e-note 2005

どうも、ぽんすけです。メモ帳代わりに軽くやらせてもらいます、嘘だけはつかないように・・・

キング牧師とマルコムX

2008年09月17日 21時46分07秒 | 
上坂昇著『キング牧師とマルコムX』(講談社現代新書)読み終える。いやぁ、面白かった。深いし、オレがすごく興味のあるところだったので、ぐいぐい引き込まれて読み切った。

関連本もぜひぜひ読んでみたい。

以下書き抜きです

SAT(大学進学適性検査)の得点でアジア系は高得点をおさめている。

ジェームス・キングは黒人大学の名門モアハウス大学に進む。(黒人女子大学の名門はスペルマン大学)

アメリカの多くの国民を貧困に陥れた大恐慌であったが、ここアトランタのオーバン・アベニューの黒人中産階級はほとんど影響を受けなかった。当時のアトランタの黒人は、その65%が生活保護を受けていたが、ここの住民は別世界であった。黒人所有の大企業がいくつか本社を構えていたし、全米にチェーン店を持っているドラッグストアもあった。住民は弁護士、教師、歯医者、医師、牧師、ビジネスマンと専門職の人が多かった。キング家もその例外にもれなかった。

マーティン自身の言葉によれば、大学時代にヘンリー・デイビッド・ソローの「市民的不服従」の論文を読んで、「悪しき制度との協力を拒否せよ」という考えに魅せられ、心から感動したという。非暴力的抵抗の理論と学問的に接触したのはこれが最初だった。1894年に書かれたこの論文は、インドのマハトマ・ガンディをはじめ、世界の抵抗運動指導者に多大な影響を与えた。

ガンディの母親は、非暴力と菜食主義を強調するジャイナ教の信者だった。

マーティン・L・キング著『自由への大いなる歩み』

キングの伝記『十字架を背負って』

奴隷解放宣言の100周年記念にあたる1936年~

キング著『黒人はなぜ待てないか』中島和子・古川博巳訳

キング著『汝の敵を愛せよ』

キング著『黒人の進む道』(猿谷要訳)

20世紀初め、ハーレムは黒人の町となり、20年代には黒人文化の中心地となった。作家、芸術家、音楽家の多数がここに住み、数々の作品を世に送った。こうした運動をハーレム・ルネッサンスという。とりわけジャズの演奏劇場としてコットンクラブは有名で、ルイ・アームストロングをはじめとする一流ミュージシャンが出演した。

ブラック・ナショナリズムはマーカス・ガーベイとノーブル・ドリュー・アリに代表される。ガーベイは大規模なアフリカ帰還運動を起こしたが、その動機は黒人が白人社会に拒否されているという強い疎外感であった。(中略)アフリカに帰ろう、白人とは分離しよう、という呼びかけはある意味で敗北主義的であるかもしれない。2000万人近い黒人がどうやってアフリカに帰るのかという、現実的に困難な問題も多くある。だが黒人の経済的自立のために黒人の商店や工場を建設し、既成の価値観を拒否して黒人の強烈な人種的な誇りを刺激したという点では、こうした運動は事件といわざるをえない。ガーベイのブラック・ナショナリズムは、ムハマドやマルコムX、ブラック・パワー運動、今日のアフリカ中心主義などに影響を与えているからだ。

アメリカ黒人の祖先は、アフリカから強制的に奴隷として連れてこられた。ガーベイが組織的なアフリカ帰還運動を始める以前にも、黒人がアメリカを離れようとする運動は何度となく起きている。アメリカの独立運動のさいにも、イギリス側についた元奴隷たちは、カナダのノバスコシア半島に保護地を与えられた。しかし、その約3000人のうち、約束の土地を与えられて、まともな生活ができたのは10%にすぎなかったという。貧乏に苦しんだあげく、また奴隷の身分に戻った人もいた。とはいえ、そのなかからカナダからアフリカのシエラレオネに移住した人が1000人以上いたことも事実である。アメリカ国内でも、1880年代の初期に、有色人種脱出のためのモーゼを自任したベンジャミン・パップ・シングルトンは、黒人の自立できる場所、約束の楽土はカンザス州にあるとして、数千人の黒人を率いてコロニーを建設した。イスラエル人のエジプト脱出(エクソダス)をもじって、これらの人々はエクソダスターとよばれた。キングやマルコム以前の黒人思想家のあいだでも、アフリカへ帰るべきかどうかについては見解がわかれていた。19世紀の奴隷廃止論者として有名なフレデリック・ダグラスは「800万人の黒人をアフリカに移住させるのはナンセンス、黒人の運命はアメリカの運命」といって、アメリカにとどまることを主張した。かれはキングと同じように、黒人はアメリカ社会に同化できると信じていた。黒人は生まれた国アメリカで完全な自由を達成できる。という信念とアメリカへの愛を持ち続けた。19世紀後半から20世紀前半にかけての黒人運動指導者として活躍したブッカー・T・ワシントンは、黒人の経済的自立を強調し、白人支配階層に広く支持された人だが、ガーベイとは別の意味で黒人をアフリカに送ることに熱心だった。それは、アメリカにおける黒人たちの問題を解決するためではなく、アフリカの人たちを助けるためだった。タスキーギ工業師範学校で学んだ多くの黒人を、アフリカ、とくにトーゴに移住させた。

アフリカ帰還という理想は、いまだにアメリカ黒人の心のどこかにあるのだろうが、現実には大変難しい問題だ。リベリアにはかなりのアメリカ黒人が帰還したが、その態度が19世紀の白人と同じようだったことと、現地の人々に対する差別意識を持っていたことなどから、現地の人々から「白人」と呼ばれるようになったという。今日のガーナでも、アメリカ黒人は「アブニル」あるいは「オブニル」と呼ばれるが、これは実際には「白人」という意味だそうだ。歴史的にみれば、アフリカ帰還はアメリカ黒人に理想郷を求めるという夢を与えたが、現実的には、帰還したといってもアフリカ化に失敗していることが多い。たとえば、リベリアとシエラレオネでは、アメリカ黒人が集団で帰還し、建国にも大きな役割を果たしたが、アメリカとは本質的に異なる土地で、自分たちの文化そのものを維持しようとしたので、アフリカ化に失敗したといわれる。(D・ジェンキンス=那須国夫訳『ブラック・シオニズム-アフリカ帰還の夢と現実』)

中東やアフリカ諸国を訪問したマルコムは、積極的に社会主義について語ることが多くなった。独立した多くの国が資本主義から社会主義に転換しているのを、自分の目で見てきたことがきっかけとなった。ナセル、エンクルマ、トーレ、ベン・ベラといった尊敬すべき指導者はみな社会主義者だったからだ。

マルコムX 最後の一年(本のタイトル)

今日は、世界的に多文化主義あるいは多元文化主義の時代といわれる。アメリカ文化の源流をヨーロッパだけでなく、アフリカやアジア、アメリカ先住民にも求めようとする傾向は、アメリカの人種関係が平等になりつつあることを示している。しかし、黒人は当然アフリカ中心の考えを強調する。これまでアフリカ文化が軽視されてきたので、その復権を唱える。その過程で、前にも述べたように一部の黒人の過激派は、西洋文明の源はギリシア・ローマではなくエジプトにあり、このエジプトは黒人社会であったと主張する。ピタゴラスやアリストテレスは、数学や哲学をエジプトの黒人学者から盗んだとか、クレオパトラやファラオは黒人であったと断言する。つまり、今日の西洋文明はギリシア。ローマにその基礎を持つが、ギリシア・ローマは黒人の残したエジプト文明に依存しているのだから、結局は西洋文明は黒人文明にその起源をもつというのである。こうしたアフリカ中心主義の歴史観をとりいれたカリキュラムが、実際すでに一部の公立学校で実施されている。

アジア系はモデル・マイノリティといわれている