暇つぶし日記

思いつくままに記してみよう

テレビでビヨンセのコンサートを一時間ほど見た

2009年03月29日 14時41分21秒 | 聴く
今年もう70歳に近いティナ・ターナーのコンサートがオランダのどこかのアリーナで老若男女のファンを集めて盛況にひらかれたことの様子がニュースで伝えられたその何時間か後にテレビのチャンネルをあちこちと変えて眺めていてたらビヨンセが2007年頃にカリフォルニアでコンサートを演ったときのものを放映していたの行き会い、そこで初めてこのビヨンセという歌手をじっくり観た。

それを観ようと思ったのはいつだったか彼女のコンサートの模様がちらりと出ていてその体躯から放たれる歌と踊り、存在自体ののセクシーさに圧倒され、それで名前がビヨンセーだと分かり、へえ、これがこの何年か子供達の間で時々名前の出ていたビヨンセかと認識したのだった。 なるほど、これでは早熟の子供、男女達がイカレルはずだ、と還暦近い親父が一曲の半分ぐらい見ただけでイチコロになるのも無理はない、と記憶していたからだ。

そして、はじめてじっくり観たのがこの1時間だった。 なるほど男を周りに傅かせ女の夢や自分の環境で一番強く生き残る術を豪華な体と動き、歌で体現するのだから男女の心を両掴みにするはずだ。 ここで何年もポップの世界で女王を誇るマドンナのことを思い出した。 勿論、もう20年以上前からスターであるマドンナと比べるわけにはいかないもののそのマドンナのポップ戦略は充分商品としてのビヨンセには後輩の常として使われているのだが、けれど、基本的にはその肉体性では圧倒的にビヨンセに分がありそうだ。 歌唱力と喉の幅にもこちらのほうに軍配が上がる。 それではラティーノのかつての歌姫ジェニファー・ロペスと比べるとどうだろうか。 多分アメリカのラテン文化より黒人ポップの資質のほうがより世界に売れるのかもしれないが結局はビヨンセの強力な肉体性に依るのだろうと思う。 歌唱力も抜群で、疑いもない歌唱力に「も」がつくところがミソだ。

私と同い年でその父親がかつてこの国のシンフォニーオーケストラのコンサートマスターだったバイオリニストの息子である私の同僚がもう20年以上前に言ったことをこのビヨンセを観ていて思い出してはっとなった。 ひ弱でいかにもユダヤ人然とした髭と温和な風貌と性格をもち、普段の彼からはとても出るような言葉だと思えなかった。 「自分は親が親だから人並みにバイオリンは弾くけど音楽に特に執着はない。 けれど音楽を一つ挙げろといったらティナ・ターナーだな、とてもティナ・ターナーの下腹部に響くような音楽に勝るものはほかにない。 ターナーはすごい。夢では彼女の虜になっている」と言うほどだった。 それが今、私にとってはビヨンセだったということだ。 これほど現代的なセクシーさをもち実力を兼ね備えたエンターテイナーはいないのではないか。 マドンナの80年代からの挑戦的な肉体性はすでにここでは見るものを併合して完全降伏させる力を持つのだが90年代にマドンナを祭り上げたアメリカのフェミニスト達はビヨンセをどのように評価するのだろうか興味のあるところだ。

ここまで書いてYouTubeをいろいろ見ていたらこのコンサートで歌い踊ったものと同系のクリップがいくつもあったし、特に、前大統領のジョージ・ブッシュ夫妻の隣にティナ・ターナーがすわりターナーを除いて全て立席で、ビヨンセがターナーの十八番「プラウド・メアリー」を熱唱する何かのコンサートの一部が挙げられていて、そこでは若い日のターナーの振りつけで歌うビヨンセの体躯はまさしくターナーと相似でありターナーのエネルギーと歌唱力の衣鉢をつぐのは確実なのだがそれにも増して舞台上の踊りから醸し出す動きからは確実に女王の風格が現れている。



スラムドッグ$ミリオネア  亀も空を飛ぶ; 観た映画、Mar 09

2009年03月29日 11時00分31秒 | 見る
スラムドッグ$ミリオネア(2008)
SLUMDOG MILLIONAIRE
120分
製作国 イギリス/アメリカ

監督: ダニー・ボイル
共同監督: ラヴリーン・タンダン
製作: クリスチャン・コルソン
製作総指揮: ポール・スミス
テッサ・ロス
原作: ヴィカス・スワラップ
『ぼくと1ルピーの神様』(ランダムハウス講談社刊)
脚本: サイモン・ボーフォイ
撮影: アンソニー・ドッド・マントル


出演: デヴ・パテル ジャマール・マリク
マドゥル・ミッタル サリーム・マリク
フリーダ・ピント ラティカ
アニル・カプール プレーム・クマール
イルファン・カーン 警部
アーユッシュ・マヘーシュ・ケーデカー
ル ジャマール(幼少期)
アズルディン・モハメド・イスマイル サリーム(幼少期)
ルビーナ・アリ ラティカ(幼少期)

 「トレインスポッティング」「28日後...」のダニー・ボイル監督が、インドを舞台に撮り上げたバイタリティに満ちあふれた社会派エンタテインメント大河ラブ・ロマンス。原作はヴィカス・スワラップの『ぼくと1ルピーの神様』。日本でもお馴染みのクイズ番組で史上最高額まであと1問と迫ったスラム育ちの青年が語る過酷にして波瀾万丈の生い立ちが、多彩な要素を巧みに織り込みつつスリリングかつ躍動感いっぱいに描かれてゆく。世界中で数々の映画賞を獲得し、ついにはアカデミー賞で作品賞を含む最多8部門を受賞する快挙を成し遂げた。
 インドの国民的人気番組“クイズ$ミリオネア”。この日、ムンバイ出身の青年ジャマールが、次々と難問をクリアし、ついにいまだかつて誰も辿り着けなかった残り1問までやって来た。ところが、1日目の収録が終わりスタジオを後にしようとしたジャマールは、イカサマの容疑で警察に逮捕されてしまう。スラム育ちの孤児でまともな教育を受けたこともないジャマールがクイズを勝ち抜けるわけがないと決めつけ、執拗な尋問と拷問を繰り返す警察。ジャマールは自らの無実を証明するため、これまでに出された問題の答えは、すべてストリートで生きながら学んだと、その過酷な過去を語り始めるのだったが…。

上記が映画データベースの記述なのだがオスカー受賞作品をそんなに時間をおかずに観ることは久しぶりで「イングリッシュ・ペイシェント(1996)」以来だろうか。  それも今日3月28日午後8時半から9時半までの一時間世界の各地で省エネルギーのキャンペーンとして余分な電気を消すというようなことをニュースで聞き、たまたま家族四人そろって夕食を摂った後8時のニュースを見た後、さてどうするかと言った時に息子がどこからかダウンロードしてきたいくつかのディスクを持ってきたのでそのうちの一つを観ながらうち中の電気を消して皆、ブラウン管の前に座ったところで皆の意見が一致してこれを見ようと選んだのがこの映画だったというわけだ。

オスカーの祭りの前からBBCなどではこの映画のことが大きく取り上げられ「トレインスポッティング」を撮った監督の作らしいから興味をもっていたものの一方では真摯に地域の問題などを考えるグループから批判があったりしたことも伝えられていた。

結局、なぜイギリス映画アカデミー、アメリカ映画アカデミーで賞をさらえたのか、ということが鑑賞後わかりはじめた。 それはまさに製作国、イギリス、アメリカの映画だだからだ。 さらに敷衍して言うとハリウッド映画そのものだ。 画調、シナリオ共にハリウッドのものでハリウッドのインド版ボリウッドの町、ムンバイの関係者やインド人一般からインドのスラムが写されてインドのイメージが悪くなるという画像がちりばめられているというのだが心配することはない。 ハリウッド的というのは写実は排除して一秒の何分の一かでそれを匂わせるようなショットをちらりと見せてその実、現実は見せない手法だ。 暴力は匂わせるだけで決して血や汚物、死体に生きていても変形した身体を長く見せることもない、いわゆる「ポリティカル・コレクト」にスリルあるフィーリング・グッド・ムービーなのだ。 精々汚物といえば幼少時の主演の男の子がボリウッド・スターのサインをもらうために肥溜めに自ら飛び込んでその力でそこから抜け出し汚物をあたまから垂らせたままでスターに群がる子供たちの間をその悪臭でぶっちぎり、掻き分け見事にスターからサインを勝ち取る、というエピソードがこの映画の意でもある。 体にまとわりついた汚物は映画の観衆までは匂わずそれは単なる笑いの対象でしかない。

メディアで話題になっていたこの映画のことを想像したときには英語で撮られた映画の大賞で受賞したというより、本来なら娯楽映画だけでなく良質な英語以外の外国語映画として受賞するのが相当なのではと思っていたのだが今日本作を観た後、明らかに受賞した部門が大賞で相当だと確認した。 大手の映画業界がアメリカで選んだものとして正統なものだ。

もう何年も前、オランダの写真家、エド・ヴァンデル エルスケンが彼の写真集「HALLO!」(1978年)の中でアフリカに観光旅行したアメリカ人の中年以上の団体が貧しい現地の村で幾分かの「伝統」衣装をつけてよちよち歩きする子供に群がりその子供たちにカメラを向けているところを撮っている。 エルスケンの眼はその老人たちのと同じ機能をもつカメラというものでそのアメリカ人たちを撮り、世界の現実を提示する批判的な写真を創作しているのだが、ここではそれぞれの退役アメリカ人のフィルムに焼きついた写真が貧しくも可愛そうで可愛い黒人幼児なのだ。 旅行の後、フロリダの冷房の効いた部屋でその写真を隣人に見せるのだ。 くしくも本作の中にもそういうアメリカ人の旅行者が束の間登場するのだがそのけなげにもこちらを向いて写っているだろうくりくりとした丸い眼の黒人幼児がアメリカ人が見たい画像、すなわち本作なのだ。

観終わって息子は自分の下宿に、娘はボーイフレンドと土曜の夜の遊びに出かけ、家人はベッドで読みかけの本を読んでいる間、猫をそばに初めの15分ほど見過ごした、オランダ国営放送にかかっていたイラン映画を観た。

亀も空を飛ぶ(2004)
原題; TURTLES CAN FLY
メディア 映画
上映時間 97分
製作国 イラク

監督: バフマン・ゴバディ
製作: バフマン・ゴバディ
脚本: バフマン・ゴバディ
撮影: シャーリヤル・アサディ
音楽: ホセイン・アリザデー

出演: ソラン・エブラヒム サテライト
ヒラシュ・ファシル・ラーマン ヘンゴウ
アワズ・ラティフ アグリン
アブドルラーマン・キャリム リガー
サダムホセイン・ファイサル パショー
アジル・ジバリ シルクー

 「酔っぱらった馬の時間」「わが故郷の歌」のバフマン・ゴバディ監督が、アメリカによるイラク侵攻を背景に、イラク北部のクルディスタンで過酷な状況の中たくましく生きる子どもたちの姿を、リアリズムと幻想的表現を混在させつつ力強く描き出した衝撃のドラマ。世界各地の映画祭で高い評価を受け、数多くの賞を受賞。
 アメリカ軍のイラク侵攻が目前に迫る2003年春。幾多の戦争で荒廃したイラク北部クルディスタン地方の小さな村。ここに、サテライトと呼ばれる戦争孤児の利発な少年がいた。機械類に詳しい彼は便利屋として大人たちに重宝にされていた。また、子どもたちを使って地雷除去のアルバイトを取り仕切るなど持ち前の才覚を発揮して抜け目なく立ち回っていた。そんなある日、サテライトは目の見えない赤ちゃんを連れた難民の少女アグリンに出会い一目惚れする。少女には両腕のない兄ヘンゴウがいた。やがてサテライトはヘンゴウに不思議な予知能力があることを知るだった…。

以上の映画データベースの記述からこれが貧しいクルディスタンの難民キャンプで群れる子供たちを描いたものであることは「ミリオネヤ-、、、」の、インドのスラム街でこどもたちが主役になっているもとと相似形であるもののその質は180度違う。 ここでは実際に眼もちゃんと見えず、両手のないもの、足がないものまで現実どおり出演させ、いたいけない幼児まで演技ともそのままともいえるような過酷なことをさせ、観客の目を背けさせそうな画面の現実を創り上げ、そこでには真の現実が画面の現実を侵食している。 フィーリング・グッド映画の、いかにも現実だという「ポリティカル・コレクト」には組しようもない贅沢の無さだ。 親から生き別れ兄弟とつながりながら世の中をこどもの体で大人のすることをして生き延びるところも同じだ。 インドのスラムではクイズで大金を掴む夢が現実から逃れるために機能する、ある種のアメリカンドリームなのだがイラクの現実は夢を語る余裕はなくただ現実につぶされないように走るしかなく、それぞれの現実は二つの映画に現れる、少年達にとって「運命」の少女達の顛末だろう。

二つの映画を比べて観られる僥倖を多くの人と分かち合い、それぞれの現実に自分がいたとするとどのような物語が紡ぎ出し得るのかを語り合うのも一興かもしれない。


ビーフステーキ 180g

2009年03月29日 07時55分01秒 | 喰う


スーパーでステーキ肉を買った。 このスーパーの精肉部はいい肉を廉価で売るので定評があり日頃重宝しているのだが今回は少し違った。

部位の形がそのようなので砲弾型ステーキとオランダでは呼ばれているサーロインの赤みが少し薄いものは柔らかくて申し分ないのだが今回はアントレコットの肉味の強いものをと求めたのが180g2枚で5ユーロ40セント。 砲弾型ステーキのサーロインより一割がた安いのだが値段には関係なくその肉のいかにも牛肉という風味を味わいたいとそのパックをカートに入れた。

特別に何か料理が思いつかないときの安易な献立だ。 丸くて小さなジャガイモをサラダ油で炒めたものにインゲン豆と人参を茹でてパターとナツメグの粉を振り掛けたものを温野菜にして簡単なサラダを添えた。

厚い鋳物のフライパンを充分熱くしてバターを溶かしバージンオリーブオイルを加えて泡が引いたところでグラインダーで挽いた粗引きの胡椒と軽くナツメグを擦って振りかけておいた肉を二枚ジューッという音と共に表面に置き、手で10秒ほどそれぞれの肉を押さえそのまま2分ほど焼いた。 その間に塩のグラインダーで表面に塩を振りかけた。 2cm弱ある肉厚の縁が下から色が変わっているのが見え、底の焦げ目がついたところで裏返し今度は2分弱しっかり焼いて脂が煙らないように火を少し緩め先ほどと同じように塩を振った。

ジュージューいうまだ熱いうちにそのままフライパンごと食卓に持ってきて家人は肉の厚いほうを選んで自分の皿に置いた。 一番厚いところをナイフで切り割って色を見ると意図したとおりのミディアムだった。 色の割りに予想したようなアントレコットの味がせず妙なことに中心の赤みが硬く、むしろ焼けた上下のほうが柔らかい。 これでは通常の反対ではないか。 ちょっと期待はずれだ。 これなら砲弾型ステーキ肉を買えばよかったと後悔したがそれでも再び焼くこともなく二人ともいつもより肉を薄く切って結局全部平らげた。 良質の肉なら普通赤ワイン、塩胡椒、醤油を肉汁に少し落としてとろみをつけてグレービーとするようなこともなくそのままフライパンに残った脂を肉切れでこそげ取るようにして充分グレービー代わりとするのだが、もっとも簡単なそのグレービーにしても砲弾型ステーキから出るほどの肉の味がしなかった。 

近所の肉屋にこのことを言えば、だから言ったこっちゃない、というに決まっている。 スーパーはいつも思ったようなものが買えないよ、というだろう。  でもね、あんたのところと値段を比べるとそりゃそれだけのリスクを負ってみようという気にはなるよね、今回はハズレだったけど、とも言い返す用意がこちらにもあることはあるけれど、、、、、