望が描き出した幻想がある。ただ、それには女性の側の主観はどれくらい与っているのか? これは謎ですね。明らかにしないのは、女性の側の利口さなのか、男性が一方的にバカなのか? 同じ疑問がくるくる回ります。
 まあ、このへんで。今回はまったくもって妄言多謝。今度、W.H.さんの女性論をじっくり教えて下さい。
 
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