e-note 2005

どうも、ぽんすけです。メモ帳代わりに軽くやらせてもらいます、嘘だけはつかないように・・・

黒いスイス

2008年09月20日 22時22分22秒 | 
福原直樹著『黒いスイス』(新潮新書)読む。毎日新聞でジュネーブ支局長を務めたこともある著者が、理想の国スイスの暗部を明かした一冊。どの国にも表と裏がある。しかしスイスに関して日本では過剰なほど「いい国」化されていないだろうか。タイトルを見た瞬間おもわず手に取った。

オレのイメージするスイスは、複数の言葉が存在する国、スイス銀行、永世中立国、アルプス・・・そんなもんか。この国の歴史なんて全く知らない。

まずは抜き書きから
●(ロマ)誘拐の背景には、当時の優生学を反映した考え方もあった。優生学とは、断種や結婚制限などで「望ましくない」遺伝子を排除しようとする学問だ。いや、「学問」というより、一種の「思想」といった方がいいかもしれない。19世紀末から20世紀初頭にかけて欧米で提唱されたが、その性格からナチスがもてはやすなど、容易に人種差別と結びついていた。そして「優生学」的な見地からは、ロマは「人種的に劣る」民族だった。公共団体「青年のために」の幹部はこう書き記している。‘ロマの気質は、他の悪い病気同様、女性によって感染していく’。ちなみに、優生学はこのほかにも歴史上、さまざまな禍根を残しえいる。第二次世界大戦前後、ナチスドイツをはじめ、スウェーデンなどの北欧やスイスでは、知的障害などに対する強制的な不妊手術が行われたが、これも「悪い『種』を社会に残すべきではない」とする、優生学的発想からだった。

●核拡散防止条約は68年6月、国連で米英ソ3国が共同提案し、採択された(発効は70年)。だがこの条約は、当初より各国から「不平等条約」と批判されていた。核兵器を保有できる国を米、ソ、英、仏、中の5カ国に限定し、それ以外の国に核兵器の製造や取得を禁じていたからである。非核保有国は核兵器を製造していないことを証明するため、国際原子力機関(IAEA)の査察を受ける義務もあった。その反面、核保有国は「核軍縮交渉を誠実に遂行する」義務があるにすぎない。(中略)当時、核拡散防止条約の加盟国は100カ国以上。5大国のみに核保有を認めた条約は、確かに不平等だったが、多くの国は、核保有国になるより、5大国だけに核保有を封じ込めておいたほうが自国の安全保障にプラスに働くと考えたのだ。

●ネオナチズムの歴史は60年代後半の英国に始まる。不況で失業した若者が集団化し、当初は左翼的思想に傾いた。だが、70年代、欧州で台頭した右翼の影響で、これらの若者は右傾化して行った。そして「移民が職を奪う」の合言葉の元に、トルコ人などの外国人移民の排斥に動いた。一方、欧州大陸ではネオナチズムの兆候が見られたのは70年代半ばだった。まず学校の「おちこぼれ」や、離婚家庭の子供などが集団を形成し、この集団が孤立した若者たちを次々と吸収した。集団が、彼らの崩壊した家庭の代わりになったともいえる。Tシャツにブーツ、坊主頭で肉体美を誇る。体に刺青をする。これら、彼らの外見的なイメージはこの時に形作られた、という。80年代に入り、これらの集団は公然とナチズムへの信奉と、反共産主義を訴え始める。組織の自称は様々だが、いずれも白人の優越性、有色人種排斥を訴える点で変わりはなかった。彼らのシンボルはナチスのカギ十字とロックミュージック。中には、サッカーの国際大会で過激な行動をとるファン組織「フーリガン」と結びついた集団もいた、という。そして、これらの集団の後に現れたのが「ハンマースキン」だった。欧州各国は「ハイル・ヒトラー」など、ナチスに関係した言葉を、公衆の面前で使うことを禁じている。(中略)ハンマースキンのメンバーは「すべてのアフリカ人、ユダヤ人の子供にチクロンBを」という歌うCDを5000枚以上作ってインターネットで販売しようとし、摘発されている。チクロンBとは、ナチスがホロコースト(ユダヤ人大虐殺)で使用した毒ガスだ。狂気の沙汰である。かつて私は大学で「戦う民主主義」という言葉を教わったことがある。ドイツなどが極右・極左集団に対し、表現や言論の自由など、民主的な権利の一部を認めていないことだ。本来の民主主義は、だれがどのような政治思想を持ち、それをどう表現しても自由なはずだ。だが、民主主義を否定する集団を野放しにすると、民主主義そのものが危うくなる。第一次世界大戦後のドイツでは、自由選挙を武器にヒトラーが勢力を伸ばし、政権を掌握した。この悲劇を繰り返さないために、民主主義は、一部の自由を制限してでも全体主義と戦うべきだ・・・。これが、「戦う民主主義」の思想である。

●スイスの歴史 1291年、スイス中東部の3州は、ハプスブルグ家の支配に対抗する相互援助協定「永久同盟」を結ぶ。これがスイスの「建国」とされる。その後3州は、同家の支配地域攻略や、他州との同盟などで勢力を伸ばし、1513年に13州となる。この13州とその支配地域は、現在のスイス北、西部の一部を除く大部分の地域に及んだ。16世紀の宗教改革の影響で、13州は新教、旧教派に分かれ反目するが、国外の宗教戦争に関しては「同盟維持」の観点から、ほぼ一貫して中立の立場を貫いた。これが後の永世中立の萌芽とされる。だが、その一方でこの時期から、スイスは外国の軍隊に多くの傭兵を送り、中にはスイス人同士が敵味方に別れて戦う悲劇もおきた(結局、傭兵制度は1848年に禁止される)。宗教改革以降、都市部では貴族制や代議制、農村部では住民集会による直接民主制が行われた。宗教改革者としてスイスで有名なのはツヴィングリ(チューリヒ)とカルバン(ジュネーブ)である。1798年、フランス革命軍がスイスに侵入し、営業、信仰の自由を保障し、特権階級を廃止した「ベルベチア共和国」が成立するが、すぐにスイスはフランスと欧州列強(対仏大同盟軍)の戦場となる。その後、ナポレオンは1803年、スイスを19州の連邦共和国とし、フランスに従属的な立場をとらせた。スイスの永世中立が国際的に認められたのはナポレオン後の1815年のウィーン会議で、その際ジュネーブなど3州が加わり、スイスは22州になった。(現在は26州=準州を含む)。ウィーン会議後、スイスは保守的な旧教系の州と、自由主義的な州が対立。1847年に内戦に発展するが、翌1848年には和解し、近代的な連邦国家の礎を作った。1874年には近代的な憲法を発布し、これが現憲法(2000年施行)に受け継がれている。スイス憲法は「中立」には触れてはいないが、現在までスイスはほぼ中立を貫いている。

●スイスの政治 スイスは州(カントン)や地方自治体が、教育や福祉、水道、電気などの公共サービス、警察、消防などで広大な自治権を持っており、連邦政府の役割は外交や国家安全保障、主要道路の運営、関税、郵政業務などは。連邦会議は各州が2名ずつ選出する「全州議会」、200議席を人口比で各州に割り振り、直接選挙で選ぶ「国民会議」の2院にわかれる。一般的に国民会議の権限は、全州議会より大きく、全州議会は国民会議や連邦政府の監視的な役割を担う。大統領は任期1年で、閣僚の輪番制だ。憲法改正を要する問題は有権者10万人、法律改正や国際機構への加盟の是非などを問う場合は5万人の署名が集まれば、国民投票を求めることができ、全国有権者の過半数などで採択される。国民投票はスイス民主制の大きな特徴だが、投票率は低下の一途で、1950年代までは50~85%だったのが、現在は30~50%だ。国民は種々の基本的人権を認められているが、連邦レベルで女性参政権が認められたのは1971年だった。保守的な東部ドイツ語圏が反対したのがその原因だった。

スイスに限らず、国はそれぞれいろいろな特徴ある。そのなかでもスイスはやはり特殊な国であることは間違いない。そういう意味ではこの本は勉強になるし面白い。やはりちょこちょことでいいからヨーロッパやアメリカへ行くべきだな。