この日記を始めるまで小さいときから日記など書いたことがなかったし、子供の時には絵日記を宿題として書かされてはいたものの、それも4分の一とか初めの数ページでいつも終わり、夏休みの最後の日にまとめておなじような絵を書いたりいろいろなものをでっち上げたりして済ませていた。 そういうことは誰にもよくあることだと聞いている。 そしてさすがに中学、高校の頃には年頭に当たって今年の抱負だとか決心などをして厚い日記帳を買うのだがそれも当然のことながら続かない。 無駄にそういうことを続けていただろうか。
そういう黄ばんだ白いページばかりのものが去年の夏、日本の家を引き払うときの整理中に出てきて、それをペラペラめくってさすが気恥ずかしくなり纏めて棄ててしまった。 それらは2週間も続いていないし、その内容も何の特別な思いや記憶を引き出す助けにならなかった。 けれど、何かの切れ端に断想のようなものを書いた黄ばんだ粗末な紙切れなどは集めて取っておいたものもある。
そういうものは当時の、40年以上前のまだ青年になりきれていないような未熟な者の想いを辿る上で面白く、それは他人のものを読むような気もしないではない。 インクの色、文字の勢い、角ばり具合など当時の様子も窺える。
ネットのブログをやり初めて日記がわりにしていて実際これほど続くとは思わなかった。 キーボードを叩くのとワープロのおかげで文字を書くスピードが実際に紙に書くより格段に速くなった。 それは文学のなかでもパソコン文体などと言われたものと関係があるだろう。 冗長で文章が練られていない、等々。 しかしこれは文学ではなく日記だ。 それなら様子が違ってくるだろう。 思うが儘に書き散らすわけだし、今ではいくら書いてもハードディスクを一杯にすることはない。 量の問題ではないのだ。 一般のハードディスクへの需要はオーディオ・ヴィジュアル情報への需要が圧倒的なもので、コトコト叩いた文字情報などなんのことはない。
いくら書き流しの文だとは言え見直すことはしなければならないだろう。 でなければ誤字脱字、思い違いに事実誤認、等々それに加えて表現を訂正する、というような作業が必要で、そのまま垂れ流していればあとで自分が読んでも何が何だか分からなくなるに違いない。 だから原稿を簡単に推敲できる、という点でワープロの貢献度は多大なものだ。
このブログであまり昔のものを読み返すことはしないのだが、時々そんなこともある。 初めに書いたときに何回か読み返し誤字脱字の類に気をつけていたつもりなのにそれでもそんなものが見つかると訂正するのだが、だが読み返してこの文脈からすればこうした方がいいのに、これは不味かったなと思うときにはそんなものでも敢えて訂正はしない。 訂正したらそのときにはそれは何年か前の文ではなくなるからだ。 明らかな間違いのときは多分、註などをつければいいのだろうが、たかがブログの日記であるのだからわざわざそういうこともいらない。 要はこういう電子文書はオリジナルということがなかなか保証できないからだ。 もちろんデジタル信号を解析してどのように訂正されたかトレースすることも可能なのだろうけれどそこまでプロではないからそんなことはぜず、アップデートしないということだ。 デジタルのものでは古い紙にかかれた断想などの当時の雰囲気を文章自体からだけではなくインクの染みなり色から立ち上がらせるものではないからせめて当時の拙い文でもそのまま置いておいてその雰囲気の一部でも味わえればとも思うからでもある。