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いつでも君のこと好きだったよ

野田かおり歌集『風を待つ日の』を読む2

2021-09-06 23:08:36 | 日記

 先日はスペース配信の話だけで終わってしまったので、きょうは内容について。9月4日にスペース配信(Twitterで話しているのを聴いたりできるもの)したときの気安さとおしゃべりの流れのなかで生まれた言葉は、こうして書こうとするとそのときの瞬間がうまく再現できない。

 

 歌集として読んだ感想を書くのはわりと自分が思ったことを書けばいいだけだけど、いっしょに話したり聴いてくれていた人との「時間」の大袈裟に言えば「かけがえのなさ」みたいなものは書き表せられない。きょうは私がいいなと思った歌を引きながら言えなかったこと、言い忘れていたことを補いながら書いていく。

 

 ・教室にカーテンふくらみ夏の日の誰かの影が笑ひ合つてゐた

 

 明るい情景に見えながら、感じ取れたのは怖さ。「誰か」だし、「ゐた」という表現に不穏さが漂う。こういう歌を読むと、ああ、旧かなはいいなと思う。「笑い合っていた」と新かなで書くとのっぺりして不穏さ消えてしまう。「笑ひ合つてゐた」からはそのカーテンに沁み込んでいる時間やもういない人の影が顕ちあがってくる。

 

 ・春雨に冷ゆる鉄扉を閉ぢゆけば境界のごとき校舎とならむ

 ・スイッチを消せば夏の闇となり体育館は沼の匂ひす

 ・昏き海を立ち上がらせて図書室の窓のひとつがあをく灯りをり

 

 自分がついさっきまでいた場所、属していた空間が異世界に変ってしまったように思える瞬間。読んだものもその場に立っているような臨場感がある。冷たさや匂いや光が見える。

 

 私が好きだった連作は「いちごしふぉん」。その中から3首。

 

 ・やうやうに赤のうするるさびしさよ蛸型遊具の蛸のあたまは

 ・タンバリンやあやあ鳴らす子のやうに葉桜けふは光を散らす

 ・いちごしふぉんいちごしふぉんといふときの頬のあたりがふあんな春だよ

 

 タンバリンの歌はこの歌集のなかで一番印象的だった。明るさのなかの狂気のようで。初夏のぴんと張り詰めたものに無遠慮に無邪気に侵入してくる強すぎる光。「タンバリンやあやあ鳴らす子」という比喩が独特でぴたっとはまっていて巧い。

 

 あと、恋の歌の連作「umbrella」は歌も並びもよくて、

 

 ・夕焼けを壊したやうな髪留めのピンのひとつだけわたしであれば

 ・舌を良きくぼみにあてて揺れうごく背骨の終はりあなたの湖(うみ)は

 ・さう言って差し込む舌は いつまでも打たれていたい夕立だつた

 ・知らなくて抱ける性を思ふとき百日紅のあか濃くなるばかり

 ・指ばかり見てしまふ午後まひるまの月のしろさを探すふりして

 ・umbrella強く握つては駄目なのだ 明るい雨を頬に濡らして

 ・花椒(ホワジャオ)に舌は痺れて水を飲む何度でも飲む夏の暗みに

 

 連作ではなく1首として気になった歌は

 

 ・どこかの国ぢやなくてfire a missile 愛しいだれかの眠りに落ちる火なの?

 ・Kのこころわかりかねたり眼裏(まなうら)に襖の隙のくらやみを見き

 ・Gute Nacht(おやすみ) ゆびはゆびまでたびをしてゆきのつめたさわかちあうなり

 ・周庭の逮捕のニュース流れきて香港の夏の行方は(Won't there be an umbrella any more?) (もう傘はないの?)

 

 そして、最後に2首。とても美しい歌。

 

 ・風の緒を握りしめて生まれてはまた風となる黒き揚羽の

 ・声ひとつ玻璃となりつつ水鳥はひかりのなかへ飛び立ちてゆく

 

 最初に補いながら書いていく、と書いたけれど、話した歌を書いていくうちに、もう歌だけのほうがいいような気がしてきた。

 

 話したことを書こうとしてもあれは「会話」のなかで成立していたことだったから、詳しくはもったいなくてというか、しゃぼん玉が消えてしまうようで書けない。書くことと、話すことはやはり別だなと思う。

 

 いい歌集について話せてよかった。

 

 

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