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そのままVon

おもに31文字の語呂合わせ日記

お聖さんはすごい

2013年04月11日 | 字余り

4/11

田辺聖子さんはやっぱりすごい。いま『エッセイベストセレクション1』をパラパラと開く。酒井順子さんが巻末で解説を担当しているが、親から田辺聖子さんみたいな物書きになってほしいと言われたらしく、本人は極上の下ネタを書くように揶揄されたのだと解釈して、泉下の父君に決意を表明している。酒井さんには『Remix枕草子』があるように、また下ネタが得意であるようなので、いわば現代版お聖さんになりたいのかとも思うが大阪弁が母語のお聖さんにはなれない。しかし、母語は違えどその存在には心酔しているのである。タイトルといい、話の展開といい、語り口といい、相方のカモカのおっちゃんといい、極上の芸術品なのである。
何でこんな発想ができるのかとか、こんなスケベなことをさらりと言えるのかとか、中身についても考えさせられる。冒頭の一編に『女のムスビ目』というのがある。この中で男には生きている間に2、3のムスビ目があるが、女にはないという。そこで男のムスビ目について、自分自身を振り返るのである。また、2編目には『いらう女』が出てくる。これも『いらう男』というタイトルでどんな男でもすなるヘンズリというものを書きたいのだが、ちょっと羞恥をともない、露骨な内容になってしまい、お聖さんのように格調は出せないように思う。こんな風に色々と触発をされる内容であることは太鼓判を押せる。このエッセイのベストセレクションはその2も刊行され哲学者の土屋賢二さんが解説を書いておられる。


万葉雑感

2013年03月25日 | 字余り

3/25

万葉集の読解が第十五巻まで終わった。全部で二十巻あるから3/4が終わったことになる。一年に例えると正月から始まり丁度夏も終わり秋から冬に向かうことになる頃だ。大変だったが、どう大変かということを伝えるのは難しい。今どき万葉集をチマチマ読み解いている還暦過ぎの老人を世間はどう見るのだろう。どう見られても構わないが、自分自身の問題としてエヘンといえることを考えてみたい。ポン友たちは、継続は力だとか、茂吉のように秀歌百選を編めだとか、とりあえず全部自分の言葉だから本にできるんじゃない?、等といってくれる。それなりに嬉しくその気にもなってくる。
そもそもこんな煩わしいことをなんで始めたか、というと
(1)古典が大切
(2)スローリーディング
(3)古典への深い理解
(4)昔の人の思いの理解
(5)古代・中世の人と歴史
等を知りたいためだった。
立ち止まることなく早足で進んでいるが、わたしの最近の感慨は万葉人も思うことは同じで若い娘に胸をかきむしるように恋い焦がれたり、新婚の若夫婦は単身赴任の男を首を長くして待っていたり、子供を歌った憶良の歌などはそのまま現代に持ってくることができる。いずれ万葉集に関する色々なことを書いてみたい。とにかくあと一巻を残すのみとなり気分的にはすごく解放感に溢れている。勝って兜ではないが、終局に向かい大伴家持の思いについても推し量る時間を増やしたい。


魏志倭人伝- 1

2013年03月10日 | 字余り

3/10

このタイトルはある本のレジュメを書くために準備していたが、すっかり興味が失せて引き続きやる気もなくなった。その本は魏志倭人伝の漢字に着目し、その漢字のルーツにまで遡り、文意をつかみ解読しようとするものであった。結論は大分県の日田地方にあると言うものだったように記憶しているが、読み込みの浅い私のことだから間違っているかもしれない。また、この本は下手な小説仕立てになっているため、作品としての出来映え、信憑性についても若干難が残る。さて、この本のあとで『魏志倭人伝、中国人はこう読む』や『消された大王~神一行』や『古代史の謎を科学する』、安本美典氏の『邪馬台国』等を読むと、またこころが穏やかならず揺れてしまう。
邪馬台国をどこに比定するかと言う問題だが、陸行・水行はガチガチにとらえないで雨の日や不吉な日を避けて、進めばと言うくらいにとらえてよいみたいだ。里呈を何キロでみるかは、文献を読み込んだら自ずと出てこよう。
論証は学者に任せるとして、わたしは原田常治氏に端を発する宮崎説が当たっているのではないかと思っている。
出雲の滅亡、神武東遷の経由地、大和朝廷の成立等の一連の流れがスムースに行くように思うからである。


老爺心ながら

2013年02月23日 | 字余り

2/23
ずうーっとサラリーマンをやってきた。だからというわけではないが回りもサラリーマンが多い。いまはもう最初のところをリタイアをして、第二の職場で割りと楽しくやっている。サラリーマンという一つのことを長くやっていると、蘊蓄の一つも語りたいし、人のためになるような深ぁーい話もしてみたい。しかし、振り替えるとそういうものは見当たらない。厳しい環境で揉まれ、最前線で生きてくれば、なにか語れるかもしれないが、それができないのは、のほほんと暮らしてきたのかもしれない。若いときは、感性も研ぎ澄まされ、ものごとを0か1かではっきりさせたい思いを持っていたが、いつしかその矛先も鈍ってしまった。
スポーツの世界のようにルールが決まり、そのなかで勝ち負けを決するという形式が好きで、努力のやり甲斐もあり、いいも悪いも自分の責任で結果にも納得があった。ところがビジネスの世界は、まずルールがないことに愕然とする。ルールはあるのだろうが、暗黙の了解みたいなところがあるし、。対戦者のランクもなし、誰がどのような技を持っているのかもわからず、どんな技がポイントが高いのか、評価者は何で評価したのかもわからず、自分の勝ち負けもわからないという状況である。わたしはある意味ビジネスの世界では成功しなかった落伍者である。そんな私が蘊蓄とか、深い話などを話せるのだろうか。とりあえずは無いとしておこう。
自動車修理工場の番頭のような仕事をしていた父を見てサラリーマンがいい、自営業には金策という辛い仕事がある、老後も不安であると考えてサラリーマンになった。なりたての頃、所得倍増論が叫ばれていて、日本は右肩上がりの成長路線をひたむきに走ることになり、結果として一瞬世界一にもなった。日本はうろたえた。バブルがはじけた。日本的なシステムである年功序列や終身雇用の是非が取り沙汰されるようになった。デフレになってはや20年、インターネットの普及とも関係があるのだろうが、日本的なシステムも崩壊しつつある。たぶん過渡期なんだろう。レガシーな時代のレガシーな蘊蓄は聞くに耐えないかもしれないが、なにか一言くらいは残したい。あえて探すなら、ルールの解釈についてである。成功体験でないので、誤っていないといいが保証の限りではない。サラリーマンが成功して伸びていくためのルールとは………
(1)組織の成長に貢献
(2)面倒見のいいリーダー
(3)俺に任せろ
(4)自分への信頼
(5)ルールは可変
こんな風に考えてみたが、反省点は多い。社会ルールが変貌していく中、こんな忠告など意味がないかもしれない。若者のホンネを斟酌すると、趣味と実益をかねた仕事をしなさいとか、自分を信じて好きにやれば…とか忠告するのがいいのかもしれない。


歴史の理解

2013年02月20日 | 字余り

2/20
今、武光誠さんの『聖徳太子』を読み終えた。聖徳太子といえば梅原猛さんの専売特許の感があるが武光さんのこの本もよく書かれている。どこがいいかというと、太子のことだけでなく、馬子や推古、守屋など登場人物の心理も書き、その時代の意味とか事件の発生した原因等に言及しているからだろう。
古代史を知りたい、学者もどきに勉強したいと思うなら、勉強したことを活き活きと語らねばならない。そのためには登場人物が何を考え、何をしたかということをはっきりさせて、その結果の影響を推し量り、歴史的評価を下さなければいけない。