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そのままVon

おもに31文字の語呂合わせ日記

百人一首#79 藤原顕輔

2007年03月24日 |  / 百人一首

2007/03/24

「秋風にたなびく雲の絶え間よりもれ出づる月の影のさやけさ
(左京大夫顕輔)」


「秋風にたなびく雲の間からもれいづる月の影は涼しげ()」
「顕輔は父からもらう人麿の画像をもてりどんなものかな()」


2014/07/30


「秋風にたなびく雲のたえ間より 漏れ出づる月の影のさやけさ(#079:左京大夫藤原顕輔)」

「【訳】秋風が吹いてたなびいている雲間より漏れ出てくる月影が明るく澄みきっている()」



   057       「めぐり逢ひて見しやそれとも分かぬ間に 雲隠れにし夜半の月影(#057:紫式部)」   
    |     「白露に風の吹きしく秋の野は つらぬきとめぬ玉ぞ散りける    (#037:文屋朝康)」
037-◎-094 「み吉野の山の秋風さよ更けて ふるさと寒く衣打つなり        (#094:参議雅経)」 
    |     「天の原ふりさけ見れば春日なる 三笠の山に出でし月かも      (#007:安倍仲麿)」
   007   


「人麻呂の月の船思い空見れば 漏れ出づる月の影のさやけさ(付句遊戯-#079)」

「【参考】天の海に雲の波立ち月の船 星の林に漕ぎ隠る見ゆ(柿野本人麻呂)」



「顕輔は父顕季の興したる六条家継ぎ盛り上げたると(崇徳院の命で『詞華和歌集』をまとめる)」

「この歌も崇徳院へと献上の百首歌のひとつなりけり(4人堀川、鳥羽、崇徳、近衛の天皇に仕え、正三位、左京太夫にのぼりつめた。生没年は1090-1155年)」
「()」「()」「()」「()」「()」

【参考】
「灯火管制の夜は死者の火の青く燃え洩れ出づる月の影のさやけさ(安野光雅)」









                        


百人一首#78 源兼昌

2007年03月23日 |  / 百人一首

2007/03/23

「淡路島かよふ千鳥のなく声に幾夜ねざめぬ須磨の関守
(源兼昌)」


「淡路島めざす千鳥の鳴く声に幾夜目覚める須磨の関守(高信太郎訳)」
「語法的欠陥がある『寝ざめぬ』に厳しき定家何故入れたのか()」
「兼昌はちどりがうるさく寝られない言いたかったも逆理になれる()」
「この歌は鳴くつながりでさむしろのこおろぎが鳴く歌とつながる(#91)」
「きりぎりす鳴くや霜夜のさむしろに衣かたしきひとりかもねむ(藤原良経)」

「【意味】淡路島に飛んで、行き来する千鳥の鳴き声がうるさいが大いびきで寝覚ない須磨の関守だ(こんな訳にはならないはずだ)」


2014/11/21

「淡路島通ふ千鳥の鳴く声に いく夜寝覚めぬ須磨の関守(#078 源兼昌)」 

「【訳】淡路島に行って帰ってくる千鳥がもの悲しく鳴く声に幾晩も目覚めた須磨の関守です(#078 源兼昌)」



   056     「あらざらむこの世のほかの思ひ出に いまひとたびの逢ふこともがな(#056 和泉式部)」

    ∥      「夜をこめて鳥のそら音ははかるとも よに逢坂の関は許さじ    (#062 清少納言)」
091-◎-083  「きりぎりす鳴くや霜夜のさむしろに 衣かたしきひとりかも寝む  (#091 後京極摂政前太政大臣)」
    ∥      「世の中よ道こそなけれ思ひ入る 山の奥にも鹿ぞ鳴くなる     (#083 皇太后宮大夫俊成)」 
   062


「若者が海辺で花火するために いく夜寝覚めぬ須磨の関守(付句遊戯-#078)」


「兼昌は宇多の源氏の一員も出世はせずにのち出家する()」


「歌人とてさほど有名ならずともこの歌だけで名前残せり()」 

「兼昌の歌は須磨へと流がされた光が浜での源氏が須磨の浜()」

「友千鳥もろ声に鳴くあか月はひとり寝覚め床もたのもし(光源氏=紫式部)」

「兼昌が千鳥の歌は浜辺にて光源氏が代詠なるか()」


【参考】
「海鳴りにまぎれて消えし笛の音に いく夜寝覚めぬ須磨の関守(安野光雅 #078)」




百人一首#77 崇徳院

2007年03月21日 |  / 百人一首

2007/03/21

「瀬を早み岩にせかるる滝川のわれても末に逢はむとぞ思ふ(崇徳院)」

「急流の岩で別れた水のよう離れてもまた逢うときは来る()」

「崇徳院父に疎まれ運悪るし保元の乱負けて讃岐に(父・鳥羽院の死後、保元の乱で敗れて後白河天皇に讃岐へ流される)」


2014/11/11

「瀬をはやみ岩にせかるる滝川の われても末に逢はむとぞ思ふ(#077 崇徳院)」 

「【訳】川の流れが早いので岩に邪魔されて流れが二つに別れてもその先でまた必ず合おうと思う(#077 崇徳院)」



019-◎-056  「難波潟短き蘆のふしの間も 逢はでこの世を過ぐしてよとや     (#019 伊勢)」

    |      「あらざらむこの世のほかの思ひ出に いまひとたびの逢ふこともがな (#056 和泉式部)」
   020     「わびぬれば今はたおなじ難波なる みをつくしても逢はむとぞ思ふ  (#020 元良親王)」 


「大海に出でても鰻はまた還る われても末に逢はむとぞ思ふ(付句遊戯-#077)」

「崇徳院の件の歌が恋歌であれば尻込みしたる彼女は(激しすぎかな)」

「平安の時代にありて頂点か権力争い激しかるとき()」

「崇徳院数奇な運命生きられた帝でありし最後は鬼に(1119-1164)」

「表向き鳥羽天皇と璋子との子といわれるも実は祖父子と(白河天皇が璋子を可愛がった。鳥羽天皇は叔父子と言って嫌った)」

「白河は鳥羽の譲位を促して崇徳をつける天皇位へと(崇徳天皇は5才で即位し23才で譲位)」

「譲位後の崇徳のあとの天皇は近衛がなれる3才にして(鳥羽天皇は美福門院得子の子の近衛を天皇にする。近衛は17才で崩御)」

「崩御した近衛のあとが問題で鳥羽と崇徳で一悶着が(近衛の死は崇徳の呪詛による。崇徳の子でなく、鳥羽の身内をとなって第四皇子の後白河が天皇に。後白河は崇徳の弟)」

「鳥羽の死後崇徳と対立後白河は兄弟同士で争いをする(保元の乱)」

「かくとだに公家摂関家源平も二つに割れて戦いが()」


「崇徳側破れて彼は配流に四国・讃岐へと流されたまう()」

「かの地にて仏教に帰依し写経して許しを乞うが許されもせず(三年がかりで写経。後白河は受取拒否。)」

「このあとがすさまじきかな舌を咬みその血で書ける呪詛の言葉を(大魔王宣言。かくして日本一の祟り神ができる)」

「八年後長寛二年に讃岐にて怨み募らせ崩御されたり(都に飢饉や大火発生。西行は崇徳を弔った)」


【参考】
「みなづきの沙羅のみづえや芥川 われても末に逢はむとぞ思ふ(安野光雅 #077)」

 


百人一首#76 藤原忠通

2007年03月21日 |  / 百人一首

2007/03/21

「わたの原こぎいでて見れば久方の雲ゐにまがふ沖つ白浪(法性寺入道前関白太政大臣)」

「海原を漕ぎ出してみて見渡せば雲と見紛う沖の白波()」

「忠通は弟頼長と戦えり保元の乱勝ち組となる()」


 2014/11/10

「わたの原漕ぎ出でて見ればひさかたの 雲居にまがふ沖つ白波(#076 法性寺入道前関白太政大臣藤原忠通)」

「【訳】見渡す限りの大海原に漕いで出でて見たらはるかかなたの雲と見まがふばかりに沖の白波がたっています()」



074  「憂かりける人を初瀬の山おろしよ 激しかれとは祈らぬものを(#074 源俊頼朝臣)」

 |   「わたの原八十島かけて漕ぎ出でぬと 人には告げよ海人の釣船(#011 参議篁)」
 ◎ 
 | 
011


「ハワイ沖の人を呑み込むジョーズかと 雲居にまがふ沖つ白波(付句遊戯-076)」


「忠通はかるたの順番恨んでる二人に挟まれ息苦しきか(基俊と崇徳院でともに恨みを持っていそう)」


「この歌はエリートなりし余裕あり『今鏡』では人麻呂級に(賛辞されており漢詩も優れていたらしい)」

「かるた歌は崇徳が開く題詠歌38歳の時の歌らし(25才で関白に、出家するまでに摂政・関白を3回づつ、太政大臣を2回歴任。1097-1164)」


【参考】
「はるかなる俊寛の島に煙たち 雲居にまがふ沖つ白波(安野光雅 #076)」


 


百人一首#75 藤原基俊

2007年03月19日 |  / 百人一首

2007/03/19

「契りおきしさせもが露を命にてあはれ今年の秋も去ぬめり(藤原基俊)」

「約束を頼りに今まで生きたのにああそこに冬はまた来る()」

「基俊は家柄よくも昇進はあまり上がらず左衛門佐(道長の曾孫、従五位上)」

「基俊は俊成に歌教えたり俊頼と並ぶ歌の大御所()」


2014/11/10

「契りおきしさせもが露を命にて あはれ今年の秋もいぬめり(#075 藤原基俊)」 

「【訳】約束をしてくださった、させも草の露のような言葉を頼り生きてのに、ああ、あはれ今年の秋も過ぎ去っていくようです()」 



087  「村雨の露もまだ干ぬまきの葉に 霧立ちのぼる秋の夕暮     (#087 寂蓮法師)」

 |   「かくとだにえやは伊吹のさしも草 さしも知らじな燃ゆる思ひを (#051 藤原実方朝臣)」 
 ◎ 
 | 
051


「須磨浦で逢ひし彼女の文待てど あはれ今年の秋もいぬめり(付句遊戯-#075)」 


「基俊はかの道長のひ孫とかしかし出世はしなかったとさ()」


「かるた歌恋の歌ではないらしい息子の職を頼む歌らし(光覚という興福寺の僧侶)」

「維摩会が毎年秋に行われその講師にと息子したけり
(後には宮中の『最勝会』の講師を狙っていた。藤原忠通#76に頼んだがなしのつぶて



【参考】
「黍畑を吹く風の音も命にて あはれ今年の秋もいぬめり(安野光雅 #075)」