電車に乗りながら行き先の順番を考えたり、行き先を変更したりすることってありませんか?この日は初詣にいきそびれていたので、日本橋の日枝神社にでも寄ってからデパートの美術展にいこうかなぁ~~と、頭の隅で薄っすらと考えながらJRに乗りました。そして、途中下車、するか、やめるか。どうしよう・・・と、直前まで迷っていましたが、八丁堀に着くや、えいっ!と下車してしまいました。 まずは茅場町方面へと歩き始め、歩道に沿ったところに、なぜこんなところに?と思われてもおかしくない稲荷神社を発見。
個人宅の玄関の前に稲荷神社とは・・・
八重洲通りが亀島川を渡る橋。架橋された年代ははっきりしていないが、元禄の時代に架橋され、赤穂浪士が仇討ち凱旋時に通った橋と伝えられているそうです。大正12年の関東大震災で被害を受け、昭和4年鋼上路アーチ橋として架け替えられました。
私が橋のたもとで見つけたのは、芭蕉の句。 八町堀を詠む
深川に芭蕉庵があったころ、ふらりとこの辺りにやってきたのでしょうか? 橋の向こう側には赤穂義士・堀部安兵衛武庸の碑があると、あとで知りましたので、写真をwebより拝借。
次は、新亀島橋です。船が浮んでいる風景って絵になりますね~。
その橋のたもとに、こんどはこのような追悼碑を見つけました。
右側の碑文には、 大震火災遭難者追悼碑 左側には、 戦災遭難死者慰霊碑(裏面) と、ありました。 大正12年9月1日午前11時58分、相模湾北西部沖を震源とするマグニチュード7.9の巨大な地震が発生した。この地震で被災者は190万人、死者10万5000人、倒壊した家屋約10万戸、焼失した家屋が約22万戸にのぼった。 逃げ惑う人々が、あまりもの熱風に我慢できず、隅田川に飛び込むも、川の温度が熱湯のようになっていた、とか、その惨状はテレビや書物などを通して知っていましたが、このような碑を改めて拝見すると、身が引き締まる思いです。阪神大震災、東日本大震災、と、ここ20年のあいだに、日本列島は二つ以上もの大震災に見舞われたし、今後も更なる大震災が、かなりの確率で関東近辺で起こり得る、と言われ続けているのですから、本当に恐いことです。 ほどなく、前々から来たくてたまらなかった古い建物を見つけました!
1927年(昭和2年)に竣工とのことなので、関東大震災の後に作られたのですね。
中に入ってみますと、いたってシンプル。
とりあえず階段を上って行こう。
天井の配管、配線がむき出しの懐かしい構造! モノトーンの中に映える赤と青にペイントされたドア。 ショップの入口を撮り忘れましたが、目指す「森岡書店」は3階にありました。 展示品の中では、下の画像にある、小さなほうの額画が気に入りました。が、お値段聞きそびれました。
若い方々が昭和初期の建物の雰囲気を好んで利用する動きはとても心強いです。良いものをいい、と感じる気持ちに年齢はありませんね。 更に上の階へと上り、唯一、1階に案内のハガキが掲示されていたショップのドアを開けました。中が覗けないドアって、開けようかどうか考えちゃいますが、ここまで来たんだから・・・開けるしかないでしょう。
開けて中に入ると・・・うゎっ、フェミニン♪
フランスアンティークの布や裁縫材料、雑貨等を取り扱っている、週三日のみ営業のショップでした。
ところがところが、なんと、数日後に移転するとのこと。
霊岸橋から見た第二井上ビルです。前から見ても、横から見ても惚れ惚れしちゃうわ~。
次は、茅場町から永代通りを渡って、日枝神社日本橋摂社で遅い初詣。 ビルの谷間に位置するような、こじんまりとした神社ですが、寛永年間(1624-1645)に山王日枝神社の御旅所と定められ遥拝所が設けられたといいますから、歴史を感じます。
人出はほとんどなく、たまに境内に入ってくるのはほとんどがサラリーマン風。 それから向かったのは目的地の高島屋。コレド日本橋の、永代通りを挟んだ真ん前のビルも完成していたのですね。
下が高島屋を永代通り方面からながめたところ。
車で来る時は、このトタン張りの建物の前を通って、デパートの屋上Pに停めるのが常ですが、見慣れた風景も、どうがんばってもいつか消えてなくなるのでしょう。 がんばれ~っ、って言いたくなっちゃう!
やっと着いた最終目的地(前回ブログ記事)で、この日の途中下車の旅はお終い。 |