暇つぶし日記

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RUNAWAY JURY ; 観た映画、Feb 09

2009年02月24日 06時09分33秒 | 見る
邦題; ニューオーリンズ・トライアル  (2003)

原題; RUNAWAY JURY
128分

監督: ゲイリー・フレダー

原作: ジョン・グリシャム
『陪審評決』(新潮文庫刊)

出演: ジョン・キューザック    ニック・イースター
ジーン・ハックマン    ランキン・フィッチ
ダスティン・ホフマン    ウェンドール・ローア
レイチェル・ワイズ    マーリー
ブルース・デイヴィソン    ダーウッド・ケーブル
ブルース・マッギル    ハーキン判事
ジェレミー・ピヴェン    ローレンス・グリーン
ニック・サーシー    ドイル
スタンリー・アンダーソン
クリフ・カーティス
ジェニファー・ビールス
ネストール・セラノ
リーランド・オーサー
ジョアンナ・ゴーイング
ビル・ナン
ディラン・マクダーモット
マーガリート・モロー
ノーラ・ダン
ラスティ・シュウィマー
セリア・ウェストン
ルイス・ガスマン

「ザ・ファーム/法律事務所」「ペリカン文書」など多くのヒット映画の原作者としても知られるベストセラー作家ジョン・グリシャムの『陪審評決』を基に、訴訟内容をタバコ訴訟から銃訴訟に置き換え映画化した緊迫のリーガル・サスペンス。陪審員の取り込みを図り様々な裏工作を交え熾烈な駆け引きを展開する原告・被告側双方と、ある目的を秘めて陪審員団に潜り込むことに成功した一人の男。ひとつの民事訴訟を巡って繰り広げられる三すくみの法廷外バトルをスピーディかつスリリングに描く。監督は「コレクター」「サウンド・オブ・サイレンス」のゲイリー・フレダー。主演はジョン・キューザック。なお、下積み時代からの親友というジーン・ハックマンとダスティン・ホフマンの記念すべき初共演が実現したことも話題に。
 ある朝、ニューオーリンズの証券会社で銃乱射事件が発生。犯人は16人を死傷させ、最後には自殺した。そして、この事件で夫を失った女性セレステが地元のベテラン弁護士ローアを雇って、犯人の使用した銃の製造メーカー、ヴィックスバーグ社を相手に民事訴訟を起こす。2年後、いよいよ裁判が始まろうとしていた。被告側は、会社の存亡に関わるこの裁判に伝説の陪審コンサルタント、フィッチを雇い入れる。彼は早速あらゆる手段を駆使し陪審員候補者の選別に取り掛かる。やがて陪審員団が決定するが、その中には謎に包まれた男ニックも含まれていた。

上記が映画データーベースの記述なのだが、BBCテレビで放映されたものを観た。 「小さな」原告が若手なりどちらかというとうらぶれた弁護士とともに法廷闘争で「大」企業のその財力を元に「力のある」弁護士たちを打ち負かすドラマというのはたくさんあり、弁護士、判事などのテレビシリーズさえある昨今とりたてて珍しいことではない。 大抵は経済力のない小民が金持ちに立ち向かう構図が見えるのだがそういうところで敵役のジーン・”ポパイ”・ハックマンの演技は悪くなかった。 彼の悪役での名演は例えば、ケビン・コスナー主演の「追いつめられて(1987)原題NO WAY OUT」を始めイーストウッドの「許されざるもの」など枚挙に暇がない。 実際、これらの悪役ではかつての「ミッドナイトカウボーイ」でホフマンと組み、今ではアンジョリーナ・ジョリーの父親として名のあるジョン・ヴォイドもハックマンと重なるような味のある役をたくさんこなしているようで、たまたま昨日もテレビでコッポラの法廷映画「レーンメーカー(98)」で悪徳保険会社の弁護士としてマット・デイモン演じる青年弁護士に対するしたたかな弁護士を演じていたのをみた。 二つとも原作者はジョン・グリシャムである。

法廷映画はいろいろあるけれど、ここで面白いと思ったのは本作では陪審員制度、とくに陪審員の選定をめぐっての駆け引きがポイントになるところだ。 大組織の潤沢な資金を元に勝つためには裁判のキーポイントになる陪審員の背景を洗いざらい調べ出して自分側に有利な陪審員を作り出そう、というところだ。 普通の市民から選びだされた陪審員の性向が事前に分かればそれほど有利なことはない。 ことは法律を巡る法廷闘争以前にキャスティングボートを握っておく、というかなり恐ろしい試みなのだし、本作のようにそこには原告の弁護士、ホフマンの影というようなものまで捻りを加えて、ありそうな恐ろしい話を娯楽にした、というところがハリウッドで、その恐ろしさが結末でかなり中和されているもののハリウッドはやはりハリウッドだ。

本作は原作ではタバコ訴訟に絡むものだったそうだが却って本作のように悪名高い武器製造会社をもってきたことでタバコの害と同じく「ポリティカル・コレクト」部門ではよりいっそう悪役に対する憎しみを増すのに貢献しているように思う。 タバコのほうでは訴訟には直接関係していないものだったかもしれないがアル・パチーノが演じたものがあったのではないか。

先ほどテレビを見ていたら下馬評どおり「トレイン・スポッティング」を撮ったイギリスの監督がインドのスラムを舞台にした「スラムドッグミリオネア」がオスカーを、日本の葬儀屋の話が外国語部門、短編アニメ部門でも日本のものがオスカーを取ったと報道されていた。 葬儀屋の話ではアメリカで「SIX FEET UNDER」というテレビシリーズが評判だったけれど日本のものがそれとどう違うのか興味のあるところだ。

ついこの間日本で、残酷な殺人を犯した被告が自分でも死刑を願い法廷でも検察側が近い将来実施されるという日本の裁判員制度をみこしてか視覚や感情に訴える陳述を行ったけれどメディアなどが被害者家族の死刑を望む声を前面に出している報道を踏まえてか裁判官による判決は法に則った順当なもので、それは裁判員制度のなかで裁判員の振れを抑えるもの、日本の裁判員制度のもとでは死刑の判決が簡単にできかねないことへの憂慮を示すものだと捉える評論もあったようだ。 人権、法の下の平等、権利に義務、民主主義などという大文字の言葉は日常生活の諸行為の中で検証されて実体化できるもので果たしてこれらの文字の実体が今まで日本の歴史の中で検証されてきたかどうか、それが育てられ根付いているかどうか疑問の多い中、また、日ごろセンセーショナルな煽情的報道が多い中で果たして事件の解決、防止が死刑で片がつくかということも十分検討されない状況下では、現在の裁判員導入には大きな疑問と危惧をあらわす声も多い。 

果たして日本にはクラシック映画「十二人の怒れる男(1957)」や「アラバマ物語(1962)」のように異なった意見を討議して法的均衡、正当性を主張する場が創造できるのだろうか。 アメリカのシステムとは違い裁判員制度では全員一致ではなく個人の意見を尊重し多数決とする、それでも結果が被告に不利の場合は裁判官3名のうち一人が賛成しなければ有罪にはならない、というのだそうだが、それにしても裁判官も法の均衡ということでは圧倒的多数の原初「十二人の怒れる男」の意見に賛同しないといいきれず、政治の場でもしばしば見られる「愚集政治」に飲み込まれる結果となりかねない。 

「KY」という言葉が蔓延しそのレッテルを貼られた人々を排除する社会ではたとえこれが将来に向けて国民参加の裁判といっても、現在、裁判員に指名されるのをどのように避けることができるのかその問い合わせが絶えないような社会ではそれができるまでの犠牲は大きすぎるのではないか。 犯罪者だから仕方がないではすまされない、もし仮に私が被告になった場合そんな制度の中では裁判にはかかりたくない。 果たしてそういう制度を被告が忌避する権利はあるのだろうか。

裁判員制度の政府広報
http://www.saibanin.courts.go.jp/

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