Takepuのブログ

中国旅行記とか、日ごろ思ったことなどを書きたいと思います

賽徳克巴莱ベネチアで上映

2011-09-03 02:52:04 | 映画鑑賞
ベネチア国際映画祭に出品している台湾映画「賽徳克巴莱(Seediqbale=セデックバレ)」が1日、ベネチアで世界初上映された。
その内容は・・・?
評価は様々なようだ。

NOWnews 今日新聞網は、上映終了後、10分間、拍手が鳴り止まなかった、と報じている。プロデューサーの黄志明は、「上映後、米国のバイヤーの評判はよさそうで、配給の値が上がるかもしれない」と話したという。セデックバレは、完全版だと全4時間。ベネチアでは2時間半あまりの編集版を上映したようだが、台湾では9月9日から、前編の「太陽旗」版、9月30日から後編の「彩虹橋」版が封切られることになっている。

また、台湾紙「中国時報」によると、映画の評価は様々で、中国大陸のメディアは、歴史上の恨みを過剰に描いていて、そのテーマの独自性を認めてはいるが首を切って持ち上げるシーンなど、直視できない、とのヨーロッパのメディアの考え方を紹介しているという。ただ、プロデューサーのジョン・ウー(呉宇森)=レッドクリフ監督=は、99.5点だ、と高評価だという(当たり前か)。

大陸の評論家は、台湾の少数民族の習慣や美しい自然を描いているにもかかわらず、その生活感についての描写が淡白すぎて、「恨みを殺戮で晴らす」といった部分のみと見られかねないとしている。

イタリアの有名な映画サイト「My Movie」は魏徳聖監督の描く歴史精神を賛美し独特な描写だが、テーマが不明確だ、しているという。別のサイト「Cineblog」は、過度の戦闘シーンが見る人を疲れさせる、としている。

と、外国メディアの評価を総合すると、台湾原住民の歌謡や台湾の山奥の景色に対しては好評を得ているが、血なまぐさい殺戮シーンが多すぎる、ということのようだ。また、映画の中で日本語やタイヤル族の言葉が飛び交うと、観客は笑いながら「台湾文化は面白い」と語っているという。

ベネチアでの「セデックバレ」はいろいろ面倒なことがついて回っていて、プログラムなどでは当初、「中国台湾(China Taiwan)」と描かれていたという。つまり中国香港などと同じように、中華人民共和国内の台湾省という意味だ。これまた「ひとつの中国」問題にかかわるもので、台湾当局を交えて猛抗議した結果、オリンピックなど国際スポーツ大会と同様に「中華台北(Chinese Taipei)」に変更されたという。

中国大陸の評価がそんなに高くないのはやや不思議な感じがした。映画の題材となっている「霧社事件」は、ブログで何度も書いているように、1930年に、日本の植民地下の台湾・霧社地区で、日本人の警官とトラブルがあった台湾原住民のタイヤル族が、日本人への報復措置として、日本人の学校の運動会の会場を襲うなど、反日蜂起したものだ。植民地状態からの抵抗を訴える活動であり、本来の中国大陸の共産党の考え方とは一致すると思えるのだが。

中華台北問題でしこってしまったか。

とりあえず、首を切って手に持ち掲げるシーンは、YouTubeなどにある予告編映像などでも見ることができる。もし日本で配給されたらR指定になる可能性は大だ。ベネチアで賞を獲って評判が上がれば日本での上映もわりと早めになるのでは、と期待しているのだが。西洋人にとっては、この内容は「アバター」の現実版のように映って、二番煎じだと思われるかもしれない。賞は難しいか。

Seediq Bale(賽徳克巴莱)完成!

2011-06-27 22:57:56 | 映画鑑賞
台湾で「タイタニック」を上回る大ヒットとなった「海角七号」の魏徳聖監督が、本当に撮りたかった映画「Seediq Bale(賽徳克巴莱)」(セデックバレ)がクランクアップしたとは以前書いたが、最近、映画が完成して、Youtube上に予告編がアップされているようだ。

結構CGも使っているようだし、なかなかすばらしい出来だ。「台湾のアバター」とも書かれているが、西洋人にはわかりやすい表現かもしれない。アバターはフィクションを使ってアメリカ原住民の戦いを描いたが、「Seediq Bale(賽徳克巴莱)」は本当にあった台湾原住民の抵抗の歴史だ。
「海角七号」のDVDを見たあとの感想記で書いたが、「Seediq Bale(賽徳克巴莱)」は、1930年10月27日に起きた「霧社事件」を描いたものだ。日清戦争(1894年)の敗戦による下関条約(馬関条約)=1895年=の結果、日本の植民地になった台湾で発生した最大にして最後の台湾原住民蜂起だ。予告編ではビビアン・スーが出てくる場面もあった。

Youtubeの予告編に続き、魏監督やプロデューサーのインタビューもアップされている。10月下旬に台湾で封切られるようだ。早く見たいなあ。

ところで、魏監督はこの映像の中で、

「賽徳克巴莱のための海角七号だ。海角七号があったから賽徳克巴莱が出来たんじゃない。2003年に5分間のパイロットフィルムを作って、賽徳克巴莱の準備を始めた。ただそのころの環境、条件はよくなくて、それでまず海角七号を先に撮るという風に方向転換した。容易に市場に受けるものを、ということだ」

と以前、このブログで紹介したようなことを改めて話していた。海角七号がヒットしたから撮ったのではなく、はじめから「賽徳克巴莱」を撮るために海角七号をヒットさせたのだ、という。結果論だが、よく言うなあとも思う。逆に言うと、ヒットしたといえばヒットしたが、「海角七号」は魏監督にとってはあまり誇れるような映画なのではないのだろう。それを「私はこんな台湾映画が見たかった」と大絶賛した台湾の巨匠・侯孝賢監督は、ちょっとおめでたいなあ、という感じがする。
11月ぐらいに台湾に行って見てこようかなあ。DVDはすぐ出るだろうか。

映画「透析(再生の朝に)」みた

2011-05-23 02:05:34 | 映画鑑賞

中国の死刑判決と臓器移植を描いた問題作「再生の朝に-ある裁判官の選択-」(原題・透析-Judge-)を観た。「馬背上的法廷」でデビューした撮影監督出身の劉傑監督作品。実際に起こった事案をモデルに映画化したらしい。エンドロールで法律解釈の顧問やロケ地の人民法院などの協力を得ていることから、ストーリーの中身なども現実に即したものなのだろう。なかなか面白く、現代中国を皮肉っぽく、あるいは死刑廃止を、との西側の批判に応えるように政策的に描かれているように見えて、その意図を探るのも面白かった。

ここからネタばれです。

舞台は1997年の河北省涿州市。娘がひき逃げされたと公安から報告を受ける地裁の裁判官が、公安の建物から出ると自転車が盗まれていた。盗んだ自転車を街中で売っていた男と遭遇する。男は逮捕され、この男の裁判を担当することになる。3万元以上の高額窃盗は当時の刑法では死刑になるという。ただ、近く新刑法が公布されることが明らかになっており、裁判官たちの合議で、旧刑法はこんなに物価が上がる時代の前の法律であり、今では3万元がそれほど高額窃盗というわけではない、新しい刑法を反映して死刑を回避すべきだ、との声も出る。ただ、主人公の弁護士は頭が固い法律家らしく、現状では現状の刑法を正確に運用することが法律家の責務だ、と主張、判決は死刑となる。控訴。二審制の中国では次で運命が決まる。
ここで超金持ちの企業家が登場、彼は腎臓を病に冒されていて透析をしている。腎臓移植を待っているが、なかなか適合する腎臓がない。この死刑囚の腎臓がマッチすることが分かり、腎臓移植の同意書を得ようを弁護士を通じて画策する。家族にも「死刑回避の弁護をするから、もし駄目なときは腎臓提供に同意してくれ、20万元払うから」と持ちかける。死刑囚は自分が死刑になっても家族に20万元残せるなら、と移植に同意する。二審判決も死刑。主人公の裁判官が死刑の手続きを済まし、企業家も病院に待機し腎臓移植を待ち、死刑囚は街のはずれの刑場に連行され、まさに銃殺される直前、裁判官は副所長に「死刑中止」を提案。企業家から何らかの経済的援助を得ていた裁判所側はこれを渋るが、最後は裁判官が大声で「死刑中止だ」と一方的に中止させ、大目玉をくらう。
ただ、結果として「新しい刑法を考慮し人権に配慮した、新中国にふさわしい行動だった」と大きな責めを負わされることなく、腎臓移植は駄目になり、物語は終わる。

現代中国に特徴的な貧富の差、富豪が賄賂を使って公的機関を思うがままに動かしさらに利益を得る、西側の人権団体からかつて指摘されていた死刑囚の内臓を移植のために使っていたという話、西側にしばしば批判される中国の死刑の多さや人権軽視の判決・・・・などなどを盛り込んだ政策的意図を持つ作品だ。

当然最後は死刑になって、無事腎臓移植がすむのかと思っていたら、どんでん返しがあるのは、こういう中国映画の常。最後に死刑回避をしたストーリーになったのは、西側の死刑への批判を考慮したのは間違いないだろう。

ただ、この映画のもうひとつのテーマの仇、復讐という意味では、なぜ娘がひき逃げされたのか最後まで明らかにならなかった。公安当局が裁判官という職業ゆえ、判決に不満な誰かが復讐のために娘をひき殺したのではないか、と説明するくだりがあり、もしかしたら、この富豪が盗難車を使って娘をひき殺し、因果応報、裁判官は回り回ってこの富豪の腎臓移植に手を貸す、あるいは貸さない、というように関連づいているのかも、とも思ったが、そこまで話をくっつけてはいなかったようだ。

なかなか考えるところの多い映画だった。

写真は日本の公式サイトの、予告編動画のページ。

「再会の食卓」(團圓=団円)見た

2011-03-31 20:52:22 | 映画鑑賞
2010年のベルリン国際映画祭で銀熊賞(2位)を獲った「再会の食卓」(原題:團圓)を見た。

賞を獲ったといえども地味な映画で、DVDになるのかなあ、と思ったので1800円払って見に行った。で、結構よかった。
舞台は上海。国民党軍兵士と1年の新婚で、お腹に子を宿したまま、台湾に「退却」する船に乗る夫に会えず生き別れになり、上海で別の男と家庭を持ち子供にも恵まれた女性のもとに、台湾で新たに妻を迎え死に別れた夫が、両岸(中台)関係緩和政策で親族訪問が可能になったことから訪ねてくる。近年の中国と台湾の関係改善から、台湾に配慮した表現が垣間見える。国民党軍が台湾に「退却」ということばを使っている。実際は「敗走」「逃走」だろうが、台湾の名誉のために「退却」にしているようだ。


ここからネタバレ注意。

数十年、子供たちのために生きてきた「愛のない生活」と、夫らにも告白し、文化大革命で不遇な日々を過ごしたこともあり、「最後には愛に生きたい。子供たちのためでなく、自分のために生きたい」と、台湾から来た夫の提案に同意し、上海の家族とはなれ、台湾で生活しようと試み、夫や子供たちに説明する。

夫はすぐに理解を示し、台湾行きに同意。子供たちは、金持ちの台湾人から金をふんだくってやれ、とか、生臭い考えから、母親を台湾に渡すのに反対するが、最終的には父親が一喝、台湾に行くことになる。

で、完全に離婚して台湾に行こうと、地区の役所に出頭すると、婚姻届は出ていない、事実婚だという。あの時代はそんな証明などなかった、というと、まず結婚写真を撮って婚姻届を出してから、離婚したらどうだ、と役所の役人が提案。それはいい、と結婚写真を撮りにいく。で、離婚届けを出そうとすると、財産分割が云々とか、面倒くさいことを言われ、その後の手続きは映さないが、どうやらちゃんと離婚できたようだ。
そもそも、婚姻届が出てないなら、それでいいじゃん、そんな面倒くさいことをすると返って……、と思ってみていたら案の定だった。中国の映画はしばしばこういう極端な描写が多く、われわれが見ると馬鹿みたいだな、と思うことがあるが、どうやら中国人は本当にこのように極端な考え方をするようだ。

で、酒宴で酔っ払った勢いで、上海の夫が「数十年も連れ添ったのに、愛がない生活と言われるとは思わなかった。でももう終わりだ、自分の楽しみのために生きる」と本音を漏らす。「本当は軍の中で出世できると思ったのに、子連れの哀れな女に会ってしまった。同僚は国民党兵士の妻は止めろ、といったのに、くっついてしまって、出世の道が閉ざされた」と、妻の前で心の中に閉まっておいた思いをぶちまける。そこで軽い心臓の発作を起こし、入院を余儀なくされ、妻は台湾行きを断念せざるを得なくなる。

台湾に夫が戻り1年がたち、立ち退きで郊外の広い高層マンションに移り、上海の夫は車椅子生活となり、孫娘と暮らすが、返って子供たちが寄り付かなくなる。孫は彼氏が米国に行き、2年間待つという。というような現代の中国の問題点にも触れている。

明るい話ではないが、また、ちょっと話に極端なところがあるが、まあ、良い出来だったと思う。

「唐山大地震」上映無期限延期

2011-03-14 18:13:34 | 映画鑑賞


新たな公開時期や対応策も未定とのこと。残念だが仕方がないか。

近年、中国での最大ヒット映画となった「唐山大地震」の中国での上映は2010年7月。当地を揺るがし、映画の中でも舞台回しとして触れられている四川大地震(2008年5月12日)からまる2年経過していた。中国人の頭の中では、震災もある程度客観視できるようになった時期だろう。

夏休み映画の大御所、馮小剛(フォン・シャオガン)監督は、四川大地震を題材にインスピレーションを感じたことで、1976年という32年前の唐山大地震を振り返って映画の題材にと考えたのは間違いない。ただ、中国人的な地震に対する感覚と、地震大国・日本での大地震の発生頻度は違う。地震が身近な日本人にとって、震災はあまり客観視できるものではない。

今回の東日本での大震災は、四川大地震や唐山大地震と違って、津波が街や田畑を飲み込むというあり得ない光景を我々の目に焼き付けた。もちろん、スマトラ大地震も津波が問題になったが、被害対象となった地域が、今回はあまりに広すぎた。続いて、原子力発電所に深刻な打撃を与えて、単なる地震の被害を超えた複合災害となった。映画の街が崩壊するCGはできばえも良く迫力があるが、もはや現実に起きた災害の前では単なる絵空事でしかない。CGが良くできていたとしても、今の日本では何の評価も得られないどころか、不快感と恐怖を与えるだけだろう。電力不足から、日本で初めて計画停電も実施された。不謹慎かもしれないが、もはや映画よりドラマチックだ。

ましてや、がれきの下に埋まった姉弟のどちらか一人しか助からない、どちらかを選べ、と強いられるシチュエーション。弟を選んだ結果、片腕を切断せざるを得なかったというエピソード。東北大震災だけでなく、あまりにNZ地震(足を切断して救出された男性がいた)とも似すぎたストーリーに、フィクションとして見ることなどできないだろう。

それでは、中国のように発生2年後に封切られることができるだろうか? 松竹にとっては運が悪かったということで、そのころDVDを発売したりテレビなどで放映するのが、最後の可能性なのかもしれない。


映画「孔子」見た

2011-02-06 13:29:53 | 映画鑑賞
中国の国策映画にして、大ヒット映画「アバター」の上映期間を短縮してまで上映した、との噂まで流れた周潤發(チョウ・ユンファ)主演の「孔子」を見た。

内容は、孔子の一生を簡単に見せた、という感じか。勉強不足なので、有名だとされているいくつもの挿話についても、ふーん、と見ただけ。権力者の墓にいけにえにしようとした奴隷の少年が脱走すると、それを匿い、命を助けようとしたり、弓の名手だったり、弟子思いだったり、聖人君主。そもそも、中国では孔子は聖人なんだが、あの人間臭いことでは人後に落ちない周潤發が孔子を演じるというのなら、もうすこし人間臭いところも表現してほしかったなあ、と思う。

制作費はものすごくかけていて、特撮やエキストラも半端ではない。ただ、全編を通じて説教臭さ満載。長い。125分だというが、長く感じるということは、つまらないということか。これでは中国であっても、半強制的に視聴を押し付けられても、アバターには勝てないわけだ。前提条件に「儒教精神」、子は親を思い、民は君主を思い、国を思い・・・、という考えを中国当局が人民に求めよう、押し付けようとしているのがうかがい知れて、退屈極まりない。期待はずれ、というかもともと期待してなかったけど、もう少し見せ方があるんじゃないか。中国の聖人だから、突出した解釈はできず、制約も多かったんだろう。大コケに納得だ。

巨大マーケットを意識してか、中国寄りになった周潤發や、主題歌を歌った歌姫、王菲(フェイ・ウォン)も、僕お気に入りの女優、周迅も、なんかもったいない。

非誠勿擾2見た

2011-01-20 17:37:02 | 映画鑑賞

前作で、中国人の間に大北海道ブームを巻き起こした「非誠勿擾」の続編、「非誠勿擾Ⅱ」を見た。中国では12月封切だったようだ。残念ながら北海道ロケはもうない。もっぱら南の島でのロケのようだ。

柳の下のドジョウを狙うのは香港映画の常だが、馮小剛監督は第2作でかなり趣を変えた。ここからはネタバレ注意だが、「Ⅰ」では、ユーモアを交えて北海道や結婚がいいなあ、と思わせる、前向きな気持ちになるストーリー、いわゆる「ハートウオーミングロードムービー」だったが、「Ⅱ」では結婚の意味とか、老後とか、命の重さとはかなさなどを描き、見終わった後はちょっと重い気持ちになる。結婚についてのさまざまな考えを、ⅠとⅡで長いスパンをもっと表現したのだろう。

ただ、離婚式の大げささや、聖書の代わりに札束に手を置き離婚への誓いをさせるやり方などなど、向銭看(お金至上主義)を揶揄される中国を皮肉っているのか、中国人が見るとまじめな感じなのか、ちょっと複雑、かつ嫌らしい感じだ。

主人公の葛優が居を構える南国の別荘のような場所は、成金になった中国人の憧れなのだろうか。上の写真のようにつり橋であちこちを行ったり来たりするような。北京や上海など冬、結構寒いところに住む金持ちの中国人にとっては常夏の場所はうらやましいのだろうなあ。これも脚色過多のような感じはするが、そもそもそういうトーンの映画だから。

それから、今回もあちこちにスポンサーとの提携があって、さりげなく商品を映し出している。「Ⅰ」に比べるとインパクトは少なかったなあ。「非誠」大ファンなら見ても笑えるかもしれないが、パワー不足は否めないかも。

甄子丹の映画「精武風雲・陳真」みた

2010-11-09 19:10:16 | 映画鑑賞
中国・香港のアクションスター、甄子丹(ドニー・イェン)の最新作(?)かな、中国で9月に封切られた「精武風雲・陳真」を見た。カンフー映画にはかすりもしないほど疎いのだが、李小龍(ブルース・リー)の第2作目にして大ヒットした「精武門(ドラゴン怒りの鉄拳)」に続く物語というか、オマージュなのだという。ブルース・リーの作品も中華民国時代に日本の柔道館に師匠を殺された陳真が日本人に復讐するという内容。
この「精武風雲・陳真」も第一次世界大戦で、中国人苦力(クーリー=肉体労働者)として戦場で物資運搬などをしていた主人公(甄子丹)が、戦闘のなかで友人が銃で殺され、ものすごい脚力と身体能力で戦場を駆け巡り、刃物だけでドイツ兵を何人も殺す、というシーンから始まる。
(すでにネタバレ注意です)
舞台は日本の軍人らが幅を利かせている開戦直前の上海で、甄子丹はナイトクラブのオーナー(黄秋生=アンソニー・ウォン)に気に入られて共同経営者となっている。そこのスターダンサーのの舒淇(スー・チー)といい仲になるが、彼女は日本軍のスパイだった。で、日本軍が反日中国人との名簿を発表、次々に暗殺していくなか、ブルース・リーが演じたカトーのようなマスクをかぶった甄子丹がそれを阻止していく。日本軍はこのマスク男を追い、日本軍のトップの大佐(木幡竜)は、かつて自分の武道家の父(倉田保昭)を殺した男・陳真を探していた。第一次大戦で一緒に欧州にいった仲間らが次々と日本軍に殺され、甄子丹は単身、日本の道場(何の武道なのかは不明。柔道というより空手、日本の敵役の大佐のフットワークはボクシングみたいだ。木刀もあるから剣道?)に殴りこみに行く、というストーリー。

甄子丹といえば、「葉問(イップマン)」も日本人と対決する物語だった。陳可辛(ピーター・チャン)監督作品の「十月囲城」は、建国の父、孫文が広州入りする際、清朝宮廷派の暗殺団から命をかけて孫文を守る、ある意味、愛国物語。NHKがスペシャル番組の中で紹介していて、陳可辛は僕が香港時代に好きな監督だったので期待してみたが、期待はずれだったので、特にこれまで感想は書かなかった。

これらの映画がヒットするのは、尖閣諸島の問題などが勃発するや、これらの映画をみた「単純な」(失礼)、愛国心と日本軍国主義に反対する強い気持ちを持った中国の人々を必要以上に鼓舞し反日精神を高揚させる作用を与えたのではないか。尖閣反日デモの底流にはこんな気分も関係しているのではないか。

映画製作者もマーケットの需要を考えるわけで、悲しいかな、今の時期は愛国心をあおり、反日をあおるこのような作品が大いに受けるのかもしれない。それに合わせて、反日の内容の映画が連発的に上映されるのは、ある意味仕方がないのか。愛国はともかく、反日が商売になるのは悲しいね。

甄子丹はこの映画の香港でのプレミア上映に乱入した藤原紀香に「釣魚島は中国領土だ」と言ったと前書いたが、調べてみると、これは香港メディアの誤報で、実際は舒淇に「君は映画の中で日本軍のスパイを演じ日本語の台詞もあったから、彼女に日本語で『ラマ島(香港島のすぐ西側にある小島)はおれたちのものだ』といってやれよ」とジョークを語っただけだという。これが間違って伝わったという。舒淇も藤原紀香に伝えていないという。
それから、上海西郊の松江区にオールド上海の映画撮影村があるからとはいえ、この時代の上海を舞台にした映画にはもう食傷気味だね。愛国映画を撮るにはこの時代が一番楽なんだろうな。監督は香港の近年の映画では最高傑作「インファナル・アフェア」のアンドリュー・ラウ(劉偉強)だって。うーん。「インファナル・アフェア」と違ってこういう映画はストーリーとかは関係ないんだろうな。ブルース・リーやカンフーが好きな人は感激してみてしまうんだろうなあ。確かに甄子丹のアクションは素人の僕が見てもキレキレで素晴らしいと思った。

そういえば甄子丹の「錦衣衛」(李仁港=ダニエル・リー=監督)も見た。これだけ彼のアクションばっかり見てると、もう結構です、という感じも。でも、こっちのほうがよかった。明朝の秘密警察「錦衣衛」のトップ甄子丹が、勅命を受けて組織を離れて裏切り者を消し、奪われた玉璽を取り戻そうと西域を舞台に活躍する内容。協力者の娘に趙薇(ビッキー・チャオ)、この撮影のあと出産したんだなあ。甄子丹は、いろんな武器がはいった木箱をいつも持っていて、この武器の使い方が見せ場なんだろうなあ。

映画「唐山大地震」見た

2010-11-06 16:55:50 | 映画鑑賞

中国で大ヒット、アバターをしのぎ、中国映画史上最高の興行収入となったといわれる映画「唐山大地震」を見た。1976年7月28日午前3時過ぎ、中国河北省唐山市付近を震源とするM7・8の地震が襲い、24万人が死亡したとされる。
映画はこの本当にあった地震を題材に、地震発生のとき、子供だった男女の双子が瓦礫の下敷きになり、救出中に救助隊が「二人のうち一人しか助からない。どちらか選べ」と母親に無情な選択を強いる。母親は涙ながらに「男」と選択する。女の子の方は運び出され遺体として放置されていたが、奇跡的に蘇生し、解放軍の子供のない夫婦にもらわれる。そしてそれぞれの人生を生き、成長し、四川大地震の現場で偶然再会する。

この年は1月8日に当時、中国人民から最も敬愛されていた周恩来総理が死去、7月6日には朱徳・元帥(全人代常務委員長)が死去と、大きな事件が次々と起こった。地震後の9月9日には中国建国の父であり最高指導者の毛沢東が死に、中国国民を苦しめてきた四人組(江青、張春橋、姚文元、王洪文)が捕らえられ、1966年から10年間続いた文化大革命が終了した。映画の中でも毛沢東の葬儀は再現されている。

子供のうちどちらか一人しか助からない、どちらか選べ、というのは舞台回しとして、ちょっと残酷すぎる究極の選択だ。この当時の中国では後継ぎとしての男子を尊重する傾向があり、そのような考えからの選択なのだろう。その結果、救出の際に男の子は片腕を失う。

女の子の成長してからを演じた張静初は、釈由美子と相武紗季を足して二で割ったようなきれいでスリムな女性。大学で医学を学ぶが、すぐに上級生の変な男とくっつき、妊娠し不本意な退学をする。どうして、あんな情けない男とくっついて、人生を変えてしまうのか。中国の映画やテレビなどではこんなストーリーが多く見られる。

男の子の母は再婚もせず、片腕になった息子を育て、男の子は旅行会社の経営者になる。流行の業界の成功者になるところは「一杯のかけ蕎麦」に似ているね。ちょっと恣意的だ。

中国人の観客が号泣した映画。出来はいいしCGも迫力がある。特に前半部分はかなり力を入れているように見えるが、作り方に受け狙いの作為的な感じは否めない。後半の物語を終わらせるための舞台回しはちょっと急いで話を展開しているように見える。

それから監督の馮小剛(フォン・シャオガン)の作風、クセなのか、ところどころにエッチっぽい、っというか性的な表現がある。地震直前に双子の夫婦がトラックの中で事をいたすシーン、女の子が悪夢を見て目が覚めると、父親が後ろから抱きかかえ、妻に、もう大人の娘なのだから、そんなパンツ一丁で娘に触れるな、と諭されるシーン、大学の宿舎を父親がたずねると、上級生と事をいたしていた風を暗示するシーン。いわゆる観客サービスなのだろうか。ストーリー展開にはあまり関係ないとは思うが。その辺は伊丹十三監督にも似ている。

香港映画「葉問1、2」見た

2010-10-02 21:20:07 | 映画鑑賞

2008年の香港の映画祭の話題をさらったドニー・イェン(甄子丹)主演の映画「葉問」。ブルース・リー(李小龍)の師匠という、実在の人物の戦前、戦中の香港を舞台にした、武術に生きる男の苦労と苦悩が描かれている。ウィルソン・イップ(葉偉信)監督作品。サモ・ハン・キンポー(洪金宝)がアクション監督。
あんまりヒットしたので柳の下の二匹目のドジョウを狙うのは香港映画ではよくある話で、前作はずいぶん前に見ていた。いずれも日本未公開。

(この辺からネタバレです)ぶっちゃけ、日本占領下の香港で、日本軍相手にうまく立ち回れない葉問が、食べるものにも事欠く状態のなかで、友情のためと、なぜか勝ち抜けば米が貰えるという都合のいい武術の大会が日本軍によって開かれ、抑圧された香港人のうっぷんを晴らすかのように、葉問が強敵の日本の将校をやっつける、というストーリー。
日本から池内博之も出演しており、中国人が勝手に想像する、あり得ない空手?を披露する。戦前、戦中なら柔道か合気道だと思うのだが、ま、香港人、勝手にやって。

単純に日本を懲らしめて香港人が喝采する映画ではなくて、前半部分は道場破りとか、日本軍に協力して甘い汁を吸う、中国語で「漢奸」と呼ばれる売国奴になってしまう、かつての友人の苦悩も描かれている。
池内博之演じる日本人将校も、まあ、乱暴者とはいえ、中国功夫(カンフー)に敬意を表した紳士的な武術家として描かれている。まあ、日本人的には違和感満載だけど。


柳の下のドジョウを狙った「2」は、日本が去ったあと、香港でいくつもの道場がしのぎを削る状態のなかで、弟子を育成し、旧来からの道場の親方らに甄子丹の葉問が徐々に認められていく様子が描かれる。後半、また外国人を駆逐するシーンがメーンとなり、今度は日本人が相手でなく、英国人のボクサーになる。これは乱暴者で無法者で、「1」で日本人をそれなりに尊厳をもって描いたのに対して、「2」は、本当に嫌なやつとして描いている。その中で香港で最大の道場を開いているサモ・ハン・キンポーは戦いに敗れて死んでしまう。
もう、この辺からは抑圧された中国人が欧米人への復讐をして、憂さを晴らすという程度の低いストーリーに成り下がっている。「1」に比べて「2」は、数段もレベルが下がる。それでも香港の労働者たちは嬉々として観ていたのだろう。

ところで、「レッドクリフ(赤壁)」以降、日本における中国映画の人気が上がっておらず、配給元も二の足を踏んでいるという。東京国際映画祭には上映されるらしいが。まあ、日本人にはあまり受けるとは思えない映画だけど。どうしても見たい人はネットや、香港や中国大陸でDVDを見つけて観てください。

甄子丹の次回作の「精武風雲・陳真」は、香港でのプレミア上映会の舞台に、突然、藤原紀香が登壇したそうな。その紀香に甄子丹は面と向かって「釣魚島は中国の領土だ」と言い放ったという。映画俳優は中国国内のマーケットを無視しては商売できないので、心からそう思っての発言かは不明だが、映画の中のヒーローの様子とは違って、大人げない奴だな。この映画は尖閣諸島問題が影響して、日本上映が難しいとのことだ。

Seediq Bale(賽徳克巴莱)クランクアップ

2010-09-08 03:57:18 | 映画鑑賞

08年、台湾で「タイタニック」の動員記録を抜き、大ブームを起こした映画「海角七号」の魏徳聖監督の新作「Seediq Bale(賽徳克巴莱)」がクランクアップしたという。台湾の中国時報のサイトによると、5日にクランクアップの記者会見をしたようだ。
「Seediq Bale(賽徳克巴莱)」は戦前、日本の植民地時代の台湾で原住民のタイヤル族が抗日蜂起した「霧社事件」を描いたもの。
この映画を撮りたいがために、製作費稼ぎの意味も込めて受けを狙った内容の「海角七号」を撮り、これが思い通りに当たって、今回の映画の資金を稼いだというのは以前書いた

「Seediq Bale(賽徳克巴莱)」は前後編に分かれ、来夏にも封切り予定という。6億台湾ドル(約15億円)の予算のうち、5億近くはすでに使い、残りはCGや編集などに使うようだ。日本などにも上映の契約をしようとしているようだ。映画にも出演しているビビアン・スーが主題歌「為何選今天」を歌うようだ。
さあ、どんな映画になっているのだろうか。公開が楽しみだ。


ザ・コーヴ見た

2010-08-21 11:15:50 | 映画鑑賞

和歌山県太地町で行われているイルカ追い込み漁を批判的に描いた問題作「ザ・コーヴ」を見た。イルカ漁をしていること自体知らなかったが、ボケーっと見ていると、製作者側の意図に乗っかり反捕鯨、イルカ愛護の方向に持っていかれる、きわめて稚拙で危険なプロパガンダ映画だ。

僕らの世代が子供のころテレビ放映されていた米国ドラマ「わんぱくフリッパー」に出演していたイルカ調教師のリック・オリバーをストーリーテラーとして映画は進む。「フリッパー」は賢いイルカが人間と協力して人命救助したり事件を解決する。オリバーはこのドラマの撮影に3頭のイルカがフリッパーとして使われていたこと、イルカは撮影でストレスがたまって胃薬を餌に混ぜて飲ませていたこと、そのはてに自ら呼吸をやめて「自殺」したこと--から、自らが調教師として「フリッパー」を有名にさせたことで、イルカに芸をさせる水族館が爆発的に増えて、イルカの自由が奪われてしまった、と自戒し、その後、調教師を辞め、イルカ愛護活動を行っているという。

シーシェパードや多くの欧米の反捕鯨活動家の主張のように、「鯨、イルカは賢い動物なので家畜にしない、殺して食べない」という彼らの食文化を、伝統的に鯨やイルカを食べる食文化を持つ地域と人々に押し付けている。うんざりだ。

途中で、魚市場にたくさんのマグロが並んでいる競りのシーンが映される。いかにもイルカをたくさん競り落としているかのように、誤解を与える確信犯的なシーンだ。もちろんマグロだが、魚をあまり食べない欧米人はイルカとマグロの区別などつくまい。

ただ、その文化の押し付けでは説得力がないと悟ったのか、映画は徐々にイルカは多くの水銀が含まれていて食用すると人体に害がある、という論理にすりかえてきている。何を食べようが余計なお世話である。

彼らにとっては、イルカが賢かろうが愚かだろうが、水銀を多く含もうが含むまいが、イルカを捕らえる文化を攻撃することに意味があり、前提条件は関係ない。

後半は、オリバーらが活動家たちを世界各地から太地町に呼び寄せ、芸を仕込むために生け捕りされた以外のイルカを殺す場面をなんとかして隠し撮りしようとする行程がドキュメンタリータッチで描かれる。観客はその行方をスリルをもってみていくような演出がなされている。太地町の漁民たちは、イルカを殺すという行為を後ろめたいと感じていて、他人に見せないように、海岸から見えない入り江でイルカを殺す、と映画では説明しているように仕向けている。

イルカを殺すところを見せないための立ち入り禁止の看板のように撮影しているが、実際は「落石注意」だったり、「鳥獣保護区域」の看板であり、イルカとは関係ない。日本語がわからない欧米人をだますのは簡単だ。

実際は無線カメラによる撮影許可のない盗撮であり、ドキュメンタリーとはいえない。たしかにイルカをモリで殺すシーンはショッキングだが、それは現在は行われていない漁で、昔撮影したものを挿入したという。農水省の役人がそのビデオを見て「いつ撮影したものか?」と質問したが、それに答えていない。都合の悪いことは描かない。
自分たちの主張を通すためにたくさんの捏造をしたプロパガンダであり、およそ映画と呼べる代物でもない。これをドキュメンタリーとして、第82回アカデミー賞長編ドキュメンタリー映画賞を贈った米国の審査員たちのレベルの低さにあきれてものも言えない。

見る価値のないものだ。ただ、そう判断するためには一度見なければならない。彼らだけなのかもしれないが、「活動家」と呼ばれる欧米人の知性の低さを感じた。

「不能説的・秘密」見た

2010-03-10 04:29:08 | 映画鑑賞

テレビでやってた台湾映画「言えない秘密」(原題「不能説的・秘密」=Secret=)をなんとなく見ていたら、すごく、いい。
調べたらジェイ・チョウ(周杰倫)の初監督作品とのこと。作曲家、歌手として、俳優としては知っていたが、あんな若いのに主演、音楽、脚本と監督をこなすところは才能の塊なのだなあ。2007年、ということは、ジェイ・チョウ28歳のとき。制服を着て高校生を演じてもあまり違和感がないのは複雑。
日本でも08年に上映されていたとのこと。彼のファンの方には失礼だが、自分の不明を恥じます。ジェイ・チョウといえば、V6のイノッチをもう少し端正にした感じだが、あんまりいい男ともいえないし、ヒゲは濃いし。
2006年の張芸謀監督作品「満城尽帯黄金甲」(邦題・王妃の紋章)で、周潤発(チョウ・ユンファ)や鞏俐(コン・リー)と共演したが、張芸謀らしく、金をかけた映画のわりにはオドロオドロしく、周潤発や鞏俐の芝居も大仰だったので興味を引かなかった。ただ、エンディングテーマはよかった。これもジェイ・チョウの手によるものらしい。

物語は自分の得意分野を使った高校の音楽科の話。ピアノを舞台回しとして、不思議な同級生の女の子、路小雨=ルー・シアオユー=(桂綸鎂)との付き合いをきっかけにおこる不思議な事件を描いたファンタジック青春映画。普通だったら何だか見ていて恥ずかしくなっちゃうような青春一直線、って感じだけど、自然に見られる。途中でびっくりするような秘密が判明する。教室の中がぐるぐる回るCGや全体の切ない雰囲気などは、何か、台湾版「時をかける少女」みたいだ。ジェイ・チョウゆえ、音楽も効果的に使われていて、気持ちよい。僕が生まれて初めて自分で買ったレコード、サン・サーンスの「白鳥」もピアノとオーケストラ・アレンジで演奏される。
で、この小雨がとても可愛い。独特の雰囲気を出している。どこかで見たなあ、と思ったら、「藍色夏恋」(2002年、原題・藍色大門)の主人公の子だ。あのころは中学生ぐらいかなあ、と思ったら1983年生まれなので、あのときすでに18、9歳かあ。東洋人は幼く見えるなあ。当時はそんなに可愛いとは思わなかったけど、この映画もよかったし、彼女の演技もうまかった。5年たつとこんなにきれいになるんだなあ。

最近あまり注目してなかったけど、台湾映画恐るべし。リサーチを怠るべからず、と反省した。

アバター見た

2010-02-04 04:52:56 | 映画鑑賞

「タイタニック」を抜き、今年(まだ始まったばかりだが)1番の評判の「アバター」。同僚が「見ろ見ろ」というので、見てきた。3D字幕バージョン。結論は、まあ、単純なストーリーなので3時間近く一気に見られるが、あちこちにアラがあり、映画の水準としては褒められるものではない。嫌らしい、あざとい設定やメッセージがあちこちにあるな、と見ながら不快になるところも少なくなかった。

これはCGで作った、中国の張家界の写真を借りた“美しい”風景に心癒されたり、3Dの効果にびっくりして、「将来3Dテレビ買おう!」と購買欲を触発するように仕向ける映画だ。所詮、張家界だったり、一部は黄山かな。滝がいくつも並んでいるさまは九寨溝を彷彿とさせるし。つまりは“美しい風景”というものを、まったく想像の中からCGを使って描く能力はキャメロン監督にはなく、多くの米国人にとって未知に近い中国の絶景を拝借して、ちょっとCGでいじった程度のお手軽な手法なのだ。中国の本物の絶景を見ている身としては「だからどうした」といった感じ。本物は当然CGに勝る。
3Dは、予告編やアニメの効果のときはなるほど、と思ったが、大したことなかった。時々メガネを外してみたが、つまり、ずっと3Dになっているのは「字幕」だけで、“美しい”風景はほとんど2Dだ。メガネが重くて時々ずり落ちる。

まあ、話のタネのため、一応見ておいたらどうですか。テレビ放映やDVDでは、3D効果などはまだ楽しめないのだろうから。

ここからはネタバレあり。ご注意。

ストーリーはつまり、アメリカ先住民族(インディアン)との戦いと交流を描いたかつての西部劇。設定は「エヴァンゲリオン」、スタジオ・ジブリ作品、特に「ナウシカ」「もののけ姫」といったもののパクリ。自分は寝ていて別の身体に意識を移して行動する、というのは、映画館で予告編しか見ていないが昨年の映画「サロゲート」から設定を借りてきたのだろう。いろんなおいしい要素をつなぎ合わせて、それなりに見飽きない物語を作ったのは評価すべきか。まあお金をかけてたくさんのスタッフに仕事をさせたことによるものかもしれないが、つまりは大衆娯楽作品。

異星人「ナヴィ」はもろ、アメリカ先住民族(インディアン)や、台湾の原住民。主人公のジェイクが成人儀式を受け、身体にペインティングする様子や長い髪、かけ声はインディアンそのものじゃないか。彼らに英語を教えたり、学校を作ったり、とかも。もう少し、違うアレンジは出来なかったのか。「アメリカ先住民族と共存しましょう。彼らの文明を壊滅させたことを後悔、反省しましょう」との露骨なメッセージが受け取れる。興ざめ、不愉快。

DNAを合成して「ナヴィ」の人造人間を作り、それに人間の意識だけを憑依させて意のままに操る、というのは「エヴァ」の設定のパクリでは。エヴァは操縦者がエヴァの体内に入るが、外の機械の中から意識を飛ばしてコントロールする、というのは、代理ロボットに危険な外の行為を代行させて、それを意識上でヴァーチャル体験するという「サロゲート」そのものではないか。

動物と共存したり、森を守ろうとしたり、触覚が伸びてきて命の再生を手助けするなどは、ナウシカが倒れ、オームの触角が伸びて生き返るシーンと同じだろう。動物を飼いならして上に乗ったり、最後に「ナヴィ」に動物たちも加勢して地球人と戦うのはもののけ姫か。

地球人とナヴィの戦いで登場する地球人の武器・火器は、宇宙旅行ができたりナヴィの人造人間を作れるほどの科学力を持っているなら、ちょっと前時代的過ぎるのでは。というより、20世紀風だ。つまりは火炎放射器で森を焼く、ベトナム戦争そのもののように見える。指揮官のステレオタイプな性格設定や、鉱物資源を獲得するためにナヴィの文化や風習も省みず、手段を選ばず武力を行使しようと試みるのも、ベトナムやイラク戦争そのものじゃないか。その時代の兵器そのままじゃないか。帰還兵たちのストレスを発散させるための設定なのだろう。あの戦闘シーンを見ると、ベトナム帰還兵たちは当時の思い出がよみがえり、映画にアイデンティファイ(同一化)できるのでは。あざとい。不快だ。

負傷して下半身不随になってしまったのに、別の身体でヴァーチャルに生活を享受できる、というのは身障者や身体が不自由になってきた高齢者に対するメッセージなのかもしれない。

アバターがストーリーや設定で拝借した、現実の世の中で発生した様々な出来事やネタ元をまったく知らず、一切の予備知識を持たず、目の前のスクリーンで描かれていることのみを楽しむことが出来る無知な観客、なるほど中国でヒットするわけだ。アバターを心から楽しむことができるのは、こういう大衆なのだろう。

「きみに微笑む雨」見た

2010-01-18 03:01:17 | 映画鑑賞

震災後の四川省成都が舞台だというので韓国と中国の合作映画「きみに微笑む雨」(好雨時節)を見た。ホ・ジノ監督、韓国のチョン・ウソンと中国の高圓圓の共演。
物語は四川大地震から1年過ぎた成都。韓国企業の現地支店の状況を見るため、出張してきたチョンが、杜甫草堂で英語ガイドをしていた高と偶然再会する。2人は米国留学中に知り合い、互いの気持ちを伝える前に帰国し連絡は途絶えていた。急速に接近するが高は一線を越えることを拒み続ける。それには理由があった……、みたいなストーリー。

ま、韓流映画だな。その日の一回目を見終わって出ると、二回目を見ようと並んでいたのは韓流好きそうなお姉さまばかりだった。
震災後の四川で知り合いが元気がなければ、普通そのくらい想像できるだろう、ノー天気でデリカシーのない韓国男。
韓国側から見た、ミステリアスな中国女、みたいな表現の仕方で、日本人にとっても「中国人はわからない」みたいなところがあるから、物語へのアプローチの仕方は似ているのかもしれない。中国人が見ると逆に違和感があるかも。
懐かしい成都の風景がたくさん出てくるが、冒頭、車が道路を慈悲もなく横切ったり。実際、中国の交通ルールを守らないのはそのとおりだが、かなり誇張した感じがする。「成都って田舎っぽい、遅れてるー」みたいな先入観を持たせるような監督の小芝居が鼻につく。空港に見送りに来たチョンの現地支店長を先に返す言い訳で「僕があなたの後姿を見送りたいんです」っていう考え方は、違和感が残るけど、先輩を立てる生活習慣をもつ韓国人にとっては理解できるのかなあ、と興味深かった。
自転車に乗らなくなった理由がやや説明不足か。後半の部分は容易に想像がつくが、この映画は美男美女と杜甫草堂や動物園のパンダなど成都の風景を見せ、2人の英語のジョークを交えた会話を楽しむものなのだろう。

ただ、チョンはいかにもかっこいい兄ちゃんが歩いている、という歩き方だったし、高は当然のことながら、モデル歩き。映画を見終わって外に出て、街を歩く女の子たちを注意して見てみたが、モデル歩きしている人など皆無。高は、成都の女の子という設定にしては、あまりに洗練されすぎ。地元の女の子なら人力車を引くおじいちゃんに標準語で行き先を言うわけはないだろう。おじいちゃんは「要得(ヤオデ)=はいよ=」と四川語で答えているのに。もう少し四川語っぽいせりふがあっても良かったかも。その辺は韓国人監督ではわからないだろうな。