今年もう70歳に近いティナ・ターナーのコンサートがオランダのどこかのアリーナで老若男女のファンを集めて盛況にひらかれたことの様子がニュースで伝えられたその何時間か後にテレビのチャンネルをあちこちと変えて眺めていてたらビヨンセが2007年頃にカリフォルニアでコンサートを演ったときのものを放映していたの行き会い、そこで初めてこのビヨンセという歌手をじっくり観た。
それを観ようと思ったのはいつだったか彼女のコンサートの模様がちらりと出ていてその体躯から放たれる歌と踊り、存在自体ののセクシーさに圧倒され、それで名前がビヨンセーだと分かり、へえ、これがこの何年か子供達の間で時々名前の出ていたビヨンセかと認識したのだった。 なるほど、これでは早熟の子供、男女達がイカレルはずだ、と還暦近い親父が一曲の半分ぐらい見ただけでイチコロになるのも無理はない、と記憶していたからだ。
そして、はじめてじっくり観たのがこの1時間だった。 なるほど男を周りに傅かせ女の夢や自分の環境で一番強く生き残る術を豪華な体と動き、歌で体現するのだから男女の心を両掴みにするはずだ。 ここで何年もポップの世界で女王を誇るマドンナのことを思い出した。 勿論、もう20年以上前からスターであるマドンナと比べるわけにはいかないもののそのマドンナのポップ戦略は充分商品としてのビヨンセには後輩の常として使われているのだが、けれど、基本的にはその肉体性では圧倒的にビヨンセに分がありそうだ。 歌唱力と喉の幅にもこちらのほうに軍配が上がる。 それではラティーノのかつての歌姫ジェニファー・ロペスと比べるとどうだろうか。 多分アメリカのラテン文化より黒人ポップの資質のほうがより世界に売れるのかもしれないが結局はビヨンセの強力な肉体性に依るのだろうと思う。 歌唱力も抜群で、疑いもない歌唱力に「も」がつくところがミソだ。
私と同い年でその父親がかつてこの国のシンフォニーオーケストラのコンサートマスターだったバイオリニストの息子である私の同僚がもう20年以上前に言ったことをこのビヨンセを観ていて思い出してはっとなった。 ひ弱でいかにもユダヤ人然とした髭と温和な風貌と性格をもち、普段の彼からはとても出るような言葉だと思えなかった。 「自分は親が親だから人並みにバイオリンは弾くけど音楽に特に執着はない。 けれど音楽を一つ挙げろといったらティナ・ターナーだな、とてもティナ・ターナーの下腹部に響くような音楽に勝るものはほかにない。 ターナーはすごい。夢では彼女の虜になっている」と言うほどだった。 それが今、私にとってはビヨンセだったということだ。 これほど現代的なセクシーさをもち実力を兼ね備えたエンターテイナーはいないのではないか。 マドンナの80年代からの挑戦的な肉体性はすでにここでは見るものを併合して完全降伏させる力を持つのだが90年代にマドンナを祭り上げたアメリカのフェミニスト達はビヨンセをどのように評価するのだろうか興味のあるところだ。
ここまで書いてYouTubeをいろいろ見ていたらこのコンサートで歌い踊ったものと同系のクリップがいくつもあったし、特に、前大統領のジョージ・ブッシュ夫妻の隣にティナ・ターナーがすわりターナーを除いて全て立席で、ビヨンセがターナーの十八番「プラウド・メアリー」を熱唱する何かのコンサートの一部が挙げられていて、そこでは若い日のターナーの振りつけで歌うビヨンセの体躯はまさしくターナーと相似でありターナーのエネルギーと歌唱力の衣鉢をつぐのは確実なのだがそれにも増して舞台上の踊りから醸し出す動きからは確実に女王の風格が現れている。
それを観ようと思ったのはいつだったか彼女のコンサートの模様がちらりと出ていてその体躯から放たれる歌と踊り、存在自体ののセクシーさに圧倒され、それで名前がビヨンセーだと分かり、へえ、これがこの何年か子供達の間で時々名前の出ていたビヨンセかと認識したのだった。 なるほど、これでは早熟の子供、男女達がイカレルはずだ、と還暦近い親父が一曲の半分ぐらい見ただけでイチコロになるのも無理はない、と記憶していたからだ。
そして、はじめてじっくり観たのがこの1時間だった。 なるほど男を周りに傅かせ女の夢や自分の環境で一番強く生き残る術を豪華な体と動き、歌で体現するのだから男女の心を両掴みにするはずだ。 ここで何年もポップの世界で女王を誇るマドンナのことを思い出した。 勿論、もう20年以上前からスターであるマドンナと比べるわけにはいかないもののそのマドンナのポップ戦略は充分商品としてのビヨンセには後輩の常として使われているのだが、けれど、基本的にはその肉体性では圧倒的にビヨンセに分がありそうだ。 歌唱力と喉の幅にもこちらのほうに軍配が上がる。 それではラティーノのかつての歌姫ジェニファー・ロペスと比べるとどうだろうか。 多分アメリカのラテン文化より黒人ポップの資質のほうがより世界に売れるのかもしれないが結局はビヨンセの強力な肉体性に依るのだろうと思う。 歌唱力も抜群で、疑いもない歌唱力に「も」がつくところがミソだ。
私と同い年でその父親がかつてこの国のシンフォニーオーケストラのコンサートマスターだったバイオリニストの息子である私の同僚がもう20年以上前に言ったことをこのビヨンセを観ていて思い出してはっとなった。 ひ弱でいかにもユダヤ人然とした髭と温和な風貌と性格をもち、普段の彼からはとても出るような言葉だと思えなかった。 「自分は親が親だから人並みにバイオリンは弾くけど音楽に特に執着はない。 けれど音楽を一つ挙げろといったらティナ・ターナーだな、とてもティナ・ターナーの下腹部に響くような音楽に勝るものはほかにない。 ターナーはすごい。夢では彼女の虜になっている」と言うほどだった。 それが今、私にとってはビヨンセだったということだ。 これほど現代的なセクシーさをもち実力を兼ね備えたエンターテイナーはいないのではないか。 マドンナの80年代からの挑戦的な肉体性はすでにここでは見るものを併合して完全降伏させる力を持つのだが90年代にマドンナを祭り上げたアメリカのフェミニスト達はビヨンセをどのように評価するのだろうか興味のあるところだ。
ここまで書いてYouTubeをいろいろ見ていたらこのコンサートで歌い踊ったものと同系のクリップがいくつもあったし、特に、前大統領のジョージ・ブッシュ夫妻の隣にティナ・ターナーがすわりターナーを除いて全て立席で、ビヨンセがターナーの十八番「プラウド・メアリー」を熱唱する何かのコンサートの一部が挙げられていて、そこでは若い日のターナーの振りつけで歌うビヨンセの体躯はまさしくターナーと相似でありターナーのエネルギーと歌唱力の衣鉢をつぐのは確実なのだがそれにも増して舞台上の踊りから醸し出す動きからは確実に女王の風格が現れている。